薔薇やん
次の瞬間──
うちは、落ちとった。
比喩やない。ほんまに、容赦ない自由落下やった。胃ぃが喉までせり上がる。心臓は胸ん中で鳴っとるんやなくて、もう耳の裏で暴れとるみたいやし、息は吸うても吸うても足りへん。手ぇも脚も勝手にばたつく。意味あるか知らん。せやけど、何もせんよりはマシやと思いたい。
「っ、ぅ……!」
喉から、情けない音が漏れた。
落ちとる。それだけは確かや。
せやのに、下がない。
上も、ない。
横も、たぶん、ない。
どっち向いて目ぇ開いとるんかも怪しかった。白い。いや、白だけちゃう。薄い金とか、細い青とか、光の膜みたいなんが何枚も重なって、遠いくせに近い場所を流れとる。
空でもない。雲でもない。水ん中でもない。
「気むう!!」
叫んだ声が、変なほうへ散った。前に飛んだんか、横へ折れたんかもわからへん。視線を振る。もう一回。もう一回。
──おった。
ちょい斜め向こうに、気むうも落ちとる。青灰の髪が水草みたいにひらいて、セーラー服の裾がふわふわ揺れとる。手ぇ伸ばしたら届きそうな距離やのに、届く気ぃがまるでせえへん。
「おる、よな……!」
返事はない。せやけど、気むうもこっちを探しとるみたいに目を動かして、ほんの一瞬だけ、うちと視線がぶつかった。
それだけで、胸ん中がちょっと戻る。生きとる。まだ。
ほっとしかけた、その次や。周りを流れとった色の筋が、急にゆるなった。いや、うちらが速すぎるんか。向こうが遅いんか。もう何が基準なんかもわからん。
白い光のあいだから、ひらひらしたもんがいくつも見えた。最初はただの欠片かと思うた。光のカスみたいなん。紙吹雪みたいなん。せやのに、よう見たら違う。
花びらやった。
落ちてくるんとも違う。浮いとるんとも違う。空気に触れてへんくせに、勝手に角度変えて、寄って、ほどけて、また寄る。
よう見たら、それだけやない。遠くに、近くに、薄う、濃う、色んな色の薔薇みたいなんがぼやっと浮いとる。一輪まるごと見えへんやつもある。輪郭だけのやつもある。色の染みみたいなんもある。十やそこらか。もっとか。数えられる感じちゃう。
その中で、三つだけがアホみたいにはっきり見えた。
最初に目ぇを引っ掻いてきたんは、青やった。
花弁のふちが欠けて、次の瞬間にはまた別の欠片が生える。
色が一拍遅れてついてくる。芯はあるのに、まわりぜんぶがちゃんと動いてへん。
朝から見てきた逆さのカラスも、黒だらけの人も、ワバタタリオも、
あの青の近くから漏れてきたみたいやった。
視線を外そうとして、今度は赤に捕まる。
ずっと近うて、ずっと濃かった。
風もないのに、そこだけが自分の形を絶対に手放さへん。
見られた。
睨まれたんとも、値踏みとも違う。
ちょっと面白がりながら、「へえ、おまえそっちなん」って顔で見てくる。
なんやねん。知らんやろ、うちのことなんか。
その赤の少し向こうで、白が浮いとる。
白だけ、落ちとる最中の音が届きにくかった。
心臓の暴れ方すら、ほんの一瞬だけ遠のく。
そこで、気むうが見えた。白のそばを落ちとる。
気むうの視線だけが、あの白へ向いとる。
その瞬間、白のまわりの花びらがふわっと流れを変えた。
うちのほうも向いとる。でも、中心はうちやない。
青。赤。白。
全部、目ぇに焼きつく。
せやのに、どれも、うちだけを見てへん。
「……気むう!」
こんどは、ちゃんと叫んだ。
気むうが、はっと顔を上げる。表情はよう見えへん。でも、暗い青の目ぇだけが、やたらまっすぐこっちを見た。
その瞬間、白のそばの空気がまた少しだけ静まる。青の向こうで、光の縫い目が細う裂ける。遠くの色の染みみたいな薔薇は、もうほとんど輪郭を失っとる。
赤だけが、最後までくっきりしとった。
やめろや。
そんな顔で見んな。
おまえ、なんやねん、ほんま──
次の瞬間、ふっと、世界の灯りが落ちた。
黒。
真っ黒やった。目ぇ閉じたんかと思うくらいの黒やのに、まぶたは開いとる。肺はまだ浅う暴れとる。手ぇも足も、さっきの続きみたいに空を掻いとる。気むうの気配だけが、かろうじて近い。見えへん。せやのに、まだ終わってへん。
そこでようやく、きつく目ぇをつぶった。
何も見えへん黒の中を、うちらは息を切らしたまま、行き先もわからんまま、まだずっと落ちとった。
――次の瞬間や。
背中から、地面に叩き返された。
「っ、が……!」
肺の空気が一気に潰れて、視界が白う爆ぜる。耳鳴り。金属のぶつかる音。鍋、蓋、柄杓、ようわからんもんまで、四方八方でガシャガシャ喚き散らしよる。
落ちた。
やっと着いたはずやのに、身体の中だけまだ落ち続けとる。胃ぃは喉までせり上がっとるし、頭は半拍遅れやし、骨の一本一本が勝手に点呼取り始めるし、もうめちゃくちゃや。
痛っっっった……!
床は石やった。固い。しかも冷たない。じんわりぬくい。火と油と、人がよう使う場所の熱が染みついた温さや。
うつ伏せのまま息を吸う。
くっさ。
焦げた脂、煮詰まったスープ、玉ねぎ、にんにく、濡れた木、古い布巾。寺でも空でもない。めちゃくちゃ台所やった。綺麗な絵本の厨房やのうて、ちゃんと汗かいて回っとる側のやつ。
「……え、て……」
そこで横から、どがん、とまたでかい音。銅鍋が転がる。蓋が跳ねる。柄杓が一本、床の上でくるくるくるくる回り続ける。ようやく止まったか思うたら、影だけが半拍遅れてもう一回だけ回った。
……は?
いや、そこ別行動するとこちゃうやろ。
「気むう」
返事がない。喉がきゅっとなる。顔を上げようとして、首に変な電気走った。痛っ。無理やて。
「気むう!」
「……おる」
少し向こうから、潰れたみたいな声。その一言で、心臓がようやく胸ん中へ戻った。
見れば、気むうはひっくり返った籠と鍋のあいだで片膝ついとった。青灰の髪に白い粉つけて、セーラー服の袖に茶色い汁をべっとりつけて、半分幽霊みたいな顔しながらも、ちゃんとうちを見とる。
「だいじょぶかい」
「……だいじょうぶ、ではない」
「せやろな。うちも今、内臓が一回どっか寄り道してから戻ってきた感じするし」
肘で身体を起こす。顔に張りついた赤ワイン色の髪を払う。鍋が三つまとめてずれて、下から木のスプーンが出てくる。先っぽにスープの膜つけたまま、床の油をきゅっと滑る。その動きが一瞬だけぬるっと早送りになって、次の瞬間には普通へ戻った。
……あー、はいはい。こっちにもおるんか。
そこでようやく、視線に気づいた。
見られとる。
棚の上。竈の影。吊るされた鍋の向こう。転がった野菜籠の隙間。丸い目ぇが、いくつもぬっとこっち見とる。
最初は煤の塊か思うた。丸うて、ふわふわしてて、床の汚れとも毛布の切れ端ともつかへん、小さい黒や茶や灰色のかたまり。
でも違う。目ぇがある。口もある。脚は……見えへん。手もようわからん。毛玉そのものが、そのまま生き物になったみたいなんが、あっちにもこっちにもおった。
「……ええ……」
ちっちゃい声が、あちこちで揺れる。
「ええ……」
「にゃ……」
「えええ……」
「にゃ、にゃ」
一玉が、ひっくり返った鍋のふちにちょこんと乗った。体ぜんぶ毛やのに、その真ん中だけ口が開く。
「……にゃ」
それを合図にしたみたいに、まわりの毛玉らが一斉にざわついた。にゃにゃ、ひそひそ、もふもふした市場や。見た目はゆるい。顔は完全に「なんか降ってきた」やった。
そらそうや。
「な、なあ気むう」
「……囲まれてる」
「見たらわかるわ。もっとマシな言い方してくれへん?」
気むうは返さん。ただ立とうとして、軽くよろめく。うちも反射でそっちへ手ぇ伸ばす。指先が触れる。熱い。生きとる。うちもたぶんまだ生きとる。
その時、竈の奥で火がぼっと鳴った。
……いや、ちゃう。光だけ先に見えて、あとから音が来た。壁際の鉄皿に映ったうちらの姿も、一瞬だけ首の角度がズレとって、ぬるっと今に追いつく。うちの紫の目ぇだけ、ほんの一拍おくれて色が乗る。
首筋がぞわっとする。
「ここ、城の中やと思う」
気むうが小さく言うた。
「……なんで今のでそこまで行けるん」
「鍋の数。火口。天井の高さ。あと……」
そこで気むうの目ぇが、うちやのうて後ろへ動く。
「来る」




