離すかボケ
仁王門をくぐる。
その瞬間やった。世界の音が、一回だけ裏返ったみたいな感じがした。耳やない。背骨で聞く音。空気そのものが、ぐにゃっと捻れたみたいな感覚。うちの肩がびくっと跳ねる。
「……は?」
振り返る。門の向こうにあるはずの景色が、暗かった。
ただ暗いだけちゃう。空が、変やった。夕方でも雨でも曇りでもない、壊れた画面みたいな暗さ。色が死んどる。遠くの輪郭が歪んどる。空の端っこは、ひび割れたガラスみたいに光って、細かくずれとる。
息を吸う。焦げた匂いがした。風はない。せやのに、圧だけある。胸のあたりを、見えへん何かがずっと押し返してくる感じ。
「な、なにこれ……」
とっさに門の外へ戻ろうとして、ゴン、と鈍い音がした。
「いっ……!」
何もないとこで額をぶつけた。手を伸ばす。そこに、壁みたいなんがある。見えへんのに、ある。空気だけ硬い。意味わからん。
「……これ、もう全然おもんない。ほんまに嫌なやつや」
気むうを見る。もう、うちの腕は掴んでへんかった。門の内側の地面に、膝をついとる。
「……気むう?」
祈っとる。
見間違いようもない。手を組んで、俯いて、必死に何かにすがるみたいに。静かに、でも明らかに、祈っとる。あの気むうが。仏とか神とか、そういうの一番信じてなさそうな顔したあいつが、祈っとる。
もう、カメラやとかドッキリやとか、そういうしょうもない理屈にしがみつくのも限界やった。
「……ちょ、やめてや。そういうのほんま、怖なるやん」
気むうは顔を上げへん。肩だけが、わずかに震えとる。喉の奥がきゅっと縮んだ。世界より先に、気むうがこんなふうになっとるのが怖かった。
しゃがみ込んで、その腕を掴む。抵抗はない。むしろ、気むうの指がうちの手首をさらに強く握り返してきた。
「……さくらさんとこ行こ」
気むうが小さく言うた。
さくらさん。朝ここで顔合わせる。寺のことよう知っとるし、何かあるなら、あの人なら──
「……せやな」
声を潜めて、うちらは本堂の方へ進んだ。
静かやった。うちらの息と靴音だけが、やたら響く。誰にも殴られてへんし、どこも切れてへんのに、もうだいぶ後戻りできへんとこまで来た感じがする。
本堂に着く。そこで最初に見えたんは、人やなくて木の板やった。
一枚だけ、不自然に立てられた古い板。そこに、墨で何か書いてある。
ごめん
ごめんなさい
「……は?」
掠れとる。にじんどる。書いたやつの手ぇ震えとったんか、途中で泣いたんか、ようわからん字やった。
ごめんなさい。
それだけ。
何に対してかも、誰に向けてかも書いてへん。せやのに、妙に生々しい。謝っとる言葉のはずやのに、見てるだけで胸の奥がざらつく。ここに誰かおった。何かして、止められんかった。理由はわからん。ただ、失敗だけが嫌に残っとった。
気むうと目が合う。何も言わんでもわかった。あいつも、これをただの板やとは思ってへん。
その時や。
ミシッ。
「……っ」
また鳴る。もう一回。今度は足元からや。
視線を落とす。床に、細いひびが走っとる。
一本。
二本。
三本。
「走るで!」
反射で気むうの腕を掴んで、本堂の奥から出口の方へ駆けた。
次の瞬間、轟音。
床が崩れた。
本堂の真ん中から、何かに内側へ食われるみたいに、板も柱も段差も一気に落ちていく。巨大な穴。青白い光が、底も見えへん闇の中で不気味に脈打っとる。
「うそやろ……!」
塔みたいなんが、音もなく吸い込まれていく。最初からそこになかったみたいに、消えていく。
夢や。いや、夢であってくれ。できるなら、キス寸前で起こされた夢の続きに戻してくれ。今すぐ。
そう思うた瞬間、足が浮いた。
「……っ!」
身体が穴のほうへ引かれる。
風やない。風だけやない。床も、柱も、空気も、景色ごと、穴に向かってずるずる歪んでいく。世界そのものが、あっちに崩れていく。うちらだけが吸われとるんちゃう。ここ一帯がまとめて畳まれて、あの穴に押し込まれようとしとる。
うちは咄嗟に柱へ飛びついた。右手で柱を掴む。左手で、気むうの手首を掴む。
「気むう!!」
気むうも必死で掴んどる。けど、引っ張る力がどんどん強なる。うちの鞄が先に持っていかれた。気むうのスクバも、ひゅんっと消えた。
「神い、離して!」
「離すかボケ!!」
髪もセーラー服も、もう全部めちゃくちゃやった。腕が痛い。肩が抜けそう。指が滑る。足場なんかとっくに意味を失っとる。
「無理やって!」
「無理でも掴んどれ!!」
妹をここで離すとか、そんな選択肢あるか。うちはヒーローちゃうし、かっこよく決めるタイプでもない。でも、こういうときに離す姉とか、一番あかんやろ。
「お願い、離して!」
「イヤやっつってんやろ!!」
気むうが、一回だけ手を離した。
「──っ!?」
嘘やと思う間もなく、今度は制服の袖を掴み直してくる。でも、その拍子に、うちの指が柱からずるっと滑った。
終わった、と思った。
ほんの一瞬だけ、このまま二人で死ぬんやったら、それはそれで──とか考えて、いや、やっぱ普通に嫌やわ!!! ってなった。
「うわあああああっ!!」
青白い光が視界いっぱいに広がる。柱も床も、板も、ごめんなさいも、全部向こうへ崩れていく。うちらも、その崩れた流れに巻き込まれていく。最後まで、気むうの袖は掴んどった。
それでも、無理やった。




