第3話(後編1)――「淮河を越える」
1223年初夏。
南宋領へ侵入した蒙古軍2106人を全滅させた倉達也は、その功によって武功郎を授けられた。
さらに淮東には3000人の遊撃軍が置かれ、達也が現地へ出た時には直接指揮することを認められた。
しかし達也は、蒙古軍を倒して南宋領を守っただけでは満足しなかった。
蒙古との戦で金軍も疲弊している。
達也は、この機会に淮河を越え、金の領土そのものを奪うことを考える。
目標は、かつて宋の領土であった宿州である。
(1223年初夏、南宋・臨安府・宮中)
蒙古軍全滅の報告から数日後、達也は再び宮中へ呼ばれた。
皇帝趙擴の前には、宰相、枢密院の高官、淮東方面を担当する官人が並んでいた。
卓の上には大きな地図が広げられている。
淮河の南が南宋。
北が金。
その境は長い間ほとんど動いていなかった。
皇帝が達也へ尋ねた。
「蒙古軍を全滅させたあと、金軍に動きはあるか」
「大きな南下は確認されていません」
「北では?」
「蒙古軍への対応で兵を動かしています」
「淮河沿いの兵は減っているのか」
達也は地図へ目を向けた。
「場所によります。ただ、蒙古との戦へ回された兵があり、以前より薄くなっているところがあります」
枢密院の高官が言った。
「だからといって、金が弱いと決めるのは早い」
「はい」
達也も同意した。
「金全体が弱いとは言っていません」
「では何だ」
「淮河の北で、今なら取れる土地があります」
部屋が静かになった。
皇帝が達也を見る。
「どこだ」
達也は地図の一点を指した。
「宿州です」
官人の1人がすぐ口を開いた。
「待て。今度は金領へ攻め込むつもりか」
「はい」
「蒙古軍を倒したばかりだぞ」
「だからです」
「どういう意味だ」
達也は地図から顔を上げた。
「蒙古軍2106人を全滅させました」
「ああ」
「宋軍は勝ちました」
「それは皆知っている」
「ですが、地図は何も変わっていません」
官人たちが黙った。
「蒙古軍が来た。南宋が倒した。敵は消えた。これでは守っただけです」
別の官人が言った。
「守っただけでも大功だ」
「もちろんです」
達也は答えた。
「ですが、兵たちにはもう1つ必要だと思います」
「何だ」
「北へ行っても勝てるという経験です」
皇帝の目が達也へ向いた。
達也は続けた。
「淮河の南で何度勝っても、国境が動かなければ、兵は自分たちが守る側だと思い続けます」
誰も口を挟まなかった。
「淮河を越えて金の城を取り、宋の旗を立てる」
達也は宿州を指した。
「そうすれば違います」
「何が違う」
「宋軍が北へ進めると、兵自身が知ります」
年長の官人が尋ねた。
「宿州を取って、どれほどの税が入る」
「知りません」
予想外の答えに、官人が眉を上げた。
「調べていないのか」
「今話しているのは税ではありません」
「では何だ」
「勝ったという事実です」
達也は答えた。
「金に取られた土地を、宋軍が自分で取り返した。それを兵にも民にも見せます」
部屋は再び静かになった。
皇帝がゆっくり口を開いた。
「朕も、そこが大きいと思う」
官人たちが皇帝を見た。
「蒙古軍を倒した報せが届いた時、淮東の軍は喜んだそうだな」
枢密院の官人が答えた。
「はい。各軍でも大いに話題となっております」
「なら次は、宋軍が淮河を越えたと知らせる」
皇帝は地図を見た。
「淮河より北に宋の旗が立ったと知れば、兵の心は変わる」
「陛下」
慎重な官人が口を開いた。
「金との全面戦争になる恐れがあります」
「すでに金とは何度も戦っている」
「しかし領土を奪えば話が違います」
皇帝は答えた。
「話を違わせるためにやるのだ」
達也は皇帝を見た。
皇帝はさらに続けた。
「いつまで守る側でいる」
部屋の空気が変わった。
「淮河の南へ金軍が来れば戦い、追い返せば喜ぶ。その繰り返しで兵が強くなるか」
誰も答えない。
「1つの州から取れる税の話ではない」
皇帝は宿州を指した。
「宋の兵が北へ渡り、金の土地を奪った。その報せを国中へ流す。それだけでも価値がある」
達也が頭を下げた。
「私もそう思います」
「取れるのか」
皇帝が尋ねた。
「兵をいただければ」
「何人欲しい」
「1万人」
「3000人では足りないか」
「私の遊撃軍3000人を先に渡します。残る7000人は後ろから来てもらいます」
「なぜ分ける」
「1万人を一度に渡せば、金軍にも見えます」
「3000人を先に入れる?」
「はい」
「何をする」
「霊璧県を取ります」
達也は宿州の南東を指した。
「ここを取れば宿州へ近づけます」
「そのあと宿州?」
「はい」
「金軍の援軍が来るぞ」
「来てもらいます」
皇帝が笑った。
「またそれか」
「城の中へ1万人入られるより、来る途中で戦った方が楽です」
「援軍を外で潰す?」
「そのつもりです」
皇帝は達也を見た。
「よし」
達也が礼をした。
「倉達也」
「はい」
「淮河を越えろ」
「承知しました」
「宿州を取れ」
「はい」
「取った城から勝手に戻るな」
達也が顔を上げた。
皇帝ははっきり言った。
「宋の領土にする」
達也は笑った。
「それなら話が早いです」
◇ ◇ ◇
宮中を出た達也は、その日のうちに枢密院へ戻った。
淮東へ送る命令書が作られた。
遊撃軍3000人を直ちに集結。
別の淮東諸軍から7000人を選び、後続軍とする。
船。
兵糧。
矢。
軍馬。
攻城に使う道具。
すべてを淮河沿いへ集める。
達也は中編1で自分が調べた水路と兵糧倉の記録を引っ張り出した。
上役がそれを見て笑った。
「結局、あの調査を戦に使うのか」
「そのために調べたのでしょう」
「最初から宿州を取るつもりだったわけではない」
「今使えれば十分です」
達也は船の記録を見た。
「ここから兵糧を送れます」
「渡河する兵は?」
「遊撃軍3000人を2か所から渡します」
「分けるのか」
「金軍には、どちらが本隊か分からなくします」
「後続7000人は?」
「霊璧を取ってから渡します」
「取れなければ?」
「その時は帰ります」
「意外だな」
「勝てないのに1万人渡しても仕方ありません」
「勝てると分かれば?」
「全部渡します」
上役は地図を見た。
「お前は本当に北へ行くのだな」
「はい」
「淮河の向こうだぞ」
「川でしょう」
「そういう意味ではない」
達也は上役を見る。
「分かっています」
上役はしばらく黙った。
「俺が若い頃から、淮河の北は金だ」
「今日までは」
上役が達也を見る。
「大きく出たな」
「取れば宋です」
◇ ◇ ◇
出発の日。
達也は沈氏本家を出た。
今回はいつもの視察とは違い、護衛の数も多かった。
玄関には沈宗礼と沈文紹がいた。
「今度は戦だそうですね」
文紹が言った。
「はい」
「蒙古ではなく金?」
「そうです」
「金軍が来たのですか」
「今回は私たちが行きます」
文紹が目を見開いた。
「北へ?」
「淮河を越えます」
宗礼の表情も変わった。
「朝廷が許したのか」
「陛下の命令です」
「どこまで行く」
「宿州です」
宗礼はしばらく達也を見た。
「取るつもりか」
「取ります」
「取ったあと戻るのか」
「戻りません」
「では」
「宋の領土にします」
宗礼は息を吐いた。
「随分大きな仕事になったな」
「そうですね」
少し離れたところに玉香がいた。
夫や舅の前では何も言わない。
達也も声を掛けなかった。
達也が馬へ向かうと、玉香と一瞬だけ目が合った。
玉香は小さく頭を下げた。
達也も軽く頷き、馬へ乗った。
◇ ◇ ◇
10日余り後。
淮河の南岸に遊撃軍3000人が集まった。
蒙古軍との戦を経験した兵が多い。
達也が軍営へ入ると、兵たちから声が上がった。
「倉殿だ!」
「今度は何をやる!」
「蒙古はもういないぞ!」
達也は兵の前へ立った。
「今度は金です」
兵たちが静かになった。
「金軍が来るのですか!」
誰かが声を上げた。
「来ません」
達也は答えた。
「我々が行きます」
兵の間にざわめきが広がった。
「どこへ?」
「淮河の北です」
さらに大きなざわめきが起きた。
達也は待った。
兵が静まってから続けた。
「宿州を取ります」
兵たちの顔が変わった。
驚く者。
隣と顔を見合わせる者。
笑う者。
緊張する者。
「本当に北へ行くのですか!」
「行きます」
「金の城を取る?」
「はい」
「取ったら戻るのですか」
「戻りません」
達也は淮河の向こうを指した。
「取った土地は宋の土地になります」
一瞬の静寂のあと、兵の間から声が上がった。
「宋の土地にするぞ!」
別の兵が叫んだ。
それに続いて声が広がった。
「淮河を越えるぞ!」
「宿州を取る!」
達也は兵たちを見た。
蒙古軍を待っていた時とは違う。
今回は自分たちから北へ行く。
それだけで兵の表情が変わっていた。
「静かに!」
達也が声を上げた。
兵たちが口を閉じる。
「喜ぶのは取ってからです」
笑いが起きた。
「今夜渡ります」
◇ ◇ ◇
夜半。
淮河に船が出た。
船は1か所へ集めなかった。
遊撃軍3000人を2隊に分ける。
達也自身が1800人を率いる。
別の武官が1200人を率いる。
2か所から川を渡った。
明かりは必要なところだけで使った。
馬も船で運ぶ。
先に騎兵と斥候を北岸へ上げ、周囲に金軍がいないことを確認する。
達也が北岸へ降りた。
靴の下に土がある。
淮河の北だった。
後ろから兵が次々と上がってくる。
年長の兵が地面を見た。
「本当に北へ来たな」
隣の兵が笑った。
「同じ土だぞ」
「馬鹿。そういう話じゃない」
達也は振り返った。
「話はあとです」
「はい!」
「夜明けまでに動きます」
目標は霊璧県だった。
◇ ◇ ◇
金側も南宋軍が淮河を越えるとは考えていなかった。
霊璧の守備兵は約1200人だった。
城外へ斥候を出していたが、南宋側の渡河に気付いたのは夜明け近くである。
その時には達也の1800人が城の南へ近づいていた。
別働隊1200人は東へ回った。
達也は城を見た。
「攻めますか」
隊長が尋ねた。
「まだです」
「守備兵は1200です」
「こちらは3000です」
「なら」
「城壁へ登れば人が死にます」
達也は周囲を見た。
「出てきてもらいます」
南門の前に300人だけ姿を見せた。
残る兵は林と畑へ隠す。
金軍から見れば、小規模な宋軍が偵察に来たように見えた。
城内から約500人が出た。
南宋兵300人が逃げた。
金兵が追う。
城から離れる。
南宋兵は林の中へ入った。
金兵も続いた。
その時、左右から弩が放たれた。
「射て!」
先頭の金兵が倒れた。
後ろが止まる。
2射目。
金兵が引き返そうとした。
その後ろに、別働隊が現れた。
「槍兵、出ろ!」
前後から槍兵が進んだ。
約500人の金兵は林の中で包囲された。
戦闘は長く続かなかった。
金兵約300人が倒れ、残りが武器を捨てた。
達也はすぐ城へ戻った。
城内には700人ほどしか残っていない。
しかも外へ出た部隊が全滅したことは見えている。
達也は降伏を勧める使者を出した。
「城を渡せば兵も役人も殺さない。民家への略奪も認めない」
返事はすぐには来なかった。
達也は城門の前へ弩兵を並べた。
攻城の準備も見せた。
半刻後。
城門が開いた。
霊璧は南宋軍の手に入った。
達也は兵へ最初の命令を出した。
「家へ入るな」
「はい!」
「店から物を取るな」
「はい!」
「金軍の倉は押さえろ。民の米には触るな」
「はい!」
「降伏した兵は武器を集めて1か所へ置け」
「はい!」
城へ宋軍の旗が上がった。
城内の住民が遠巻きに見ている。
年老いた男が旗を見上げ、隣にいる息子らしい男へ何か話していた。
達也には聞こえなかった。
ただ、逃げ出す住民はほとんどいなかった。
◇ ◇ ◇
霊璧陥落の知らせは、すぐ宿州へ届いた。
同時に金側の援軍も動いた。
徐州方面から約6000人。
達也が待っていた軍だった。
後続の南宋軍7000人も淮河を渡り始めた。
達也はそのうち4000人を霊璧へ入れた。
残る3000人は南に置く。
遊撃軍3000人は城に留めなかった。
金の援軍を迎えるため北へ動かした。
都統制から派遣された武官が尋ねた。
「宿州を先に攻めないのですか」
「援軍6000人が後ろから来ます」
「先に倒す?」
「はい」
「どこで」
達也は地図を指した。
宿州と霊璧の間には、川と湿地が続く場所がある。
道は狭くなる。
「ここです」
◇ ◇ ◇
2日後。
金の援軍が来た。
騎兵約1500。
歩兵約4500。
金軍は霊璧を取り返すため南へ急いでいた。
途中の村から、南宋軍が霊璧に4000人ほど入ったとの情報を得ている。
だが遊撃軍3000人が城外にいることまでは知らなかった。
達也は正面に500人だけ置いた。
金軍が近づく。
南宋兵は少し戦って引いた。
金軍が追う。
以前と同じである。
ただし今回は蒙古騎兵ではない。
歩兵が多い。
追撃速度も遅い。
達也は金軍を狭い道へ入れた。
先頭の騎兵が通る。
その後ろに歩兵。
さらに後方にも歩兵。
金軍の列が長く伸びた。
達也が旗を下ろした。
「今だ!」
左右の林から弩が放たれた。
金軍の中央へ矢が降った。
先頭の騎兵が戻ろうとする。
その前に南宋の槍兵が現れた。
後方にも別働隊が出る。
金軍6000人が狭い土地へ閉じ込められた。
金軍の将もすぐ反撃した。
騎兵を使って東側の林を突破しようとする。
達也はそこを厚く守らなかった。
わざと300騎ほどを外へ出した。
「抜けられます!」
隊長が叫んだ。
「いいです」
「逃げますよ!」
「行かせてください」
金騎兵300騎が林を抜けた。
その先へ進む。
しばらく走ったところで、霊璧から出た南宋騎兵400騎が前に現れた。
さらに後ろから達也の騎兵が追いつく。
金騎兵は前後を挟まれた。
一方、主力の金軍は逃げ道がなくなっていた。
昼過ぎには水も不足し始めた。
南宋軍は無理に突撃しない。
弩を射る。
距離を取る。
金軍が攻めてくれば引く。
止まれば別方向から攻撃する。
夕方には金軍の隊列が完全に崩れた。
金軍の将が最後の突破を試みた。
歩兵を前に出し、騎兵を中央へ集める。
達也はそれを待った。
「槍兵を下げろ!」
前面の南宋兵が道を開けた。
金軍が突っ込む。
「左右へ!」
南宋兵が道の両側へ分かれた。
金軍が前へ出た。
その正面には、水を含んだ低地があった。
騎兵の速度が一気に落ちる。
「弩兵!」
一斉射が始まった。
馬が倒れる。
後ろから来た兵が止まる。
左右から南宋兵が戻った。
金軍は動けなくなった。
日が沈む前には、金軍の将も捕らえられた。
6000人の援軍のうち、約2400人が戦死した。
3500人余りが捕虜となった。
逃げた者は100人に満たなかった。
金軍の援軍は消えた。
達也はその日の夜、霊璧へ戻らなかった。
「宿州へ行きます」
部下の武官が驚いた。
「今から?」
「援軍が来ないうちに」
「兵は疲れています」
「遊撃軍は休ませます」
「では誰を?」
「後続軍です」
霊璧には、まだ戦っていない南宋兵が4000人いる。
さらに南にも3000人残してある。
「7000人で宿州へ行きます」
◇ ◇ ◇
翌朝。
宿州城から見ると、南の街道に宋軍の旗が現れた。
金の援軍が壊滅したとの報告は、すでに城内へ届いていた。
守備兵は約3500人。
城壁はある。
兵糧もある。
しかし南にいた霊璧は落ちた。
徐州から来た援軍6000人も敗れた。
さらに宋軍7000人が城の前へ来ている。
達也はすぐ攻城しなかった。
城の四方を完全には囲まなかった。
北門だけを空けた。
武官が尋ねた。
「北を開けておくのですか」
「はい」
「逃げられます」
「逃げたい者は逃がします」
「蒙古軍の時とは逆ですね」
「今回は城が欲しいのです」
達也は答えた。
「兵3500人を殺すために城を壊す必要はありません」
宿州城へ使者を送った。
条件は単純だった。
城を渡す。
兵は武器を置けば命を助ける。
金の役人も降伏すれば殺さない。
住民への略奪はしない。
逃げたい金兵は北門から出ても追わない。
ただし翌日の正午までに返答する。
城内では意見が割れた。
戦うべきだという武官。
援軍が消えた以上、守れないという役人。
住民の中にも宋軍を恐れる者と、様子を見る者がいた。
その日の夕方。
北門から金兵約600人が逃げた。
達也は追わなかった。
翌朝にはさらに300人ほどが出た。
守備兵は減っていく。
正午になる前。
宿州の南門に白い旗が上がった。
城門が開いた。
金の役人たちが城外へ出てきた。
その先頭にいた知州が達也の前で頭を下げた。
「城をお渡しいたします」
「兵は?」
「武器を置かせました」
「住民に危害は加えません」
「ありがとうございます」
「金へ戻りたい者は?」
「おります」
「止めません。ただし武器は置いていってください」
「承知しました」
達也は馬へ乗った。
その後ろに南宋兵が続く。
南門を通った。
宿州の城内へ宋軍が入った。
最初は静かだった。
住民たちは戸口や窓から様子を見ている。
兵たちは達也の命令通り、民家へ入らなかった。
店の商品にも触れない。
金の役所と軍倉だけを押さえた。
やがて城の中央にあった金の旗が降ろされた。
代わって宋の旗が上がる。
城内にいた南宋兵から声が上がった。
「宋だ!」
別の兵も叫んだ。
「宿州を取ったぞ!」
声が広がった。
「淮河の北だぞ!」
「俺たちは北まで来た!」
達也は止めなかった。
今回だけは騒がせた。
兵たちは武器を上げ、声を張った。
「宋軍が勝った!」
「金から城を取ったぞ!」
城壁の上でも宋の旗が上がった。
淮河の南から来た兵の中には、涙を流す者までいた。
年配の兵が隣の若い兵へ言った。
「俺が兵になってから、北へ来て城を取ったのは初めてだ」
「俺もです」
「帰ったら家族に言える」
「何を?」
「金の土地へ入って、宋の土地にしてきたとな」
達也はその会話を聞いた。
戦で得たものは宿州だけではなかった。
兵たちの顔が、淮河を渡る前とは違っていた。
◇ ◇ ◇
宿州を取った翌日から、達也は軍を止めた。
「徐州まで行きますか」
武官が尋ねた。
「行きません」
「今なら金軍は混乱しています」
「だから止まります」
「なぜです」
「取った土地を失ったら意味がないでしょう」
達也は宿州周辺の地図を広げた。
霊璧。
宿州。
周辺の村。
街道。
川。
「先にここを宋の土地にします」
「もう取ったではありませんか」
「旗を立てただけです」
達也は答えた。
「兵糧を置く。役人を置く。税を集める。道を守る。住民が逃げないようにする。金軍が来ても守れるようにする」
「それが終わってから北?」
「そうです」
「どのくらいで?」
「相手次第です」
まず略奪を禁止した。
違反した兵は厳しく処罰した。
金の役人でも、宋へ従う者はすぐには追い出さなかった。
土地のことを知る者が必要だからである。
村役人も残した。
税についても、急に増やさなかった。
金軍の軍倉に残っていた米は軍用に確保したが、民間の倉には触れなかった。
市場を開かせた。
城門も昼間は開いた。
逃げていた住民へ戻るよう知らせた。
霊璧にも同じ命令を出した。
数日すると、城外へ逃げていた住民が戻り始めた。
さらに北から漢人の家族が南へ来た。
金側の役人や軍を嫌い、宋軍が宿州を取ったと聞いて移ってきた者たちである。
達也は受け入れた。
「住む場所が足りなくなります」
役人が言った。
「空いている家を調べてください」
「田は?」
「持ち主がいない土地も調べます」
「税はどうします」
「今年は軽くしてください」
「朝廷へ聞かなくてよいのですか」
「聞きます」
「先に決めるのですか」
「逃げてきた人からすぐ税を取ったら、また逃げます」
役人は苦笑した。
「倉殿は戦だけかと思っていました」
「私も役人です」
◇ ◇ ◇
宿州陥落の報せは急使によって臨安へ届いた。
皇帝の前で戦捷報告が読み上げられた。
霊璧を攻略。
金援軍約6000人を撃破。
宿州守備兵の大半が降伏または撤退。
宿州城を占領。
宋軍の旗を掲げた。
皇帝は最後まで聞いた。
「本当に宿州を取ったのだな」
「はい」
枢密院の官人が答えた。
「倉達也から、城内の戸数、倉の兵糧、降伏兵、周辺村落についても続報が届いております」
「戻ってくるのか」
「今のところ、その予定はないとのことです」
「なぜだ」
官人が別の書状を読んだ。
「取った土地を宋の土地として固めるまで宿州を離れない、と」
皇帝は笑った。
「それでよい」
慎重派の官人が言った。
「金軍が大軍を向ける恐れがあります」
「向ければ戦えばよい」
「陛下」
皇帝は卓上の地図を見た。
これまで淮河に沿っていた境の一部が、北へ押し出されている。
「ここが宋になった」
「はい」
「何年ぶりだ」
誰もすぐ答えなかった。
皇帝はそれ以上聞かなかった。
「淮東の軍には、宿州を取ったことを全軍へ知らせよ」
「承知しました」
「京湖にも知らせろ」
「はい」
「四川にもだ」
官人が皇帝を見る。
「全国の軍へ?」
「ああ」
皇帝は答えた。
「蒙古軍を倒したという話だけではない」
地図の宿州を指した。
「宋軍が淮河を越え、金から城を奪ったと知らせろ」
官人たちは黙って聞いている。
「守れば勝てるでは足りん」
皇帝は言った。
「北へ行っても勝てると思わせる」
「はい」
「兵に一番必要なのは、それだ」
◇ ◇ ◇
戦捷の報告は各地の軍へ送られた。
淮東の軍営では、宿州を取ったと聞いた兵たちが歓声を上げた。
淮西でも同じだった。
これまで金軍の侵入に備えていた兵たちが、北へ向かう地図を見るようになった。
「倉達也の軍は淮河を越えたそうだ」
「宿州まで取った」
「金軍6000人も潰したらしい」
「なら俺たちにもできるのではないか」
そう話す兵が増えた。
国境の村でも話は広がった。
商人が伝えた。
船頭が伝えた。
兵の家族が伝えた。
蒙古軍2106人を全滅させた19歳の状元が、今度は淮河を越えて金の城を取った。
話は臨安にも届いた。
茶店でも市場でも宿州の名が出た。
南へ逃れてきた者の中には、地図も見ずに北を指して喜ぶ老人もいた。
長く失われていた土地を、宋軍が自分の力で取り返した。
その事実だけで十分だった。
◇ ◇ ◇
宿州を占領して10日後。
皇帝から使者が到着した。
達也は宿州の役所で使者を迎えた。
「倉達也、詔を受けよ」
達也が礼をした。
使者が詔書を開いた。
蒙古軍全滅の功。
霊璧攻略の功。
金援軍撃破の功。
宿州奪還の功。
それらが読み上げられた。
そして新しい任命が告げられた。
「倉達也を、知宿州兼淮北安撫使に任ずる」
達也が顔を上げた。
「私が宿州を治めるのですか」
「陛下の命である」
「淮北安撫使も?」
「宿州及び今回帰属した地域の軍民を安撫し、防備を整えるよう命じられている」
使者はさらに続けた。
「淮東遊撃軍3000人は引き続き倉殿の指揮下に置く」
「はい」
「今回の戦で功のあった兵、新たに募集する兵を加え、5000人へ増員することも認められた」
達也の顔に笑みが浮かんだ。
使者が呆れたように言った。
「知宿州より、そちらの方が嬉しそうですな」
「どちらも嬉しいです」
「本当ですか」
「領地だけあっても守れません」
「なるほど」
「5000人いれば、少し楽になります」
「少し?」
「金軍が1万人で来るかもしれません」
使者は苦笑した。
「陛下も同じことを仰っておられた」
「何をですか」
「倉達也は5000人もらっても少ないと言うだろう、と」
達也が笑った。
「陛下はよく分かっておられます」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
達也は宿州城の城壁へ上がった。
南を見れば淮河がある。
その向こうに南宋の旧来の領土がある。
北には金の土地が続いている。
達也の隣には、蒙古軍との戦から付き従っている兵が立っていた。
「倉殿」
「何ですか」
「もう淮河まで戻らないのですか」
「戻りたいですか」
兵は首を振った。
「嫌です」
「なぜ」
「ここまで来ましたから」
達也は笑った。
「私も同じです」
城壁の上には宋の旗がある。
風を受け、大きく動いていた。
「次はどこまで行くのですか」
兵が尋ねた。
達也は北を見た。
「まだ決めていません」
「徐州ですか」
「いずれは」
「もっと北?」
「行けるところまでです」
兵が笑った。
「倉殿なら本当に行きそうです」
「そのためには、まず宿州を強くします」
達也は城内を見下ろした。
市場には人が戻り始めている。
兵糧倉には米がある。
城門には宋兵が立っている。
金の旗はもうない。
淮河を越えただけではない。
南宋の領土そのものが北へ広がったのである。
達也は城壁の上から北を見た。
今度は敵が来るのを待つ必要はない。
宋軍は、自分たちから北へ進める。
1223年初夏、蒙古軍2106人を全滅させた達也は、金軍も蒙古との戦で疲弊している今こそ北へ進む機会だと皇帝へ進言した。
達也は、金から土地を奪う意味は税や兵糧だけではなく、負け続けてきた宋軍に「北へ進んでも勝てる」と実感させることにあると訴える。
皇帝もその意味を理解し、1万人の兵を使って淮河を越えることを許可した。
達也はまず遊撃軍3000人を北岸へ渡し、霊璧県を攻略する。
続いて徐州方面から来た金の援軍約6000人を林と湿地の間へ誘い込み、約2400人を討ち、3500人余りを捕虜とした。
援軍を失った宿州では守備兵の一部が北へ逃れ、残った兵と役人が降伏した。
宋軍は宿州城へ入り、金の旗を降ろして宋の旗を掲げた。
淮河の北に宋の領土が生まれたのである。
この戦捷は南宋各地の軍へ伝えられた。
蒙古軍を全滅させたことに続き、今度は金軍を破って領土を奪ったことで宋軍の士気は大きく上がった。
皇帝は達也を知宿州兼淮北安撫使に任命し、奪った宿州と周辺地域の統治、防衛、住民の安撫を任せた。
達也の遊撃軍も3000人から5000人へ増員されることになった。
1223年、達也は南宋へ仕えてから初めて、国境そのものを北へ動かした。




