第3話(中編1)――「雨で止まる兵糧」
1223年初夏。
淮河方面から届いた報告を調べた倉達也は、帳面上の兵数と実際に動ける兵数、軍馬の総数と使用可能な数に大きな差があることを突き止めた。
枢密院は達也が作った新しい報告方法を試したうえで、現地の軍営、兵糧倉、道路、水運を直接確かめることにした。
達也も上役に同行して淮河方面へ向かう。
ところが現地では大雨が降り、さらに淮河北岸で金軍が動き始めた。
紙の上で見つけた問題が、本当の軍事危機へつながろうとしていた。
(1223年初夏、南宋・臨安府・沈氏本家)
淮河方面へ出発する朝、達也は日の出前に起きた。
この日は町へ走りに出ず、庭で身体を動かした。
旅は10日以上かかる。馬に乗る時間も長くなるため、いつものように身体を追い込まず、拳と蹴り、脚の運びを確かめる程度で切り上げた。
鍛錬を終えて部屋へ戻ろうとすると、廊下に蘇玉香が立っていた。
玉香の手には小さな布袋がある。
「今日、お発ちになるのでしょう」
「はい。朝餉を食べたら出ます」
玉香は布袋を差し出した。
「道中で召し上がってください。干した梅と生姜を入れてあります」
達也は受け取った。
「ありがとうございます」
「雨の多い時期です。濡れたまま歩き回って風邪をひかないでくださいね」
「気を付けます」
「今回は数字を見るだけではないのでしょう」
「実際の兵と倉を見ます」
「では、前より危ないのですね」
「戦をしに行くわけではありません」
「北には金がいるのでしょう」
以前なら仕事の内容を詳しく知らなかった玉香も、食卓で聞いた話から淮河の向こうに金がいることは知っている。
「金軍がこちらへ来れば危なくなりますが、今のところその知らせはありません」
「今のところ、ですね」
「はい」
玉香はそれ以上聞かなかった。
「戻ったら、数字が合ったか教えてください」
「今度は数字より、実物を見てきます」
「では、何を見つけたか教えてください」
「分かりました」
達也は布袋を旅装へ入れた。
玉香は廊下を戻っていった。
達也も身体を洗い、朝餉へ向かった。
◇ ◇ ◇
10日余り後。
達也は枢密院の上役と役人5人、護衛を伴って淮河方面の軍営へ入った。
軍営へ近づくと、臨安とは景色が変わった。
道を行く兵が増え、米俵や干し草を積んだ荷車が続いている。川には大小の船が浮かび、岸では兵が縄を引いて荷を降ろしていた。
馬の汗、糞尿、湿った土、炊き出しの煙が混じった臭いが漂っている。
軍営を預かる武官と役人が一行を迎えた。
上役は挨拶を済ませると、すぐ本題へ入った。
「今回は帳面の間違いを責めに来たのではない。実際に何人動けるのか、何頭使えるのか、どれだけ食わせられるのかを確かめる」
「承知しております」
「兵から見る」
点呼記録が運ばれてきた。
以前の報告では9200人だった。
新しい形式で出させた報告では、籍にある者が9186人。
そのうち実際に軍営と周囲の城にいる者は7934人だった。
病人と負傷者が421人。
河岸や街道の警備へ出ている兵が486人。
他部隊へ移ったものの、まだ元の籍から外されていない兵もいた。
さらに逃亡者と、所在を確認できない者が混じっている。
上役が記録を見た。
「9000人の軍だと思って兵糧を計算しても、今日ここで武器を持てる人数は違うな」
現地の武官が答えた。
「その通りでございます」
達也は尋ねた。
「今日、敵が来たとして、半日以内に集められる兵は何人ですか」
武官が部下へ確認した。
「およそ7200人です」
「1日待てば?」
「外の警備隊の一部を戻せますので、7600人ほどになります」
「それも報告へ入れた方がいいでしょう」
武官が達也を見る。
「半日と1日で集められる人数を、ですか」
「はい。籍に何人いるかだけでなく、実際にどのくらいの時間で何人集められるかが分かれば、援軍を送る側も判断できます」
上役が言った。
「それは使えるな」
達也は紙へ書き留めた。
帳面の数字を直すだけでは足りない。
必要なのは、戦になった時に何人動けるかだった。
次に軍馬を見た。
帳面では700頭余り。
ところが、その日のうちに騎乗や輸送へ使える馬は530頭ほどだった。
脚を傷めた馬。
蹄を悪くした馬。
痩せて休ませている馬。
咳が続いている馬。
数だけなら馬はいる。しかし使えなければ、軍馬として当てにすることはできない。
「なぜここまで傷んだ」
上役が馬を扱う役人へ尋ねた。
「雨が続いた時に輸送へ使い過ぎました」
「飼料は?」
「今は足りています」
「その前は?」
「一時、3日ほど不足しました」
達也が尋ねた。
「船で運べないのですか」
「途中までは船です。そのあと荷車へ移します」
「なぜ最後まで船を使わないのですか」
「軍営の近くまで入れる水路がありますが、浅くなっている場所があります」
「土砂を取り除いていない?」
「はい」
「いつからですか」
「昨年の夏からです」
上役が尋ねた。
「修復の願いは出したのか」
「出しております」
「通ったのか」
「まだです」
上役は返事をせず、達也へ言った。
「道と水路を両方見るぞ」
◇ ◇ ◇
軍営から兵糧倉へ向かう道は、晴れていれば荷車が通れた。
ただ、轍が深い。
左右には水田が広がり、道より低い場所には雨水が残っていた。
達也は土へ足を入れた。
靴底が沈む。
「最後に強い雨が降ったのは?」
「5日前です」
現地の役人が答えた。
「5日前で、まだこれだけ柔らかいのですか」
「この辺りは水が引きません」
上役が尋ねた。
「大雨なら荷車は?」
「止まることがあります」
「兵糧はどうする」
「馬と人で運びます」
「だから馬が傷んだのか」
役人は答えなかった。
兵糧倉へ入ると、別の問題が見つかった。
米俵は十分に積まれている。
しかし倉の奥へ進むほど、湿った藁と黴の臭いが強くなった。
達也は下段の俵へ触れた。
表面が湿っている。
「この米は使えますか」
倉を預かる役人が答えた。
「濡れた分を分けております」
「どれくらいあります」
「まだ数えているところでございます」
上役が帳面を開いた。
「ここには全量が使用可能と書かれている」
「報告を出したあとで雨が降りました」
「なら、それは仕方ない。今使える量を出せ」
「承知しました」
達也は屋根を見上げた。
梁の一部が黒く変色している。
壁にも水が流れた跡があった。
「修理の願いは?」
「昨年から出しております」
上役の顔が険しくなった。
「ここもか」
「一部だけ認められました」
「どこを直した」
「北側の屋根です」
雨漏りしているのは南側だった。
上役はしばらく倉を見回した。
「臨安では、この倉には十分な兵糧があることになっている」
「ございます」
倉役人は答えた。
「だが雨が降れば、その一部が腐る」
「はい」
「道も止まる」
「はい」
「水路は浅くて大きな船が入れない」
「はい」
上役は達也へ顔を向けた。
「お前が見つけた数字の違いより、面倒な話になってきたな」
「はい。帳面を直せば終わる話ではありません」
達也は湿った米俵を見た。
「今ある兵糧や軍馬まで、管理が悪いために使えなくなっています」
上役は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝から雨になった。
昼前には屋根を打つ音で、室内の話し声が聞き取りにくくなるほど強くなった。
達也たちは軍営で前日の記録を整理していた。
そこへ兵が駆け込んできた。
「申し上げます!」
現地の武官が顔を上げた。
「何だ」
「北岸で金軍が動いております!」
部屋にいた者たちの顔が一斉に兵へ向いた。
「兵数は」
「まだ確認できません。騎兵が複数の場所で南へ動いているとの報告です」
「渡河の動きは?」
「分かりません」
武官は立ち上がった。
「見張りを増やせ。渡し場を閉じろ。民船も北岸へ出すな」
「はい!」
兵が走り去った。
上役が地図を広げた。
「軍を集めるのにどれだけかかる」
武官が答えた。
「半日で7200人ほどです」
前日に確認した数字である。
「兵糧は?」
「前線の砦には3日分ございます」
「その先は?」
「ここから送ります」
達也が外を見た。
「この雨では、昨日の道は使えないのではありませんか」
武官の顔が止まった。
そこへ別の兵が飛び込んできた。
「兵糧を運んでいた荷車が止まりました!」
「どこだ」
「東の道です。先頭の車が泥へ沈み、後ろも進めません!」
上役が立った。
「何台だ」
「12台です!」
「積み荷は?」
「米と飼料、それに矢がございます!」
上役は達也へ顔を向けた。
「昨日見た通りになったぞ」
「水路へ回すしかありません」
現地の武官が言った。
「水路?」
「荷車を船着き場まで戻して、船へ積み替えます」
「大きな船は奥まで入れないぞ」
「途中から小舟へ積み替えます」
「数が足りるか」
「軍船だけで足りなければ、民船を借ります」
武官の顔が険しくなった。
「軍が民船を取り上げれば騒ぎになる」
「取り上げなければよいでしょう」
「どうする」
「船主の名前、船の大きさ、使った日数を記録して代金を払います。軍が壊した場合の扱いも証文へ書きます」
上役が尋ねた。
「金はどこから出す」
「軍の輸送に使う銭から出せませんか」
「お前に決める権限はない」
「ありません。ですから、あなたに決めていただく必要があります」
上役は地図を見た。
再び北岸から急報が来れば、すぐ前線へ兵糧と矢を送らなければならない。
「分かった」
上役は決断した。
「私の責任で出す。達也、お前は船着き場へ行け」
「はい」
「軍船を使い、足りない分は民船を借りろ。船主には正式な証文を出す。荷は米、矢、飼料の順だ」
「分かりました」
「現地の兵50人を付ける」
武官が口を挟んだ。
「100人出します。輸送を急ぐなら、その方がよいでしょう」
「よし」
上役は役人2人も同行させることにした。
「証文と支払いの記録は、この2人に扱わせる。達也、お前は輸送の段取りを決めろ」
「承知しました」
これまで達也は、上役について現場を見る立場だった。
今度は1つの仕事を任された。
達也は外套を取り、役人と兵を連れて外へ出た。
◇ ◇ ◇
雨が顔へ叩きつけた。
道はすでに泥へ変わっている。
先頭の荷車は、車輪の半分近くまで泥へ沈んでいた。
後ろには11台が列を作っている。
「全部押すな!」
達也が声を上げた。
車体を押していた兵が振り返った。
「まず荷を降ろせ。米には油布を掛けろ」
「はい!」
「矢は別に置け。飼料は最後だ」
兵が動き始めた。
達也は現地の隊長を呼んだ。
「板はあるか」
「近くの倉にあります」
「持ってきてくれ。車輪の下へ入れる」
「承知しました」
「綱も集めてください」
達也自身も泥へ入った。
深い場所では膝近くまで沈んだ。
米俵を降ろして荷車を軽くし、板を車輪の下へ差し込む。
兵が綱を掛けた。
「引け!」
兵が綱を引き、馬も後方へ力を掛けた。
車輪が泥の中で空転する。
「止めろ!」
達也は車輪の位置を確かめた。
「右へ板をもう1枚。馬を2頭増やしてください」
再び引く。
泥の中から車輪が抜けた。
兵から声が上がった。
「そのまま固いところまで戻せ!」
先頭の1台が動けば、後ろの荷車も順番に戻すことができた。
その間に、同行した役人が周辺の船主を集めた。
船着き場には軍用に使える船が8艘あった。
さらに周辺から大小17艘の民船が集まった。
船主たちは軍に船を奪われるのではないかと警戒していた。
同行した役人が帳面を広げた。
「船主の名と船の大きさを申せ。使用した日数も記録する」
船主の1人が尋ねた。
「船は返していただけるのでしょうか」
達也が答えた。
「返します」
「壊れたら?」
「軍が使って壊した分は支払います。そのことも証文へ書かせます」
「本当に払っていただけるので?」
「そのために役人を連れてきました」
役人が上役の命令書を示した。
「枢密院の命による。証文はこの場で出す」
ただで奪われるわけではないと分かると、船主たちの態度が変わった。
「それなら出します」
「俺の船も使ってください」
「米なら、この船が一番積めます」
達也は船頭たちから水深を聞いた。
「大きい船は途中まで。浅いところから小舟へ積み替えます」
同行した役人が尋ねた。
「途中でまた積み替えるのですか」
「はい」
「時間がかかります」
「何時間ほどですか」
「半日はかかるでしょう」
「荷車なら今日は着きません」
役人は黙った。
「なら船です」
達也は決めた。
米俵が次々と船へ積まれた。
その途中、軍営から使者が馬で駆けてきた。
「北岸の金軍が渡し場へ近づいております!」
達也が尋ねた。
「数は?」
「騎兵を中心に1000ほどとのことです!」
「こちらへ渡る船は?」
「今のところ確認されておりません!」
「前線からは?」
「矢と兵糧を急いでほしいとのことです!」
達也は積み荷を見た。
「米を積んだ船3艘を先に出します。次に矢。飼料は後です」
現地の隊長が尋ねた。
「護衛は?」
「弓兵を乗せてください。岸沿いにも兵を付けます」
「達也殿は?」
「次の船で行きます」
「ここに残って指揮した方がよいのでは?」
「向こうで積み下ろしが止まれば同じです。こちらはあなたに任せます」
隊長は答えた。
「分かりました」
雨の中、最初の船団が動き始めた。
◇ ◇ ◇
水路は増水していた。
普段より水量が増えたため、浅くなっていた場所も小舟なら通れる。
ただし流れは速かった。
達也が乗った船が曲がり角へ差し掛かった時、前方の船が大きく揺れた。
「綱が切れた!」
船頭が叫んだ。
積み荷を固定していた縄の一部が切れ、米俵が船縁へ寄った。
兵が慌てて押さえた。
そのままでは船が傾く。
「片側へ集まるな!」
達也も米俵へ手を掛けた。
「荷を中央へ戻せ!」
兵2人と一緒に俵を引いた。
濡れた縄が手の中で滑る。
船がもう一度大きく揺れた。
兵の1人が足を滑らせ、水へ落ちた。
「人が落ちた!」
兵は流れに押され、船から離れかけている。
達也は近くの綱を取って腰へ回し、端を兵へ渡した。
「持っていてください!」
「達也殿!」
「絶対に離すな!」
達也は水へ入った。
足が川底へ届かない。
増水した流れが身体を横へ押した。
達也は泳いで兵へ近づき、衣服をつかんだ。
「綱を引け!」
船上の兵たちが一斉に綱を引いた。
2人は船縁まで戻され、待っていた兵たちが腕をつかんだ。
先に落ちた兵を引き上げ、続いて達也も船へ上がった。
全身から水が滴った。
助けられた兵が咳き込みながら頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝るのは後です。まず荷を戻してください」
「はい!」
達也も切れた縄を結び直した。
船団は再び動いた。
◇ ◇ ◇
前線近くの船着き場へ到着した頃には、日が傾き始めていた。
砦の兵が岸で待っていた。
「米が来たぞ!」
船が着くと、兵たちが一斉に俵を降ろした。
達也は前線の指揮官へ状況を尋ねた。
「金軍は?」
「北岸へ集まっています。ただ、まだ川を渡ってはいません」
「数は1000ほどですか」
「その後の見張りでは、2000近いとの報告もあります」
「こちらへ攻めるのですか」
「まだ分かりません。蒙古との戦に備えた部隊の移動かもしれません」
「分からないなら、渡ってくるつもりで用意した方がいいでしょう」
「そのつもりです」
指揮官は積み上げられる米俵を見た。
「この雨で兵糧が来るとは思いませんでした」
「道は止まっています」
「では、どうやって」
「船です」
「奥の水路は浅いでしょう」
「途中から小舟へ積み替えました」
指揮官が達也を見る。
「誰が決めたのです」
「私です」
「あなたは枢密院から調査に来た方では?」
「今日は兵糧を届けるのが仕事になりました」
指揮官は笑った。
「助かりました」
その夜までに、米と矢の大半が前線へ届いた。
飼料の一部は翌朝になったが、軍馬をすぐ動かせる量は先に運ばれた。
道が完全に止まっている間も、前線への補給は途切れなかった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
金軍が淮河を渡る動きはないとの報告が入った。
北岸に集まった兵の多くは西へ動き始めた。
蒙古への対応か、別の地域への配置換えらしかった。
軍営では兵たちの緊張が少し解けた。
前線から戻った達也は上役の部屋へ呼ばれた。
乾いた衣服に着替えていたが、両手には濡れた綱で擦れた傷が残っていた。
上役がその手を見た。
「川へ入ったそうだな」
「兵が落ちました」
「お前まで流されたらどうする」
「腰に綱を付けていました」
「それでも危ない」
「2人とも戻れたのでよかったです」
上役は呆れた顔をした。
「お前は役人なのか兵なのか、分からなくなるな」
「役人です」
「泥へ入り、荷車を動かし、川へ入る役人か」
「必要だったので」
上役は机の上の書付を取った。
「前線から礼状が来ている」
「そうですか」
「この雨で米と矢が届かなければ、金軍が本当に渡ってきた時に困ったそうだ」
「渡ってこなくてよかったですね」
「それで終わらせるな」
上役は別の記録を達也の前へ置いた。
軍船8艘。
民船17艘。
兵100人。
荷車12台。
米、矢、飼料。
積み替えを行った場所。
前線へ到着した時刻。
すべてが記録されていた。
「お前が考えた報告方法のおかげで、昨日は実際に何人の兵を集められるか分かった」
「はい」
「道が止まった時も、前日に水路を見ていたから船へ切り替えられた」
「はい」
「民船を借りる時も、船主と揉めずに済んだ」
「ただで取り上げれば、次に必要になった時に船を隠されます」
「その通りだ」
上役は達也を見た。
「臨安へ戻ったら、私から上へ報告する」
「お願いします」
「お前の名も出す」
「私の名を?」
「ああ」
「調査はあなたの命令です」
「だが輸送の段取りはお前に任せた」
達也は上役を見た。
「遠慮するな」
上役は続けた。
「働いた者の名を書かず、私が全部やったことにしたら、次に働く者がいなくなる」
達也は笑った。
「それなら、ぜひお願いします」
「素直だな」
「出世できるなら断る理由がありません」
上役が笑った。
「やっと本音を言ったな」
「状元になって枢密院へ入り、いつまでも人の後ろで紙を書いているつもりはありません」
「そのくらいでいい」
上役は報告を畳んだ。
「臨安へ戻るぞ」
◇ ◇ ◇
それから10日余り後。
達也たちは臨安へ戻った。
上役は淮河方面で確認した兵数、軍馬、倉、道路、水路の問題に加え、金軍が動いた日に行った輸送について詳細な報告を出した。
数日後、達也は枢密院の上役から呼ばれた。
「明日、朝から官服を整えて来い」
「何かありますか」
「上から呼ばれている」
「誰ですか」
「行けば分かる」
翌朝、達也は普段より早く枢密院へ入った。
案内されたのは、これまで入ったことのない奥の部屋だった。
数人の高官が席についている。
達也の上役も末席にいた。
達也は前へ進み、礼をした。
高官の1人が尋ねた。
「倉達也か」
「はい」
「淮河で新しい報告方法を考えたのも、お前だな」
「上役の許可をいただいて作りました」
「雨の日に民船まで使って兵糧を運んだのも?」
「上役から輸送を任され、現地で段取りを決めました」
「民船を強引に取り上げたのではないのか」
「船主ごとに証文を出しました。使用した日数を記録し、軍が壊した場合の扱いも決めています」
「なぜそこまでした」
「次に戦になった時にも、船を貸してもらう必要があるからです」
高官は書付へ目を落とした。
「前線では、金軍が渡河してくる可能性もあった」
「はい」
「怖くなかったか」
「怖くなかったと言えば嘘になります。ただ、米と矢が届かない方が困ります」
高官が顔を上げた。
「随分と実際の話ばかりするな」
「兵は詩を食べて戦えませんので」
部屋の何人かが笑った。
高官も笑みを見せた。
「では聞く。淮河の軍を強くするには何が必要だ」
達也は答えた。
「新しい兵を増やす前に、今いる兵を確実に動かせるようにすることです」
「具体的には?」
「兵の実数を把握する。病人と負傷者を減らす。使えない軍馬を治す。倉の雨漏りを直す。雨で道が止まる場所は水路を使う。浅くなった水路は土砂を取り除く。必要な時にどこから船を集めるかも決めておきます」
「金はかかるぞ」
「新しく1万人集めるより安いと思います」
「なぜだ」
「今いる兵も十分に食わせられない状態で1万人増やせば、兵糧と輸送の問題まで増えるからです」
高官は達也を見た。
「お前は戦を嫌うのか」
「負ける戦が嫌いです」
「勝てるなら?」
「戦う必要があるなら戦います」
「金を攻めるべきだと思うか」
「今すぐ大軍を北へ出す必要はないと思います」
「なぜだ」
「金は蒙古と戦っています。こちらから急いで金を潰せば、次に蒙古が南宋へ近づきます」
「以前の書付にもそう書いていたな」
「はい」
「では南宋は何をする」
「金と蒙古が戦っている間に、自分たちの軍を使える軍へ変えます」
高官はしばらく達也を見た。
「分かった。下がれ」
「はい」
達也は礼をして部屋を出た。
何のために呼ばれたのかは、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
達也は再び上役から呼ばれた。
卓の上には新しい辞令が置かれていた。
「読め」
達也は紙を取った。
これまで達也は状元として枢密院へ入り、上役の下で軍事報告を読み、整理し、意見を書き添える仕事をしていた。
辞令には、達也を枢密院編修官へ進めると記されていた。
さらに当面、淮河方面から届く兵糧、軍馬、水運、道路に関する報告を達也が取りまとめる。
定例の問い合わせについては、枢密院編修官として現地へ書付を出すことも認められた。
仕事を補助する書吏2人も付く。
俸禄も増える。
達也は辞令から顔を上げた。
「昇進ですか」
「そうだ」
「随分早いですね」
「嫌か」
「まさか」
達也は辞令をもう一度見た。
「これなら、毎回あなたに問い合わせの書付を作っていただかなくても済みますね」
「定例の照会だけだ。大きな命令は今まで通り上へ上げろ」
「分かっています」
「兵を勝手に動かすこともできんぞ」
「そこまでの権限はありません」
「お前なら欲しがりそうだから先に言っておく」
達也が笑った。
「いずれは欲しいですね」
上役も笑った。
「まず今の仕事をやれ」
「はい」
「席も移る」
「どこへ?」
「奥だ。書吏2人もお前の仕事を手伝う」
「仕事が増えますね」
「俸禄も増える」
「それなら文句はありません」
「お前は分かりやすいな」
「働いて何も増えないよりいいでしょう」
「それはそうだ」
達也は辞令を持って部屋を出た。
枢密院へ入ってから初めて、明確に地位が上がった。
枢密院編修官という官職を得た。
自分で扱う仕事が決まり、定例の照会なら自分の名で現地へ出せる。
補助する者も付いた。
俸禄も増える。
紙を読んで上役へ意見を出すだけだった時より、できることは確実に増えていた。
達也は新しい席へ向かった。
以前より広い机が用意され、書吏2人が待っていた。
「今日からお願いします」
達也が声をかけると、2人が礼をした。
「まず淮河方面から届いている水路の報告を全部集めてください」
「本日中でございますか」
「明日の昼までで構いません」
2人の顔から緊張が少し抜けた。
「ただし、倉や水路の修理願いが途中で止まっているものは別にしてください」
「承知しました」
「それから、昨日まで私が使っていた席に蒙古関係の書付があります。こちらへ運んでください」
「全部ですか」
「全部です」
2人は顔を見合わせた。
「かなりありますよ」
達也が言うと、2人は苦笑しながら動き始めた。
達也は新しい机へ座った。
淮河へ向かう前には、自分の席まで変わるとは思っていなかった。
だが、働いた分だけ前へ進んだ。
次は、この地位を使ってさらに上へ行けばよい。
◇ ◇ ◇
夕方。
達也が沈氏本家へ戻ると、沈宗礼と沈文紹がすでに昇進を知っていた。
「おめでとうございます」
文紹が真っ先に声をかけた。
「ありがとうございます」
「淮河へ行って帰ってきたと思ったら、もう役が上がったのですか」
「運がよかったのでしょう」
宗礼が笑った。
「運だけで枢密院の官は上がらん。現地で何かしたのだろう」
「雨で荷車が止まりましたので、船へ積み替えました」
文紹が首を傾げた。
「それで昇進?」
「途中で金軍も動きました」
「先にそちらを言ってください」
達也が笑った。
「結局、金軍は渡ってきませんでした」
「では戦はなかった?」
「ありません」
「それはよかった」
「はい」
宗礼は達也の辞令を見た。
「枢密院編修官か」
「はい」
「これからは人も付くのか」
「書吏が2人付きました」
「19歳で人を使う側へ回ったか」
「2人だけですよ」
「最初は2人だ」
宗礼は達也へ辞令を返した。
「そのうち増やせばよい」
達也が笑った。
「そのつもりです」
廊下の向こうに玉香がいた。
人前では近づいてこなかった。
夕食を終え、達也が自室へ戻ろうとした時、玉香が廊下で声をかけた。
「達也さん」
「はい」
「昇進、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「何を見つけたか、帰ったら教えてくださる約束でしたね」
「覚えていましたか」
「もちろんです」
「倉の雨漏りと、止まる道と、浅い水路です」
「それで昇進したのですか」
「途中から金軍まで動きました」
玉香の顔が変わった。
「戦ったのですか」
「戦っていません」
「本当に?」
「金軍は川を渡ってきませんでした」
玉香は達也の手へ目を向けた。
「では、その傷は?」
達也は掌を見た。
綱で擦れた跡がまだ残っている。
「川へ落ちた兵を引き上げました」
「ご自分も川へ?」
「入りました」
「危なかったのでしょう」
「綱を付けていました」
「それでも川へ入ったことに変わりはありません」
玉香は周囲に人がいないことを確かめ、達也の手を取った。
掌に残った傷を見た。
「帰ってきた時に何もおっしゃらないから、普通の視察だったのだと思っていました」
「無事に帰ってきましたから」
「達也さんは、そればかりですね」
「何がですか」
「終わったことは、何でも問題ないことにしてしまう」
達也は玉香に手を握られたまま答えた。
「終わったことより、次を考えた方が得でしょう」
玉香は達也を見た。
「では、次はもっと偉くなるのですか」
「なるつもりです」
「どこまで?」
「上がれるところまでです」
玉香は笑った。
「それなら、今日の役では満足していないのですね」
「ようやく最初の1段です」
玉香はもう一度掌の傷を確かめてから、達也の手を離した。
「では、次に帰ってきた時は何を得ているのか楽しみにしています」
「期待してください」
達也は自室へ戻った。
机の上には今日受け取った辞令がある。
淮河へ向かう前まで、達也は上役の後ろで報告を読む状元だった。
今は枢密院編修官である。
自分が扱う仕事を持ち、自分の名で出せる書付もある。
2人とはいえ、仕事を補助する者も付いた。
俸禄も増えた。
まだ大きな権力を持ったわけではない。
それでも、状元になってから初めて自分の働きで手に入れた地位だった。
達也は辞令を机へ置いた。
次は、この地位を使ってさらに上へ行く。
そのための仕事は、明日から始まる。
1223年初夏、達也は枢密院の上役とともに淮河方面へ赴き、兵、軍馬、兵糧倉、道路、水路の実情を確かめた。
調査中に大雨が降り、兵糧を運ぶ荷車12台が泥濘で動けなくなる。さらに淮河北岸では、見張りから金軍が最大で約2000人動いているとの報告が入り、前線の砦から米と矢を急いで送るよう求められた。
上役から輸送を任された達也は、軍船8艘に加えて民船17艘を借り、米と矢を水路で前線へ運ぶ。
輸送中には兵1人が川へ落ちたが、達也は綱を付けて水へ入り、兵を救助した。
金軍は結局、淮河を渡らなかった。
しかし前線への補給を途切れさせなかった達也の働きは臨安へ報告された。
達也は枢密院編修官へ昇進し、淮河方面の兵糧、軍馬、水運、道路に関する報告を取りまとめる仕事を任された。
俸禄が増え、書吏2人が仕事の補助に付き、定例の照会であれば自分の職名で現地へ書付を出せるようになった。
状元として枢密院へ入って以来、達也は初めて明確な地位と権限を手に入れた。
達也にとって、それはまだ最初の1段にすぎなかった。




