第177話 深夜残業、リビングの狂騒曲
十二月の火曜日。某県にある百式高校。その生徒会室にて。
生徒会長の満月サバキら、執行部員たちは印刷用紙の束や、ホチキスなり、貸し出されたノートパソコンなりに向き合っていた。
部員全員は、各々のやり方で『焦りの色』を表情から漏らしている。
あと数日に迫った冬休みのための生徒宛のプリントや、来年の試験に向けた各種書類の作成。
生徒会は今、先月先々月のものを足してオマケをつけたような、ありえない仕事量に襲われているのだ。
一人の部員が、とじていたプリントに鼻をつけるスレスレにまで、前のめりに伏せた。
「か、会長〜! 今日はこのへんにしておきませんか!?」
サバキは一切手元のホチキス留めの作業速度を落とさず、怒鳴りつける。
「ダメだ! 『今年の仕事は今年の内に』と言うだろうが! 大晦日はここで過ごしたいのか!?」
「ひぇぇ、ご勘弁ください……!」
部員はすぐさまホチキスを構え直した。
「おお、サバキ軍曹怖あい。あだっ!」
それと並行して、部員の青木先輩が、ユノスからみぞおちへのエルボーを受けるという事件が起こったが、誰も指摘する余力はなかった。
紙がめくれる音、ホチキスが針を打ち付ける音、キーボードのタイプ音……
こうした無機質な音が、絶え間なく生徒会室にこだました。
同じ無機質なのに、壁に掛けられた時計の針が進む音を打ち消すほどに……
部員全員がゾーンに入ったところで、生徒会室の戸が勢いよく開き、顧問の先生が一瞬硬直した。
「き、君たち……もう七時だ。全生徒の下校時間だ」
五セットほど書類をとめてから、サバキは出入口へ首を回した。(ちなみに会長に遠慮して、部員全員はこの間、そちらを見ようと決してしなかった)
「もう、そんな時間ですか」
「そうだ。今日はこのへんにして、もう帰ってほしい。また明日にしよう」
(結局そのフレーズに帰結してしまうか……)
生徒会長として、学校が定めた下校時間に逆らうわけにはいかない。
「わかりました。では全員、今日はありがとうございました!」
「「「あ、ありがとうござい……」」」
ほとんど全員、語尾がカッスカスであった。
部員たちはさっきまでの仕事と同等の手際の良さで、荷物をまとめて続々と部室を出ていった。
サバキも自分の筆記用具をカバンに入れた後、
「先生。こちらは家に持ち帰ってもいいですか?」
「いいよ。外で落としたりとかしなければ」
「ありがとうございます」
いくつかの仕事関係の書類もそこに入れて、妹のユノスと一緒に部室を出ていった。
*
それから二時間経ち……午後八時五十分。
いつものサバキなら、「そろそろ消灯時間だ! さっさと寝ろ!」と言っていたところだが、今日に限っては、違った。
帰宅してご飯とお風呂を済ませた後、二階の自室に置いたカバンを手に取る。
するとベッドに入りかけたユノスが、こちらに寄ってきて、
「お姉ちゃん……もしよければボクも……」
「ダメだ、ユノス殿。これは生徒会長の自分がやらないといけない仕事だから……貴様は明日に備えて寝てくれ」
「わかった。じゃあおやすみ」
とっとと戻って、ぱっぱと布団をかぶって、せっせと、「スピー……」
(やはりユノスは仕事に対して真摯だな……)
サバキは照明のスイッチを静かに消して、カバンを持って静かに一階へ降りた。
リビングに入ると、ダイニングテーブルにノートパソコンとファイルを置いて、チヨが作業していた。
「あ、寝に行ったんじゃないんだ、サバキ」
「自分で消灯時間を破るのは心苦しいが、生徒会長の仕事が立て込んでいてな」
サバキはチヨの正面の椅子に座り、カバンから書類を広げる。
各部から送られた、来年からの部活動予算の希望書類の一次チェック。
こればかりは責任者を明確にするために、サバキだけしかできない仕事だ。
「うわ、学生ながらめんどくさそうなことしてるね……」
「あからさまなツッコミどころに付箋を貼って、先生に渡すだけだから、言うほどでもない。母さんは何を?」
「来年からのキャンペーンとか、公式サイトの文言とか……そういうPR部分のチェック。
長丁場になりそうだから上の書斎じゃなくて、こっちでやってる。
かくいうあたしも、そこまで優先してやることでもないけど……」
「だからこそズルズル後日に持ち越さないようにしたいのだ」
「他にもやることいっぱいあるもんねー」
「「……」」
そう都合よくハモるわけないし、意味もないか。
二人はほのかに頬を赤くして、それぞれの仕事に戻る。
事務的な物音以外が淘汰された静かな夜の時間が流れていく。
……時刻は九時十五分。完全にサバキが打ち立てた満月家の消灯時間が過ぎる。
絶対に自分は責められるだろう。サバキは覚悟を強めつつ、書類の精査を続けた。
(どうして全部活で様式が違うんだか……)
予想していた時は、すぐに訪れる。
「いつ寝に来るのかと待ってれば……」
「まさかのんきにこんなとこにいたなんて」
「それでもサバキっスかアンタ」
コーリン、マジナ、ワノが、三人でリビングに押しかけてきた。
三人はサバキの背後と両横を固めて、尋問を開始する。
「おいサバキ、お前、就寝時間はどうしたんだよ就寝時間は?」と、コーリン。
「……すまん。今日は例外の日だ。御覧の通り生徒会の仕事が多いんだ」
「だとしても君、そういう例外とか嫌いじゃなかった? 九時以降のテレビがみたいとか言っても問答無用で封殺してたじゃないか?」と、マジナ。
「貴様らの部活が遅すぎたとかいう場合には許してたこともあっただろう……それに免じて、ここはどうにか」
「だとしても謎ルールの提唱者であるサバ姐がそれを堂々破るのはいかがなものかと思うっスけどねぇ」と、ワノ。
「……」
三人に睨まれ、サバキは背中を丸め、小さくなっていく。
それを可哀想になったチヨは、ノートパソコンを打つ手を止めて、
「さ、サバキにも色々事情があるんだってば……」
「ちょっと黙ってくれ、母さん」
「ちょっと黙っておくれよ、母さん」
「ちょっと黙って欲しいっス、母さん」
「……はい」
三人の殺気にも片足突っ込んだ目の輝きに、チヨも小さくなってしまった。
サバキは両手をダイニングテーブルに、(各部活がそれなりに丹精込めて書いたものだから……)安全な位置を探してから叩きつけて言った。
「わかった。じゃあ今日は特別に、自分の仕事が終わるまで、貴様らも夜ふかししていいことにする!」
するとたちまち三人の顔が明るくなった。
「そうだ! それでこそサバキだ!」
「じゃあここで思う存分やらせてもらうよ!」
「そんじゃ、お言葉に甘えていただくっス〜」
三人は円陣を組んで三回転ほどした後、出入口を潜った。
「あ、上で寝てる人は起こすな! 夜ふかしするならここ限定だ!」
あのやりたい放題な三人のことだから、自分たちの集中力を削ぐ増援を呼んでこないかと心配しつつ、サバキは書類に目を通す。
(男子サッカー部め、ウォータージャグ五個だと? ファミレスのドリンクバーじゃあるまいし……)
五分後。三人が二階からまた降りてきた。
最も警戒していた追加メンバーこそいないが、あきらかに一波乱起こしそうな段ボール箱を、コーリンが小脇に挟んでいる。
三人はローテーブルの上に、箱の中身を出した。
緑色の布素材が張り巡らされた木箱……簡易的なビリヤード台である。
サバキはそれを横目で捉えつつ、
「あんなもの家にあったのか……?」
チヨはこめかみあたりをかきながら、
「多分、いつだかにオシャレな雑貨屋行った時に見つけて買ったんだと思う……」
「……静かに遊べよ、三人とも」
ここで一つ解説するとしよう。
ビリヤードとは、棒『キュー』で、白いボール『手玉』を突き、番号が振られたボール『的玉』を、各ルールに基づき弾いて、穴に落としていくゲームである。
コーリンたち三人が今しようとしているのは、『ローテーション』に近いルール。
台に残った数字の小さい順に、的玉を落としていく。そこに書かれた数字がそのまま自分の点となる。
指定の的玉を落とし損ねたら次の人に交代。
最後の十五番が落ちるまで続けて、最終的な点を競うルールだ。
番手は無難にコーリン、マジナ、ワノにしてスタート。
まずコーリンが、三角形に並べた十五個の的玉めがけて、手玉を豪快に射出。
的玉は三角形の側面をつつき、その陣形を崩す。
台からしてサイズが小さいが、硬質プラスチックの玉たちがぶつかり合い、カンカンカンと跳ねるような音が鳴り重なった。
それが止んだ時、台の上から十五番の玉が、穴に落ちている。
これを確認するや否や、コーリンはカーペットに両膝を落とし、両拳を照明へ掲げた。
「うおおし! いきなり最高得点ゲットォォォーーッ!」
姉の叫び声に負けじと、ワノは作ったような笑顔をして、何度も強く手を叩く。
「流石っスねぇ〜〜コー姐!」
対象的に、マジナは口をとがらせ、不愉快そうにしている。
「あのさ、最初のブレイクショットで一番に当たってなかったら、それ以外の得点は無効になるんじゃなかったっけ?」
「そういやコー姐の白玉、一番に当たってなかったっスね」
「ああ、そんな細かいルールあったのか?」
「あるみたいだよ? ほら? 忘れたの? 文化祭のクラスの出し物で出してたよね、姉御? (※第148話参照)」
マジナは自分のスマホで、ビリヤードのルール解説のページを見せた。
「あ、マジっスか。じゃあコー姐は無得点のままで、マジ姐と交代っスね」
ワノはコーリンに、キューを手渡せと手招きする。
しかしコーリンは薄目でページを凝視しつつ、キューを持つ手も持ってない手も、ガッチリ握りしめている。
「いいや。そもそもこれ、三人でやってる時点で普通のビリヤードじゃないんだぞ? だったらここはゲームを盛り上げるために……許してくれねえか?」
「十五点がこの試合から除外されるのもなんかもったいないっスから、さっさとゲーム続行しないっスか?」
マジナは地団駄を踏んで抵抗する。
「嫌だね! いくら元より特殊ルールだとしても、こんな初っ端から後出しジャンケンなんてしてたら、ゲームが進むにつれて何でもアリになってしまうじゃないか!」
「それは一理あるっスね! じゃあここは厳粛にやっていきましょう……」
「うるさいぞマジナ! お前のテクニックならこの後巻き返せるだろう!」
「私が説明しとかなかったのが悪かったけどさぁ、これはまずいって! だってボールを入れられたから、次も姉御の番になるから……」
「グダグダグダグダやるな、貴様ら!」
居ても立ってもいられず、サバキは三人の間にやって来た。
「人が近くで作業してるってことを忘れたか!?
それもよりによって、小さいビリヤードの小さい問題くらいでゴチャゴチャ揉めて騒ぐなんて、どうかしてるぞ!」
するとコーリンが、キューを刀のように構えた。
「関係ないだろサバキは! 後々より一層ガタガタ揉めるよりかはマシだろうしよ!」
続けてマジナとワノの追撃が来る。
「そんなこと言ってる暇あったら仕事したら? 元祖ルール破りさん?」
「考え方によっては、残業は『仕事できない奴の証』ともいうらしいっスよ、サバ姐?」
「ぐぐぐ……!」
サバキは一度ドン、と破損に繋がらない程度で力強くビリヤード台を掴んだ。
その後、散らかった的玉を全て三角形に揃え直す。
「改めて言っておく! なるべく静かにやれ!」
そしてダイニングテーブルに戻った。
その時チヨは、閉じたノートパソコンに顔を埋めていた。
「あたしも別に……残業したくてしてたわけじゃないのに……」
「……あの三人を黙らせるつもりで、早く終わらせましょうよ、母さん」
*
「ようし、これでさらに六点プラス……」
「……ならず、だったなー! ハハハ、残念だったな!」
「はいはい、じゃあさっさとアタイにキューよこせっスよ!」
「ちっ! まあ二十一点も稼げればしばらくは安心だからいいよ、べ、つ、にッ!」
「……」
「……」
再三にわたる忠告を無視して、騒ぎながらビリヤードに興じる三人。
チヨとサバキ、仕事持ち帰りコンビはそれを徹底的に無視して、それぞれの作業に集中する。
(まあ、あの程度で収まる相手じゃないもんね……)
チヨは母親として、娘たちの性格について諦めに近い許容があるから耐えられている。
一方のサバキは、
(漫画単行本四十五冊……男子バレー部め、何に使うつもりだこれを)
仕事そのもののほうが神経を逆撫でしてくるので、三人のことが頭から弾き出されていた。
慣れさえすればなんとかなりうる。そうしたこの世の法則は、こんな些細な日常の合間にも表れていた。
だが、ここにまた予想外の出来事が起これば、その安定は崩れるのもまた、世の常であったりする。
まず、廊下の方からドタドタと足音が近づく。
「いっけなー! ウチとしたことがー!」
次に、リビングの戸が三分の一くらい跳ね返るほど勢いよく開いて、ピコリが突入してきた。
「あ、やば……サバキ姉さんがいた……」
「……ピコリ、今日に限っては夜ふかししてもいいぞ」
「なんとも素晴らしきご寛恕、あざます!」
続いて、ピコリはソファの右端に立って、辺りをキョロキョロ。
「リモコンどこいったー。ねえダブル姉さんとワノ? リモコン知らない?」
「ちょっと黙ってくんないかなぁピコリ! 私、今は七番を撃ち落とすので精一杯なんだよ!」
「し、失礼しました……」
結局、ピコリはリビングを歩き回り、テレビのリモコンを自力で探した。
「灯台下暗しじゃん!」
ビリヤード台を置く際、特に考えずにどかされたためだろうか。テレビの裏に置いてあったリモコンを見つけた。
いよいよ、ピコリはテレビの電源をつけて、チャンネルを変える。
映し出されたのは音楽特番。
アニメソングにスポットライトを当ててランキングを組み、実際にそのアーティストに生演奏をしてもらう。という趣旨のものだ。
これにピコリは、自分の注目しているバンドが出ると睨んで、サバキに就寝時間破りを食らう覚悟で降りてきたのである。
チャンネルを合わせた時、ダイジェスト式にランク入りした曲が使われているアニメやPVのカットが映し出されていた。
「まだ四十位前だから、まだでてきてないよね? 第11話のときみたいに付けたときにはもう出番終わってたとかないよね?」
丁度良く、現時点でのランキングのリストが出てきた。だいたい、二十世紀のノスタルジー寄りのラインナップだった。
「よかった。急いで飛び起きて天井に軽く頭ぶつけて損した」
ここからピコリはソファに腰を降ろし、しっかり画面に向き合い、ランキングを追う。
「やっぱこの作品は強いかあ。挿入歌までランクインしてくるとか」
「おいワノ! よくもあんな面倒な位置に七番置いたな!」
「頑張ったほうっスよ、アタイ。さっきは後ろに十二番があったんスから」
もちろんこの間も、三人のビリヤードは続いている。
「ええ、このアニメの主題歌といったら一期でしょうに。ここは番組としての呼びやすさでランキング選んだでしょ」
「ねえ姉御。これは私への当てつけかなあ。どうして八番を十番と隣接させてるんだい?」
「知るか! 八番が勝手にそっち行ったんだよ!」
「あ、これこのアニメの曲だったの!?」
「「はーずーせっ!! はーずーせっ!!」」
「……うがっ、姉二人して盤外戦術とかイイんすか!?」
「うーん、一昔前のアニメ特集みたいに、セル画感満載の年代の作品が減ってるけど、代わりに露骨に子どもウケのいい作品が多いなあ。ウチの狙ってる枠出てくるのかな……」
ピコリはソファの肘当てを支えに頬杖をつく。そしてドジなことに接点が滑った勢いで横に倒れた。
体勢を戻したときの勢いと元気をそのままに、ピコリはソファそのものから立ち上がり、何か飲み物を取りに行く。
その途中、サバキが立ち塞がってこう言った。
「……ピコリ」
「は、はい」
「お前もお前でコメントがうるさい」
「はい、すみませんでした、姉さん」
「あと、もう少しあのビリヤードトリオに強く言えなかったのか?」
「それはあの様子からして、姉さんも無理だったじゃないですか」
「……すまない」
ピコリは冷蔵庫からコーラを用意して、ソファに戻った。
今のサバキには、大昔のように『夜中にそんな不健康なもの飲むな!』とも怒鳴る元気もなかった(※第6話参照)。
「あ! 一期の方が歌い始めてるじゃん! じゃあもうダメか……どうしてくれん……」
サバキが虚ろな表情で書類に手を付けている姿を見て、自分が見当違いな怒りを覚えたことに気づいたピコリであった。
「サバキ、可哀想なことに……」
*
数分後。
引き続きテレビには音楽特番が映っていたが、誰も真剣に観ている人はおらず、リビングのBGMに降格していた。
「「「はーずーせっ!!! はーずーせっ!!!」」」
「なんでアタイにだけこんなアウェー感強いんスか!?」
ピコリはランキングを見限り、姉たちのビリヤードに合流し、同じようにワイワイやっていた。
「……」
「……」
サバキとチヨは無言で、それぞれのものに向き合っている。
かれこれ数十分こんな状態にいるものだから、耳がすっかり慣れてしまったのだ。
(女子テニス部は『漫画単行本百八巻(※時期によっては一冊増えるかも知れません)』……流石に女子卓球部には漫画はいらんだろう……)
仕事へのイラつきは相変わらずだが。
ここでまた、リビングの戸が開いた。
今度現れたのは、イバラである。
(なんだイバラか、イバラは無口な方だから特に何かするわけでもなかろう。
……いや、このタイミングで来たというのだから、何か一波乱あるに違いない)
イバラは最短距離でキッチンへと行き、冷蔵庫の野菜室を開けた。
そこから半端に残ったレンコンや、ごぼうなどの野菜を取り出す。
それらをまな板に並べ、次々と平たい形にカットしていく。
ドンドンドンドン。と、包丁の音がすぐ側のダイニングテーブルに届いてくる。
(やはり始まった……)
だがこれくらいの不快度なら、前にいるチヨのタイプ音と同等。サバキは特に気にせず作業を続行する。
(茶道部は『茶碗×十』……だからそんなのあって何に……ああ、これはいるか。これは)
フライパンにサラダ油を張り、切った野菜をそこへ投下。
そこに含まれる水分によってバチバチとけたたましい音が鳴った。
音だけならよかった。先程の包丁と体感でのデシベルは変わらないからだ。
だが今の揚げ作業には、匂いも発生する。
油に浸かった野菜らが放つ香ばしい匂いのうち、換気扇が拾いきれなかったものがキッチン外へ広がっていく。
匂いの波はダイニングテーブルにへと浸透し、その範囲内にいたチヨとサバキの鼻に侵入した。
「……」
それにより、サバキの思考に『食欲』というノイズが膨らみ始めて、数字を追う目が鈍っていく。
そしてサバキは一旦椅子から立ち上がる。
フライパンの中の野菜を都度ひっくり返しているイバラに近づき、
「おい、イバラ……どうして急に料理なんか……」
と、いいかけたところで、イバラが空いた左手で拳銃を突きつけた。
「……わかった」
普段なら『人に銃を向けるな』とでも言ってやりたかったが、多忙に次ぐ多忙で、これ以上ツッコむ余裕もなく、サバキは素直にダイニングテーブルに戻る。
*
午後十時三十分。
サバキは全ての書類に指摘箇所を示すふせんを貼り終えて、ファイルに入れた。
「ようやく、終わった……」
達成感。その三文字が頭の中で輝き、サバキは目を覆う。
「これで寝れる……そして」
サバキがローテーブルの方を見るとあのビリヤード台には四人がまだいた。
何やら十四番がどうたらこうたら言っているが、今のサバキには内容をこと細かく拾う余力はない。
サバキがファイルをカバンにしまうと、向こうにいたチヨが笑顔を見せて来る。
「お疲れ様、サバキ。終わったみたいだね」
「ああ、ご覧の通り……母さんは?」
「実のところ言うと、もう三十五分前に終わってたんだよね」
チヨは自分のノートパソコンを百八十度回して、お笑い関係の動画が写った画面を見せた。
「え、じゃあ自分が終わるまで待っていたということか?」
「なんか先に行っちゃうのも悪いと思ってね」
「そうですか……それは本当に失礼しました」
「いいよ別に。ここに一人残したら、今以上に手が回らなくなるかもしれないから」
「ならよりすみません」
荷物をまとめ終え、あとはリビング中に『本当に就寝時間だ!』と、叫んで寝るだけとなったサバキ。
そこにイバラがやって来て、平皿を差し出した。
その上にはほんのり塩が香る、レンコンとごぼうのチップスがあった。
「これは、さっきから作っていたもの……だな」
「ざいこしょうひ……タイミングわるくて……ごめん……」
(言う通り、どういうタイミングで料理しているんだという話だがな……)
「ありがとう、イバラ。ではいただくぞ」
「あとあたしも」
二人はレンコンとごぼう、二種類のチップスをほぼ同時にいただいた。
「あ、ちゃんとチップスしてるね」
「元の素材の食感を残しつつも、ジャンクに仕立てている。流石はイバラだ」
「だろー、サバキ!」
「急に起きてくれてありがとね、イバラ!」
特に言えとも言っていないのに、ローテーブルの方にいたコーリンとピコリが感想を述べた。
ビリヤード台を少しどかして、もう一つのチップス皿がある。
(きっとピコリが一番に食べてほしかったからだろうが……結果あの三人も自分より先にいただいていたのは……どうも癪だな)
「あれ、サバ姐。そのカバンとテーブルの様子からして、もうお眠りっスか?」
「どうだった、夜ふかしの気分は?」
サバキはダイニングテーブルに置かれている、残りのチップスを一摘み。
味を楽しみつつ、言葉を整えてから、こう返した。
「どちらかと言えばよくは無い。だから、今日……いや、ここまでのことを考えて、今後、満月家の消灯時間は、午後十時にしよう」
それを聞くや否や、ビリヤードをしていた四人は一度手を叩いて、両拳を突き上げた。
空気を読んでイバラとチヨも、小振り気味に同じことをした。
「勘違いするなよ貴様ら! ユノスやネロアのような常識ある姉妹も起こしておいて、監視させるためだからな!」
多労のためか、睡魔のためか、勢い弱めに怒鳴ったサバキ。
それと、そんな娘の姿を横で見て、無音で笑うチヨであった。
余談。
翌日から、特に大きなイベントがなくて暇をしていた男子サッカー部、男子バレー部、女子テニス部が書類製作の援軍として来てくれた。
同時に『これまでのハイペースは何だったのか』と執行部員の半数に、サバキは責められることとなった。
【完】




