第4話(中編1)――「蒙古軍の帳簿を握る女」
1223年9月下旬。
交易商人に姿を変えた倉達也は、茶、絹、薬材、陶器を積んだ商隊を率いて北へ進む。
目的は、やがて南宋へ攻め込んでくる蒙古軍の実態を、自分の目で確かめることである。
達也が特に注目したのは、蒙古軍の驚異的な機動力を支える軍馬、補給、伝令だった。
蒙古勢力下へ入った達也は交易を通じて軍の補給へ近づき、1000人規模の兵を動かす蒙古将阿爾布罕と知り合う。
そこで出会ったのが、阿爾布罕の妻耶律玉蘭だった。
28歳の玉蘭は美しいだけの妻ではない。
漢語、契丹語、女真語、蒙古語を使い分け、夫の軍の帳簿や交易、軍馬の管理にも関わっている。
蒙古軍の強さを内側から知り、その弱点にも気付いている女だった。
(1223年9月下旬、金領北部へ向かう街道)
倉達也の商隊は、荷車を連ねて北へ進んでいた。
達也は徐州を通過した際、城壁の修理、兵糧の備蓄、宿州との中継地、市場の状況について現地の将から報告を受けた。
「金軍の大軍が来るまでは、こちらの命令を待つ必要はありません。決めた方針どおりに進めてください」
それだけ告げ、長居はしなかった。
徐州を守るために来たのではない。
そのさらに北を見るために来たのである。
徐州を離れて日を重ねるほど、街道の様子は変わっていった。
南では荷車、農民、行商人が絶えなかったが、金と蒙古が争った地域へ入ると人影が減った。
焼けた家が残る村もある。
畑は実りの時期を迎えているのに、刈り取る者がいない土地もあった。
街道の脇には壊れた荷車が放置され、車輪や車軸だけ持ち去られた物もある。
達也は周囲を眺めながら、地面にも目を向けた。
蹄の跡。
馬糞。
踏み荒らされた草。
井戸や小川の周囲に残る足跡。
何百頭もの馬が動けば、軍勢そのものを見なくても痕跡は残る。
護衛の男が尋ねた。
「何をご覧になっているのでございますか」
「馬です」
「蒙古兵は見えておりませんが」
「見えないから分かることもあります」
達也は街道脇の草地を示した。
「ここだけ草がかなり食われています」
「確かに短くなっております」
「馬を長く置いたのでしょう」
少し先には浅い流れがあった。
水際の土は泥になり、無数の蹄で踏み固められている。
「かなりの数ですね」
護衛が言った。
「数十頭ではありません」
「100頭以上でしょうか」
「そこまでは分かりません」
達也は無理に数字を出さなかった。
「ただ、蒙古軍を見る時に兵の人数だけ数えても意味はありません」
「馬も数えるのですか」
「兵1000人なら馬1000頭だと思わない方がいいでしょう」
護衛が水場へ目を向けた。
「何頭持っているのでしょう」
「それを調べに来たのです」
達也は馬を進めた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、一行は小さな宿場へ着いた。
往来する商人は少なかったが、北から毛皮や馬具を運んできた者が数人泊まっていた。
達也は宿の主人へ銀を払い、荷車を中庭へ入れさせた。
馬へ水と草を与え、自分たちも夕餉を取った。
食堂では北から来た毛皮商人が酒を飲んでいた。
達也は近くへ座った。
「北は商売になりますか」
男が達也を見た。
「品による」
「茶を持ってきました」
「茶なら売れる」
「蒙古兵にも?」
「兵も買うが、将のところへ持っていけばもっと値がいい」
「絹は?」
「売れる」
「陶器はどうです」
「軍営だけなら大したことはない。女や家族がいるところなら売れる」
達也は男へ酒を勧めた。
「蒙古軍は商人を通すのですか」
「勝手に軍営へ近づけば捕まる。だが、決められたところで商売するなら話は別だ」
「金の関所と比べてどうです」
「場所によるな」
男は酒を口へ運んだ。
「金は関所を通るたび銭を取る。蒙古は将へ話を通せば、その先までまとめて通してくれるところもある」
「誰へ話を通せばいいのです」
「この先なら阿爾布罕だ」
達也は初めて聞く名を覚えた。
「偉い方ですか」
「1000ほど兵を動かしている。この辺りの交易も、あの男へ話を通した方が早い」
「商人嫌いでは?」
「逆だ」
男は笑った。
「戦をするにも物がいる。茶、布、薬、鉄、塩。蒙古人だから何も買わないと思ったら大間違いだ」
「それなら話はできそうですね」
「ただし、品をごまかすな」
「阿爾布罕という方は厳しいのですか」
「本人より妻の方が厳しい」
達也は酒杯を置いた。
「奥方が商売を見るのですか」
「ああ」
「蒙古人の?」
「いや、契丹人だ」
男は声を少し落とした。
「耶律玉蘭という」
耶律という姓を聞けば、契丹人だと分かる。
「帳場を見る奥方ですか」
「それだけじゃない。漢語も女真語も蒙古語も話す。契丹語は生まれた時からだ。商人が何を言っても大抵分かる」
「随分便利な奥方ですね」
「便利などと言ったら怒られるぞ」
男は笑った。
「頭がいい。それに美人だ」
「それはぜひお会いしたいですね」
「そちらが先か」
「両方です」
「やめておけ。阿爾布罕の妻だぞ」
「見るだけなら首は落ちないでしょう」
「お前の目つき次第だな」
達也も笑った。
「夫婦仲はどうです」
男が達也を見た。
「本当にそっちを狙っているのか」
「美人だと聞けば気になるだけです」
「阿爾布罕は妻を信用している。軍の物を買う時にも玉蘭へ相談する」
「それなら仲が悪いわけではなさそうですね」
「悪くはない」
男は少し考えた。
「ただ、玉蘭は蒙古人になりきった女ではない」
「どういうことです」
「行けば分かる」
男はそれ以上話さなかった。
達也も無理には聞かなかった。
蒙古将の妻。
4つの言葉を使う。
交易、帳簿、軍の物資に関わる。
夫から信用されている。
しかも美人である。
名前を覚えておくには十分だった。
翌朝、達也の商隊はさらに北へ進んだ。
◇ ◇ ◇
2日後。
街道の先に騎馬の一団が現れた。
20騎ほどだった。
全員が弓を持ち、鞍の左右に矢筒を付けている。
商隊の護衛が武器へ手を伸ばしかけた。
達也は止めた。
「武器へ触らないでください」
「蒙古兵でしょうか」
「おそらく」
騎兵は左右へ広がり、商隊を半円状に囲んだ。
先頭の男が蒙古語で何かを告げた。
同行している北方商人の劉全が前へ出た。
劉全は金領と蒙古勢力下を何度か往来しており、交易に必要な程度の蒙古語を使える。
騎兵の男と何度か言葉を交わしたあと、劉全が振り返った。
「荷を見せろと言っています」
「見せてください」
荷車の覆いを外した。
茶、絹、薬材、陶器が現れた。
蒙古兵の1人が茶箱を開け、そのまま泥の付いた手を入れようとした。
達也が声をかけた。
「待ってください」
兵が達也を見る。
劉全の顔が強張った。
「旦那、余計なことは言わない方が」
「売り物です。汚されれば値が下がります」
「相手は蒙古兵ですよ」
「だから何です」
「旦那……」
「通訳してください」
劉全は仕方なく伝えた。
兵の顔が険しくなった。
達也は自分で茶葉を一つかみ取り、相手の前へ差し出した。
「確かめるなら、こちらを」
劉全が訳す。
蒙古兵は達也を見たあと、差し出された茶葉を受け取って匂いを嗅いだ。
後ろの兵たちが笑った。
「何と言っています」
「商人のくせに威勢がいい、と」
「売り物を粗末にする商人よりはましでしょう」
「それも訳すのですか」
「お願いします」
劉全は嫌そうな顔で訳した。
先頭の蒙古兵が笑った。
怒ってはいなかった。
荷を一通り確認すると、一行についてくるよう命じた。
「どこへ行くのです」
「交易所です。おそらく阿爾布罕のところでしょう」
「ちょうどいい」
劉全が達也を見る。
「旦那は怖くないのですか」
「私たちは商人でしょう」
「そうですが」
「なら、商売をします」
達也は平然としていた。
向こうから目的地へ連れていってくれるのであれば断る理由はなかった。
◇ ◇ ◇
蒙古軍が利用している交易所は、城壁を備えた大都市ではなかった。
金の時代からあった小さな町の外側に軍営が広がり、その周囲へ馬を置く柵や物資の集積場所が作られていた。
達也は荷車から降りると、商人らしく周囲を眺めた。
最も目立つのは馬だった。
柵の中に何十頭。
その先にも別の柵がある。
鞍を外されて草を食べている馬もいれば、鞍を置いたまま、すぐ乗れる状態でつながれている馬もいる。
達也は足を止めなかった。
露骨に数えれば怪しまれる。
馬を買う商人が値踏みするように、歩きながら見るだけにした。
脚。
胸。
背。
蹄。
汗。
鞍の擦れ。
何頭かは長い距離を走ってきたらしく、汗の跡が残っていた。
ところが、そのすぐ近くには疲れていない馬が何頭もいる。
達也はそれだけで十分だった。
蒙古兵は同じ馬を乗り続けているのではない。
疲れれば替える。
だから速い。
さらに軍営を見ると、宋軍とは荷の持ち方も違った。
兵糧を満載した荷車が長く並んでいない。
その代わり、馬と家畜が多い。
羊の群れも見える。
干した肉の袋を積んだ馬もいた。
兵士自身の荷も少ない。
報告書に「蒙古軍は速い」と書かれているだけでは分からないことだった。
速いのには理由がある。
荷を減らしている。
馬を替えている。
兵糧の一部を家畜のまま連れている。
達也は頭の中へ入れた。
ただし、同時に弱点も見えていた。
馬が多ければ、それだけ水がいる。
草もいる。
替えの馬まで含めて移動すれば、馬を休ませる場所も必要になる。
馬の力に依存する軍であれば、馬を自由に使えなくなった時の影響も大きい。
山、湿地、狭い道、渡河。
草の乏しい土地。
水場を押さえられた地域。
平原とは条件が変わる。
達也は表情には出さなかった。
まだ仮説にすぎない。
これから確かめればよい。
商隊は交易用の天幕の前で止められた。
中から大柄な男が出てきた。
40歳前後。
肩幅が広く、髭を短く整えている。
腰には刀を下げていた。
先ほどの騎兵が男へ報告した。
劉全が達也へ告げた。
「阿爾布罕です」
達也は商人として礼をした。
阿爾布罕は漢語で尋ねた。
「南から来たのか」
発音には癖があったが、十分聞き取れる。
「江南から参りました」
「名は?」
「倉大業と申します」
本名に近い音を使った。
呼ばれた時に反応を誤らないためである。
「何を持ってきた」
「茶、絹、薬、陶器です」
「鉄はないのか」
「今回はございません」
「塩は?」
「少量だけです」
阿爾布罕は荷車を見た。
「茶を見せろ」
達也は上等な茶と普通の茶を1箱ずつ開けさせた。
阿爾布罕が茶葉を取る。
「高い方はいくらだ」
達也が値を告げると、阿爾布罕は笑った。
「高すぎる」
「江南からここまで運んでおります」
「途中で盗まれなかったのだから、十分儲けているだろう」
「盗まれないために護衛へ銭を払っております」
阿爾布罕が達也を見る。
「値を下げろ」
「量によります」
「全部買えば?」
達也は荷の量、仕入れ値、輸送費を頭の中で計算した。
少し利益を残した値を出す。
阿爾布罕の眉が動いた。
「帳面を見ないのか」
「自分の荷の値を覚えていない商人を信用なさいますか」
阿爾布罕は声を上げて笑った。
「気に入った」
「でしたら買ってください」
「まだだ」
阿爾布罕は天幕の奥へ向かって蒙古語で何かを呼びかけた。
しばらくして、1人の女が出てきた。
達也は宿場で聞いた女だとすぐ分かった。
年齢は20代後半。
長い黒髪を編み、耳の後ろへまとめている。
衣服は蒙古風だが、飾りは多くない。
女としてはやや背が高く、腰帯の締まった衣装が身体によく合っていた。
白い肌。
切れ長の目。
整った鼻筋。
はっきりした唇。
美しい女だった。
達也はそれを認めたうえで、女の動きを見た。
玉蘭は夫へ蒙古語で何かを尋ねた。
阿爾布罕が茶箱を指す。
玉蘭はすぐ箱へ近づき、茶葉を指で取り出した。
色を見る。
匂いを確かめる。
さらに別の箱を開けた。
「江南のどこから仕入れたのですか」
漢語だった。
発音も自然である。
「臨安です」
「すべてですか」
「茶は主に臨安でまとめました。絹は別の土地から入った品もございます」
玉蘭は茶葉をもう一度見た。
「この茶は臨安だけで作られた物ではありませんね」
達也は笑った。
「お分かりですか」
「茶を知らないと思いましたか」
「試しただけです」
玉蘭の眉が動いた。
「商人が買い手を試すのですか」
「値の分からない相手には、高く売れますから」
阿爾布罕が大声で笑った。
玉蘭は夫を一度見たあと、達也へ向き直った。
「では私は、値の分かる相手だと思ってください」
「承知しました」
「私は耶律玉蘭です」
「倉大業です」
「先ほど聞きました」
玉蘭は箱の上の茶だけではなく、底の方まで確かめた。
「良い茶を上だけに入れる商人がおります」
「おりますね」
「あなたはしない?」
「次も売りに来たいので」
「次があると思っているのですね」
「今日追い返されなければ」
玉蘭が初めて笑った。
その笑顔を見て、達也は改めて美しい女だと思った。
だが、強く興味を持ったのはそのあとだった。
玉蘭は薬材の箱へ移った。
「これは何に使いますか」
「熱を下げる薬です」
「こちらは?」
「腹を壊した時です」
「馬にも使えますか」
「それは人向けです。馬ならこちらです」
達也は別の包みを出した。
玉蘭は包みを開いた。
「1頭へ使う量は?」
達也が指で量を示した。
「この程度です」
「50頭なら?」
達也はすぐ答えた。
玉蘭も頭の中で計算していたらしく、同じ数字を口にした。
2人の答えが一致した。
達也が言った。
「計算がお速いですね」
「あなたも」
「商人ですから」
「私は商人ではありません」
「では何をなさっているのですか」
玉蘭は阿爾布罕を見た。
「この人の妻です。そして、この人が使う物が足りているかを確かめています」
阿爾布罕が笑った。
「俺は戦う。玉蘭は数える」
玉蘭はすぐ夫へ言い返した。
「数えるだけなら、あなたが自分でなさればよいでしょう」
「俺にはできん」
「できないのではなく、しないのでしょう」
「お前がやる方が早い」
「そう言って、何でもこちらへ回すのです」
阿爾布罕は笑っていた。
玉蘭は本気で怒ってはいない。
しかし達也は別のことに気付いた。
阿爾布罕は妻の能力を信用している。
その一方で、玉蘭が考えていることまで同じように重んじているとは限らない。
達也は尋ねた。
「軍の買い物まで奥方が見ておられるのですか」
玉蘭が答える前に、阿爾布罕が口を開いた。
「こいつは数字を忘れん」
「便利ですね」
「便利どころじゃない」
阿爾布罕は妻を指した。
「漢人は漢語で話す。女真人は女真語だ。北から来る者は蒙古語を使う。大抵こいつが聞く」
「全部ではありません」
玉蘭が訂正した。
「俺より聞ける」
「あなたが覚える気がないだけです」
達也は玉蘭へ尋ねた。
「蒙古語も話されるのですね」
「夫と暮らして7年になります」
「それなら軍の言葉もかなり?」
玉蘭は達也を見た。
「商人には必要のないことです」
達也はすぐ引いた。
「失礼しました」
簡単には口を滑らせない。
それも気に入った。
美しい。
頭もいい。
蒙古軍の内部に7年いる。
補給を知っている。
軍馬を知っている。
4つの言葉を使う。
夫は1000人規模の兵を動かす立場にあり、その夫から信用されている。
南宋へ連れ帰ることができれば、蒙古軍について教えられることは非常に多い。
ただし、今はまだ玉蘭自身について何も分かっていない。
夫婦仲。
蒙古に対する考え。
契丹人としての立場。
何を望んでいるのか。
南へ行く気があるのか。
それはこれから調べればよい。
軍事上の価値だけでも十分だった。
そのうえ美人である。
達也にとって、この2つを別々に考える必要はなかった。
◇ ◇ ◇
商談は長引いた。
玉蘭が値を細かく削ったからである。
「この薬は高すぎます」
「南ではこの値です」
「ここまで運ぶ費用を足しても高いです」
「では、もっと安く買えるところがあるのですか」
「真定府から来る商人なら、もう少し安い」
「品質が同じなら、そちらから買うべきでしょう」
玉蘭が達也を見る。
「そこで引き下がるのですか」
「安い方が同じ品質なら、私から買う理由がありません」
「随分あっさりしていますね」
「ただし」
達也は薬包を開いた。
「こちらは十分に乾いております。湿気も入っていません。安い薬を買って半分傷んでいれば、結局高くなります」
玉蘭は薬材を指で折り、内側を確かめた。
「それは認めます」
「量をまとめていただければ、値も下げます」
「50頭分なら?」
達也は値を答えた。
「100頭分なら?」
さらに下げた値を答える。
「200頭分なら?」
達也は一瞬だけ考えた。
そして値を示した。
余計な質問はしなかった。
玉蘭が自分から200頭という数字を出した。
それだけ覚えておけばよい。
この軍に馬が200頭しかいないという意味ではない。
むしろ、馬用の薬だけで200頭分をまとめて検討できる程度には、多数の馬を扱っているということだった。
「その値なら考えます」
玉蘭が言った。
「ありがとうございます」
「何も聞かないのですね」
達也が玉蘭を見る。
「何をです」
「200頭もいるのか、と」
玉蘭は達也を試していた。
達也は笑った。
「聞けば教えてくださるのですか」
「教えません」
「なら聞くだけ無駄です」
玉蘭が少し笑った。
「商人らしくなりましたね」
「最初から商人です」
「そういうことにしておきましょう」
達也は笑顔のまま玉蘭を見た。
この女は自分を警戒している。
それでよい。
賢い女なら、その方が自然だった。
しばらくすると、阿爾布罕が商談に飽きた。
「玉蘭。もう買え」
「あなたはそうやって、すぐ高く買おうとします」
「必要なのだろう」
「必要だから高く買ってよいわけではありません」
「俺は明日出る」
達也はその言葉だけを覚えた。
玉蘭が夫を見る。
「西へ?」
「ああ」
「替え馬はそろったのですか」
「そろえる」
「昨日戻った馬まで使うつもりではないでしょうね」
「何頭かは使う」
「駄目です」
玉蘭の声が強くなった。
「休ませてください」
「まだ走れる」
「走れることと、次の行軍まで持つことは別です」
阿爾布罕が面倒そうな顔をした。
「西へ行けば草はある」
「途中の水場が少ないでしょう」
「分かっている」
「本当に?」
「お前は心配しすぎる」
阿爾布罕は蒙古語で何かを付け加えた。
玉蘭も蒙古語で返した。
達也には内容までは分からなかった。
だが、その前の漢語だけで十分だった。
玉蘭は蒙古軍の弱点を理解している。
替え馬を用意しても、馬そのものは無限ではない。
休ませなければ疲れる。
草が必要である。
水も必要である。
速く走れるからこそ、馬を維持できなければ機動力が落ちる。
達也が南宋で考えていたことと一致していた。
この女は帳簿を付けているだけではない。
蒙古軍の強さが何によって作られ、その強さがどの条件で失われるかも知っている。
達也の中で、玉蘭の価値はさらに上がった。
阿爾布罕が達也へ顔を向けた。
「倉大業」
「はい」
「茶と薬は買う」
「ありがとうございます」
「全部ではない」
「十分です」
「残りを売りたいなら3日いろ」
「ここに?」
「ああ」
「よろしいので?」
「商人はほかにもいる」
阿爾布罕は交易所の東を指した。
「兵にも売ればいい」
達也が欲しかった言葉だった。
「ありがたいお話です」
「ただし、勝手に軍営の奥へ入るな」
「当然です」
「玉蘭が場所を決める」
玉蘭が答えた。
「明日の朝、交易所の東側へ場所を用意します」
「お願いします」
「こちらでも帳面を付けます」
「信用されていませんね」
「初めて来た商人を信用する方がおかしいでしょう」
「その通りです」
「あなたも、こちらを信用していないのでしょう」
「商売相手としては、これからです」
「人としては?」
「それもこれからです」
玉蘭は達也の顔を見た。
「随分正直ですね」
「嘘をつく場所は選びます」
「では、今は嘘をついていない?」
「その質問には答えない方がよさそうですね」
玉蘭が笑った。
「やはり変わった商人です」
「よく言われます」
「褒めてはいません」
「それもよくあります」
少し離れたところでは、阿爾布罕が部下へ明日の出発について命令を出していた。
妻と達也の会話を気にしている様子はない。
玉蘭に商売を任せている。
妻を信用しているからだった。
達也は急ぐつもりはなかった。
今ここで玉蘭を口説けば、賢い女ほど警戒する。
阿爾布罕にも疑われる。
まず商人として信用を得る。
次に阿爾布罕の役に立つ。
軍営の中へ入る理由を作る。
玉蘭と話す機会を増やす。
そして、この女が何を考え、何を望んでいるのかを知る。
達也が欲しいのは、無理にさらった女ではない。
南宋へ連れて帰ったあとも蒙古へ逃げ帰ろうとする女では役に立たない。
玉蘭自身が夫と蒙古を捨て、達也とともに南へ行くと決める必要がある。
美貌。
4つの言葉。
帳簿。
軍馬。
補給。
蒙古軍の機動力。
その弱点。
阿爾布罕の信用。
欲しいものが揃っていた。
だが、まだ手を出す時ではない。
最初に手に入れるべきものは、夫の信用だった。
◇ ◇ ◇
夕方、達也たちには交易所の近くに泊まる場所が与えられた。
荷車を寄せ、護衛を立てる。
夕餉には干した肉と粥を食べた。
達也は劉全を呼んだ。
「阿爾布罕について知っていることを集めてください」
「どこまでです」
「軍のことだけではありません」
「と申しますと?」
「どこの出身か。誰の下で戦っているか。何年ここにいるか。どういう商人を使っているか」
「分かりました」
「妻のことも」
劉全が達也を見る。
「玉蘭殿ですか」
「そうです」
「やはり気になりますか」
「かなり」
「美人だからでございますか」
「それもあります」
「それも?」
「蒙古語、漢語、女真語、契丹語を使う。軍の帳簿と補給を見る。軍馬の疲れ方、水場、草まで考えている」
達也は言った。
「連れて帰れば、私たちが何年も掛けて調べることを教えられる女です」
劉全の顔が変わった。
「連れて帰るのでございますか」
「できれば」
「旦那。あの方は阿爾布罕の奥方ですよ」
「知っています」
「夫は蒙古将です」
「それも知っています」
「どうするおつもりなのです」
「まだ何もしません」
「先ほどから随分見ておられましたが」
「美人ですから」
「またそこへ戻りますか」
「大事でしょう」
劉全は呆れた。
「首が飛びます」
「飛ばないようにします」
「夫も同じ軍営にいるのですよ」
「だから先に夫と仲良くなります」
劉全はしばらく答えなかった。
「旦那は、本当に商人なのでございますか」
「今は商人です」
「怪しすぎます」
「怪しい商人で構いません」
「玉蘭殿をどうなさるのです」
「本人が私について来たいと思えば、連れて帰ります」
「思わなければ?」
「連れていきません」
達也は答えた。
「嫌がる女をさらっても、あとで困るだけです」
「では、口説くのでございますか」
「その必要があれば」
「軍の情報のために?」
「情報だけなら、別の方法でも聞き出せます」
達也は干した肉を口へ運んだ。
「美人で、頭がよく、私の役に立つ女なら、自分のところへ置きたいと思うでしょう」
「普通は、夫が蒙古将なら諦めると思います」
「私は普通ではないようですね」
「存じております」
劉全はついにそう答えた。
達也が笑った。
「ただし、今は女より阿爾布罕です」
「信用を得るのでございますね」
「そうです」
「どうやって?」
「この軍が困っていることを探します」
「困っていること?」
達也は交易所の向こうに並ぶ馬へ目を向けた。
「兵1000人と、それ以上の馬を動かしているのです。何も困っていないはずがありません」
「食料でしょうか」
「食料かもしれない。馬の薬かもしれない。草かもしれない。輸送かもしれません」
「それを用意する?」
「商人とは、足りない物を持ってくる人間でしょう」
阿爾布罕にとって必要な商人になれば、軍営のさらに深い場所へ入る理由ができる。
阿爾布罕の信用を得れば、夫が自分から玉蘭を達也の近くへ置くことさえある。
その間に蒙古軍を調べる。
玉蘭も調べる。
達也は焦っていなかった。
戦でも商売でも女でも、守りの固い場所へ正面から突っ込む必要はない。
最初に道を作ればよい。
◇ ◇ ◇
その夜。
交易所から少し離れた阿爾布罕の天幕では、玉蘭が今日買った品を帳面へ書き込んでいた。
阿爾布罕が酒を飲みながら尋ねた。
「南の商人はどうだ」
「倉大業ですか」
「ああ」
「普通の商人ではありませんね」
阿爾布罕が笑った。
「俺もそう思った」
「なら、なぜ3日も置くのです」
「面白いからだ」
「あなたは、それで人を近くへ置くから困ります」
「兵ではない」
「兵でなければ安全とは限りません」
玉蘭は筆を置いた。
「荷の値を全部覚えています」
「商人なら覚えるだろう」
「計算も速い」
「それも商人ならおかしくない」
「馬を見ています」
阿爾布罕が酒杯を止めた。
「気付いたのか」
「馬を買う商人の目にも見えました。ですが、蹄だけではなく、疲れた馬と休んでいる馬を見比べていました」
「なら追い出すか」
「いいえ」
「なぜだ」
「何を見ているのか、もう少し確かめたいからです」
阿爾布罕は玉蘭を見た。
「お前も気に入ったのか」
「何をです」
「あの男だ」
「商人として興味があります」
「男としては?」
玉蘭が夫を見る。
「あなたは何を聞いているのですか」
阿爾布罕は笑った。
「顔は悪くない」
「知りません」
「見ただろう」
「話す相手の顔くらい見ます」
「背も高い」
「あなたの方が大きいでしょう」
「なら俺の勝ちだ」
「何を競っているのですか」
阿爾布罕は楽しそうに酒を飲んだ。
玉蘭は帳面へ視線を戻した。
だが、倉大業という男への疑いは消えていなかった。
蒙古兵20騎に囲まれても怯えない。
商品を汚されそうになれば止める。
阿爾布罕を前にしても値を簡単には下げない。
軍営へ入ると馬を見た。
200頭という数字を出しても、不用意に食いつかなかった。
そして何より、玉蘭が替え馬、水場、休ませる馬の話をしていた時、何気なく聞いているようで、1言も聞き漏らしていない顔をしていた。
玉蘭は筆を止めた。
「あなた」
「何だ」
「明日、西へ行くなら、昨日戻った馬は置いていってください」
「まだ言うのか」
「馬が倒れてから替えれば遅いのです」
「予備はいる」
「予備がいるから雑に使ってよいわけではありません」
「分かった、分かった」
阿爾布罕は面倒そうに答えた。
玉蘭は夫の返事に納得していない顔をした。
蒙古軍は強い。
速い。
だが、その速さを支える馬は生き物である。
水を飲み、草を食べ、疲れれば休ませなければならない。
玉蘭は7年間、その当たり前のことを帳簿と現場の両方で見てきた。
だからこそ、蒙古軍の強さだけでなく、その強さが失われる条件も知っていた。
同じ頃、商人用の天幕では達也も玉蘭のことを考えていた。
ただの美女ではない。
言葉が分かる。
軍の中が分かる。
蒙古軍がなぜ速いのかも分かる。
その速さが何に支えられているのかも知っている。
そして夫は、その価値を利用しているものの、玉蘭の考えをすべて聞いているわけではなかった。
達也が蒙古軍の奥へ入る道は、すでに見つかり始めている。
阿爾布罕の信用。
そして、その妻である耶律玉蘭。
まず3日。
その間に達也は、蒙古軍と、この夫婦の両方をさらに調べるつもりだった。
1223年9月下旬、交易商人に姿を変えた達也は、金領を越えて蒙古軍の活動地域へ入った。
街道や軍営を観察した達也は、蒙古兵が疲れた馬を替えながら移動し、宋軍ほど大量の荷車を使わず、干し肉や家畜を利用して荷を減らしていることを確認する。
一方、大量の馬を使う以上、水、草、休息場所が欠かせず、それらを奪えば蒙古軍最大の武器である機動力を落とせる可能性にも気付いた。
交易所へ入った達也は、1000人規模の兵を動かす蒙古将阿爾布罕と知り合い、茶や薬材を売ることで軍との取引を始める。
そこで出会ったのが、阿爾布罕の28歳の妻耶律玉蘭だった。
玉蘭は契丹人で、漢語、契丹語、女真語、蒙古語を使い、交易、帳簿、軍馬や物資の管理にも関わっている。
さらに、替え馬を休ませる必要、水場や草の重要性も理解しており、蒙古軍の強さと弱さを内側から知る女だった。
美貌と頭脳を備え、蒙古軍の深い知識を持つ玉蘭を見た達也は、南宋へ連れ帰る価値があると判断する。
しかし、すぐには口説かない。
まず夫の阿爾布罕にとって欠かせない商人となり、信用を得て蒙古軍のさらに深いところへ入る。
そのうえで玉蘭自身が、夫と蒙古を捨て、達也とともに南へ行く道を選ぶようにする。
達也はその最初の足場として、阿爾布罕の軍が何に困っているのかを探り始めた。




