朝からバグ
「ほんま、あんたのことアホほど嫌いやわ、神い。」
「はいはい。」
妹の気むう、今朝は歩幅からしてもう機嫌悪い。こういう朝は大体、うちが先にいらんことして、気ぃついたらもう時間ない。
「なあ、まだ怒ってんの?」
「もう黙って。」
「えー。なんなん、もしかして恥ずかしいん?」
「新しいブラをアイマスクみたいに使わんで!」
「ちぇっ。ノリ悪。」
その時や。洗面所のほうから、クソヤギでも踏んだんかみたいな鳴き声が、ドンッと腹の底まで響いた。うちも気むうも、ぴたりと黙る。
「……は?」
「……何、今の。」
返事はない。水の音ひとつ、せえへん。
「……なんや今の。」
気むうは洗面所のほうを見たまま、ほんの一瞬だけ止まった。けど、すぐにふいっと目ぇ逸らす。
「それと、髪。跳ねすぎ。」
「はぁ? これがうち流メッシー系ガールやねんけど?」
「メッシー系、ねえ……」
あの青みがかった灰色の髪で、ようそんな澄ました顔しとれるわ。たまにほんま、氷の女王気取りか。腹立つ。
「その赤ワインみたいな髪で、よう今まで校則に引っかからんかったな。」
「地毛やし。文句ある?」
「劣性ホモ接合体っぽい。」
「……は?」
「……もうええ。行く。遅れる。」
気むうにそう切られて、うちは肩をすくめた。アホな会話で遅刻しても、先生は別に褒めてくれへん。玄関を出て、セーラー服の襟を指で直し、見慣れた朝の道へ足を乗せる。
ほんで、ここからはいつも通り──の、はずやった。妹と並んで歩いて、空でも見て、しょうもないこと考えて、そのまま学校行く。毎朝そういう流れや。世界が壊れる予定なんか、こっちは聞いてへん。
聞き慣れへん鳴き声が、真上から落ちてきた。顔を上げる。
カラスやった。
……いや、カラスっぽい何かかもしれん。ここらへんにカラスおったっけ、と思う間もなく、そいつは空を──逆さに飛んどった。羽ばたく向きも、首の反り方も、足のぶら下がり方も、全部ひっくり返っとる。動画を上下逆にして、そのまま再生したみたいな飛び方やった。意味わからん。キモい。しかも妙に滑らかで腹立つ。
「……なにあれ。逆再生機能つき?」
ぱち、と瞬きする。普通のカラスになっとった。
うん。せやな。朝やしな。脳もまだ半分寝とるしな。そういうことも、まあ……あるんか? いや、あるか? ……知らん。
「今日の一限、なんやっけ」
「……数学。」
「うわ。朝から終わっとるやん」
「終わってるのは神いの頭。」
「失礼な。うちの頭はまだ始まってすらへんだけや」
気むうはいつも通りの顔やった。でも、歩く速さがほんの少しだけ早い。半歩だけ前に出る。あいつがそういう歩き方するときは、大体機嫌ようないか、何か考えとるときや。
交差点の手前で、ふと目に入った。
黒。
向こうから来るおっさんが黒。信号待ちの姉ちゃんも黒。自転車こいどる高校生も黒。
「……なあ」
「……?」
「いや、なんか、今日ちょっと黒多ない?」
気むうは一回だけ周りを見た。それだけで、また前を向く。最初は三人くらいやった。喪服帰りかもしれんし、黒が流行っとるだけかもしれん。でも、もうちょい歩く。まだ黒。もう一人。また黒。上も黒、下も黒、靴まで黒。やたら統一感があって、気持ち悪い。
「……五人までならまだ“今日はそういう日”で済ませられるやん。でも、ここまで揃うと普通に嫌やねんけど」
振り返る。
黒。黒。黒。さっき見たはずの場所に、やっぱり黒がおる。
そのまま角を曲がった。
普通やった。
ベージュのコート、白パーカー、制服、変な緑のニット帽。さっきまでの黒一色が、嘘みたいに消えとる。
「……は?」
うちだけ立ち止まって、もう一回角の向こうを見る。別に何もない。普通の朝や。
「なんなん今日。服装の読み込みミス?」
気むうは答えへん。せやけど、口元がほんの少しだけ固かった。何も言わんでも、さっきの黒には気づいとった。
そのままいつもの通学路を進んで、角の駄菓子屋の前を通る。店主のおっちゃんは今日もカウンターに沈んどった。イヤホンつけて、半分死体、半分店主みたいな顔で。
ほんなら、ついでにいつもの“あれ”を見る。角に置いてある、マリオっぽい謎の像。
……の、はずやった。
「……なんやあれ」
マリオやなかった。
ワバタタリオやった。
いや、ほんまに。配色だけ無理やりマリオ寄りにされた、地獄の底から著作権ギリギリで這い出てきたガーゴイルみたいなんが、ぬっと立っとる。鼻は溶けとるし、目ぇは左右で高さちゃうし、ヒゲなんか絵の具ついた雑巾で思いきり引いたみたいになっとる。口元も変に裂けてて、今にも「ワ゛ッ」とか言いそうな仕上がりやった。
「なんでマリオをそんな伝説級ブートにできるん……?」
「……ひどい。」
「いや、ひどいとかの次元ちゃうやろ。ワバタタリオやん。完全に」
気むうが、ほんの少しだけ眉を寄せた。うちもそれ以上よう見てられんくて、二人して足を速める。数歩進んでから、なんとなく振り返った。普通のマリオに戻っとった。
「……うわ」
さっきまでのアレが、何事もなかったみたいな顔して立っとる。脳に残るやろ、あんなん。
「昨日TikTok見すぎたんかな……」
「昨日、一時間遅く寝た。」
「一時間でワバタタリオ見えるようになるなら人類終わっとるわ」
気むうは返さん。でも、歩幅はさっきよりまた少し速なっとった。
四天王寺の正門が見えてくる。朝の光の中に、いつもの形で立っとるはずやのに、今日はなんか遠い。距離は変わってへんのに、空気の層だけ一枚多いみたいな、変な見え方やった。せやけど、妙なんは門そのものより気むうやった。
ぴく、と肩が震える。一回やない。二回、三回。横顔を見る。顔色はそこまで悪ない。けど、目線だけが妙に固い。
「……寒いん?」
首を振る。
「腹痛?」
もう一回、首を振る。
「ほな何。妖怪?」
そこで気むうが、ようやくうちを見た。灰青の髪の下で、青い目ぇがめちゃくちゃ冷たかった。
「……今それ言う?」
「ごめんて」
そう返しながら前を見て、うちは笑えへんかった。
──人がおらんかった。
さっきまで普通に通学路やったのに、四天王寺の周りだけ、妙に空っぽやった。朝やし、観光客もおるはずやのに。いつもなら写真撮る音とか足音とかで埋まっとるのに、今日は音が薄い。おらん。ほんまに、おらん。
「……なあ」
返事はない。その代わり、気むうがうちの腕を掴んだ。ぎゅっと。はっきりわかるくらい、強く。うちの腕に自分からこんなふうにしがみつくなんて、いつ以来や。小学生の頃、ハロウィンのピエロにビビって固まったとき以来ちゃうか。
「どうしたん、ほんまに」
返事はない。でも、掴んどる手が、ちょっとだけ震えとった。
そこでやっと、笑い話やないとわかった。




