第154話 愛犬疾走、サバキの推理
とある平日の午後。
某所にあるそこそこ名門の私立高校『百式高校』。
そこの1-Aの教室では、五時限目の授業が行われていた。教科は『数学A』。
「余事象とは、求めている確率が出ない確率のこと。
例えば『サイコロを振って三が出る確率』を求める場合だと、六分の五が余事象になる。
これを使うと、場合の数さえなんとかなれば簡単に求めたい確率を逆算して求められるってこと。
これ基本。テストは覚えてること前提で作る」
昼休みと昼食を経ての血糖値の上昇と、堅苦しい授業の内容により、クラスの七割が睡魔と戦っていた。
(全く、けしからんな……)
余事象である、睡魔など歯牙にもかけない三割に身を置く一人、満月サバキは黙々とノートを取っていた。
それもそのはず、彼女はこの高校の現生徒会長を務めている。
意識せずともその責任感が、睡魔を近づかせないのだ。
ちなみに、同じクラスの妹であるワノも三割サイドにいた。
(これを上手く使えば後々の金稼ぎに活かせるっスね……)
彼女は動機こそあれだが、授業への興味で目を覚ましていた。
こうした悪い意味で穏やかな空気が流れる中、一人の生徒が声を上げた。
「ああっ! 校庭にわたあめが転がってる!」
「は?」
サバキが振り返った先は、窓際の列にいる女子生徒の席。
彼女は窓から校庭の方を指していた。
「ちょっとー、私の話を聞いてください。テスト困りますよー」
この不思議な発言を不思議に思い、他の窓際の生徒も、そちらを見る。
「うわ本当だ! わたあめだ!」
「雲みたいなのが歩いてる!」
「ホワイトドッグデース!」
すみやかに騒ぎを収めるために、先生も一応窓へ寄って、校庭を覗く。
すると先生も、目を丸くして言った。
「うおっ! これは奇跡的な確率だ! まさか本当に校庭に犬が迷い込むなんて!」
えー、どれどれ! と、1-Aの生徒のほとんどは、睡魔をはね飛ばして窓を見た。
サバキはしばし席に残った後、
「……全く」
空気を読んで、窓に近づく。
すると皆の言う通り、誰もいない校庭を、小さくて丸く、そしてふわもこな犬が元気に走り回っているのが見えた。
*
放課後、サバキは同じ部活の妹のユノスと一緒に、生徒会執行部の部屋……ではなく、教員用玄関に来た。
そこで、数時間前に校庭に迷い込んだ犬が、美品の虎柄ロープで作った即席のリードで、傘立てに結びつけられていた。
「ああ、待ってましたよ生徒会長」
ここで待っていた生徒会の顧問が、サバキとユノスに説明する。
「この犬ですが、先ほど警察署に電話してみたところ、まだ捜索依頼は来てないとのことでした」
ユノスは聞いた。
「あれ、かれこれ数時間経っていますよ?」
「はい。何かしら連絡はあったと思ってたのですが……」
元気に玄関のタイルを踏み鳴らす犬の首には、若緑色の首輪があり、そこについたタグには『五:マスジロー』の文字が刻印されてある。
そこから、飼い主がいるのは間違いなかったはずだ。
サバキは少し先回りして尋ねた。
「となると、誰かがこの犬を然るべきところに届けないといけないわけですか?」
「はい。というわけで生徒会長をお呼びしたわけです」
やっぱり。
二人の頭には同じ四文字が浮かんだ。
「急な頼みで申し訳ないのですが、今日は外に出て、この犬をお近くの交番に届けていただけませんか?」
二人は同時に「「はい」」と返事した。
断る理由はない。
生徒会長だから、先生に頼まれたことを断るのは言語道断……というわけでもない。
先月、文化祭を終えたばかりで、部室に戻っても緊急性の高い仕事はない。書類のホチキスなどの雑務がかろうじてあるだけだからだ。
その後、サバキはユノスと一緒に、マスジローと名の付いた犬を連れて、校門を出た。
「あれ、犬が犬の散歩してるっスけど、どういう冗談スかこれ?」
そこで二人は、姉妹のワノとばったり出会った。カバンを背負っていたので、このまま最寄り駅に行くところだったのだろう。
サバキは自分たち三人がいないことを確かめたあと、光学迷彩機能を解除して、自分の頭の上から耳を出す。
「よくない冗談だな、貴様」
そしてすぐに元通り、透明化した。
サバキは異世界『ギアニマル』に転生した際、柴犬の獣人となっている。
なので、先ほどのように外では透明化しているが、本来は犬の耳と尻尾が生えている。
ちなみに犬耳の方は耳たぶだけで、聴覚器官のある人の耳も生えている。
「で、どうして犬の散歩してるんスか、サバ姐。この犬、あの数学のときにいたヤツっスけど」
ユノスが気を使って先に答えた。
「生徒会のお仕事。先生から警察に届けにいってくれって頼まれたの」
「ちなみにワノ殿はなぜここにいる。バスケ部はどうした」
「アタイの部活は今日お休みっス。顧問が出張スから、余程用がないヤツは来なくていいって感じで。
でもって、お勤めご苦労さまっス。お二人さん。いやあ生徒会は偉いっスね、面倒事もしてくださってっスー」
サバキはキッパリと言った。
「いや、違うぞ」
「いやいや、アタイは本質を言ってるんスよ。こんな学校と関係ないことを先生に丸投げされてるんスから」
「それはそうかもしれんが……そっちじゃない。
自分が言いたいのは、警察に届けにいくことの方だ」
「え、どうするのサバキお姉ちゃん?」
ユノスが珍しがったのは当然だった。真面目なサバキのことだから、この社会の形式に則り、警察を頼るのかと思ったからだ。
しかし同時に、ユノスは彼女が何をしようとしてるかも薄々察していた。
「自分が飼い主を探しに行く。この犬は警察にも届け出がなかった。となると、飼い主になにか問題があった。あるいは、『ある』のだと推測している。
だからこのマスジローは、自分がどうにかする」
と、サバキは自信満々に言ってのけた。
それを見てワノはニヤリと笑う。
「ははん、断退警察のお出ましっスか」
サバキは異世界『ギアニマル』で、断退警察という、悪の魔法使いに対処する特殊国家組織に属していた。
「訓練や実務で培った推理能力を駆使して、この犬の問題を直接解決する。というのが自分の……」
「ああ! マスジローが!?」
サバキが持っていたリードの先から、マスジローが消えた。
元々、学校の備品のロープを使った即席のものだったので、結び目がほどけたのだ。
そしてマスジローは今、歩道を全速力で駆け、横断歩道に向かっていた。歩行者信号は完全に『赤』だ。
サバキは即座に無言で地面を踏みしめ、横で走る車にも負けないほどの速度で、横断歩道へ向かう。
最中、サバキは両人差し指をマスジローに向けた。
するとマスジローが車道に出る寸前で、地面に張り付いたように急停止した。
サバキは両腕に、ナノマシンによる任務を便利にする装備をはめている。
これには『ルマ』というゲル状の物質を精製・射出する機能がある。
これをほんの微量だけ放ち、マスジローの足裏に貼り付けたのだ。
「……というのが、自分の務めだ」
「なるほどっスね。犬が犬の散歩してるっていう冗談のためだけじゃなくて、ちゃんと合理的な理由があったっスね」
この後、サバキとユノス、それと『家帰ってもやることないんで』と勝手についてきたワノの三人はマスジローを連れて、学校から一番近い公園に来た。
あわよくばここに散歩に来ていた飼い主に会えないかと思ったのもあるが、一番の目的は『推理』だった。
サバキはマスジローの身体に両手をかざし、マシンの分析機能で調べ上げていく。
「年齢は二歳程度。体重は十.七キロ。性別はメス。肝心な犬種は……『ビション・フリーゼ』」
「見た目もさることながら、おしゃれな犬種名っスね」
ユノスはスマホのブラウザで、『ビションフリーゼ』と打ってから、
「名前の由来はフランス語で『巻き毛のマルチーズ』。人懐っこい陽気な性格。この特徴的なモフモフ毛は抜けにくいんだって」
「なんかよく小金持ちの奥さんが連れ歩いてるイメージっス。
アタイ、急ぎの用事で街中走ってた時、十字路の横から飛び出してきたコイツを蹴りそうになったことあるっス」
「どういうエピソードトークなの、ワノ?」
マスジローが、仮のリードへの噛みつきに夢中になっている間、サバキはさらに分析。
「首輪の素材は、表向きは合皮だが、首が当たる裏側はシルク製……オシャレと犬への負担に気を使った高級品だな。となると飼い主はそれなりの成功者ということだろう。
首のタグはアルミ製……チップなどは仕込まれていない。
首裏にはリングが一つ。リードに接続する部分だろう」
続けてサバキは、マスジローの身体を撫でる。
「匂いの主成分は犬用シャンプー。まあ、この白い毛並みを維持するには必要不可欠だろうな。
身体のあちこちには、他の犬種の毛が混じってる。大勢の犬がいるところにいたのか」
サバキはポケットにある自分のスマホに右手を伸ばす。
その寸前、ユノスが言った。
「ここから六百メートルくらい先に、ドッグランが一つあったよ」
サバキはユノスに右手でグッドサインを送ってから、「失礼するぞ」マスジローの足に手をかざした。
「人工芝の成分が残っている……ビンゴ」
そしてサバキは、マスジローから二人に近づいて、
「恐らく飼い主はドッグランに行っていた。そこを洗うぞ」
「ハイテク推理の割には、思ったよりも陳腐なとこに行き着いたっスね。サバ姐」
「そういう結論が出たのだから仕方がないだろうが、ワノ!」
というわけで、三人と一匹は近くのドッグランへ向かうことに。
しかしその道中、マスジローが何でもない道路の脇で、片方の後ろ足をあげた。
サバキは眉をひそめて行った。
「……やると思った」
幸い、ユノスが一応持ってきていた通学カバンに、ミネラルウォーターを入れていたので、それを撒いて、再び歩き出す。
しかしさらに、マスジローが急に途中停止し……何事もなかったように歩き出した。
「……ユノス。何か袋はないか」
「ごめん。それはない。サバキお姉ちゃんは?」
「ない。エコバッグはあるが……たかがこの程度のサイズのものに……そうだ、ワノは?」
ワノは近くにチャネルバットを召喚し、その口にあるブラックホールから、トングと小さめの紙袋を取り出した。
「合計、四四〇円になりまっス」
「……割り勘する? お姉ちゃん?」
「……そうしよう。こんなくだらないとこで誠意を出したくない」
こんなことが起こりつつ、一行はドッグランにたどり着いた。
付近には高層マンションが立ち並び、人間の子供が遊ぶ巨大遊戯もある公園も併設された、いかにも敷居が高めの施設だった。
「ここならマスジローの飼い主もいそうっスね」
「とりあえず、受付の人に聞いてみよう」
このドッグランは屋外で緑の鉄網フェンスで囲われている。
唯一の出入口は、犬が逃げ出さないように二重戸で閉ざされていて、受付の人が立つ三面ガラス張りのボックスが備え付けられている。
サバキたちは外側から、スタッフに声をかけようとした。
しかしスタッフは、ドッグランのある内側へ向いていた。
「お宅はどんなセキュリティをしてるんですか! 人様のペットをなんだと思ってるんですか!」
「はい、はい、重々承知しております」
「だったらさっさと私のワイパーちゃんを見つけなさいよ! スタッフ総出で!」
「はい、すみません……」
モンスターじみてキレている、洗練されたデザインの服装からしていかにも高飛車そうな女性に説教されていて、とても外側のサバキに気づきようがなかった。
「典型的なカスタマーハラスメントだね」
「人によっては、自分が産んだ子供と同じくらいの価値があるかもしれないのだ……そっとしてやれ、ユノス」
「ていうか、ワイパーってどういう名前スか」
「そこもそっとしてやれ、ワノ」
偶然か否か、足元のマスジローがハッハッと息を漏らしつつ、頭を上下させた。
と、その時、
「あれ!? もしかしてワイパーちゃん! どうしてそんなところに!?」
さっきまでスタッフに怒号を浴びせまくっていた女性が、そこに指先を向けた。
「早く、扉開けて! 両方とも開けて!」
「は、はいぃ!」
スタッフは手元の装置で二枚の戸をスライドして開ける。
女性は突き抜けるようにそこを通り、満面の笑みで両手を広げた。
その直前、サバキが立ちふさがる。
「待て貴様! この子はワイパーではない! マスジローだ!」
女性は広げた両手を腰元に当て、先ほどスタッフに見せていた形相に戻る。
「はぁ!? この子は紛れもなくワイパーちゃんよ! この毛並みのふわふわ具合と、愛くるしいくりくりお目々は!」
「それ、だいたいこの犬種の共通部分っスよね」
「しっ、ここは逆撫でしないでワノ」
「それはビション・フリーゼの共通の特性だろうが。なぜこれが貴様の言うワイパーと言い切れる」
結局お前が言うんかい。ユノスとワノは内心ツッコんだ。
「それ以外にも細々とワイパーちゃんだもの! 詳しく言うと……ええと、ええと……言葉にしづらいけど、いつも家で見てるウチのワイパーちゃんだもの!」
サバキはマスジローを小脇に抱えて、首輪のタグを、日光の反射で光らせる。
「じゃあこのタグはなんなのだ! マスジローと名前が書いてあるのはどうしてだ!?」
すると女性は数歩下がって、とぎれとぎれに言った。
「は、はあ!? 私、そんな成金ぶった首輪つけさせてないし、ジジババ臭い名前つけないわよ! というより……」
女性は提げていたカバンから、水色の首輪とリードを取り出す。
「こっちがワイパーちゃんの首輪ですけど!」
「は……どういうことだ!?」
「え……どういうことなの!?」
「な……どういうことスか!?」
目を点にする三人へ、女性は叫ぶ。
「私が聞きたいわよ!」
「あ、私も聞いておきたいです……」
加えて、スタッフベースにいる人も、小声で言った。
女性は首輪とリードを手元でブンブン振りながら、まくし立てて言った。
「ここ入って、ワイパーちゃんが窮屈しないように首輪外してたの! それがこれ!
で、私がメール返信とかで忙しかった後、周りを見渡したらワイパーちゃんがドッグランからいなくなってたの!
だからコイツに監督責任詰めてたの!
改めて言うけど、どうして逃がしたのよアンタ!」
「はい、申し訳ございません……私の不注意です」
時間経過でほんの少し元気を取り戻していたスタッフが、またしおれた。
「でもってあなたたち! なぜあなたたちがワイパーちゃんを連れてるの!? しかも悪趣味な金持ちが使いそうな首輪つけさせて!?」
(ボクたちが聞きたいよそれ)
(アンタも中々のいけ好かない度っスよ)
ここはサバキが代表して伝える。
「自分たちはこの近くにある百式高校の生徒で、自分はそこの生徒会長になります。
授業中、このワイパーちゃ……」
「飼い主でもないアンタが気安く名前を呼ぶな!」
「……ワイパー殿が、校庭に迷い込んできました。
それで自分たちは、飼い主の元に届けようと、ここまで参りました」
「ほおん」
と、台詞か、ただの息か判別が難しい相槌を打った後、女性はスタッフへ向く。
「でもって何でこんなことしてくれるわけ! アンタは動物に対する愛とかはないの!?」
「はい、はい、おっしゃるとおりです……」
女性は愛犬の失踪未遂と、スタッフへの義憤で、頭が混乱し切っている。
このままではスタッフが疲労困憊でへし折れるか、女性以上に爆発する恐れがある。
そう感じたサバキは、断退警察としてのスキルを見せることに。
「わかりました。では何故貴方の愛犬がここにいるか推理してもよろしいでしょうか?」
「はぁ、何で!」
「何でどうしてこうなったかもわからなければ、貴方も納得いかないでしょう。誰がどれだけ悪いかを分別した上で、一通り怒ってください。頼みます、建設的にいきましょう」
「……どうせこのドッグランの怠慢だと思いますけど」
女性は不服そうに、投げやり気味に言った。
サバキは外側の金網フェンスに両手を置いて、まずスタッフに確認する。
「先程拝見しましたが、この戸二枚はそちらの機械で操作するのですよね?」
「はい、こちらからボタンで操作しています。先程は同時に動かしましたが、内側と外側を別々に開け閉めすることもできます」
予想通り、犬の逃走防止の構造だ。
まず飼い主と犬が内側の戸を通り、間にあるスタッフベースで退園手続きをした後、外側の戸を開けてもらって園外に出る。そのための二重戸だ。
「言うまでもありませんが、犬単体で通すことはありませんね?」
「はい。飼い主様だけでも通しません。入園時、飼い主様の名前と匹数をこちらで記録してますので、ちゃんとセットでいなければ出られないようにしています」
「ご丁寧にどうも。
と、すれば、このワイパー殿は、飼い主様が見えていないのに、誰かの退園のタイミングに紛れて、この二重戸を突破した可能性が最も高いです」
ユノスはスマホを見つつ補足する。
「ビション・フリーゼは『ビション・ブリッツ』っていう急に動き回る習性があるらしいからね」
ここで女性が一度足元にワイパー殿がいないことを確認してから、地団駄を踏む。
「それこそありえないでしょう!? 退園手続き中に別な犬が紛れ込んでいたら、そこにいた飼い主か、コイツが気づくでしょう!」
コイツ……スタッフもここに限っては首を縦に振る。
「先の通り、犬の数は数えて記録、照合しています。もし別の犬が紛れ込んでいても、ドッグラン内に戻すようにしてます」
戸と戸の間の空間はざっと四×四メートルほど。スタッフベースからすると、見落としに至りそうなところもない。
「って、思いきし反論されてますけど、いかがっスか、サバ姐」
「心配ない、ワノ。まだ私の推理に続きがある」
ちょっと失礼。と、女性とワイパー殿に断ってから、後者に付けてあった首輪を外す。
そこについたタグを女性に見せつつ、サバキは言った。
「『五:マスジロー』とありますね。ここで肝心なのは、『五』と書いてあることです。
この数字は変化する年齢、体重、身長などではなく、識別番号かと」
「識別番号……何その、同じのが何匹もいるみたいな?」
「恐らくそうだと思います。この首輪の持ち主は、多頭飼いをしていた。
軽く調べたところ、あちこちに他の犬の毛も何種類か見られましたという根拠もあります」
「へぇ、でも、番号まで振る必要なくないですか?」
「普通ならそう、名前だけで十分でしょう。
次に大事となるのは、この首輪の素材。これは合皮とシルクの組み合わせで、大変高価な代物です。
最低でも五匹も多頭飼いしている犬それぞれにこれをつけるとなると、かなりのお金持ちでしょう。
となると、それくらいいけば、ドッグランで運動させる分には、ペットシッターを使うかと思います」
サバキは少し首輪を振り、タグを揺らす。
「だから飼い主がペットシッターを困らせないように、この識別用のタグをつけていたのです。ご丁寧に名前だけでなく番号まで振って」
情報はだいたい揃った。
サバキは現時点でのワイパー殿逃亡事件の全容の推測を披露する。
「まず前提として、ペットシッターが貴方と同様、苦しくないように首輪を外していたとします。
ペットシッターが退店手続きする前に、犬たちに一匹一匹首輪をつけている間、ワイパー殿が紛れ込みます。
その際にペットシッターが誤ってマスジローの首輪をつけてしまいます。
内戸を通り、ペットシッターが退店手続きをします。
そして外戸を開けてもらったところで、数匹がワチャワチャしたせいか、ワイパー殿が拒んだのか、はたまたペットシッターの装着が甘かったのか知りませんが、リードが外れて、ワイパー殿が猛ダッシュで逃げてしまった。
……というのが、自分の意見です」
これを聞いて、彼女の横のユノスとワノは、断退警察の底力に圧倒されてうなり、
「まあ、それなら筋は通るかも……」女性も頭ごなしの否定を止めた。
と、ここでスタッフが手を挙げる。
「でしたら、この子が本当のマスジローなのかもしれません!」
スタッフは一同をブースのすぐ側に来るように呼び込んで、足元にあるケージを見せた。
そこにはもう一匹のビション・フリーゼが。
「さっきの話を聞きながら、入退園のリストを再確認していました。それで思い出しました。
三十分前に犬十匹連れた飼い主様が退園手続きにいらっしゃったのですが、その間際に『一匹足りない!?』と慌てふためきました。
この子は飼い主様と数匹が去った後、二枚戸の間でおすわりして待っていました。
この子が足りなかった子ではと思って呼びかけたのですが、反応がなかったので……それでついさっきまで、この方のペットではと思っていたのです」
ユノスはスマホで検索した内容をつぶやく。
「『ビション・フリーゼは聞き分けがよく従順なほう』……ペットシッターさんにリードされてなくても、ついていってたんだろうね」
この後、サバキたちと女性は、ドッグラン内で九匹の犬とともに途方に暮れていたペットシッターを発見し、このややこしい事情を説明して、本物マスジローを返してあげた。
サバキはペットシッターに泣かれるほど感謝され、女性からも、意固地具合が残りつつも褒めてくれた。
また、これは至極細かい話だが、ペットシッターが世話を引き受けていた十匹の犬は全員、維新の十傑から名付けられていた。
マスジローはその内の一人、大村益次郎から取られていたという。
それから、サバキたち三人は、起こったことの報告をするため、学校へと歩いて戻る。
「いやあ、たまにはいいことしてみるもんスね」
「ワノは特に何もしてなかった気がするよ?」
「したっスよ、ユノ姐。ほら、トングと紙袋渡したじゃないスか」
「自分たちから四四〇円せびってな……」
「まあまあ、そのへんは尊き犠牲ってことでよろしくっス。いいじゃないスか、人の役にたって気分良くなればいいじゃないスか」
「そうか。じゃあ、このあとすぐよろしくな」
「?」
この後、ワノが生徒会の現在のメイン業務である、資料のホチキス留めを手伝わさせられる羽目になったのはまた別の話……
【完】




