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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第3話(中編2)――「逃げ道を塞ぐ」

 1223年初夏。


 淮河方面で兵糧輸送を立て直した倉達也(ツァン・ダーイエ)は、枢密院編修官へ昇進した。


 その直後、北方から急報が届く。


 蒙古騎兵約2000人が金領を突破し、淮河を越えて南宋領へ侵入したのである。


 村を襲い、穀物と家畜を奪いながら移動する蒙古軍に対し、南宋軍は追撃しても追いつけない。


 達也は淮河方面へ派遣され、初めて本格的な実戦指揮を任される。


 達也が狙ったのは、蒙古軍を追い返すことではなかった。


 南宋へ入った2000人を、1人も北へ帰さないことである。

 (1223年初夏、南宋・臨安府(リンアンフ)・枢密院)


 達也が枢密院編修官となって6日目の午後だった。


 廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


 役人2人が泥に汚れた書状を持ち、奥の部屋へ駆けていく。


 達也は筆を止めた。


 北から来た急使だと分かった。


 間もなく上役が姿を見せた。


「達也、来い」


「何がありましたか」


「蒙古軍が南宋へ入った」


 達也は立ち上がった。


「金軍ではなく、蒙古軍ですか」


「ああ。淮河を越えた」


 達也は上役に続いて奥の部屋へ入った。


 すでに数人の高官が集まり、卓には淮河周辺の地図が広げられていた。


 年長の官人が達也を見る。


「来たか」


「はい」


「ここだ」


 官人が地図を指した。


 淮河の北にある金領から、南宋側へ線が引かれている。


「蒙古騎兵が金軍を破って南下した。金の城を攻めるのが目的だったらしいが、その一部が南へ抜けた」


「何人ですか」


「約2000」


「騎兵ですか」


「ほぼ全員が騎兵だ」


「淮河をどう渡りましたか」


「上流の浅瀬だ。金軍を追ったまま南へ入り、その後はこちらの村を襲っている」


 別の官人が報告を読んだ。


「今までに村7つが襲われた。死者は100人を超えた。穀物、牛、羊、馬を奪っている」


 達也は地図を見た。


「南へ進み続けていますか」


「いや」


「では?」


「南宋軍が近づけば逃げる。兵が離れると、別の村へ現れる」


 達也は顔を上げた。


「追いつけていないのですね」


「こちらは歩兵が多い」


「騎兵は?」


「いるが、蒙古軍ほど速く動けん」


 高官の1人が言った。


「淮河周辺から8000人を集める」


 達也は尋ねた。


「その8000人をどこへ集めますか」


「蒙古軍がいるところだ」


「到着するまで、蒙古軍が待ってくれますか」


 官人が達也を見る。


「何が言いたい」


「8000人を1つに集めれば、蒙古軍は別の場所へ行きます」


「なら追う」


「歩兵で騎兵を?」


「では放っておくのか」


「いいえ」


 達也は地図の周辺を見た。


「逃げられなくします」


 部屋が静かになった。


 上役が尋ねた。


「どうする」


「蒙古軍は2000人ですが、食わせなければならない馬は2000頭では済まないでしょう」


「ああ」


「人間より馬の方が大量に食べます」


 達也は蒙古軍が襲った村を指した。


「今のところ、蒙古軍は村を移りながら穀物と家畜を奪っています。馬にも飼料と水が必要です」


「それを渡さないのか」


「はい」


「住民を全部避難させる?」


「蒙古軍が動いている地域からは、できるだけ移します。穀物、牛、馬、羊も城や砦へ運びます」


「運べない物は?」


「蒙古軍に使わせません」


 官人の1人が言った。


「村を焼くつもりか」


「村は焼きません。戦が終われば住民が戻ります」


「ならどうする」


「穀物は隠す。干し草も移す。渡し場の船は南岸へ集める。使える橋と浅瀬は全部見張ります」


 年長の官人が尋ねた。


「それで蒙古軍が北へ帰ろうとしたら?」


 達也は地図の北を指した。


「帰さなければいいでしょう」


「追い払うのではないのか」


「2000人を追い返したら、また来ます」


「では?」


 達也は答えた。


「全滅させます」


 何人かが顔を上げた。


「2000騎を?」


「はい」


「できるのか」


「広い平地で正面から戦えば難しいと思います」


「なら、どうやって全滅させる」


「2000人を2000人のまま戦わせません」


 達也は地図を指でなぞった。


「食料を奪えなくする。馬を休ませない。小さな部隊を何度も襲う。偵察兵を消す。伝令を捕らえる。水場へ近づけば攻撃する」


「それで削る?」


「はい」


「最後は?」


「帰ろうとしたところを囲みます」


「逃げられたら?」


「先に退路を押さえます」


 年長の官人は達也を見た。


「何人欲しい」


「6000人」


「先ほど8000人を集めるなと言ったではないか」


「1か所には集めません」


 達也は答えた。


「1000人前後の部隊に分けます。蒙古軍から見れば、どこに南宋軍の主力がいるのか分からないようにします」


「お前が指揮するのか」


「全軍を指揮する権限はありません」


 上役が言った。


「現地の都統制を総指揮にして、達也に作戦を任せてはいかがでしょう」


 高官たちが顔を見合わせた。


「状元に戦をさせるのか」


「淮河の地形と輸送を見てきたばかりです」


「だが初陣だぞ」


 達也は答えた。


「初めてだから負けるとは限りません」


「勝てるとも限らん」


「その通りです」


 年長の官人が尋ねた。


「怖くないのか」


「怖いです」


「それでも行く?」


「全滅させろと言われるなら行きます」


「誰もまだ全滅させろとは言っていない」


「追い返すだけでは面倒が残ります」


 高官の1人が思わず笑った。


「2000騎を面倒と言うか」


「南宋領へ勝手に入って村を襲う2000人です。帰してやる理由はありません」


 年長の官人は地図を見た。


「よし」


 達也へ顔を向けた。


「現地へ行け」


「はい」


「都統制の軍6000人を使う。作戦はお前が立てろ」


「承知しました」


「ただし、勝手に金領へ入るな」


「入りません」


「蒙古軍を南宋領内で始末しろ」


「1人も逃がさないようにします」


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 達也は沈氏本家を出た。


 今回は旅の荷も少なかった。


 枢密院から出された命令書を持つ使者と護衛が待っている。


 玄関へ蘇玉香(スー・ユーシャン)が出てきた。


「また淮河へ行くのですね」


「はい」


「昨日、蒙古軍が来たと聞きました」


「もう臨安まで話が来ていますか」


「父上と夫が話していました」


 玉香は達也の旅装を見た。


「今度は調べ物ではないのでしょう」


「戦です」


 玉香の顔が硬くなった。


「達也さんも戦うのですか」


「兵を動かします」


「何人?」


「6000人ほどです」


 玉香が目を見開いた。


「そんなに?」


「全部を私1人で動かすわけではありません。現地の将軍がいます」


「それでも危ないのでしょう」


「安全な戦はないでしょう」


 玉香はしばらく黙った。


「帰ってきてください」


「帰ります」


「絶対ですか」


「蒙古軍より先に死ぬ気はありません」


「冗談にしないでください」


 達也は玉香の顔を見た。


「分かりました。帰ってきます」


 玉香はそこでようやく頭を下げた。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 達也は馬へ乗った。


 ◇ ◇ ◇


 淮河方面へ到着した時、蒙古軍の侵入から9日が過ぎていた。


 襲撃された村は11に増えていた。


 道端には焼けた家もあった。


 穀物倉を壊された村では、米や麦が泥へ散らばっている。


 死体はすでに片付けられていたが、血の跡が残る場所もあった。


 達也は現地の都統制と会った。


 50歳前後の武官で、蒙古軍を何度も追っているため疲労が顔に出ていた。


「お前が倉達也か」


「はい」


「枢密院から作戦を立てろと言われている」


「そう聞いています」


「俺は蒙古兵を3度追った」


「追いつきましたか」


「1度もな」


「なら、もう追わないでください」


 都統制の眉が動いた。


「最初からそれか」


「追えば蒙古軍が逃げます」


「逃げるならよいだろう」


「北へ逃げるならよいですが、別の村へ逃げています」


「その通りだ」


「だから、こちらから追い回すのをやめます」


「何をする」


「蒙古軍に来てもらいます」


 都統制は達也を見た。


「どこへ」


「こちらが殺しやすい場所へです」


 ◇ ◇ ◇


 達也は地図だけで作戦を決めなかった。


 2日かけて周囲を見た。


 林。


 丘。


 水田。


 水路。


 村。


 堤。


 橋。


 浅瀬。


 蒙古軍が北へ戻る場合に使いそうな道も確認した。


 その中に、東西を丘と林に挟まれた土地があった。


 中央には小さな川が流れている。


 南側には水田が広がり、北へ抜けるには2本の道と1か所の浅瀬を使うしかない。


 達也はそこを選んだ。


「最後はここです」


 都統制が地図を見る。


「ここへ蒙古軍が来る保証があるのか」


「来るようにします」


「どうやって」


「ほかでは食えなくします」


 翌日から住民の避難が始まった。


 蒙古軍が動いている地域から、老人、女、子どもを先に城へ移した。


 穀物も運ぶ。


 家畜も移す。


 干し草も集めた。


 運べない物は林へ隠した。


 井戸は壊さなかった。


 ただし主要な水場には南宋兵を伏せた。


 蒙古兵が近づけば弩を射る。


 追ってくれば兵は逃げる。


 蒙古兵が離れれば、また戻る。


 6000人の兵は6つに分けた。


 各隊には弩兵、弓兵、槍兵を混ぜた。


 騎兵は偵察と連絡へ使う。


 大部隊で蒙古軍を追うことは禁止した。


「蒙古兵100人を見つけても、勝手に追うな」


 達也は隊長たちへ命じた。


「こちらが逃げるのですか」


 隊長の1人が尋ねた。


「場所が悪ければ逃げます」


「敵に背を向ける?」


「逃げるふりをして、林へ連れてきてください」


「そこで戦う?」


「そこで殺します」


 達也は続けた。


「平地へ出たら追わない。馬と競走しない。林、狭い道、川、田を使う」


「蒙古軍全部が来たら?」


「戦わずに散ってください」


「6000人いるのに?」


「6000人いることを、相手に教える必要はありません」


 ◇ ◇ ◇


 3日後。


 最初の蒙古兵が罠へ入った。


 約300騎だった。


 南宋兵60人が道の向こうに姿を見せた。


 蒙古騎兵が追う。


 南宋兵は逃げた。


 田の間に延びる細い道へ入る。


 蒙古兵も続く。


 左右は水を含んだ田である。


 馬は道を外れれば脚を取られる。


 南宋兵が林へ入った。


 蒙古騎兵も追った。


 道幅が狭くなる。


 前後に長く延びた。


 その時、林の左右から弩が放たれた。


 先頭の馬が倒れた。


 後ろの馬がぶつかる。


 2射目。


 3射目。


 蒙古兵が左右の林へ向かおうとした。


 そこへ槍兵が出た。


 落馬した兵だけを狙う。


 騎乗した蒙古兵とは長く戦わない。


 蒙古軍の後方が引き返そうとした時、道の後ろから別の南宋兵が現れた。


 逃げ道を塞いだ。


 300騎は前後から分断された。


 戦闘は半刻ほど続いた。


 蒙古兵は林へ入って散ろうとしたが、地形を知らない。


 南宋兵は村人から教わった小道を使って先回りした。


 夕方までに戦闘は終わった。


 蒙古兵300人のうち、236人が死亡した。


 64人が負傷して捕らえられた。


 逃げた者はいなかった。


 都統制が捕虜を見た。


「最初から全滅か」


「まだ300です」


 達也が答えた。


「残り1700ほどいます」


「捕虜はどうする」


「聞けることを聞きます」


「その後は?」


「殺しません。縛って後方へ送ります」


 都統制が達也を見る。


「情けを掛けるのか」


「違います」


 達也は答えた。


「降伏した兵まで殺したら、残りが最後まで降伏しなくなります」


「なるほど」


「逃げる者は逃がしません。降りる者は捕らえます」


 ◇ ◇ ◇


 捕虜から蒙古軍の状態が分かった。


 侵入した兵は約2100人だった。


 戦闘と病気で多少減っている。


 馬は1人につき1頭ではなく、替え馬を持つ者も多い。


 そのため、人間以上に飼料が必要だった。


 南宋側が村から家畜と穀物を移したことで、蒙古軍は急速に困り始めた。


 達也は次に夜を狙った。


 100人ほどの部隊を、毎晩違う場所へ出した。


 蒙古軍の野営地へ近づく。


 遠くから火矢を射る。


 馬が騒ぐ。


 蒙古兵が出てくる。


 南宋兵は逃げる。


 しばらくすると反対側で太鼓を鳴らす。


 蒙古兵がそちらへ動く。


 今度は別の場所から弩を射る。


 追っても敵はいない。


 戻ればまた別の場所で火が上がる。


 蒙古軍は眠れなかった。


 馬も休めない。


 夜が明ければ水場へ南宋兵がいる。


 飼料を探しに小部隊を出せば狙われる。


 5日間で、蒙古軍の小部隊が4つ消えた。


 50騎。


 80騎。


 120騎。


 70騎。


 南宋兵は大きな戦をしていない。


 だが蒙古軍の数は着実に減った。


 さらに馬が傷んだ。


 奪った穀物も減った。


 南へ行っても村は空である。


 北へ戻ろうとすると、南宋兵が道に現れる。


 蒙古軍は初めて1か所へ集まり始めた。


 都統制が報告を聞いた。


「集まったぞ」


「はい」


「約1300」


「思ったより早かったですね」


「今度はどうする」


「逃げ道を残します」


 都統制が笑った。


「全滅させるのではないのか」


「だから逃げ道を作ります」


「どこへ」


 達也は最初に選んだ土地を指した。


「ここです」


 東西を林と丘に囲まれた場所。


 北へ抜ける道が限られている。


 蒙古軍が北へ戻ろうとすれば、そこへ入る可能性が高い。


「北の道を全部塞ぐと、別の方向へ行きます」


「ああ」


「1本だけ開けます」


「蒙古軍に見せる?」


「はい」


「そこへ逃げ込ませるのか」


「その先で閉じます」


 ◇ ◇ ◇


 達也は偽の退却を命じた。


 北へ続く道の1本から南宋兵を引いた。


 見張りもわざと減らした。


 別の場所では南宋軍が集まっているように見せた。


 蒙古軍から見れば、北東の道だけが空いている。


 翌朝、蒙古軍が動いた。


 約1300人。


 南宋兵の斥候が離れて見ていた。


 蒙古軍は北東へ向かった。


 達也の選んだ土地へ入った。


 先頭が小川を越えた。


 後ろも続く。


 蒙古軍全体が細長く伸びた。


「まだです」


 達也は丘の上から見ていた。


 隣には都統制がいる。


「もう半分入ったぞ」


「全部入れます」


「逃げられるぞ」


「北側にも兵がいます」


 最後尾が谷状の土地へ入った。


 達也は旗を上げた。


 後方に隠れていた南宋兵が道へ出た。


 大木を倒し、荷車を並べ、南へ戻る道を塞いだ。


 ほぼ同時に北側でも兵が現れた。


 蒙古軍の前後が閉じた。


 東西は林と湿地である。


 都統制が言った。


「閉じたな」


「はい」


「始めるか」


「まだです」


「何を待つ」


「蒙古兵を馬から降ろします」


 ◇ ◇ ◇


 南宋軍はすぐ攻めなかった。


 林の中から弩を射る。


 蒙古軍が林へ突撃する。


 南宋兵は奥へ引く。


 馬では通れない場所まで入ると、別の方向から矢が飛ぶ。


 蒙古騎兵が戻る。


 反対側でも同じことが起きる。


 蒙古軍は北の出口を突破しようとした。


 そこには弩兵1000人が待っていた。


 一斉射。


 先頭の馬が倒れる。


 後ろが詰まる。


 蒙古兵が弓で反撃した。


 南宋兵にも死者が出る。


 それでも出口は開かなかった。


 蒙古軍は南へ向きを変えた。


 今度は槍兵が待っている。


 その後ろには弩兵。


 再び押し返された。


 正午を過ぎた。


 蒙古軍の馬が疲れ始めた。


 数日間ろくに休んでいない。


 十分な飼料も与えられていない。


 何頭も汗を流し、口から泡を吹いている。


 達也は待った。


「まだ攻めないのか」


 都統制が尋ねた。


「こちらから中へ入れば、馬の突撃を受けます」


「では?」


「向こうが出てこられなくなるまで待ちます」


 午後になった。


 蒙古軍が再び北へ突撃した。


 今度は最初ほど速くない。


 弩が放たれた。


 馬が倒れる。


 騎兵も倒れる。


 後ろから来た馬が乗り上げた。


 狭い出口に兵と馬が重なった。


「今です」


 達也が旗を振った。


 東西の林から南宋兵が出た。


 弩兵が射る。


 その後ろから槍兵が進む。


 蒙古兵は馬を自由に動かせない。


 落馬した者から槍兵が押さえる。


 蒙古側も激しく抵抗した。


 矢が飛び、南宋兵も次々と倒れた。


 だが包囲は崩れなかった。


 夕方までに蒙古軍の半数近くが倒れた。


 残った兵は中央へ集まった。


 南宋兵が四方から距離を縮める。


 日が沈む前、蒙古側から白い布が上がった。


 都統制が言った。


「降伏するようだ」


 達也は答えた。


「受けます」


「全滅させるのでは?」


「軍としては全滅です」


「殺し尽くさないのか」


「降伏した兵を殺す必要はありません」


 都統制は笑った。


「お前らしいな」


「武器と馬を全部取ってください。10人ずつ縛ります」


「逃げた者は?」


「確認します」


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 戦場の確認が行われた。


 南宋領へ侵入した蒙古軍は、捕虜の証言と各地の戦闘記録を合わせると2106人だった。


 最初の数日で戦死、病死した者。


 小部隊ごとの伏撃で倒された者。


 最後の包囲戦で倒された者。


 死者は1472人。


 捕虜634人。


 2106人すべての所在が確認された。


 北へ逃げ帰った者は1人もいなかった。


 蒙古軍が連れていた軍馬と替え馬も大量に残った。


 使える馬は南宋軍が接収した。


 負傷した馬は治療できるものを分けた。


 武器、弓、矢、馬具も回収された。


 南宋側の戦死者は286人。


 負傷者は600人を超えた。


 都統制は戦死者の名簿を達也へ渡した。


「勝った」


「はい」


「蒙古軍2106人を全滅させた」


「はい」


「嬉しくないのか」


 達也は名簿を見た。


「286人死んでいます」


「戦だ」


「分かっています」


「正面から戦えば、その何倍も死んだ」


「それも分かっています」


 達也は名簿を閉じた。


「だから次は200人以下にします」


 都統制が笑った。


「次もやる気か」


「蒙古がまた来れば」


「怖い男だな」


「向こうから来なければ何もしません」


「今回は大功だぞ」


「そうでしょうね」


「謙遜しないのか」


「2106人を1人も逃がさなかったのですから、大功でしょう」


 都統制は声を上げて笑った。


「その方がいい。臨安へそう書いてやる」


 ◇ ◇ ◇


 戦捷の報告は急使によって臨安へ送られた。


 蒙古軍2106人。


 死者1472人。


 捕虜634人。


 逃亡者0。


 南宋側戦死286人。


 蒙古軍の軍馬と武器を大量に鹵獲。


 村から避難させた住民も順次戻された。


 報告を受けた枢密院は、最初は数字を疑った。


 2106人全員の所在が確認されたと書かれていたからである。


 しかし現地の都統制だけでなく、複数の武官から同じ内容の戦捷報告が届いた。


 捕虜の名簿。


 鹵獲した馬の数。


 回収した武器。


 南宋側の戦死者名簿。


 いずれも添えられていた。


 蒙古軍を追い返したのではない。


 侵入軍そのものが消滅したのである。


 ◇ ◇ ◇


 達也が臨安へ戻ったのは、それから半月ほど後だった。


 城門へ入ると、以前とは周囲の反応が違った。


 枢密院の役人が迎えに来ている。


「倉編修官、宮中へ参るよう命じられております」


「今からですか」


「はい。陛下がお召しです」


 達也は沈氏本家へ戻ることもできず、そのまま宮中へ向かった。


 初めて皇帝から直接呼ばれたのである。


 ◇ ◇ ◇


 達也は宮殿の広間へ通された。


 上座には皇帝がいた。


 趙擴(ジャオ・クオ)である。


 左右には宰相、枢密院の高官、武官たちが並んでいる。


 達也は進み出て礼をした。


「倉達也か」


「はい」


「顔を上げよ」


 達也は顔を上げた。


 皇帝は達也を見た。


「19歳と聞いた」


「はい」


「状元になったのも今年か」


「はい」


「枢密院へ入り、淮河へ行き、兵糧を運び、その後は蒙古軍と戦った」


「その通りです」


「忙しい男だな」


 広間に笑いが起きた。


 皇帝は手元の戦捷報告を取った。


「蒙古兵2106人」


「はい」


「1472人を討ち、634人を捕らえた」


「はい」


「1人も金領へ帰らなかった?」


「確認できた限りでは、1人も帰しておりません」


「なぜ追い返さなかった」


「帰せば、南宋は襲えば逃げられる国だと思われます」


 皇帝の表情が変わった。


「だから全滅させた?」


「はい」


「最初からそのつもりだったのか」


「作戦を立てた時から、逃がさないつもりでした」


「6000人で2000騎を囲んだ」


「最初から6000人で囲んだわけではありません」


「聞いている」


 皇帝は報告へ目を落とした。


「村から食料を移し、水場を押さえ、小部隊を伏撃し、夜も休ませなかった」


「はい」


「それから逃げ道を1本だけ残した」


「はい」


「敵がそこへ入ってから塞いだ」


「はい」


「随分と性格の悪い戦をする」


 達也は答えた。


「蒙古軍が嫌がったなら成功です」


 広間の武官から笑い声が上がった。


 皇帝も笑った。


「お前は戦場でも同じことを言ったそうだな」


「何をでしょう」


「相手が嫌なら成功だ、と」


「言いました」


「面白い」


 皇帝は再び報告を見た。


「だが286人死んだ」


「はい」


「どう思う」


「多すぎます」


 広間が静かになった。


「勝ったのに?」


「次はもっと減らします」


「蒙古軍を全滅させても満足しないのか」


「敵を全滅させることと、味方を死なせないことは別です」


 皇帝は達也をしばらく見た。


「欲が深いな」


「両方取れるなら、その方がよいでしょう」


「状元らしい答えではない」


「戦場で文章の点数は付きません」


 また笑いが起きた。


 皇帝は笑みを残したまま、横にいる官人へ合図した。


 官人が1通の辞令を持って前へ出た。


「倉達也」


「はい」


 皇帝が告げた。


「蒙古軍を全滅させ、淮東の民を救った功を賞する」


 達也は頭を下げた。


「枢密院編修官の職はそのままとする」


「はい」


「加えて、武功郎を授ける」


 達也が顔を上げた。


 文官として枢密院へ入った達也に、武階が与えられたのである。


「さらに今回の戦で使った兵をもとに、淮東に3000人の遊撃軍を置く」


 達也は皇帝を見た。


「3000人ですか」


「ああ」


「誰が率いるのでしょう」


 皇帝が笑った。


「お前に決まっているだろう」


 広間で何人かが笑った。


 達也は頭を下げた。


「ありがたく頂きます」


「嬉しそうだな」


「兵3000人をいただいて、嬉しくない者がいますか」


「お前の私兵ではないぞ」


「承知しております」


「淮東の都統制の下に置く。ただし遊撃軍については、お前が現地へ出た時には直接指揮してよい」


「はい」


「平時は訓練と国境警備に使う」


「承知しました」


 皇帝は続けた。


「枢密院では軍報を読め」


「はい」


「戦になれば現地へ行け」


「はい」


「紙だけの役人になるな」


 達也は答えた。


「私もそのつもりはありません」


 皇帝は満足そうに笑った。


「よし。下がれ」


「ありがとうございます」


 達也は深く礼をした。


 ◇ ◇ ◇


 宮中を出た達也の手には2つの辞令があった。


 枢密院編修官。


 そして武功郎。


 さらに淮東には、達也が戦時に直接使える遊撃軍3000人が置かれる。


 状元になった時、達也には兵がいなかった。


 枢密院編修官になっても、紙と書吏しか持っていなかった。


 今は違う。


 皇帝から武階を与えられた。


 軍も与えられた。


 しかも、蒙古軍2106人を1人も逃がさず全滅させた功績によるものだった。


 達也は宮門を出た。


 ようやく軍人としても最初の地位を手に入れた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、沈氏本家へ戻ると、家の前に文紹が立っていた。


「達也殿!」


「どうしました」


「どうしましたではありません」


 文紹は達也の手にある辞令を見た。


「蒙古軍を全滅させたという話、本当なのですか」


「本当です」


「2000人も?」


「2106人でした」


「細かいですね」


「数えましたから」


 奥から宗礼も出てきた。


「陛下に呼ばれたそうだな」


「はい」


「何を頂いた」


 達也は辞令を見せた。


「武功郎です」


 宗礼の目が動いた。


「武階まで得たか」


「はい」


「軍は?」


「淮東に3000人の遊撃軍を置くことになりました。戦の時は私が直接指揮できます」


 文紹が呆れた顔をした。


「少し前まで、うちで朝から走っている状元だったのに」


「今も朝は走りますよ」


「そういう話ではありません」


 宗礼は笑った。


「帰ってきたと思ったら、また大きくなったな」


「まだ3000人です」


「まだと言うか」


「最初はそれで十分です」


 宗礼は達也を見た。


「次は何人欲しい」


 達也は笑った。


「もっとです」


 ◇ ◇ ◇


 玉香と会ったのは、その夜だった。


 人のいない廊下で、玉香が達也を待っていた。


「帰ってきましたね」


「約束しましたから」


 玉香は達也の顔を見た。


「怪我は?」


「ありません」


「本当に?」


「少し擦り傷があるくらいです」


「蒙古軍を全滅させたと聞きました」


「早いですね」


「家中、その話ばかりです」


「そうでしょうね」


 玉香はしばらく達也を見た。


「怖くなかったのですか」


「怖かったですよ」


「それでも6000人の兵を動かした?」


「はい」


「2000人以上の蒙古兵を?」


「はい」


 玉香は息を吐いた。


「無事に帰ってきてよかった」


「そのために勝ってきました」


「またそういうことを言う」


 達也は笑った。


「昇進もしました」


「聞きました」


「武功郎です」


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「それだけではないのでしょう」


「兵3000人も使えるようになりました」


 玉香は呆れたように達也を見る。


「この前、次は何を得て帰ってくるのか楽しみだと言いました」


「覚えています」


「まさか軍を持って帰ってくるとは思いませんでした」


「私も3000人とは思いませんでした」


「満足しましたか」


 達也は即答した。


「いいえ」


 玉香が笑った。


「やはり」


「3000人では少ないでしょう」


「私には十分多く見えます」


「天下を相手にするなら少ないです」


 玉香はその言葉を聞いたが、冗談だと思ったらしい。


「では、次はもっと大きなものを持って帰ってくるのですね」


「そのつもりです」


 達也は自室へ戻った。


 机に2通の辞令を並べた。


 状元。


 枢密院編修官。


 武功郎。


 そして3000人の遊撃軍。


 1223年は、まだ始まったばかりである。


 達也は灯火の下で辞令を見た。


 南宋での出世は、ようやく速度を上げ始めていた。

 1223年初夏、蒙古騎兵2106人が金領を突破して南宋領へ侵入した。


 達也は現地の都統制の下で6000人を使うことを許され、蒙古軍との正面決戦を避けた。


 村人、穀物、家畜を先に避難させ、蒙古軍への補給を断つ。


 さらに6000人を小部隊へ分け、林、水田、狭い道、水場を利用して蒙古軍を繰り返し襲った。


 夜も休ませず、飼料と食料を得られなくなった蒙古軍は次第に兵と馬を失う。


 達也は最後に北へ逃げられる道を1本だけ残し、蒙古軍約1300人を東西を林と湿地に囲まれた土地へ誘い込んだ。


 蒙古軍が全て入ったところで南北の道を塞ぎ、弩兵、弓兵、槍兵で包囲する。


 侵入した蒙古軍2106人のうち1472人が死亡し、634人が捕虜となった。


 金領へ逃げ帰った者は1人もいなかった。


 南宋側も286人が戦死した。


 戦捷の報告を受けた皇帝趙擴(ジャオ・クオ)は達也を宮中へ召した。


 蒙古軍を全滅させた功により、達也は枢密院編修官の職に加えて武功郎を授けられた。


 さらに淮東に3000人の遊撃軍が置かれ、達也が現地へ出た場合には直接指揮することを認められた。


 状元として南宋へ仕え始めた19歳の達也は、初陣で蒙古軍を全滅させ、文官の官職だけでなく、武官としての官位と3000人の軍を手に入れた。

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