聞いたらあかん話
「……報告を聞こう」
低い声。
うちは反射で、声と逆方向を見た。
……いや、何でやねん。そっちちゃうやろ。
自分で自分に突っ込みながら、扉の隙間から中を覗く。図書室の奥は、昼間と違ってほとんど眠っとるみたいに暗い。棚の列だけが黒い壁みたいに立っていて、その向こうに、わずかに灯りが漏れとる。
教室側やない。
もっと奥。棚と壁のあいだ、昼間は気にもせんかった細い隙間のほうからや。
うちは中へ滑り込んで、扉を静かに閉めた。ブーツはまだ履かん。持ったまま、棚の影へ身を沈める。床に膝をつきそうになって、ぎりぎりで止める。石と木の匂いが濃い。古い紙の匂いが、夜になるとちょっと湿っぽくなるんやな、とか、どうでもええことまで頭が拾う。
声のするほうへ近づいた。
棚の端まで行って、そこで止まった。
息を止めた。
ゆっくり、顔を出す。
おった。
マイルズ。
それから、スウェトボーレ陛下。
図書室の奥の小さい机を挟んで、向かい合っとった。昼間の玉座の間みたいな距離感やない。もっと近い。もっと仕事終わりの顔や。王のマントも少し緩んどるし、マイルズも板を抱えたまま、いつもの“完璧な手続き”より少しだけ疲れとる。
見たらあかんやつや。
せやから見る。
「理論を理解できるかにつきましては、正直、まだ判断しかねます」
マイルズの声やった。
綺麗やけど、昼間より少し低い。磨きすぎた銀の端が、ちょっとだけ削れとるみたいな声。
「危険性そのものは、現時点では限定的です。ただ……態度に難がございます」
態度に難。
誰の話しとんねん、コラ。
王は少しだけ顎を引いた。
「それだけか」
「……いえ」
マイルズのしっぽが、板の端を一度だけ叩いた。
「机を一台、破損しました」
あ。
報告されとる。
「それがどうした、マイルズ」
王の声は、思ったより軽かった。
「……は」
「机の一つや二つで、余が夜中に呼ばれねばならぬのか」
「いえ、その……通常の破損ではなく、自立性を帯びた後に――」
「ならば、まず口からその淫らな棒を抜け。話はそれからだ」
…………。
うわ。
今の、気むうに送りたい。
今すぐ送りたい。
《速報:王、マイルズに最悪のことを言う》
……スマホないんやった。
ていうか、ここで笑ったら普通に終わる。
うちは片手で口を押さえた。
あかん。笑うな。死ぬ。
死因「盗み聞き中に王の下ネタで自滅」は、さすがに家名が終わる。
マイルズは黙っとった。
ほんの少しだけ。
ほんまに、ほんの少しだけ。
「……失礼いたしました」
「失礼で済ませるな。お前は、何かあるたびに手順へ逃げる」
王は机に肘をつかなかった。ただ、そこに座っとるだけで机のほうが勝手に縮こまりそうやった。
「マルヴェディスでさえ、ここで教育を受け、建築魔術を身につけた。荒れた個体も、噛む個体も、壁を食う個体もおった。木片一つで騒ぐな」
「マルヴェディスには、馴らし方がございます」
マイルズの返事は速かった。速いけど、硬い。
「ですが、あのお二方は人間です。こちらの定型が通じません。叱れば噛みつきます。説明すれば半分ほど抜け落ちます。禁止すれば――」
「燃えるか」
「……はい」
知っとるやん。
王は短く息を吐いた。
「だからこそ、お前のほうが向いておる」
「私が、でございますか」
「そうだ。あれらは考える。こちらを見返す。嫌がる。選ぶ。マルヴェディスではない。命令だけで形を整える相手ではない」
王の声は、玉座の間の時よりずっと普通やった。
普通、いうても怖い普通や。包丁をちゃんと研いで台所に戻したみたいな普通さ。
「表を暗唱させるだけなら、書庫で足りる」
マイルズは何も言わへんかった。
「要るのは、崩れた現実の前で動ける者だ」
王の声が、机の上へ低く落ちた。
「読ませるだけでは足りぬ。撃たせろ。受けさせろ。倒れ方と、立ち上がり方を覚えさせろ」
「……承知いたしました」
「机なら壊せばよい。必要なら十台でも百台でも用意する」
うわ。
今の聞いたか、マイルズ。
座学、王から正式に殴られとるやん。
うちはまた口元を押さえた。笑うな。笑うな。笑うな。ここは真面目な場面や。たぶん。いや、さっき棒とか言うてたけど。真面目な場面や。たぶん。
マイルズは板を抱え直した。
「進捗そのものは、予想以上です。衣装の創出、バリア展開、物体操作および改変。特に神い様は、制御は粗いものの、出力への到達が早い。気むう様は、保持と安定において非常に高い反応を示しております」
気むう。
その名前が出た瞬間、ちょっとだけ胸が引っかかった。
寝てるはずの妹の顔が浮かんだ。白い薔薇の前で「ただいま」って言うた、あの声。思い出しただけで、喉の奥が変に詰まる。せやのに今、毛玉とヤギが、うちの知らん言葉であいつを測っとる。
腹立つ。
少しだけ、怖い。
「ただし、神い様は座学への適性が著しく低く」
おい。
今ちょっとだけしんみりした心、返せ。
王は小さく喉を鳴らした。
「それは見ればわかる」
見るなや。
「問題はそこではございません」
マイルズの声が、少しだけ沈む。
「……陛下。より重要な件がございます」
空気が変わった。
ほんの少しや。
せやのに、棚の影まで一段暗くなった気がした。
王も、笑わへんかった。
「聞こう」
「防衛研究所の予測ですが――明日、現実全体に、次のレンダリングエラーの波が来ます」
レンダリングエラー。
その単語を聞いた瞬間、朝の通学路が頭に戻ってきた。
逆さに飛んどったカラス。
黒い人だらけの角。
ワバタタリオ。
寺の空。
青い薔薇の、壊れたまま咲いとるみたいな光。
背中の皮膚が、ぞわっと遅れて縮む。
直ったんちゃうんかい。
いや、直るわけないか。この世界、再起動ボタン押したくらいで機嫌直す顔してへんもんな。
「規模は」
「前回より強い、と」
「生物への影響は」
間が空いた。
マイルズのしっぽが止まる。
王の声が、少しだけ低くなる。
「……まだ、出ない」
まだ。
その二文字だけ、変に残った。
まだ、って何やねん。
そこで止めんなや。
「姉妹を保護しろ」
王は続けた。
「それと、波に触れた時、ただ怯えるだけで終わらぬよう導け。あの薔薇があのままなら、これからも同じことが起こる」
「承知いたしました」
「特に、白と赤に応じたあの二人だ。何も知らぬまま置いておくわけにはいかぬ」
白と赤。
またや。
うちの胸の奥で、イスシアがほんの少し動いた気がした。起きたんか、こっちが勝手に思い出しただけなんかは分からん。せやけど、赤い薔薇の気配は、眠っとる時でも完全には消えへん。人の頭ん中に勝手に椅子置いてくつろいでる感じや。最悪や。
「……陛下」
マイルズが小さく言う。
「先ほど、保護と仰いましたが」
「ああ」
「昨日、陛下は神い様を処断しかけておいででした」
王は黙った。
うちの指先が、棚の木を少しだけ強く掴む。
そうやぞ。
言うたれ、毛玉。
珍しくええこと言うやんけ。
「そのうえで保護対象として扱うには、説明が必要です」
「必要ならする」
「お二方に、でございます」
また沈黙。
長い。
このヤギ、間を置くのが好きすぎる。怖い人間ほど黙る、みたいなことあるけど、ヤギでも適用されるんやな。嫌な学びや。
「昨日は、疑いを潰す場だった」
王はようやく言うた。
「今は、無知を残すほうが危うい」
「……はい」
「矛盾に見えるなら、それで構わぬ。余は安全な顔だけ選べる立場ではない」
何やそれ。
指一本でうち殺しかけたくせに、今さら守る側みたいな顔すんなや。
でも、腹立つのに、ただの嘘にも聞こえへんのが余計に腹立つ。
あのヤギ頭の中、どういう部屋割りになっとんねん。殺す部屋と守る部屋が隣同士なんか。
「明日は早い」
王が言うた。
「休め、マイルズ」
「……恐れ入ります」
そこで、王が立ち上がった。
椅子が低く鳴る。
うちの心臓が、雷落ちたみたいに跳ねた。
あかん。
考えるより先に身体が動いた。ブーツを抱えたまま、棚の裏へ滑り込む。ほとんど転がった。肩が本の背にぶつかって、薄い音が出かける。うちは歯を食いしばって、息まで止めた。
足音が近づく。
王の蹄。
マイルズの浮く気配。
扉のほうへ向かう。
いけ。
そのまま行け。
こっち見るな。
頼むから今日だけはヤギとしての勘を全部捨てろ。
その時や。
空気が、ぴくっと止まった。
見られた。
気がした。
棚の隙間の向こう、王の影がほんの少しだけこっちへ向いた。見えてへんはずや。棚もある。暗い。うちは動いてへん。息もしてへん。せやのに、背中だけ先に死んだ。
王が、舌打ちとも息ともつかん音を鳴らした。
それから、何も言わずに歩き出す。
扉が開く。
閉まる。
足音が遠ざかる。
……。
…………。
うちはまだ動かへんかった。
こういう時こそ、二回目の五分や。
戻ってくるかもしれん。忘れ物しました、みたいな顔でヤギが再登場するかもしれん。いや王様が忘れ物すな。せやけど油断した時ほど人生は刺してくる。知っとる。うちは悪事の基礎だけはちゃんと積んどる。
一分。
二分。
三分。
息をそろそろ普通にしたい。
四分。
足がしびれてきた。
五分。
……生きとる。
「はぁぁぁ……」
ようやく小さく息を吐いた、その瞬間やった。
『……何をしているの、紅の娘?』




