第4話(後編1)――「将の隣に立つ女」
1223年10月中旬。
蒙古将阿爾布罕の信用を得始めた倉達也は、交易所の外へ連れ出され、蒙古騎兵とともに実際の行軍を経験する。
そこで達也が見るのは、単に馬が速い軍ではなかった。
先行する斥候、替え馬、水場の選び方、部隊を止める時間の短さ。蒙古軍の機動力は、兵1人の騎乗技術だけで作られているのではない。
一方、交易所へ戻った達也は、耶律玉蘭が軍馬や帳簿を管理するだけでなく、兵、物資、商人を同時に動かせる女であることを知る。
遼王族の血を引き、4つの言葉を使い、行政と軍事の両方を理解する玉蘭。
達也の中で、彼女を南宋へ連れ帰る理由は、さらに大きくなっていく。
(1223年10月中旬、蒙古軍交易所)
夜明け前、倉達也はいつものように身体を鍛えた。
走り、腕と腹を鍛え、石を持ち上げる。それを終えると朝餉を取り、すぐ馬場へ向かった。
昨日、阿爾布罕から一緒に馬を走らせるよう誘われている。
馬場へ着くと、すでに30騎ほどが集まっていた。
近くの丘まで行くという話だったが、遊びで馬を走らせる人数ではない。
全員が弓を持っている。
何人かは自分が乗る馬のほかに、別の馬も連れていた。
達也は顔には出さなかった。
こちらの方が都合がよい。
実際に蒙古兵が移動するところを見られる。
阿爾布罕が達也を見つけた。
「来たな」
「お誘いいただきましたので」
「途中で遅れるなよ」
「そのために毎日練習しております」
「まだ巴特爾ほどには乗れん」
「昨日よりは上手くなっています」
阿爾布罕が笑った。
「その言い方は嫌いではない」
巴特爾も馬に乗っていた。
達也へ何か言う。
同行した劉全が訳した。
「今日は馬から落ちても待たない、と言っています」
「では落ちなければいい」
劉全が訳すと、蒙古兵たちが笑った。
達也も馬へ乗った。
◇ ◇ ◇
一行は交易所を出ると北西へ向かった。
最初から全力で走るわけではない。
しばらくは馬を歩かせる。
その間に数騎が本隊から離れた。
達也は何も尋ねず見ていた。
2騎は前へ進み、さらに2騎が左右へ広がった。
しばらくすると、また別の騎兵が前へ出た。
阿爾布罕が達也へ言った。
「何を見ている」
「先へ行った兵です」
「珍しいか」
「商隊では、あそこまで広げません」
「あれがいないと敵へぶつかる」
「斥候ですね」
「そうだ」
達也は前方を見た。
先頭だけに斥候を置くのではない。
左右も見る。
さらに最初の斥候と本隊の間にも兵がいる。
遠く離れた斥候が何かを見つけても、途中の騎兵へ伝えれば早く本隊まで届く。
達也が南宋で考えていた伝令の速さが、目の前にあった。
しばらくすると、先へ出ていた騎兵の1人が戻った。
阿爾布罕へ短く報告する。
すぐに一行の進む方向が少し変わった。
達也が尋ねた。
「何かありましたか」
「前の道に荷車がいる」
「避けるのですか」
「狭い」
阿爾布罕はそれだけ答えた。
達也は感心した。
道が塞がっているなら、荷車をどかして進む方法もある。
宋軍ならそうすることが多い。
しかし蒙古兵は止まらず、すぐ別の道を使う。
何よりも速度を落とさないことを優先していた。
少し進むと草地へ出た。
阿爾布罕が手を上げる。
それまで一団になっていた騎兵が広がった。
「走るぞ」
阿爾布罕が言った。
馬が一斉に速くなった。
達也も付いていく。
以前なら馬から振り落とされないよう身体を固くしていた。
今は違う。
腰で馬の動きを受け、膝で締めすぎず、視線を進む方向へ向ける。
巴特爾から何度も注意されたことを思い出しながら走った。
阿爾布罕が振り返った。
「遅くないな」
「毎日練習しておりますので」
「商人のくせに負けず嫌いだ」
「商売でも負けるのは嫌いです」
阿爾布罕が笑った。
一行は草原をしばらく走った。
やがて阿爾布罕が合図を出した。
速度が落ちる。
馬を止めるのではなく、歩かせながら休ませている。
兵たちは水を飲み、干した肉を口にする者もいるが、地面へ座り込む者は少なかった。
長く休むつもりがないからである。
達也は馬の呼吸を確かめた。
自分の馬はかなり息が上がっている。
蒙古兵の何人かは乗ってきた馬から降り、連れてきた別の馬へ鞍を移し始めた。
達也はその様子を見た。
早い。
荷物が少ないため、鞍を替えればすぐ次の馬を使える。
阿爾布罕が言った。
「お前も替えるか」
「まだ走れます」
「馬は?」
達也は自分の馬を見た。
自分が走れるかどうかを聞かれたのではない。
馬が走れるかを聞かれている。
「替えた方がよさそうですね」
「分かってきたな」
達也は別の馬へ乗り替えた。
ここでも蒙古軍の考え方は明快だった。
兵が疲れるまで同じ馬を使うのではない。
馬の力が落ちる前に替え、部隊全体の速度を維持するのである。
◇ ◇ ◇
さらに進むと、小さな川へ出た。
水量は多くない。
だが岸の一部がぬかるんでいる。
先行していた騎兵は、最も浅い場所を探していた。
阿爾布罕はすぐ渡らなかった。
数騎を先に行かせる。
向こう岸へ渡った兵が周囲を確認してから、本隊が続いた。
達也は渡河しながら川幅を見た。
これが大きな川なら、速度は落ちる。
馬が多いほど渡河には時間が掛かる。
橋がなければ渡れる場所も限られる。
蒙古軍は速い。
しかし、どこでも同じ速さで走れるわけではない。
川、山、湿地、狭い道、草と水。
実際に蒙古騎兵とともに走るほど、蒙古軍の機動力を鈍らせる条件が明確になっていった。
川を渡り終えたところで、後方から1騎が追いついてきた。
若い兵だった。
馬が汗まみれになっている。
阿爾布罕へ何かを報告した。
達也には蒙古語が分からない。
しかし阿爾布罕の顔が変わった。
「どうしました」
「近くで金の兵を見た」
「何人です」
「分からん。多くはない」
阿爾布罕はすぐ部下へ命令した。
10騎ほどが先へ出る。
別の数騎が左右へ離れた。
残りもその場に固まらず、少しずつ距離を取った。
達也は見ていた。
敵がいると分かった瞬間、全員で突っ込むわけではない。
まず敵の数と位置を確かめ、逃げ道まで見たうえで、戦うかどうかを決める。
達也の考え方と似ていた。
やがて先へ出た兵が戻った。
阿爾布罕が笑った。
「金兵ではなかった」
「何だったのです」
「逃げてきた農民だ」
「随分違いますね」
「遠くから見れば人は人だ」
「確かに」
阿爾布罕は部下へ命じて警戒を解いた。
それから達也を見た。
「怖かったか」
「まだ敵も見ていません」
「敵だったら?」
「阿爾布罕殿の後ろへ隠れます」
一瞬、阿爾布罕が黙った。
そのあと大笑いした。
「嘘をつけ」
「商人ですので」
「お前は隠れる顔ではない」
「では馬で逃げます」
「昨日までの乗り方なら捕まるぞ」
「だから練習しているのです」
阿爾布罕はまた笑った。
達也は、相手がますます自分を気に入っていることを感じた。
◇ ◇ ◇
昼近くになり、一行は丘の上へ着いた。
そこからは周囲が広く見渡せた。
遠くに村がある。
街道が南北へ延びている。
西には緩い山地がある。
阿爾布罕は馬から降りた。
達也も降りる。
「なぜここへ?」
達也が尋ねた。
「道を見る」
「敵の?」
「敵だけではない」
阿爾布罕は遠くを指した。
「あそこに水がある」
次に別の方向を示した。
「向こうは草が多い」
「軍を置く場所を見ているのですか」
「通る場所だ」
達也は理解した。
蒙古軍は城と城だけを見ていない。
その間を見る。
どこに馬を止められるか。
水を取れるか。
大軍が通れるか。
敵に見つからず回れる道があるか。
地図の上に線を引くだけでは分からないものを、実際に見ている。
「阿爾布罕殿は、こういう場所をいつも見ているのですか」
「戦うなら当然だ」
「城より先に?」
「城は逃げん」
阿爾布罕が答えた。
「兵は動く。馬も動く。水は動かん」
達也はその言葉を覚えた。
単純だが重要だった。
水場は動かない。
蒙古軍がどれほど速くても、水を取れる場所は限られる。
草も同じである。
達也の中で、将来の戦い方がさらに固まっていった。
水場へ敵が来る前に伏兵を置き、必要なら周辺の草を刈って蒙古軍へ使わせない。
渡河点も監視し、蒙古軍そのものを追いかけるのではなく、相手が必ず利用する場所で待ち受ける。
そうすれば蒙古騎兵と速さを競う必要はない。
阿爾布罕が達也を見た。
「何を考えている」
「商売です」
「またか」
「水があるところには人が集まります」
「それで?」
「人が集まれば物が売れます」
阿爾布罕は呆れた顔をした。
「何でも商売にするのだな」
「そのために北へ来ましたので」
達也は平然と答えた。
◇ ◇ ◇
交易所へ戻ったのは午後だった。
達也の脚は重くなっていた。
身体を鍛えていても、長時間の騎乗で使う筋肉は別である。
しかし休む前に、馬の汗を拭かせ、水を与えるところまで見た。
蒙古兵は自分の身体より先に馬を見る者が多かった。
これも覚えた。
軍営の中央へ戻ると、いつもより人が多かった。
荷車が3台止まっている。
商人が数人集まり、蒙古兵と何か言い争っていた。
その中央に玉蘭がいた。
達也は近づいた。
「何かあったのですか」
玉蘭は達也へ一度目を向けた。
「干し草が足りません」
「馬の?」
「ええ」
玉蘭は帳面を開いた。
「東へ出る部隊と、西から戻った部隊が同時に馬を替えることになりました」
「予定が重なった?」
「そうです」
さらに別の帳面を示す。
「昨日までなら足りていました。ですが、西から戻った馬を予定より長く休ませることにしたため、その分の草が増えました」
達也たちが作った馬の管理が早速影響していた。
傷んだ馬を無理に使わなくなった。
その代わり、休ませる馬へ食わせる草が必要になった。
達也は荷車を見る。
「この3台は?」
「商人が持ってきました」
「なら買えばいいでしょう」
「値を上げています」
玉蘭が不機嫌そうに答えた。
商人は蒙古軍が困っていることを知っている。
だから高く売ろうとしている。
「どのくらいです」
玉蘭が値を告げた。
達也は笑った。
「随分取りますね」
「でしょう」
そこへ阿爾布罕が戻ってきた。
「まだ決まらんのか」
玉蘭が夫を見る。
「この値では買いません」
「草がないのだろう」
「ございます」
「足りないと言ったではないか」
「全部をここへ置くから足りなくなるのです」
阿爾布罕が眉を寄せた。
「どういうことだ」
玉蘭は地図を出した。
「明日東へ出る部隊は、ここで3日分を持たせる必要はありません」
「なぜだ」
「1日先に村があります」
「あるな」
「そこで買えばよいのです」
「売らなかったら?」
「昨日、漢人商人がそこから来ています。草はあると言っていました」
「値は?」
「ここより安いです」
阿爾布罕は少し考えた。
「だが途中で足りなくなれば困る」
「1日分と予備だけ持たせます」
玉蘭は続けた。
「西から戻った馬には、ここにある草を使う。東へ出る馬へは必要な分だけ渡す。それなら、この商人から高い草を全部買う必要はありません」
阿爾布罕は達也を見た。
「倉大業。どう思う」
突然話を振られた。
達也は玉蘭の帳面を見た。
「玉蘭殿の方が正しいと思います」
「なぜだ」
「全部ここから持たせれば、荷が増えます」
達也は答えた。
「蒙古軍の強みは荷が少ないことではないのですか」
阿爾布罕の目が変わった。
「続けろ」
「途中で手に入る物まで最初から運べば、馬へ余計な荷を載せます」
「村で草がなければ?」
「だから全部減らすのではなく、予備を持たせるのでしょう」
達也は玉蘭を見る。
「そうですね」
「はい」
「なら、それでいいと思います」
阿爾布罕は少し考えたあと、決めた。
「そうしろ」
玉蘭がすぐ兵へ指示を出した。
蒙古語で兵へ命じ、漢語で別の者へ指示し、商人には女真語を使った。
3つの集団へ別々の言葉で話しながら、何をどこへ動かすのかを間違えない。
兵が草を分ける。
商人とは必要な分だけ値を詰める。
荷車の1台を別の場所へ回す。
玉蘭は自分で物を運ぶのではなく、人と数字と物を動かした。
その場の混乱が短い時間で収まっていった。
達也は黙って見ていた。
これだった。
帳簿が使えるだけではない。
玉蘭は行政ができる。
しかも軍の速度を落とさないために、必要な量と輸送まで考えられる。
軍事も分かっている。
副官として十分に使える女だと、達也は改めて確信した。
◇ ◇ ◇
夕方。
阿爾布罕は酒を飲みながら達也を自分の天幕へ呼んだ。
玉蘭もいた。
「今日はどうだった」
「馬で走るだけでも勉強になりました」
「勉強?」
「こちらの馬の使い方です」
阿爾布罕が笑った。
「商人が何を学ぶ」
「北で商売をするなら馬は必要です」
「まだ言うか」
「私は商人ですよ」
「そういうことにしておこう」
阿爾布罕は酒を飲んだ。
「お前は使える」
「ありがとうございます」
「馬の帳簿もそうだ。今日の草もそうだ」
「草の方は玉蘭殿が考えたことです」
阿爾布罕が妻を見る。
「こいつは昔からそういうことが得意だ」
「それなら、もっと任せればいいでしょう」
達也が言うと、阿爾布罕が笑った。
「十分任せている」
玉蘭が横から言った。
「面倒な仕事を回しているだけです」
「同じだ」
「違います」
「帳簿も交易も任せている」
「決めるのはあなたでしょう」
「俺が将だからな」
阿爾布罕は悪気なく答えた。
玉蘭もそれ以上言わなかった。
しかし達也には分かった。
以前から感じていたものが、はっきり形になった。
玉蘭が欲しがっているのは金ではない。
衣服でも宝石でもない。
自分の能力を十分に使える立場だった。
今も軍に役立っている。
だが最後に決めるのは常に夫である。
玉蘭は夫の妻として帳簿を付け、通訳をし、足りない物を調べる。
判断はする。
意見も言う。
しかし指揮する立場ではない。
阿爾布罕が達也へ言った。
「倉大業」
「はい」
「数日後、上の将がここへ来る」
達也の注意が一気にそちらへ向いた。
「上の将?」
「ああ」
「何をなさるのですか」
「兵と馬を見る。それから冬までの物資を決める」
達也は平然と酒杯を持っていた。
「大変ですね」
「南の品も欲しがっている」
「茶や絹ですか」
「薬もだ」
阿爾布罕は達也を見た。
「お前を会わせる」
達也は少し驚いた顔を作った。
「私を?」
「南から安定して物を運べるなら使える」
「まだ1度来ただけです」
「だから話をする」
「商売が大きくなりそうですね」
「嫌か」
「逆です」
達也は笑った。
「儲かる話なら歓迎します」
阿爾布罕は満足した。
これで一段深く入れる。
1000人規模の部隊を動かす阿爾布罕だけではない。
その上にいる将へつながる。
達也が望んでいた蒙古軍中枢への道が、向こうから開き始めていた。
◇ ◇ ◇
阿爾布罕が酒を飲み続ける中、玉蘭は先に天幕を出た。
達也も少しして席を立った。
「私も戻ります」
「明日も走るぞ」
阿爾布罕が言った。
「朝の鍛錬が終わってからなら」
「本当に毎日やるのだな」
「身体を鈍らせたくありませんので」
「商人のくせに」
「そこはもう聞き飽きました」
阿爾布罕が大笑いした。
達也は天幕を出た。
少し先に玉蘭がいた。
帳面を抱えて歩いている。
達也は追いついた。
「玉蘭殿」
「何でしょう」
「先ほどの話です」
「上の将のこと?」
「違います」
玉蘭が足を止めた。
「では何です」
「今日の草です」
「草?」
「よく見ていましたね」
「仕事ですから」
「誰に言われたのです」
「何を?」
「東へ出る部隊の草を、途中で買うことです」
「誰にも」
「玉蘭殿が決めた?」
「はい」
「やはり」
「何がです」
達也は玉蘭を見る。
「帳簿係ではありませんね」
玉蘭の表情が少し変わった。
「何を言っているのですか」
「数えるだけなら、足りないと報告すれば終わりです」
達也は続けた。
「玉蘭殿は、どの部隊へどれだけ持たせれば速く動けるかまで考えた」
「それくらいは考えます」
「誰でもできることではありません」
「夫の軍を7年見ていますから」
「7年見ても分からない人間は分かりません」
玉蘭は達也を見た。
「何が言いたいのですか」
「もったいないと思っただけです」
「何が?」
「玉蘭殿です」
玉蘭の目が細くなった。
「夫の妻に、随分なことを言いますね」
「美しいという話ではありません」
「それなら何です」
「能力です」
達也は言った。
「玉蘭殿なら、もっと大きな仕事ができます」
玉蘭は黙った。
「何を根拠に?」
「ここ数日、隣で帳簿を見ました」
「それだけ?」
「十分です」
達也は答えた。
「人と物を動かす時、必要なのは何でも自分でやる人間ではありません。誰に何をさせれば全体が動くか分かる人間です」
玉蘭はしばらく達也を見ていた。
「あなたこそ、本当に何者なのですか」
「今は商人です」
「またそれですか」
「今は、それでお願いします」
玉蘭は歩き出した。
達也も横へ並んだ。
しばらく無言で歩いたあと、玉蘭が言った。
「以前、欲しいものがあると言いましたね」
「覚えています」
「何だと思いますか」
「自分で決められる場所」
玉蘭の足が止まった。
達也は続けた。
「違いますか」
玉蘭はすぐ答えなかった。
やがて少し笑った。
「随分勝手に人のことを決めますね」
「外れましたか」
「全部ではありません」
「なら少しは当たった」
「そうですね」
玉蘭は再び歩いた。
「私は夫を嫌ってはいません」
「はい」
「戦では勇敢です。兵にも慕われています」
「私もそう思います」
「ですが」
玉蘭は少し言葉を選んだ。
「夫にとって私は妻です」
「当然でしょう」
「妻だから帳簿を任される。妻だから通訳をする。妻だから軍の物を数える」
「それでは不満ですか」
「役に立てることは嫌ではありません」
「では?」
玉蘭は前を向いた。
「私が考えたからではなく、最後は夫が決めたことになる」
達也は何も言わず聞いた。
「今日の草もそうです。夫が認めたから実行された」
「将ですからね」
「分かっています」
玉蘭は答えた。
「だから夫が悪いとは言っていません」
「でも、それだけでは足りない」
玉蘭が達也を見る。
「あなたは本当に遠慮なく言いますね」
「違うなら訂正してください」
玉蘭は否定しなかった。
達也はそれ以上追わなかった。
今は十分だった。
玉蘭が夫を憎んでいるわけではない。
夫婦仲が壊れているわけでもない。
だから簡単には動かない。
しかし玉蘭には、自分の能力を自分の名で使いたいという思いがある。
そこに道がある。
達也が南宋で与えられるものは、阿爾布罕より大きい。
側室として屋敷へ迎えるだけではなく、副官として自分の隣に置き、行政にも軍事にも意見を出させる。
必要なら兵も役人も動かさせ、玉蘭自身の判断で物事が進む立場を与える。
達也は女だから寝所へ置いておけばよいとは考えていない。
玉蘭がそれを知った時、何を選ぶのか。
答えはまだ先だった。
◇ ◇ ◇
別れる前、玉蘭が達也を呼び止めた。
「倉大業」
「はい」
「1つ聞いてよいですか」
「どうぞ」
「あなたは、美しい女なら誰にでも『もったいない』と言うのですか」
達也は玉蘭を見た。
「玉蘭殿が美しいことは否定しません」
「聞いているのはそこではありません」
「では正直に答えます」
玉蘭が待つ。
「美しいだけなら、ここまで興味は持ちません」
玉蘭の表情が変わった。
「それは褒めているのですか」
「かなり」
「夫の妻ですよ」
「知っています」
「知っていて言う?」
「嘘をつく必要がありませんので」
玉蘭は達也を見たまま黙った。
達也もそれ以上言わなかった。
まだ口説かない。
だが、自分が玉蘭をただの帳簿係として見ていないことは伝わった。
達也は玉蘭を女として見ているだけでなく、能力を持った1人の人間としても高く評価していた。
玉蘭は帳面を胸元へ抱えた。
「やはり危ない人ですね」
「以前にも言われました」
「少し意味が変わりました」
「良い方へ?」
「教えません」
玉蘭はそれだけ言って、自分の天幕へ戻っていった。
達也はその後ろ姿を見送った。
阿爾布罕の信用は深まっている。
数日後には、その上の蒙古将へ紹介される。
蒙古軍の行軍からは、斥候の使い方、替え馬、水場、草、渡河、伝令の仕組みを実際に見ることができた。
その一方で、蒙古軍の弱点も以前より明確になった。
そして玉蘭についても分かった。
彼女が欲しがっているのは、夫を裏切る機会ではない。
自分の能力を、自分の判断として使える立場だった。
ならば急ぐ必要はない。
達也はその立場を与えられる。
玉蘭を側室として迎えるだけでなく、行政と軍事の両方を任せる副官として自分の隣へ置く。
どちらか一方ではなく、その両方を与えるつもりだった。
10月中旬。
蒙古軍を調べに来た交易商人は、軍のさらに奥へ続く道と、遼王族の血を引く女の心へ近づく道を、同時に見つけ始めていた。
1223年10月中旬、達也は阿爾布罕に同行し、蒙古騎兵とともに実際の行軍を経験した。
そこで達也は、蒙古軍が先行する斥候を前方と左右へ広げ、情報を素早く本隊へ戻し、道が塞がっていれば立ち止まらず別路を選ぶことを確認する。
さらに疲れた馬を途中で替え、長く休まず移動を続けることで、高い機動力を維持していた。
一方、その速さには大量の軍馬、草、水、渡河点が必要であり、これらを押さえれば蒙古軍の動きを鈍らせられることも、達也は実際の行軍から確信する。
交易所へ戻ると、軍馬を休ませたことで干し草が不足する問題が起きていた。
玉蘭は、出発する部隊へ必要以上の草を持たせず、途中の村で補給することで荷を減らし、軍の速度を落とさない方法を提案する。
達也はその判断を支持し、阿爾布罕も採用した。
達也はここで、玉蘭が帳簿や通訳だけの女ではなく、軍の運用と行政の両方を自分で判断できる人物だと改めて確信する。
さらに阿爾布罕は、数日後に訪れる上位の蒙古将へ、南方交易に使える商人として達也を紹介すると決めた。
達也は蒙古軍のさらに深いところへ近づくことになる。
同時に玉蘭自身の望みも見え始めた。
玉蘭は夫を嫌っているわけではない。
しかし夫の妻として帳簿や通訳を任されるだけではなく、自分の判断で人や物を動かせる立場を求めていた。
達也が彼女へ与えようとしているものは、まさにそれだった。
側室として迎えると同時に、行政と軍事を任せる副官として働かせる。
玉蘭の能力をすべて使える立場である。
阿爾布罕の信用、蒙古軍中枢への道、そして玉蘭の心。
達也は3つを同時に手に入れ始めていた。




