第4話(中編2)――「馬上で得る信用」
1223年10月上旬。
交易商人を名乗る倉達也は、蒙古将阿爾布罕の交易所に滞在し、軍馬、補給、食料、伝令の仕組みを調べ続ける。
同時に達也は、自分自身にも大きな不足があると認めた。
蒙古軍と戦うなら、敵の馬を研究するだけでは足りない。
自分が馬を自在に扱い、馬上から弓を射られるようにならなければ、騎兵の動きを本当の意味では理解できない。
達也は蒙古に滞在している間も毎朝身体を鍛え、さらに乗馬と騎射の訓練を始める。
その姿を阿爾布罕は面白がり、達也を自分の軍へ近づけていく。
一方、耶律玉蘭の能力を知るほど、達也の考えも変わっていった。
玉蘭は遼皇族の血を引く契丹人であり、漢語、契丹語、女真語、蒙古語を使い、軍馬、補給、交易、帳簿にも通じている。
美しい女だから自分のものにしたいだけではない。
側室として迎えると同時に、行政と軍事の両方を任せる副官として南宋へ連れ帰る価値のある女だった。
(1223年10月上旬、蒙古軍交易所)
夜が明ける前、交易所の一角ではまだ大半の者が眠っていた。
倉達也は天幕の外へ出ると、上着を脱いだ。
北方の朝は冷えている。
吐く息が白くなるほどではないが、臨安より明らかに空気が冷たい。
達也は気にせず身体を動かした。
腕立て伏せを行う。
腹を鍛える。
深く腰を落としてから立ち上がる動作を繰り返す。
石を両手で持ち上げ、肩まで上げて下ろす。
さらに交易所の外周を走った。
臨安でも毎朝続けていた鍛錬だった。
蒙古まで来たからといってやめる理由はない。
むしろ敵地に近い今こそ、身体を鈍らせるわけにはいかなかった。
護衛の1人が目を覚まし、天幕から顔を出した。
「旦那、こちらへ来ても続けるのでございますか」
「身体は使わなければ落ちます」
「昨日も随分歩かれましたが」
「歩くことと鍛えることは別です」
達也は石を下ろした。
「それより、今日は馬を借りられるか聞いてください」
「馬ですか」
「はい」
「商売に使うので?」
「練習します」
男が首をかしげた。
「旦那は馬に乗れるでしょう」
「乗れることと、蒙古兵のように乗れることはまったく違います」
達也は昨日まで軍営で見た騎兵を思い出していた。
蒙古兵は馬上で身体がぶれない。
走りながら向きを変える。
鞍の上で左右へ身体をずらす。
弓を使う時には手綱から片手を離す。
馬を走らせたまま後方へ矢を放つ者までいる。
達也も乗馬はできる。
戦場でも馬を使ってきた。
しかし蒙古騎兵と同じことができるわけではなかった。
そこを曖昧にするつもりはない。
「蒙古軍と戦うなら、あいつらが何をやっているか身体で分からなければ駄目です」
護衛が達也を見る。
「ご自分でそこまでなさるのですか」
「指揮官だからです」
「指揮官なら部下に任せるものでは?」
「部下に命じるために、自分でも分かっていた方がいい」
達也は汗を拭った。
「馬がどこまで曲がれるか、走りながら弓を引くと何が難しいのか、それも知らずに騎兵へ命令する気はありません」
護衛は納得した。
「では聞いてまいります」
「お願いします」
◇ ◇ ◇
朝餉のあと、達也は交易所の馬場へ行った。
阿爾布罕の部下の1人である巴特爾という蒙古兵が付き添った。
30歳ほどの男で、身体は大きくないが脚が太い。
達也には騎兵らしい身体だと分かった。
劉全が通訳した。
「商人が馬の稽古をしたいと言うので、珍しがっています」
達也は答えた。
「馬を扱えない商人は困るでしょう」
劉全が訳す。
巴特爾が何か言い返した。
「何と?」
「普通の商人は、走る馬の上で弓まで射ようとはしない、と」
達也は笑った。
「確かに」
巴特爾は1頭の馬を連れてきた。
達也が普段使っている馬より小柄に見える。
しかし胸が厚く、脚が締まっていた。
達也は馬の身体へ手を当てた。
首。
肩。
背。
腹。
蒙古兵が使う馬は、見た目の大きさだけでは判断できない。
巴特爾が馬へ乗るよう促した。
達也は鞍へ上がった。
最初は歩かせる。
次に速歩。
さらに走らせる。
馬そのものは扱えた。
巴特爾は特に驚かなかった。
達也がすでに乗馬経験を持っていることは、すぐ分かったらしい。
しばらく走らせると、巴特爾が自分の馬で横へ並んだ。
何かを言いながら達也の脚を指した。
「脚が固いと言っています」
劉全が訳した。
「固い?」
「膝で締めすぎているそうです」
達也は自分の乗り方を確かめた。
戦場では落馬しないことを優先し、脚で馬を強く挟む癖が付いていた。
巴特爾は自分の脚を見せた。
鞍へ身体を預けすぎず、腰と脚で馬の動きを受けている。
達也は真似た。
最初は不安定になった。
馬が少し横へ動く。
巴特爾が笑った。
達也も笑った。
「笑っている場合ではありませんね」
劉全が訳すと、巴特爾はさらに笑った。
達也は何度も繰り返した。
速歩。
停止。
急な方向転換。
再び走る。
蒙古兵が日常的に行う動きだった。
達也は失敗すれば、その理由を尋ねた。
馬の首を強く引きすぎる。
身体が前へ流れる。
脚の使い方が遅い。
曲がる方向を見るのが遅い。
巴特爾は身振りと短い言葉で教えた。
昼前になる頃には、達也の衣は汗で濡れていた。
馬から降りると、内股が痛んでいた。
「これは効きますね」
劉全が笑った。
「朝も鍛えておられたでしょう」
「使うところが違います」
そこへ玉蘭がやってきた。
帳面を抱えている。
「何をなさっているのですか」
達也が答えた。
「馬の練習です」
「見れば分かります」
「なら聞かなくても」
「商人が朝から蒙古兵に乗馬を習う理由を聞いているのです」
「馬を使う商売をするからです」
玉蘭は達也を見た。
「南の商人は馬上から弓も射るのですか」
「まだ射っていません」
「まだ?」
「これからです」
玉蘭が呆れた。
「本当に変わった方ですね」
「できないことを覚えるのは悪くないでしょう」
「何のために?」
「北へ商売に来れば盗賊もおります」
「護衛を連れているでしょう」
「自分でも戦えた方が安全です」
玉蘭は完全には信用していない顔だった。
それでも深く追及しなかった。
「怪我をなさらないでください」
「心配してくださるのですか」
「荷の代金を全部いただくまでは」
「なるほど」
達也が笑うと、玉蘭も少し笑った。
◇ ◇ ◇
午後には弓が用意された。
達也は蒙古式の弓を手に取った。
南宋で使ってきた弓とは形も感触も違う。
短い。
馬上で扱いやすい。
それでいて弦は強かった。
まず地上で引いた。
「重いな」
巴特爾が何か言った。
劉全が訳した。
「もっと強い弓もあるそうです」
「これより?」
「はい」
達也は弓をもう一度引いた。
身体を鍛えているため、引くこと自体はできる。
しかし狙いを安定させて何十本も射るなら別だった。
さらに馬上となれば難度は大きく上がる。
巴特爾はまず止まった馬から射るよう指示した。
的までの距離は近い。
それでも達也の最初の矢は外れた。
2本目は的の端。
3本目は中央に近づいた。
巴特爾がうなずいた。
次は歩く馬。
さらに速歩。
矢が大きく外れる。
達也は外れた理由を考えた。
馬が上下する。
身体が揺れる。
弓を引く瞬間に手綱を持てない。
的だけ見ていると馬の進路が乱れる。
騎射とは、単に馬の上から弓を射ることではない。
馬を脚で操りながら、上半身は別の仕事をしなければならない。
「よくこんなことを戦いながらやるな」
達也が言った。
劉全が蒙古語へ直すと、巴特爾が笑った。
そして自分がやってみせた。
馬を走らせる。
弓を構える。
1本。
続けて2本。
どちらも的に刺さった。
達也は的ではなく巴特爾を見た。
いつ矢を取り出すのか。
どこで弦を引くのか。
馬のどの動きに合わせて放すのか。
上半身をどこまでひねるのか。
手綱をどう処理しているのか。
「もう1度お願いします」
巴特爾がまた走った。
達也は目を離さなかった。
それから自分で試した。
当然、同じようにはできない。
だが、1日目でできると思うほど甘くはない。
「明日もお願いします」
達也が言った。
巴特爾は笑いながら何か答えた。
「腕が上がらなくなっても知らないと言っています」
「それなら脚の練習だけします」
巴特爾がまた笑った。
◇ ◇ ◇
達也の滞在は、当初の3日を越えた。
理由を作ったのは阿爾布罕だった。
西へ出ていた阿爾布罕が2日後に戻ると、連れていた馬の中に脚を痛めたものが何頭もあった。
さらに数頭は腹を壊していた。
玉蘭は戻ってきた馬を見ると、すぐ夫を責めた。
「だから昨日戻った馬を使わないでくださいと言ったでしょう」
「全部使ったわけではない」
「何頭使いました」
阿爾布罕が答えた。
「それだけでも多いです」
「戻ってきただろう」
「戻ればよいという話ではありません」
玉蘭は馬の脚を確かめた。
蹄の周りに泥が付いている。
「西の道はどうでした」
「雨が降った」
「やはり」
玉蘭は達也へ気付いた。
「倉大業」
「はい」
「馬の薬を見せてください」
「腹の薬ですか。それとも脚ですか」
「両方です」
達也は荷車から薬を出させた。
自分が医者のように振る舞うつもりはない。
薬材を扱う商人として、用途と使い方を説明した。
玉蘭は馬を扱う兵と相談しながら量を決めた。
達也はそこで別の問題へ気付いた。
薬の不足より、記録が粗い。
どの馬を何日に使ったのか。
どこから戻ったのか。
何日休ませたのか。
脚を痛めた経験があるのか。
蒙古兵は自分の馬についてはよく覚えているが、阿爾布罕の部隊全体として替え馬を回す仕組みにはばらつきがあった。
達也は玉蘭へ尋ねた。
「この馬は昨日戻った馬ですか」
「そうです」
「こちらも?」
「こちらは3日前です」
「何か印がありますか」
「鞍に付けています」
達也が確かめると、小さな印があった。
「それで全部分かりますか」
「兵が覚えています」
「兵が死んだら?」
玉蘭が達也を見た。
「縁起の悪いことを言いますね」
「戦をしているのでしょう」
玉蘭は答えなかった。
達也は言った。
「帳簿へ馬まで入れればよいのではありませんか」
「馬を?」
「全部でなくても、替え馬だけです」
「どうするのです」
「番号か印を決めます」
達也は地面へ簡単な表を書いた。
「馬の印。最後に使った日。戻った日。脚の傷。次に使える日」
玉蘭がしゃがんだ。
「そこまで書くのですか」
「100頭なら面倒でしょう」
「100頭どころではありません」
玉蘭は言ったあと、少し黙った。
達也は数字を聞き返さなかった。
「だから全部を細かく書く必要はありません。休ませる必要がある馬、傷のある馬、すぐ使える馬だけ分けます」
玉蘭は地面の文字を見た。
「使える馬を先に数える?」
「はい」
「総数より?」
「明日走れる馬が何頭いるかの方が大事でしょう」
玉蘭の目が変わった。
「あなた、本当に商人ですか」
「帳簿を使うのは商人も同じです」
そこへ阿爾布罕が来た。
「何をしている」
玉蘭が説明した。
阿爾布罕は最初、面倒そうな顔をした。
「馬は兵が知っている」
達也は答えた。
「それなら問題ありません」
「何?」
「今のままで困っていないなら変える必要はありません」
玉蘭が達也を見る。
達也は続けた。
「ただ、今日のように疲れた馬をまた使って傷めれば、次に必要な時に馬が減ります」
阿爾布罕が黙った。
「蒙古軍は馬が速いから強いのでしょう」
「ああ」
「なら、兵と同じくらい馬を大事にした方がいい」
阿爾布罕は地面へ書かれた表を見た。
「お前が考えたのか」
「南でも家畜や荷を管理する時には、似たことをします」
達也には行政と軍を動かした経験がある。
数を管理する考え方そのものは、商人として説明しても不自然ではなかった。
阿爾布罕は玉蘭へ言った。
「やってみろ」
「私が?」
「お前は数字が好きだろう」
「好きでやっているのではありません」
「倉大業に手伝わせろ」
達也が聞き返した。
「私も?」
「お前が言い出した」
「それはそうですが」
「3日と言ったが、もう少しいろ」
達也は内心で笑った。
向こうから滞在を延ばした。
「商売をさせていただけるなら」
「構わん」
「では、お世話になります」
阿爾布罕は満足して去った。
玉蘭は達也を見る。
「うまく残りましたね」
「私が仕組んだように聞こえます」
「違うのですか」
「馬が怪我をしたのは私のせいではありません」
「そこは分かっています」
玉蘭は地面の表を見た。
「ですが、これは使えそうです」
「なら作りましょう」
「私と?」
「阿爾布罕殿から命令されましたので」
玉蘭は少し笑った。
「夫の信用を得るのが早いですね」
「信用されたのでしょうか」
「少なくとも、追い出すつもりはなくなったようです」
達也にとっては十分だった。
◇ ◇ ◇
翌日から、達也と玉蘭は一緒に馬の記録を作り始めた。
すべての馬について細かな帳簿を作る必要はない。
軍が直ちに使える馬。
休ませる馬。
傷のある馬。
薬を使っている馬。
大まかに分けた。
玉蘭が蒙古語で兵から聞く。
必要なら女真語や漢語も使う。
達也が分類方法を決める。
数字を確認する。
2人で帳面を作った。
達也はその仕事を通じて、阿爾布罕の軍馬の運用を以前より深く見ることができた。
馬の数そのものを盗み見る必要はなくなった。
向こうから見せている。
どの程度の割合を休ませるのか。
傷を負った馬をどこまで使うのか。
1度の行軍で何頭を替えるのか。
どれほど休ませれば再び使えるのか。
重要なことが次々と分かった。
玉蘭も達也へ質問した。
「南の軍では馬をどう管理するのですか」
「宋軍は蒙古ほど大量の替え馬を使いません」
「だから遅いのですね」
「それもあります」
「ほかには?」
「荷が多い」
「確かに宋の商隊も荷車が多いですね」
「軍ならさらに多くなります」
「蒙古の方が優れていると認めるのですか」
「優れているところは認めます」
「随分素直ですね」
「負けたくないなら、相手の強さを認めるところから始めるべきでしょう」
玉蘭が達也を見る。
「商人の言葉には聞こえませんね」
達也は帳面から顔を上げた。
「商売も同じです。自分の品だけが一番だと思っていたら、売れなくなります」
「うまく逃げますね」
「商人ですから」
玉蘭が笑った。
2人で働く時間が増えるほど、達也は玉蘭の能力を理解していった。
記憶がよい。
計算が速い。
4つの言葉を使える。
相手の話を聞きながら必要な数字だけ拾える。
間違った数字が出ればすぐ気付く。
さらに、兵と商人では話し方を変える。
阿爾布罕へ意見する時も、ただ反対するのではなく、馬の数、食料、水場、移動日数を根拠に話していた。
達也は以前より明確に考え始めた。
側室として屋敷へ置くだけではもったいない。
この女は働かせるべきだった。
◇ ◇ ◇
その日の昼、帳面を整理している時、達也は玉蘭の姓について話を向けた。
「以前から気になっていたのですが」
「何でしょう」
「耶律という姓です」
玉蘭の手が止まった。
「それが?」
「契丹の耶律氏でしょう」
「そうです」
「遼の皇族と同じですね」
玉蘭はしばらく達也を見た。
「南の商人が、よく知っていますね」
「耶律氏くらいは知っています」
達也はそれ以上詳しい知識を見せなかった。
「玉蘭殿も皇族の家系なのですか」
玉蘭は帳面を閉じた。
「昔の話です」
「昔でも血筋は変わりません」
「遼はもうありません」
「国がなくなっても、耶律の名を覚えている人間はいるでしょう」
玉蘭は否定しなかった。
「父の家は遼王家につながる傍流です」
「やはり」
「だからといって、今の私に国も領地もありません」
「それでも大きなものを持っています」
「何を?」
「名前です」
玉蘭の目が変わった。
「耶律という名前を、契丹人は忘れていないでしょう」
「人によります」
「女真人も知っている」
「それはそうでしょう」
「漢人も知っています」
「昔の遼を恨んでいる者もおります」
「それでも知られている」
達也は言った。
「何も持たない女ではありませんね」
玉蘭は少し笑った。
「あなたは、私に何をさせたいのですか」
「今は帳簿です」
「今は?」
「先のことは分かりません」
「また変な言い方をしますね」
達也は答えず、帳面へ視線を戻した。
だが、内心でははっきり決まった。
遼皇族の血筋。
契丹人。
漢語。
女真語。
蒙古語。
契丹語。
軍馬。
補給。
交易。
帳簿。
これだけ揃った人間は滅多にいない。
南宋が将来蒙古と戦う時、北方の契丹人や女真人を味方へ引き入れることもある。
その時、南宋の役人が命令するのと、遼王家につながる耶律氏の女が話すのでは重みが違う。
蒙古に従っている契丹人と交渉する場合にも使える。
金の旧臣を取り込む場合にも役立つ。
占領した土地を治める時も、漢人だけを相手にするわけではない。
玉蘭なら、その間をつなげられる。
達也は思った。
副官にするなら、これほど都合のよい女はいない。
行政だけではない。
軍事だけでもない。
両方を任せられる。
しかも遼王族の血筋まで持っている。
南宋へ連れて帰ったら、側室にする。
そして自分の副官にする。
それで決まりだった。
◇ ◇ ◇
身体の鍛錬と乗馬の練習も毎日続いた。
朝は身体を鍛える。
そのあと馬へ乗る。
午後に時間があれば騎射を行う。
巴特爾も最初は暇つぶしで教えていたらしい。
しかし達也が毎日同じ時刻に現れ、本当に練習を続けるため、次第に教え方が細かくなった。
ある朝、巴特爾は弓を持ったまま馬を走らせ、途中で身体を右へ大きくひねった。
後方の的へ矢を放つ。
矢が刺さった。
達也が言った。
「それをやりたい」
劉全が訳すと、巴特爾は腹を抱えて笑った。
「何と言いました」
「まだ早い、と」
「分かっています」
達也はまず横へ射る練習を続けた。
馬を走らせる。
手綱を緩める。
脚で進路を保つ。
弓を構える。
矢をつがえる。
射る。
最初の日よりは当たるようになった。
それでも蒙古兵には遠く及ばない。
10本射てば数本しか的へ入らない。
達也は気にしなかった。
昨日より1本多く当たればよい。
次の日にさらに増やす。
巴特爾が馬上で身体を低くする方法も教えた。
弓矢を避けるためである。
馬の反対側へ身体を落とし、馬体を盾にする動きも見せた。
達也は驚いた。
「そこまでやるのか」
実際に試す。
身体を横へずらした瞬間、落ちそうになった。
巴特爾が大笑いした。
「笑うなと言ってください」
劉全が訳す。
巴特爾はさらに笑った。
達也も結局笑った。
そして再び試した。
2回目は少しましだった。
3回目には馬のたてがみを掴まずに戻れた。
その様子を阿爾布罕が遠くから見ていた。
やがて馬に乗って近づいてきた。
「倉大業」
「はい」
「お前、本当に商人か」
達也は笑った。
「最近よく聞かれます」
「普通の商人は毎朝身体を鍛え、蒙古兵に騎射を習わん」
「北へ来たら必要だと思いまして」
「誰と戦う」
「盗賊です」
「盗賊に後ろ向きで矢を射るのか」
「できれば便利でしょう」
阿爾布罕は大声で笑った。
「面白い男だ」
「ありがとうございます」
「褒めたつもりではない」
「玉蘭殿にも同じことを言われました」
阿爾布罕はさらに笑った。
「お前は玉蘭ともよく話すな」
「帳簿を作れと命じたのは阿爾布罕殿でしょう」
「そうだったな」
阿爾布罕は達也の馬を見た。
「乗り方は少しましになった」
「まだ巴特爾殿には勝てません」
「勝てると思っていたのか」
「いずれは」
阿爾布罕の笑いが止まった。
達也を見る。
「本気か」
「やるなら、そのくらい考えた方が面白いでしょう」
阿爾布罕は気に入ったらしい。
「明日、俺と走るか」
「どこへ?」
「近くの丘までだ」
「商売は?」
「玉蘭に任せろ」
「奥方に怒られませんか」
「俺が許す」
「それなら行きます」
阿爾布罕は満足して去った。
劉全が達也へ近づいた。
「とうとう将自ら誘ってきましたね」
「ええ」
「信用されたのでしょうか」
「少なくとも、退屈な商人とは思われなくなりました」
達也が欲しかったのはそれだった。
蒙古軍の中へ深く入るには、帳簿を見るだけでは足りない。
将本人と行動する必要がある。
阿爾布罕から誘わせることができた。
大きな前進だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
玉蘭と達也は馬の記録を整理していた。
玉蘭が帳面を閉じた。
「明日、夫と出るそうですね」
「聞きましたか」
「私が聞かないと思いましたか」
「思っていません」
「どこまで行くのです」
「近くの丘だそうです」
「本当に?」
「私はそう聞きました」
玉蘭は達也を見た。
「夫は気に入った男を、自分の近くへ置きたがります」
「光栄ですね」
「そして危ないこともさせます」
「それは困ります」
「困っている顔ではありません」
「顔には出さないようにしています」
玉蘭は笑わなかった。
「あなたは何を求めているのですか」
達也は少し黙った。
「急ですね」
「毎朝身体を鍛える」
玉蘭が指を折った。
「馬を習う」
「はい」
「弓を習う」
「はい」
「軍馬の帳簿を作る」
「命じられましたので」
「蒙古兵の動きをよく見る」
達也は玉蘭を見る。
「私を疑っていますね」
「最初からです」
「では阿爾布罕殿へ言えばよいでしょう」
「まだ言いません」
「なぜです」
玉蘭は少し考えた。
「あなたが何者か知りたいからです」
「商人ですよ」
「もう少しましな答えを考えてください」
達也が笑った。
「では玉蘭殿は、私が何者だと思っています」
「商人だけではない」
「兵ですか」
「それも分かりません」
「盗賊?」
「蒙古軍の中へ自分から入る盗賊はいません」
「では間者?」
玉蘭は達也の顔を見た。
達也も目をそらさなかった。
数秒間、互いに黙った。
玉蘭が先に口を開いた。
「もしそうなら、随分大胆な間者ですね」
「そういう男もいるかもしれません」
「あなたは否定しないのですね」
「否定しても信じないでしょう」
「はい」
「なら無駄です」
玉蘭は達也を見ながら言った。
「不思議な人ですね」
「またそれですか」
「夫に似ているところもあります」
「どこが?」
「危険を怖がらないところ」
「ほかには?」
「欲しいと思ったものへ手を伸ばすところ」
達也の目がわずかに動いた。
「私はまだ何も取っていませんよ」
「今は、でしょう」
玉蘭は帳面を持ち上げた。
「気を付けた方がよいですよ、倉大業」
「何にです」
「欲張りすぎると、最後には全部失います」
達也は笑った。
「それでも欲しいものがあるなら、取ろうとはします」
「やはり危ない人ですね」
「玉蘭殿は?」
「私が何です」
「欲しいものはないのですか」
玉蘭はすぐには答えなかった。
「あります」
「何でしょう」
「あなたにはまだ教えません」
「残念です」
「もう少し信用できたら考えます」
達也はその言葉を覚えた。
玉蘭自身が「信用」という言葉を使った。
まだ入口だった。
しかし入口は開いた。
達也は焦らない。
この女を単に寝所へ連れていくだけなら、ここまで時間を掛ける意味はない。
達也が欲しくなったのは、もっと大きなものだった。
耶律玉蘭という女そのもの。
その知識。
その頭脳。
4つの言葉。
行政能力。
軍事知識。
契丹人としての人脈。
そして遼王族につながる耶律氏という名。
全部である。
南宋へ連れ帰れば、側室にする。
だが、それだけでは終わらせない。
自分の横で行政と軍事の両方を支える副官にする。
北方の契丹人、女真人、蒙古人、漢人を相手にする時にも働かせる。
そのためにも玉蘭自身が達也を選ばなければならなかった。
達也は帳面を玉蘭へ返した。
「では、信用していただけるまで働きます」
「夫のために?」
「今はそういうことにしておきましょう」
玉蘭は達也を見た。
その意味を尋ねなかった。
だが表情は、最初に出会った時とは変わっていた。
警戒だけではない。
興味が混じっていた。
10月上旬。
達也は蒙古軍の弱点を探りながら、自分自身も蒙古騎兵の戦い方を身体へ覚え込ませ始めた。
阿爾布罕の信用。
玉蘭の興味。
蒙古軍の内情。
さらに、遼王族の血を引く有能な女。
達也は蒙古へ来た時には考えていなかったほど、大きな獲物を見つけていた。
1223年10月上旬、達也は蒙古軍交易所への滞在を続けた。
蒙古軍を研究するだけでなく、自ら毎朝身体を鍛え、蒙古兵から乗馬と騎射を習い始める。
達也には乗馬経験があったが、蒙古騎兵のように脚で馬を操りながら弓を射る技術は別物だった。
達也は騎射、急旋回、馬上で身体をずらす動作などを繰り返し練習し、蒙古騎兵の強さを身体でも理解し始める。
一方、阿爾布罕の軍では、休ませるべき軍馬を再び使ったことで傷む馬が増えていた。
達也は玉蘭とともに、使える馬、休ませる馬、負傷した馬を分けて帳簿へ記録する方法を作る。
阿爾布罕はこれを認め、達也へ交易所への滞在延長を自ら求めた。
商人としてだけでなく、役に立つ男として達也を信用し始めたのである。
さらに阿爾布罕は、達也の身体鍛錬と騎射訓練を面白がり、自ら一緒に馬を走らせようと誘った。
達也は蒙古軍のさらに深いところへ入る足場を得た。
同時に玉蘭の価値も一段と大きくなる。
玉蘭は語学や帳簿だけでなく、軍馬、補給、交易、兵の運用を理解している。
さらに耶律氏は遼皇族の家系であり、玉蘭自身も遼王家につながる血筋だった。
契丹人、女真人、蒙古人、漢人が入り交じる北方で、この出自と語学力は行政にも軍事にも大きな力となる。
達也は玉蘭を南宋へ連れ帰った場合、側室として迎えるだけでなく、行政と軍事の両方を任せる自分の副官にすると決めた。
玉蘭もまた、達也が普通の商人ではないと確信しながら、すぐ夫へ告げることはせず、達也の正体に興味を持ち始める。
阿爾布罕の信用と玉蘭の興味。
そして遼王族の血を引く有能な女。
達也は蒙古軍を探る中で、将来の戦と統治の両方に役立つ人物を見つけていた。




