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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第4話(前編2)――「交易商人になった将軍」

 1223年9月中旬。


 徐州を奪った南宋軍に、今すぐさらに北へ進む必要はなかった。


 徐州の城壁、兵糧、街道、住民の統治は、現地の将兵に任せればよい。倉達也(ツァン・ダーイエ)が自ら城へ張り付く仕事ではない。


 達也が見ているのは、その先だった。


 蒙古軍は金軍とは比べものにならない速さで移動し、広い地域を短期間で駆け抜ける。金がこのまま持ちこたえられるとは思えなかった。


 そして金が倒れれば、蒙古軍はそこで止まらない。次に南へ進み、南宋とぶつかる。


 平地で蒙古騎兵と正面から戦えば勝ち目は薄い。山、川、森林、狭い道、城や集落を利用し、敵を分散させて叩く戦い方を今から考えなければならない。


 達也は将来の蒙古戦に備えるため、皇帝趙擴(ジャオ・クオ)の許可を得て、交易商人に身を変え、自ら蒙古勢力圏へ入ることを決める。


本文


 (1223年9月中旬、南宋・臨安府(リンアンフ)・倉府)


 倉達也(ツァン・ダーイエ)は、徐州から届いた軍報を読み終えると、卓の上へ置いた。


 秋に入り、朝の空気は少し冷たくなっていた。庭では使用人が落ち葉を掃き、馬屋から馬の鼻を鳴らす音が聞こえている。


 徐州では城壁の補修が進んでいた。


 宿州との間では兵糧を運ぶ中継地の整備が始まり、損傷した橋や街道も順次直されている。


 軍による略奪は禁止した。


 食料や薪を住民から受け取る場合には、代価を払わせている。


 閉じていた市場も少しずつ開き始めていた。


 問題がないわけではない。


 金軍の再来を恐れて南へ逃げる住民もいる。兵糧を運ぶ荷車も足りない。徐州と宿州の間を狙う金軍の小部隊にも備える必要がある。


 しかし、それらは現地の将が処理すべき仕事だった。


 達也は書吏を呼んだ。


「徐州へ命令を出します」


「はい」


「城壁の修理を続ける。兵糧は城内だけに集めず、宿州との間に分けて置いてください」


 書吏が筆を走らせた。


「街道の守りはいかがいたしますか」


「増やします。ただし、大勢を1か所へ置かない。小隊に分け、街道と中継地を巡回させます」


「承知しました」


「金軍が大きく動いた時は、すぐ臨安へ知らせてください。小さな襲撃まで、いちいち私の判断を待たせる必要はありません」


 書吏が顔を上げた。


「現地の将に任せるのでございますか」


「そのために将がいるのです」


 達也は答えた。


「私が徐州へ行かなければ城を守れないようでは困ります」


 さらに命令を続けた。


「市場を閉じさせない。軍が住民から勝手に物を取った場合は処罰します。農民には畑へ戻るよう知らせてください」


「税についてはいかがいたしますか」


「朝廷の決定に従います。ただ、今は取り立てを急がない方がいいでしょう」


「理由も書きますか」


「書いてください。住民を逃がせば、あとで税を取る相手までいなくなります」


 書吏が笑った。


「随分はっきりした理由ですね」


「善政と言うだけでは人は残りません。食えて、商売ができて、兵に奪われないから残るのです」


「承知しました」


 書吏が退出すると、達也は別の箱から北方の情報をまとめた書付を取り出した。


 こちらの方が重要だった。


 金軍については、徐州や宿州からある程度の情報を集められる。


 問題は、その金を北から崩している蒙古だった。


 達也は蒙古兵とすでに戦っている。


 2106人。


 数だけを見れば大軍ではない。


 しかし、その動きは金軍とも宋軍ともまったく違っていた。


 馬を使った移動が極端に速い。


 こちらが兵を集める間に別の場所へ現れる。


 不利になれば簡単に距離を取り、追えば逆に包み込もうとする。


 騎兵が弓を使いながら動き続けるため、歩兵中心の軍では戦う場所さえ選ばせてもらえない。


 達也は蒙古兵を全滅させたが、それで蒙古軍を甘く見る気にはならなかった。


 むしろ逆だった。


 あの2106人だけでも、普通の宋軍が正面からぶつかれば大きな損害を受けただろう。


 蒙古軍の本隊が数万単位で動けば、平地でまともに戦って勝つのは難しい。


 達也は北方から集めた報告を広げた。


 金は長く持たない。


 蒙古軍は金の領土を少しずつ削っているのではない。金軍を動かし、疲れさせ、守りの薄くなった場所へ次々と入り込んでいる。


 金が軍を集めれば別の場所を突く。


 追えば離れる。


 守りを分ければ、その弱いところへ集中する。


 この戦い方を続けられれば、金は国土が広いこと自体を弱点に変えられる。


 達也は地図を見た。


「金は負けるな」


 今度は迷わなかった。


 時期までは決められない。


 しかし、このまま蒙古軍が攻勢を続ければ、金が最後まで耐え切るとは考えられなかった。


 さらに重要なのは、そのあとだった。


 蒙古が金を倒して満足するとは考えにくい。


 軍を動かし続け、多数の馬と兵を抱え、征服によって領土と物資を増やしている勢力である。


 金がなくなれば、その南には南宋がある。


 徐州も、宿州も、淮河も、その先には臨安もある。


 蒙古は来る。


 達也はそう判断した。


 ならば、金との戦だけを考えている場合ではなかった。


 今のうちに蒙古軍の弱点を探す必要がある。


 達也は地図へ手を置いた。


 平原では戦わない。


 敵が思うまま馬を走らせられる場所で、蒙古騎兵と速さを競う必要はない。


 山へ入れる。


 川を使う。


 森林、谷、狭い街道、湿地、城壁、村落を使う。


 兵を大軍のまま動かさず、小さく分けて隠し、敵が通過したあとに補給隊や遅れた部隊を襲う。


 夜も使う。


 渡河点を押さえる。


 馬へ与える草と水を自由に取らせない。


 蒙古軍が最も強い形で戦う必要はない。


 こちらが戦う場所を選び続ける。


 地形を利用した小規模な戦闘を重ね、敵を疲れさせ、兵と馬を少しずつ削る。


 大軍同士の正面決戦ではなく、各地から何度も襲う戦い方である。


 そのためにも、蒙古軍がどれほどの速さで動き、何頭の馬を持ち、何を食べ、どこで休み、どのように命令を伝えているのかを知らなければならない。


 達也は報告書を閉じた。


「自分で見るしかないな」


 その日のうちに参内を願い出た。


 ◇ ◇ ◇


 午後、達也は皇宮で皇帝趙擴(ジャオ・クオ)と向き合った。


 卓には徐州から北、さらに黄河より北までを描いた地図が広げられている。


 達也は最初から結論を告げた。


「陛下。蒙古へ入りたいと考えております」


 皇帝は達也を見た。


「兵を率いてか」


「いいえ」


「使者としてか」


「それでもございません」


「では、何として行く」


「交易商人です」


 皇帝が眉を寄せた。


「そなた自身が?」


「はい」


「何のためだ」


「将来、蒙古と戦うためでございます」


 皇帝の表情が変わった。


「蒙古と戦う?」


「戦うことになります」


 達也は言い切った。


「蒙古は金を倒します」


 皇帝は黙った。


 達也は地図の北側を指した。


「金は広い領土を持っておりますが、それが今は弱点になっています。蒙古軍は非常に速く、金軍が集まる前に別の場所へ移ります。金が軍を分ければ、その弱いところを攻めます」


「金が滅びると申すのか」


「はい」


「そこまで言い切れるのか」


「蒙古兵と実際に戦いましたので」


 達也は答えた。


「2106人にすぎませんでしたが、あの兵の速さだけでも分かります。金軍とは戦い方そのものが違います」


 皇帝は地図へ目を落とした。


「金が倒れれば、宋には有利ではないのか」


「一時的には有利です」


「一時的?」


「金が消えれば、蒙古軍の前に大きな敵が1つなくなります」


 達也は黄河から南へ指を動かした。


「その次は南宋です」


 皇帝が達也を見る。


「蒙古が南へ来ると?」


「来ます」


 達也はまた断言した。


「金を倒したところで軍を解散し、北へ帰るような相手ではございません。領土を広げながら戦っている国です。金を取れば、その南にある宋へ目を向けます」


「宋と交易する道もあるだろう」


「交易はするでしょう」


「ならば戦わぬ可能性もあるのではないか」


「交易しながら戦うこともできます」


 達也は答えた。


「陛下。蒙古が宋へ来るかどうかを考える段階ではございません。来るものとして備えるべきです」


 皇帝の顔から笑みが消えた。


「かなり先の話ではないのか」


「だから今から調べます」


 達也は地図の淮河周辺を指した。


「蒙古軍が南へ来てから、どう戦うか考えていては遅いのです」


「では、そなたはどう戦う」


「正面からは戦いません」


 皇帝は意外そうな顔をした。


「そなたがか」


「はい」


「蒙古兵2106人を全滅させた男が?」


「あの戦いでも、蒙古軍の好きなようには戦わせませんでした」


 達也は答えた。


「蒙古騎兵を広い平地で正面から受ければ、宋軍は不利です。歩兵を並べても、蒙古軍は付き合ってくれません」


「では、逃げるのか」


「違います」


 達也は地図上の山地と河川を順に指した。


「山、川、森林、谷、狭い道、城、村を使います」


「地形を使う?」


「はい」


「詳しく申せ」


「蒙古軍の最大の武器は速さです。馬を自由に走らせられる場所では、その力が最大になります」


「うむ」


「ならば、走れない場所へ誘います」


 達也は続けた。


「大軍を1か所へ集めて決戦するのではなく、兵を各地へ分けます。山や森林へ隠れ、敵の本隊と正面からぶつからず、通過したあとに小部隊、兵糧、馬、連絡役を襲います」


「それで大軍を倒せるのか」


「1度の戦で倒そうとするから負けます」


 達也は答えた。


「10回、20回、100回と襲います」


 皇帝が黙って聞いている。


「昼だけではありません。夜も襲います。川を渡る時も狙います。草と水を自由に取らせません。馬が疲れれば蒙古軍の速さは落ちます」


「城へ籠もるのは?」


「必要な場所では使います。しかし城だけに籠もれば、蒙古軍は別の場所へ行きます」


「では、どうする」


「城を拠点にし、外でも動きます」


 達也は言った。


「蒙古軍がどこへ行っても、道の脇、山の中、川の向こう、村の裏から宋兵が出てくるようにします」


「随分面倒な戦だな」


「蒙古にとって面倒な戦にするのです」


 皇帝は達也を見た。


「勝てると思うか」


「その方法なら勝てます」


「正面決戦では?」


「避けます」


「そこまで蒙古騎兵は強いか」


「強いです」


 達也は認めた。


「だから、相手の強いところで勝とうとはしません」


 皇帝はしばらく地図を見ていた。


「そのために蒙古へ行くのだな」


「はい」


「何を調べる」


「最初に馬です」


「やはり馬か」


「1人の兵が何頭を使うのか。どれほどの距離を1日で動くのか。馬を替える場所、草を取る場所、水を取る場所を見ます」


 達也は続けた。


「次に兵糧です。兵自身が何を食べ、何日分を持ち、現地から何を取るのか」


「ほかには?」


「命令の伝え方です」


「命令?」


「これほど速く部隊を動かす軍なら、離れた部隊同士をつなぐ仕組みがあるはずです。伝令の馬をどこで替えるのか。指揮官の命令がどれほど早く届くのか。それを知りたい」


「なるほど」


「さらに、占領した町の扱いも見ます」


「住民か」


「はい。漢人を役人として使うのか。職人を連れていくのか。商人を残すのか。兵として取り込むのか。それによって蒙古軍が長く戦える理由も見えてきます」


「軍営へ入るつもりか」


「入れるなら見ます」


「危険すぎる」


「それでも見る価値があります」


 皇帝は眉を寄せた。


「そなたは徐州まで取った将だ。蒙古に捕まれば、ただの商人では済まぬ」


「私が倉達也だと分かれば、でございます」


「分からぬと思うのか」


「南宋の将の顔を、蒙古兵が皆知っているとは思えません」


「宋の服で行くつもりではあるまいな」


「もちろんです」


 達也は説明した。


「江南から茶、絹、薬材、陶器などを持って北へ行く交易商人にします。護衛も少人数です」


「言葉はどうする」


「北方を行き来した経験のある者を連れていきます。蒙古側と商売をしたことのある者も探します」


「徐州はどうする」


「現地の将へ任せます」


 答えは決まっていた。


「私が城壁を直すわけではありません。兵糧を運ぶ荷車を引くわけでもありません。指示は出しました。あとは現地の将兵が働くべきです」


「金軍が再び来たら?」


「大軍なら報告が届きます」


「そなたが蒙古にいれば戻れぬかもしれぬ」


「それでも徐州を守れるようにしてあります」


 達也は答えた。


「私がいなければ戦えない軍を作るつもりはございません」


 皇帝はしばらく黙った。


「そなたは、自分の命を軽く考えておらぬか」


「軽くは考えておりません」


「ならば、なぜ自分で行く」


「人から聞くだけでは、蒙古との戦い方を決められないからです」


 達也は皇帝を見た。


「陛下。金との戦は、いずれ終わります」


「うむ」


「そのあとに来る蒙古との戦は、もっと厳しくなります」


 達也は言った。


「今の宋軍のまま平地で蒙古軍と正面から戦えば、大敗します」


 皇帝の顔が険しくなった。


「そこまでか」


「はい」


「では今から軍を変えねばならぬな」


「そのためにも見てきます」


「何を変えるべきかまで調べるのか」


「はい」


「分かった」


 皇帝はようやく決断した。


「許す」


「ありがとうございます」


「ただし、生きて帰れ」


「そのつもりでございます」


「蒙古を見て、何を変えるべきか必ず持ち帰れ」


「承知しました」


「兵数だけではないぞ」


「もちろんです」


 皇帝は地図を指した。


「馬、兵糧、道、命令、住民、商人、職人。そなたが必要だと思うものは全部見てこい」


「はい」


「そして、蒙古軍が南へ来た時に、どこでどう戦うか考えろ」


「そのために参ります」


 これで決まった。


 達也の蒙古行きは、単なる偵察ではなくなった。


 将来の蒙古戦に備えるための調査である。


 ◇ ◇ ◇


 倉府へ戻ると、達也はすぐに準備を始めた。


 最初に軍装を外した。


 上等すぎる衣服も使わない。


 商いで多少成功している男に見える程度の服を用意させた。


 荷物も重要だった。


 交易商人を名乗りながら、売る物を持っていなければ話にならない。


 臨安の商人を通じて茶、絹、薬材、陶器を集めた。


 豪華な品ばかりにはしなかった。


 茶は数種類を用意した。


 絹も上等な物だけでなく、普通の商人が扱う品を混ぜた。


 薬材は北方で売れそうな物を選ばせた。


 陶器も箱へ詰めた。


 秤、帳面、銭、銀も用意した。


 達也自身も商品の値を覚えた。


「茶1斤はいくらで仕入れた」


 担当の男へ尋ねた。


「こちらは銭――」


「帳面を見ずに答えてください」


 男は値を言い直した。


 達也は続けた。


「この絹は?」


 男が答えた。


「この薬材は?」


 また答える。


「陶器を10個まとめて売った場合は?」


 商人を名乗る以上、自分の荷の値を知らないわけにはいかない。


 達也自身も仕入れ値、売値、数量を帳面で確認した。


 北方の言葉にも耳を慣らした。


 同行する者には、実際に北方で交易した経験のある者を入れた。


 蒙古勢力下の町へ入ったことのある商人も探した。


 ただし、全員に本当の目的を話したわけではない。


 蒙古との交易路を調べ、新しい商売の道を探す。


 表向きはそれで通した。


 護衛として連れていく者だけには、達也の身を守ることが最優先だと伝えた。


「戦うな」


 達也は言った。


「襲われれば戦いますが、自分から騒ぎを起こしてはいけません」


「蒙古兵に止められた場合は?」


「商人として話します」


「捕らえられそうになれば?」


「逃げられるなら逃げます」


「逃げられなければ?」


「その時の人数と場所で決めます」


 護衛の男が尋ねた。


「今回、本当に蒙古軍の近くまで行かれるのでございますか」


「そのために行きます」


「危険です」


「知っています」


「何をそこまでご覧になりたいのでしょう」


「速さの理由です」


 達也は答えた。


「馬が多いだけなのか。兵の持つ荷が少ないのか。命令が早いのか。食料を運ばず現地で取っているのか。それを見ます」


「分かれば何か変わりますか」


「蒙古軍の速さを奪う方法を考えられます」


「速さを奪う?」


「馬が走れない場所へ追い込み、草と水を取らせず、渡河点を押さえ、後ろを襲います」


 男は黙って聞いていた。


「蒙古兵と平地で速さを競う必要はありません」


 達也は言った。


「敵が嫌がる場所で戦えばいいのです」


 荷物の箱を1つ開けた。


 中には茶葉が詰められている。


 達也は少量を手に取り、匂いを確かめた。


「これなら本当に商売もできますね」


「するおつもりでございますか」


「当然です」


「調査だけでは?」


「商品を売らない商人の方が怪しいでしょう」


 達也は茶葉を箱へ戻した。


「それに、何が売れるかも軍事情報になります」


「品物の値がですか」


「はい」


 達也は説明した。


「穀物が高くなっていれば軍が集まっているかもしれません。馬の値が上がれば、軍が馬を集めている可能性があります。革や鉄が大量に売れていれば、武具を作っているかもしれない」


「なるほど」


「草、干し肉、塩、矢、弓弦、馬具も見ます」


 戦場だけを眺めても軍隊の全体は分からない。


 市場に何がなく、何が集まり、どこへ荷車が向かっているかを見れば、軍の動きが分かることもある。


 達也はそれを自分の目で確かめるつもりだった。


 ◇ ◇ ◇


 出発前日の夜、達也は陳秀英(チェン・シウイン)の部屋へ行った。


 秀英は懐妊が分かってからも、普段どおり暮らしていた。


 卓の上には刺繍の途中の布が置かれている。


「また徐州へ行かれるのですか」


 秀英が尋ねた。


「今度はもっと北です」


「徐州より北?」


「はい」


「戦ですか」


「今回は戦ではありません」


「では何をなさるのですか」


「商人になります」


 秀英は達也を見た。


「商人?」


「茶や絹を売りながら蒙古へ入ります」


 秀英の表情が変わった。


「蒙古へ行くのですか」


「はい」


「危険ではありませんか」


「危険です」


「陛下はお許しになったのですか」


「許可を頂きました」


 秀英はしばらく黙っていた。


「なぜ、そこまでして蒙古を見るのですか」


「いずれ戦うからです」


 達也は今度も言葉を濁さなかった。


「蒙古は金を倒します」


「金を?」


「はい」


「では宋にとって良いことではありませんか」


「そのあとは蒙古が南へ来ます」


 秀英の顔から笑みが消えた。


「南宋へ?」


「はい」


「本当に?」


「来ます」


 達也は答えた。


「蒙古軍はあまりにも速い。金はあの速さについていけません。そのままでは長く持たないでしょう」


「宋軍なら勝てますか」


「今のまま平地で戦えば負けます」


 秀英は驚いた。


 達也が自軍の不利をこれほどはっきり口にするのを初めて聞いた。


「では、どうするのですか」


「戦い方を変えます」


「どのように?」


「山や川を使います」


 達也は答えた。


「蒙古兵に馬を自由に走らせません。大軍で正面からぶつからず、小さな部隊を各地へ置き、何度も襲います」


「そのために調べに行くのですね」


「そうです」


「蒙古軍に勝つ方法を探すために」


「はい」


 秀英は腹へ手を添えた。


「いつ戻られるのですか」


「分かりません」


「また、それですか」


「決めても守れない約束はしません」


「分かっています」


 秀英は達也を責めなかった。


「ですが、今度は戦へ行かれる時より心配です」


「なぜです」


「戦なら達也様は軍を率いておられます。今度は商人なのでしょう」


「護衛はいます」


「少ないのでしょう」


「大勢連れれば商人には見えません」


「そうでしょうね」


 秀英は少し考えてから言った。


「私が止めても行くのでしょう」


「行きます」


「でしたら止めません」


「ありがとうございます」


「ただし」


 秀英は達也を見た。


「蒙古を倒す方法を考えるのは結構ですが、ご自分まで蒙古に残らないでください」


 達也は笑った。


「それは約束できます」


「なら結構です」


 達也は秀英を抱き寄せた。


「戻ったら土産を持ってきます」


「高い物はいりません」


「では何が欲しいですか」


「無事に戻ってから考えます」


「分かりました」


 その夜、達也は倉府で過ごした。


 ◇ ◇ ◇


 9月中旬の終わり。


 まだ空が白み始めたばかりの時刻に、倉府の裏門から荷を積んだ一行が出た。


 馬と荷車には茶、絹、薬材、陶器が積まれている。


 達也は軍装を着ていなかった。


 腰には護身用の刀を1本だけ差し、外から見れば北へ商売に向かう商人の1人だった。


 倉府の家人以外に、この一行の主人が蒙古兵2106人を全滅させ、金軍約2万人を破り、徐州まで奪った男だと気付く者はいない。


 一行はまず北へ向かう。


 徐州までは南宋の支配地である。


 そこから先は金の領内となり、さらに進めば蒙古軍の支配が広がる地域へ近づく。


 達也が知りたいことは多かった。


 蒙古兵は1日でどこまで動くのか。


 1人で何頭の馬を使うのか。


 どこで馬へ水を飲ませるのか。


 兵は何を食べるのか。


 矢や弓弦をどこで補充するのか。


 命令はどのように伝わるのか。


 町を取ったあと、漢人、商人、職人をどう扱うのか。


 そして何より、蒙古軍の速さを奪うには何をすればよいのか。


 徐州の守りは部下に任せた。


 次の金の城を急いで取る必要もない。


 金はいずれ蒙古に敗れる。


 その時から、本当に厳しい戦が始まる。


 蒙古騎兵と広い平地で決戦するつもりはなかった。


 山、川、森林、谷、城、村を使い、敵を走らせない。


 兵を各地へ散らし、現れては襲い、追われれば消える。


 敵の兵糧、馬、伝令、渡河を狙い、休ませない。


 蒙古軍が1度勝っても終わらない戦にする。


 その戦い方を完成させるには、まず相手を知らなければならない。


 達也は交易商人の姿で北へ向かった。


 目的は蒙古を見ることだけではない。


 やがて南宋へ攻め込んでくる蒙古軍を、どうすれば倒せるのか。


 その答えを持ち帰るためだった。

 1223年9月中旬、達也は徐州の防衛と統治を現地の将へ任せた。


 達也が次に備えた相手は蒙古である。


 蒙古軍は極めて高い機動力を持ち、金軍が兵を集める前に別の場所へ移動し、守りの弱い地点を攻める。


 達也は、このままでは金はいずれ蒙古に敗れ、その後は蒙古軍が南宋へ進んでくると皇帝趙擴へ明言した。


 平地で蒙古騎兵と正面から戦えば宋軍は不利である。


 達也が考えたのは、山、川、森林、谷、城や村を利用し、小部隊を各地へ分散させて何度も蒙古軍を襲う戦い方だった。


 兵糧、軍馬、伝令、渡河点を狙い、蒙古軍最大の武器である機動力を奪う。


 将来の蒙古戦に備えるため、達也は交易商人に身を変え、蒙古勢力圏へ潜入する許可を皇帝から得た。


 茶、絹、薬材、陶器を積み、少人数の護衛と北方交易の経験者を伴い、9月中旬の終わりに臨安を出発する。


 今回の目的は蒙古軍を見ることだけではない。


 やがて南宋へ来る蒙古軍を倒す方法を見つけることである。

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