第185話 無気力漫画家と無遠慮ユノス
これは十二月のある日の午前九時のこと。
ユノスとチヨは、珍しくバスに乗って遠出していた。
ユノスはスマホの電子書籍アプリで、漫画を読んでいる。
タイトルは『「お前は勇者に相応しくない戦いをしている」と、雇った当人に言われてパーティー追放された《罠師》、流刑地の島を要塞化してスローライフを送る』。
作者は『長葱クリップ』。
(かれこれ七巻読んでるけど、やっぱり長くないかなぁ、このタイトル……?)
ユノスが毎度お世話になっている出版社『境迅社』の今の主力作品であり、現在、アニメの二期目が放送され、ファンに好評を博している。
なお、ネット小説などのコミカライズではなく、そういう流行に早くも合わせて創作された、オリジナル漫画である。
チヨは傾き、左隣からユノスのスマホを覗いて聞く。
「それ? ユノスが今から手伝いにいく漫画?」
「そうだよ、お母さん。貸すから読む?」
「いいよ、そういうファンタジーものはあんま好きじゃないから」
ユノスがこのバスに乗っているのは、長葱クリップの作業場に向かうため。
どうもアニメ二期の制作やらなんやらで、作者が多忙になり、今後の連載が危うくなってきたと、担当者から聞いた。
当作はネットで連載しているものだが、つい四ヶ月前に、おまけイラスト、おまけイラスト、おまけイラスト、掌編、おまけ、おまけ、おまけ、おまけ……と、真面目に追っている読者がブチギレるコンボをやらかしたため、常に本編のストック確保に喘いでいるという。
そこで境迅社と縁のあるアシスタントや若手漫画家が駆り出されることになった。
ユノスも、ギリその作業場に行ける距離に住んでいたということで、担当者から仕事の打診を受け、
(よりランクが上の漫画家がどう仕事しているのかを見てみたいもん)
という期待の元、これに了承した。
チヨが同行しているのは、保護者としての役割を担うため。十六歳の未成年者が一人で職場にいると、コンプラ的に見栄えがよくないということで、ついてきてもらった。たまたま予定日が休日だったのがラッキーだった。
駅前のロータリーにあるバス停で降りて、二人は少し歩く。
ほんのちょっと高い台地に作られた、品のある静かな住宅街。
そこにある八階建てのマンションが、出版社から口外厳禁とされた住所にあった。
二人はエレベーターに乗って最上階に行く。
どうも階層一つ一つが丸ごと一物件とされているようで、エレベーターを降りてすぐ、いかにも玄関らしいシックな木目塗装のドアがあった。
インターホンを押して少し待つと、カーディガンコーデの清潔感のある男性が出てきた。
「はい、どちら様?」
「はじめまして、満月ユノスです」
「あ……あたしは、母親のチヨです」
「あ、ユノス先生! お待ちしておりました! ささ、中へ! もう机は空いてます!」
男性――長葱先生の専属編集者に案内され、ドアから一直線に九歩ほど歩くと、この家で一番広い、リビングとしての利用を想定されているだろう部屋に着く。
まず、目を引くのは、延長コードやらポストイットやら栄養ドリンクやらが無造作に配置された、机を組み合わせた島。
次に、各々が思うラフな格好で、ペンタブに食らいつく、疲れている人にしか出せない体臭を纏う先輩アシスタントたち。
そして離れ小島のように部屋の隅に置かれた、年季の入ったデスクが、無人である様だった。
「ユノス先生! こちらへどうぞ!」
「……あ、ごめんなさい!」
年季入りのデスクから、ユノスは現実に戻り、編集者が指した、アシスタント用の机に座る。
臨時アシのために整理整頓済み。この現場用のペンタブと専用ペン、ユノスが担当するページの指示メモ。それ以外は何もない。
一応自分のタブレットも持ってきていたが、ただの重りになっちゃったな。
と、思いつつ、ユノスは早速作業に取り掛かる。
チヨは作業室の角にある、来客スペースのソファで、邪魔にならないように娘の頑張りを見守る。
三十分後。ネーム段階で引き継いだページにペンと黒入れを済ませたところで、隣の先輩に話しかけられた。
「いやあ早いね君」
「ここはコマ数が少ないからですよ。人の絵柄に合わせて書く機会はあまりないですから」
「そう? 俺なんて君と同じ作業したら、二時間で五ページ分かかるよ」
「そうですか、あはは……」
(ならボクより少し早いんじゃないの?)というツッコミは胸に押し込み、トーンパターンの貼付段階に進む。
その最中、ユノスはたびたびチラリと、あの年季の入ったデスクを見た。
(あれ、この作業場のボスの机だよね……?)
ここに来た瞬間、タイミングにブレはあるが、作業中の人たちは全員、ユノスに会釈程度の挨拶はしてくれた。
全員、とても場を取り仕切っている感じの姿勢ではない。つまり全員、被アシスト対象の長葱クリップ先生ではないと推察できる。
(どこ行ったんだろう、長葱先生……?)
そうした些細な疑問を抱きつつも、それに気を取られないように身を引き締め、ユノスはペンタブをせっせと動かす。
*
十二時半。
もみあげに白髪が混じった、アシスタント最古参らしき男性が、カップラーメンにお湯を注ぎ始めたタイミングで、ぬるっと休憩時間に突入した。
「ユノス先生も、こちらでどうぞ」
「あ、はい」
編集者に呼ばれて、ユノスは母親のいる来客スペースに行く。
上座側のソファの左座部に、コンビニ弁当が湯気を昇らせていた。
「お疲れユノス。先に食べてた」
右座部では、チヨがブリトー片手にノートパソコンを操作している。
保護者として来たものの、常に見守る必要が無いとわかり、本当に体裁としての役割しか果たせなくなってしまったため、我慢できず自分の仕事をし始めたのだ。
「いいよ別に、いただきます」
あちらこちらから海苔のパリパリ音や、麺のズルズル音が飛んでくる。
ユノスのお弁当も、半分まで減ってきたところで、チヨは聞いてみる。
「そういえばユノスさ、あなた、先生に会った? あの長葱さんとかいう人」
「長葱クリップ先生ね、会えてないよ?」
「えっ、ユノスも会ってないの? あたしはてっきり、ここの漫画読んでたり、仕事してる間に顔出してたのかなーって思ってたけど……下で働いてくれてる人にも!?」
「うん。一通り指示書が置かれてあったから、それで描いてるもん」
「それは……怖くない?」
チヨはこのスペースの側にある、長葱先生の作品が収められた本棚を見る。
「え、長葱先生ってシナリオだけやってるってわけじゃないよね? それかユニット名とか?」
「いえ、長葱先生の個人名です」
あまりにもあたふたしていたことを気にかけてか、編集者がプロテインドリンク片手に、こちらにやってきた。
「お食事中に失礼しました……編集者さん」
ここでユノスは思い切って尋ねる。
「あの、編集さん。長葱先生はどこにいらっしゃるんですか?」
「この仕事場に居るには、居ます。ここは先生の自宅も兼ねてますから」
「でしたら、一度ご挨拶をさせていただけないですか? 漫画家として後輩なのに、顔も見せずに仕事して帰るのも失礼ですので」
至極真っ当なユノスからの要望に、編集者は「あー」と「えー」と「うーん」と、プロテインを一口飲むのを四回ほどローテーションして、
「わかりました……ですが、今から見たことは決して、一切、絶対に、金輪際、たとえ口が避けようとも、どこかしらの国家が抱える諜報組織に拷問されない限り! 言わないでいただけますか!?」
「諜報組織に拷問されたら言っていいんだ……?」
「わ、わかりました……是非お願いします」
「では、こちらへどうぞ……」
二人は作業場の奥にあるドアを開けて、そちらにある廊下を通ってから、一つのドアの前に行く。
編集者はガムテープで後付けされたドアノッカーを、慎重に四回鳴らす。
「なにー!?」
「編集です。今日一日だけ臨時で来たアシスタントが一回挨拶したいとのことです」
「チッ、黙って仕事して帰れや……わかったー! 一瞬だけだぞ一瞬!」
「ありがとうございますっ、失礼しますっ!」
編集者が開けたドアに、ユノスはひょこっと全身を出す。
「はじめまして、本日アシスタントをさせていただいている、満月ユノスと申します……!?」
下げた頭を上げたとき、目の前にいたのは、中肉中背の、見た目からはいい印象も悪い印象も読めない男だった。
彼は部屋の中央に置いたこたつで、細かい作業を行っていた。
ドアからははっきり見えないが、紙や電子機器では決してない。長葱先生のうつむく影と手で隠れているサイズなのだから。
漫画家に限らず、クリエイターには創作に必要な材料を無節操に仕入れて、血肉としないといけない。
そうした性が暴発してしまい、ユノスはドアから数歩歩み出て、こたつの詳細を見る。
分厚めの小さな木の円盤に、彫刻刀を当てて、彫り物をしていた。
「……なんですか、これ?」
長葱先生は数秒ほどユノスを見上げて、ニヤリと笑った。
「これはな、シーリングスタンプのヘッドだよ。模様を彫り終わったら耐熱コーティングをするんだわ」
彫刻刀をケースにしまって立ち上がり、側の棚に置いてあったファイルを、ユノスへ開いて見せた。
中には色とりどりかつ、全て紋様の違うシーリングスタンプが入っていた。
「これ、俺が好きだったスペースオペラの主要キャラを一人ひとりイメージして作ってる。もし手紙を出したらこういうの使うんだろうなって」
「へえー」
この時、ドアから様子を伺っていたチヨは、必死に枠を掴んで、ずっこけるのを防いでいた。
「こういう仕事してない漫画家って、ゲームとかアニメ三昧やってるイメージだったのに……」
「それかSNSでダラダラ馴れ合いしてるかね」
と、ボソッと後ろへ言ったあと、ユノスはスタンプのファイル……をドヤ顔で持つ長葱先生と目を合わせる。
「すみません長葱先生、ボク、あちらの作業場で先輩がたと必死に働いているのに……貴方はここで何をしているんですか?」
「それはさっき言った通りシーリンg……」
「貴方は漫画描かないんですか? という問いかけです」
ほんわかした見た目の癖して、発言の火力が高いなぁ。と、いいたげなダルい目つきをして、長葱先生はファイルを元の場所に戻す。
「まさかぁ。狭義的に『絵を描くこと』を指すのなら、かれこれ四ヶ月くらい充電だけど、シナリオとコンテくらいは書いてるよ? ここで仕事してたなら、君も見たでしょ、指示書。あれはキチンと俺謹製だよ?」
「現場は締切がヤバいと常に焦っていますが。なのに貴方は、絵の手伝いをしないで、それ以上に労力が要りそうな趣味に四ヶ月も……」
ここでアシスタントは小声で補足する。
「シーリングスタンプに関しては二ヶ月前からです。その前はドールの衣装づくりに没頭してました」
「……どっちみち、四ヶ月も本業ほったらかして趣味に没頭するなんて、それって漫画家としてどうかしていませんか!」
(ついにはっきり言ってしまった……)
ユノスは過去にいたディストピアじみた異世界での経験から、『仕事』に関して、神命を受けたような責任感を持っている。
同業者がこういう態度を取れば、ユノスははっきりと嫌悪感を示すだろう。その不安が現実となったことで、チヨは別の意味で、ドア枠をしっかり掴むことにした。
「あの作品という舟は、貴方が舵をとっているんでしょう? だったら貴方が物語のフィナーレまで持っていくべきではありませんか? どうなんです、長葱クリップ先生!」
長葱先生は、意外にもケロッとして、ケラケラ笑いながら返す。
「とはいっても俺も、アニメの監修の仕事もあるんだよね……だからユノス先生、貴方がたアシスタントには本当に感謝しておりますぜ。決して足を向けては寝ません。どの方位を向いても誰かしらのアシの家に重なるのなら、地面と垂直に寝まっす」
「……」
ユノスは無言で踵を返して、スタスタとドアを潜って退室した。
「ちょいまちユノスー! あ、ご迷惑おかけしました!」
チヨも三回くらいペコリと謝ってから、長葱先生の前から姿を消した。
「……さて、これでようやく作業に戻れるぞー!」
再びこたつに足を入れて、彫刻刀を手にした長葱先生。
「失礼します」
と、小声で言ってから、編集者がこたつの側に正座してきた。
「……長葱先生、私たちには貴方に元の制作体制を強いたりする気持ちも権限もありませんが……あのユノス先生の一家言は、多少なりと覚えておいたほうがいいと思いますよ……」
「おお、うん」
「『不相応罠師』は、今こそは絶好調ですが、これから先何が起こるかわかりませんからね……」
「いいよ、うん、なんとかなる」
「そうですか。わかりました……では、私はまた作業所にいます……失礼しました」
編集者がドアを閉じたあとも、長葱先生はシーリングスタンプのヘッドを彫り続ける。
無意識に口がへの字に曲がった。視界が滲んできたので、長袖でサッと拭った。
「どうにでもなっちまえよ、もう……」
*
休憩時間はだいたい一時間だった。
ユノス含むアシスタント陣は、再び猛スピードで作画に勤しむ。
チヨはまた来客スペースで待機。仕事を一段落させて、近くにある本棚から、長葱先生の作品を読んでいた。現行の『不相応罠師』ではなく、三巻ほどあるデビュー作のものだ。
(絵もさることながら、SFとして設定凝ってるよね……)
ユノスが本日二ページ目のペン入れを終わらせたタイミングで、また隣の先輩が話しかけてきた。
「やっぱり早いよね君」
「いえいえ、そんなことないですよ。自作と構図から何まで違うので、まだ手が慣れていませんもの」
「けど最低でも、その割には早いと思うよ。俺は十四年間アシスタントだから、人に合わせるのに慣れてるし……」
「へえ、それはすごいですね……」
先輩はこめかみあたりの髪を、タッチペンの先ではないほうで掻きながら、
「すごくないってば。自分の連載持てないまま、ここまで来ちゃったんだもの」
「そうですか、すみません、無神経なことを言ってしま……」
「言ってないって。むしろ俺が悪い。漫画家として食っていくって決めたときのプライドを忘れて、ただ飯食うことだけ考えて、ここまでズルズル来ちゃったんだからさ……」
先輩アシスタントは辺りを見渡し、自分にヘイトが向いていないことを確認。
「まあ、アシスタントも立派な仕事だから、完全にやる気がないとは思ってないよ。一線級の作品は常に実質スタジオ式に制作しているとも言うし」
「へえ、なるほど。わかりました、あ」
「礼はいらないよ。さ、仕事に戻ろ」
(はい、ありがとうございます)
と、代わりに心の中で言ってから、ユノスはペンを動かす。
クオリティはそのまま、速度は雑談をする前の、一.五倍に跳ね上がっている。
(あの怠慢を決め込む長葱先生の目を覚ましてあげよう……ここには連載を持てずに、くすぶっている漫画家がいるんだもん。せめてそういう人たちの鑑になってもらわなきゃ困る……!)
二時間後。
編集者はドアノッカーを三度、慎重かつ確実に動かした。
「はいどうぞ」
「失礼します」
長葱先生は相変わらずヘッド作成中だった。
編集者は開けたドアの境目に立ったまま言う。
「先生。一話分のストックが完成したようなので、次用の指示書をいただけますか?」
「思ったより早いな」
「頑張っていただけましたので。特に……」
編集者は一歩左にズレて、その空いた空間に、ユノスが立った。
「新人として、貴方に追いつく気概で頑張りました」
「げぇーっ、満月ユノス先生再び!?」
長葱先生は使っていた彫刻刀をケースに戻し、ドア付近にまで歩いてきて、
「まずは完成ありがとう。で、次によ……君、そこまでして俺に現場に座って欲しいわけぇ!?」
「はい、あの専用デスクに座って欲しいわけです」
長葱先生は一瞬後ろに反り返ってから、ユノスを細い目で睨む。
「あのね、俺は仕事していないわけじゃないんだよ。キチンとストーリーも考えてる、今からすぐにアシスタントへの指示書も渡せる、定期的にあるコンテンツの方針会議にも出てる。仕事してるんだよ。
なのに……やっぱピンの漫画家たるもの、自分で絵を描かないとダメなのかな?」
「ダメですよ。それじゃあ脚本家、原作担当になってますよね。
なのに単行本の表紙には自分の名前しかない……これって、アシスタントさんの下働き感が強まっているじゃないですか。
言った通り、貴方は漫画家ですよね? それも二期も続くアニメを生み出せた漫画家ですよね。
こういういびつな制作環境に対して、罪悪感とかないのですか?」
隣の編集者がオロオロしているのも気にせず、ユノスは毅然とした態度で、先輩後輩関係なく、漫画家としての意見を伝えきった。
これを受けた長葱先生は、両手を後頭部に重ねておき、天井を見上げる。
それから片足を上げて、数回転ほど回った。そして編集者を一瞥して、酷く長いため息をついた。
「……そもそも、俺だって、好きでやってるんじゃないんだよ……こんな漫画……」
これに編集者は、安堵としての短い息を吐く。
「本当にこの子に言うつもりですか?」
「いいよ。若手育成の一環だ……」
長葱先生は白状した。
*
今の出版社には、新人コンテストで縁が出来た。
自分が学生時代から好きだった作品の知識をふんだんに活かした、硬派なSF作品を応募し、審査員から絶賛された。
デビュー作はその連載版となった。当時の編集者から『口の出しようがない!』と太鼓判を得ての連載だった。
ところがその作品は、三巻で打ち切りになってしまう。
連載誌の読者にウケていない。残酷ながらもシンプルな理由である。
この後も長葱先生は、デビュー作でやれていなかったストーリーを流用して、別設定の作品を計二発ほど送り出したが、どれもこれも表面的には次回作にご期待となって終わった。
三作目の終了時、出版社から今の編集者を介して、長葱先生はこうした提案をされた。
「今のトレンドに合わせた作品を作りましょう! 長葱先生は絵も上手いですから、難なく描けると思います!
そこで名前を売れば、再評価を得られますでしょうし!」
「おお、任せとけ!」
と、長葱先生は二つ返事で了承して、昨今のトレンド――パーティ追放モノの構想を練り上げた。
これが絶賛連載中の『不相応罠師』の始まりである。
不相応罠師は、誰も予想だにしないほどのヒットを記録してしまった。
長葱先生は、六巻ほどで終わらせようとしていたが、あまりにも人気があり過ぎたために、上手く悪役を増産して延命してしまった。
すると、長葱先生は、話数を重ねるごとに、やる気を失ってしまった。ペンを持つ気力すらもなくなってしまった。
ただし、それでも周りからは、連載の継続を執拗に求めてくる。ここにいる編集者も、毎日のように押しかけて、長葱先生を説得していたという。
そして双方は、特に膝を突き合わせての取り決めをしていないが、妥協案として、作画をアシスタント中心にすることにした。
アシスタントたちも食い扶持を失うわけにもいかず、これを黙認してくれた。
これが現在、長葱先生が自室にこもって趣味に逃げ出した顛末である。
*
「正直、六巻分描き終えたときに、編集部オフィスに殴り込んででも止めたほうがまだマシだったかもしれないって、今でも思ってる」
「私たちも本社で仕事している時は肝を冷やしてましたよ。長葱先生がヤケ起こさないかって……あの時は本当にお互い荒れてましたから」
長葱先生と編集者は、二人して甲高い声を上げて笑った。昔のことを思い出しての自虐だろうと、ユノスはそのわざとらしさから分析した。
分析するだけで、参加することは、ユノスにはできない。
自分がいた世界の漫画家は、福祉が徹底管理された世界においても、生まれて与えられたものに嫌気が差してしまう人たちに、なんとか生きがいを与えるために存在する仕事。
だが、この世界において、その漫画家自身がそうした状態になる様を見ては……何一つとして口が出せない。それに、なんとなく喉も痛い。
ユノスは、久々にこの世界に適さない、仕事中毒の悪癖を発動してしまったと反省していた。
彼女は元々整っている襟を整える素振りをしつつ、無理強いについての謝罪の言葉を考える。
すると、長葱先生が話を続けた。
「……さて、先輩からのアドバイスをキチンと締めるとしようか。ユノス先生」
「はい?」
「君の言葉も一理あるよ。漫画家としてデビューしたからには、漫画家としての舵を握り続けろって。
けれどもね、この仕事が進む海流ってのは複雑怪奇なんだよ。
今の俺みたいに、不本意な作品を作らなきゃいけない奴もいる。逆に、自分のやりたいようなことをやりたいままにやって、大スベリする奴もいる。
ほら、定期的にいるだろ? 業界の名だたるトップクリエイターが作った渾身の一発が大不評になるみたいなの。
……ユノス先生、君はこれまでどんな作品を世に送り出してきた?」
「ネット小説のコミカライズ三作、ネット小説の挿絵、あと、アンソロジーコミックに一作寄稿していますよ。ちゃんとした連載はまだ持てていません」
「そっちも中々悲惨な経歴だな……ゲフン、まあ、もしこれから大作を創り出すとなったとき、きっとそういう壁が立ちはだかる……覚悟しておけ」
ユノスは、いつもの微笑みより、少し口角を上げて、心の底から尊敬の念を込めて答えた。
「はい、覚えておきます」
「よろしい。じゃあ、ええと指示書だな……」
長葱先生は、部屋の角に鎮座するコピー機の上に乗っていたコピー用紙を数枚まとめて取る。
「管理雑ですね、先生」
「ベテランの作家さんは活動歴が長くなるにつれて、生活のほうが疎かになりがちなんですよ。これも覚えておいてください、ユノス先生」
長葱先生は指示書の束を片手に、ドアを通って廊下に出る。
「え……」
「おい、何ボーッとしてんの、ユノス先生。俺と仕事場戻るぞ」
「あ、はい……長葱先生も一緒に……です?」
「そりゃそうだよ。今の話のタイミングなら、自然なラストを描けるんだから、俺がちゃんと監督しないと」
「愚問でしたね……ごめんなさい、それも含めて今日は色々と」
「別にいいよ。元は臨時アシまで呼ぶ原因を作った俺だから」
そしてユノスは、長葱先生の大きな背中に自然と隠れて、作業場にトコトコと戻っていく。
「まず一回、私にプロット見せてくださいよ。長葱先生の方針に、納得したいですから……」
そこに編集者も続いていった。
たまたま帆にいい風が当たり、航路に流れてきたタルに金銀財宝が入っていたような、ユノスはこの臨時アシスタントの日を、貴重な学びにしたのだった。
一方その頃、作業場では。
「じ〜……」
チヨは、机の島からの視線を感じて、マイノートパソコンをバタンと閉じる。
「……あ、すみません、人が必死に仕事してる側で、平気でドラマ観ちゃってまして」
「いや、こちらこそ覗き見してすみません、満月さん!
……娘さん、思ったよりもしっかりしてましたね」
「そうですね、やっぱり来なくてもよかったのかもしれません。ささ、あたしのことはお気になさらず、アシスタントの方に集中してくださいな……」
「は、はい……失礼しました」
アシスタントはくるりと椅子を回し、チヨはすぐにノートパソコンを開いて、一時停止を解除した。
チヨにとっては、どちらかというと退屈な時間だったらしい。
【完】




