ただいま、白
――その向こうで、白いほうの静けさが、ふっとひとつ深うなった。
うちはそっちを見た。
気むうは、まだ白い薔薇の前に立っとった。
こっちの騒ぎなんか、最初から遠い場所の音やったみたいに。
しかも、今はもう“見とる”んやない。向こうも、気むうを見返しとる。そんな感じがした。
『……ふぅん』
頭の奥で、イスシアがちいさく笑うた。
『そっちも始まったみたいやねぇ』
「……何や、あっちも」
思うた時にはもう、うちの足はそっちへ向いとった。
で、そこでようやく気づいたんよ。
「……あっ」
うち、さっきまで普通に、赤い薔薇の前で喋っとった。
そこそこ長く。
そこそこ本気で。
しかも相手、花。
……終わっとるやん。
そろっ、と顔を上げる。
部屋の端にマイルズ。
目ぇ、合う。
「あっっっっっぶな!!!!」
遅い。
気づくん遅すぎる。
「何で言わへんの!? 見とったやろ今の!!」
マイルズは、あの妙に整いすぎた顔のまま、すっと視線を外した。
「何も見ておりませんが」みたいな空気だけ残して、音もなく半歩引く。
うっそつけや。
「うっわ、最悪……!」
『今さら照れても遅いわ、小娘』
頭の奥で、ぬるっとあの声が笑う。
『あんだけ威勢よう喋っといて、見られた途端それ? 忙しい子やねぇ』
「……どーもどーも、イスシア様。ご丁寧に追い打ちまでありがとさん」
『礼ならええよ。ほな、そのままうちを連れてき』
「は?」
赤が、遠くで機嫌ようひとつ光る。
『せっかく外に繋がったんやし。ずっとあそこだけっちゅうのも退屈やわ。見せてぇな、この世界』
「何でそんな当然みたいな顔で居座る気なん」
『当然やろ。うち、もうあんたん中おるし』
「言い方!!」
『嫌なら追い出してみ?』
できる気ぃがせえへんのがいちばん腹立つ。
「……あーもう、ほんま最悪や」
赤の前から半歩、二歩と離れる。
このままここおったら、マイルズの前でまた続きを始めてまいそうで、それも嫌やった。
ロザルの枝の向こう、少し離れた白っぽいところで、空気の重さがふっと変わる。
「……あれ」
ようやく見つけた。
気むうは、もう白い薔薇の前に立っとった。
こっちのことなんか最初から視界に入ってへんみたいに、まっすぐあっちを見とる。
同じ部屋ん中におるのに、あいつのまわりだけ空気の流れが違う。音が届く前に、一回どっか薄い膜でもくぐってきとるみたいな、変な静けさやった。
うちはそこで足を止めた。
呼ばんかった。
近づきもせんかった。
……うちが見られたんや。
ほな、今度はうちが黙る番やろ。
気むうは何も言わへんかった。
ただ、白い薔薇へ手を伸ばす。
触る、いうより、確かめるみたいに。
冷たいガラスの向こうに、よう知っとるもんでも置いてあるみたいな、そんな触り方やった。
白が、ちいさく脈つく。
ぴか、やない。
もっと静かなやつや。
気むうの指先へ合わせるみたいに、ひとつ。
息継ぎするみたいに、またひとつ。
気むうの指先が、花弁のふちをそっと撫でた。
白は逃げへん。
むしろ、そこへ沿うみたいに、またひとつ、静う光る。
見とるだけやのに、喉の奥が変なふうに詰まった。
何がどう、とはよう言われへん。
せやけど、初めて触る相手に向ける感じやなかった。
あいつの肩が、ほんの少しだけほどける。
それから、気むうは白い薔薇を見たまま、ぽつりと言うた。
「……ただいま」
小さかった。
息の先みたいな声やった。
でも、その一言だけ妙に収まりがよかった。
初めて聞いたはずやのに、前からそこにあった合図みたいで、余計に落ち着かん。
白が応える。
今度は少しだけ、はっきり。
鼓動みたいに、ひとつ。
それからもうひとつ。
言葉なんか、いらん空間やった。
『……へえ』
頭の奥で、イスシアがちいさく笑う。
『そっちは、そっちで随分よう出来とるやん』
「……何がや」
『さあ?』
さあ、で済ますなや。
せやけど、今はそれ以上突っ込む気にもならへんかった。
気むうはまだ白の前におる。
うちの知っとる顔のままのはずやのに、そこだけ、うちの知らん時間の続きみたいに見えた。
ようわからん。
せやけど、あそこへ今のうちが踏み込んだら、何か大事なとこだけ雑にしてまいそうで、それが嫌やった。
「……まあ、ええか」
誰に言うでもなく、口の中だけでそう言うて、うちはそっと踵を返した。
ちょっと歩いたとこで、マイルズを見つけた。
壁際や。
背もたれもないくせに、何でそんな「本日の業務、だいたい想定内です」みたいな疲れ方できるんか知らんけど、毛玉の体をぐでっと預けて、しっぽの先でクリップボードを支えとる。
「……何してんの」
「記録でございます」
「うわ、ほんまにやってたんや」
近づいて覗きこもうとすると、マイルズは一瞬だけ板を引いた。
遅い。
見えた。
『赤との接触:即時応答』
『対象A、私的命名を試行』
『対話傾向:過剰。要観察』
「誰が過剰や」
「事実のみを記しております」
「腹立つ言い方やなあ」
「仕事ですので」
やっぱ腹立つわ、こいつ。
うちはその場でしゃがみこんだ。
脚がもう、ちゃんと脚の仕事したない顔しとる。
「なあ、マイルズ」
「はい」
「もう無理や。眠い。しんどい。脚も腰も終わっとる。そろそろ人権ある部屋に戻してくれへん?」
「牢でございますが」
「その一言で全部台無しや!」
マイルズはふう、と小さく息をついた。
綺麗な声のくせに、そのため息だけ妙に慣れがあって嫌やった。
「……ええ。頃合いでしょう。妹君もお呼びください。本日の確認は、ひとまずここまででございます」
その瞬間、身体から力が半分くらい抜けた。
「ああ……やっと終わった……」
『終わった、やて』
頭ん中でイスシアが鼻で笑う。
『何ひとつ終わってへんやん。ようやく外、見れるんやで?』
「お前は黙っとれ」
「何かおっしゃいましたか」
「独り言や!!」
最悪や。
監視と脳内騒音が同時におる。
「……はあ」
息が抜ける。
もう、ええわ。
細かいことは全部あとや。
とりあえず帰れるなら、それでええ。
「……まあ、ええか。行くで」
気むうのほうを見る。
もう白い薔薇には触れとらんかった。
ただ、さっきまでの場所にまだ立っとる。手ぇは下りとるのに、気配だけ少し遅れてそこへ残っとるみたいやった。
うちは迷わず近づいて、その腕をがしっと掴む。
「ほら、帰るで」
気むうは一瞬だけこっちを見た。
何か言いそうで、結局言わへん。
でも、振りほどきもせんかった。
それで充分やった。
「行こか」
またあの地獄みたいな扉群を通るんかと思うて、うちはもう半分くらい死んだ顔しとったんやけど――
開いた。
ウィーン、や。
一枚。
また一枚。
その奥も、そのまた奥も。
行きにあんだけ人の尊厳しばき倒してきた扉どもが、今度は勝手に道あけよる。
「……は?」
目ぇの走査なし。
承認待ちなし。
毛の検査なし。
尻も守られとる。
「帰りだけ優しいんかい」
「退出処理は簡略化されておりますので」
「入る時だけ地獄ってこと?」
「概ね、その認識で差し支えございません」
「差し支えしかないわ」
でも、開く。
どんどん開く。
うちと気むうが歩くたび、さっきまであの世の関所みたいな顔しとった扉が、急にただの自動ドアへ成り下がっていく。
「何やねん、この城……」
『……これが外側、ねぇ』
頭の奥で、イスシアが面白がるように息をもらした。
『ようやく見れる思たら、あんたの歩き方が雑すぎて揺れるんやけど』
「知らんわ。こっちは脚もう終わっとんねん」
『ほな、せめて視線くらい丁寧に動かしてぇな。全部ぶれるわ』
「何でうちがお前の視界係せなあかんねん」
『今さら何言うてんの。うち、もうここに住むんやし』
「住むなや!!」
「……独り言、多くなってますよ」
「うるさい!!」
気むうの肩が、横でほんの少しだけ揺れた。
笑うたんかどうかは知らん。
知らんけど、たぶん悪くなかった。
玉座の間へ戻る廊下を歩いても、イスシアは黙らん。
『あの柱も、あの燭台も、あの天井も。ずいぶん長いこと見てへんかったんやし、ちゃんと見せぇや』
「注文多いねん!!」
『せっかく繋がったんやし、黙っとるほうがもったいないやろ』
赤が、胸の奥で機嫌ようひとつ脈ついた気がした。
うちの頭ん中で勝手にくつろいで、勝手に世界を覗いて、勝手に次を決めとる。
何やねん、この薔薇。
……追い出されへんのが、いちばん腹立つわ。




