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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第3話(前編2)――「数字の合わない兵」

 (1223年春、南宋・臨安府(リンアンフ)・沈氏本家)


 夜明け前、達也はいつものように本家を出た。


 雨は降っていなかったが、空には雲が多く、朝の空気には湿気が残っていた。


 達也は走り始めた。


 途中から少し速度を上げる。


 橋を渡り、道が広くなったところでさらに速く走り、しばらくして元の速さへ戻した。


 それを何度か繰り返す。


 同じ速さで長く走るだけではなく、速く動いたあとでも早く呼吸を整えられる身体にしたかった。


 本家へ戻ると、庭を歩きながら息を整えた。


 以前より回復が早い。


 達也は上衣を脱ぎ、拳と蹴りの鍛錬へ移った。


 踏み込んで拳を出し、身体を引く。


 横へ動いて蹴りを放ち、すぐに足を戻す。


 足を止めず、何度も動きを繰り返した。


 そのあと木に掛けた布を使って身体を引き上げ、腕、肩、背中を鍛えた。


 最後に腕立て伏せを終えて立ち上がると、廊下に蘇玉香(スー・ユーシャン)がいた。


「今日は途中で随分速く走っていましたね」


 達也は手拭いを取った。


「見えましたか」


「門の外へ出た時に、少しだけ」


「同じ速さばかりでは飽きますから」


「それだけですか」


「速く走ったあと、どれくらいで息が戻るかも確かめています」


 玉香は達也の顔を見た。


「もう普通に話していますね」


「前なら、しばらく何もしたくありませんでした」


「毎日続けると、そこまで変わるのですね」


「まだ変わると思います」


 達也は桶の水で顔を洗った。


 冷たい水が首から胸へ流れる。


 玉香は手にしていた布を使用人へ渡した。


「お仕事でも、毎日数字を見ているのですか」


「数字も見ます」


「面白いのですか」


「合っていれば、すぐ終わります」


「合っていなければ?」


「理由を探します」


 玉香が笑った。


「そちらの方が楽しそうですね」


「面倒ですが、何か出てきますから」


「今日も遅くなりそうですか」


「どうでしょう。昨日出した書付の返事次第です」


「では朝餉をしっかり召し上がってください」


「そうします」


 達也は身体を洗うため庭を離れた。


 玉香はそのまま朝の仕事へ戻った。


 ◇ ◇ ◇


 枢密院へ着くと、達也はすぐ上役から呼ばれた。


 前日に提出した書付が卓の上へ置かれている。


 何か所かに書き込みが加えられていた。


「上へ回した」


 上役が言った。


「どうなりましたか」


「全部そのまま通ったわけではない」


「当然でしょう」


「まず淮河(ホワイホー)を見る」


 達也は卓へ近づいた。


「現地へ人を出すのですか」


「まだだ。先に今ある報告を洗う」


「どの範囲ですか」


「淮河沿いの主要な城と軍営だ。兵、兵糧、馬、船、道路について届いているものを集めた」


 上役は横に積まれた書付を指した。


「お前がやれ」


「分かりました」


「ただし、不正探しをしろと言っているのではない」


「数字が違っていても、すぐ不正とは決めません」


「それでいい」


 上役は別の紙を渡した。


「同じ場所について、兵を扱う報告と兵糧を扱う報告が別々に来ている。書いた日も違う」


「それを合わせるのですね」


「ああ。何が分かるか見ろ」


 達也は書付を抱えて自分の席へ戻った。


 まず場所ごとに分けた。


 同じ城。


 同じ軍営。


 同じ州。


 そのうえで日付をそろえる。


 軍の報告では兵が1万2000人いる。


 ところが、その少し後に出された兵糧の報告を見ると、米の消費量がその人数と合わない。


 別の城では兵が増えたと書かれているのに、軍馬と飼料の数字がほとんど変わっていなかった。


 また別の場所では、兵数は前月と同じなのに、病人の数だけ急に増えている。


 達也は紙へ数字を書き写し、横へ並べた。


 兵が減っているのか。


 兵糧が余っているのか。


 報告の日付がずれているだけなのか。


 別の場所へ出ている兵まで在籍数へ入れているのか。


 病人や負傷者も同じ数へ入っているのか。


 まだ分からない。


 昼前になると、上役が様子を見に来た。


「何か出たか」


「数字は合いません」


「やはりか」


「ただ、理由はまだ分かりません」


 達也は書き写した紙を見せた。


「ここは兵1万2000人となっています」


「ああ」


「ですが兵糧の減り方を見ると、その人数が毎日食べているようには見えません」


「水増しか」


「まだ分かりません」


「ほかに何がある」


「別の場所へ出ている兵が籍だけ残っている。死者の処理が遅れている。病人が別の場所で食事をしている。報告の日付がずれている。いくつか考えられます」


「なるほど」


「ここは逆です」


 達也は別の書付を示した。


「兵数が増えていますが、馬の数が増えていません」


「歩兵を増やしたのではないか」


「それなら問題ありません。ただ、増援が騎兵を含むならおかしい」


「報告には書いていないのか」


「増援としかありません」


 上役は紙を見た。


「分からんことが多いな」


「書き方がそろっていません」


「そこか」


「はい」


 達也は何枚かの報告を並べた。


「兵数と書いても、実際に城にいる兵だけを書くところもあれば、別の任務へ出ている者まで含めているところがあります」


「病人は?」


「そこも違います。含めるところと、別に書くところがあります」


「軍馬もか」


「総数だけを書くところがあります。使える馬と病気の馬を分けている報告もあります」


 上役は腕を組んだ。


「これでは比べにくいな」


「はい」


「ならどうする」


「書き方をそろえます」


「新しい報告を出させるのか」


「まず淮河方面だけで試した方がよいと思います」


「何を書かせる」


 達也は紙を取った。


「兵は、籍にある総数と、実際にその場所にいる人数を分けます」


 筆を動かす。


「その中から病人と負傷者、別の場所へ出ている兵、すぐ戦える兵も分けます」


「細かくなるな」


「今よりは増えます」


「続けろ」


「馬も総数だけではなく、使える馬と、病気や怪我で使えない馬を分けます」


「ああ」


「兵糧は量だけではなく、今いる兵で何日持つかを書かせた方が比較しやすいです」


「倉ごとに量が違うからか」


「はい」


「飼料は?」


「同じです」


 達也は続けた。


「船は総数と使える数。道路は晴れた日だけではなく、雨のあとでも荷車が通れるかを書かせます」


 上役が笑った。


「役人が嫌がりそうだな」


「最初だけでしょう」


「毎月これを書けと言われたら文句が来るぞ」


「毎月全部を見る必要はありません」


「では?」


「兵と兵糧は定期的に。道路や城壁は変化があった時か、季節ごとでもよいと思います」


「なるほど」


 上役は達也の紙を取った。


「案を作れ」


「今日ですか」


「お前なら今日と言うだろう」


「では今日出します」


「そうしろ」


 ◇ ◇ ◇


 午後になると、達也は新しい報告の形を作り始めた。


 複雑にし過ぎれば現地の負担が増える。


 簡単にし過ぎれば、今と変わらない。


 必要なものだけを残した。


 兵については、籍にある人数、現地にいる人数、病人と負傷者、任務で外へ出ている人数。


 馬については、総数と使用可能な数。


 兵糧と飼料については、現在量と何日分あるか。


 船については、総数と使用できる数。


 道路は主要な道だけを対象にした。


 荷車が通れるか。


 雨のあとに通れるか。


 壊れた橋がないか。


 それ以上は、必要になってから聞けばよい。


 達也が書いていると、前日に金との戦について話していた官人が寄ってきた。


「今日は蒙古ではないのか」


「淮河です」


「何をしている」


「報告の書き方をそろえています」


 官人は達也の紙を見た。


「ずいぶん細かいな」


「今のままでは数字を比べられません」


「兵が何人いるか分かれば十分ではないか」


「その兵がそこにいれば、です」


「どういう意味だ」


 達也は朝から調べていた報告を見せた。


「ここでは兵1万2000人となっています」


「ああ」


「ですが、何人が病気で、何人が別の場所へ出ているか分かりません」


「それでも籍には1万2000人いる」


「戦になった日に1万2000人並びますか」


 官人は紙を見た。


「並ばぬかもしれんな」


「私は、そこが知りたいのです」


「兵糧まで見るのも同じか」


「はい」


「戦になれば集めればよい」


「どこから集めますか」


「近隣からだ」


「近隣の倉に何日分あるか分からなければ、集められる量も分かりません」


 官人は苦笑した。


「お前と話していると、戦より飯の話ばかりになるな」


「飯を食わずに戦える兵がいるなら、その兵だけ数えれば楽なのですが」


 官人が笑った。


「確かにいないな」


「でしょう」


「だが紙が増えるぞ」


「増やし過ぎないようにしています」


 達也は作りかけの様式を見せた。


「これだけか」


「今のところは」


「もっと山ほど書かせるのかと思った」


「読む方も困ります」


「そこは分かっているのだな」


「紙を増やすために仕事をしているわけではありません」


 官人は笑いながら自分の席へ戻っていった。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻近くになり、達也は案を上役へ出した。


 上役は最初から最後まで目を通した。


「兵の総数と現地数を分けたか」


「はい」


「病人、負傷者、外へ出ている兵も別」


「はい」


「これなら数字が合わない理由も見つけやすいな」


「全部が分かるとは思いませんが、今よりは分かります」


「船まで入れたのはなぜだ」


「淮河ですから」


「そうだったな」


「兵糧を水路で運べる場所も多いでしょう」


 上役は最後の部分を読んだ。


「道路は雨のあとを見るのか」


「今日までの報告では、通行できるとしか書いていないものがあります」


「晴れている時だけかもしれない」


「はい」


「春から夏は雨も増える」


「その時に荷車が動かなければ困ります」


 上役は紙を卓へ置いた。


「よし」


「使いますか」


「まず数か所で試す」


「淮河方面ですか」


「ああ」


「全部へ一度に出さないのですね」


「現地から文句が来るかもしれん」


「それも見た方がよいでしょう」


「何を見る」


「書けない項目があるなら、なぜ書けないのかです」


 上役が達也を見る。


「お前は面倒なところまで見るな」


「そこが分からなければ、報告を変えても同じです」


「分かった」


 上役は使いの者を呼び、達也が作った案を数か所で試すための準備を命じた。


 正式な命令は上役から出る。


 達也はその横で、必要な写しをまとめた。


「達也」


「はい」


「これが返ってきたら、お前が比べろ」


「分かりました」


「数字が違っても、いきなり役人を疑うなよ」


「承知しています」


「本当に不正なら?」


「その時は別です」


「それでいい」


 話は終わった。


 達也は自分の席へ戻った。


 蒙古を調べる仕事は続いている。


 しかし、その前に南宋自身が何を持っているのか分からなければならない。


 紙の上で1万人いても、実際に動けるのが8000人なら、8000人として考えた方がよい。


 船が100艘あっても、40艘が壊れているなら60艘しかない。


 倉に米があると書かれていても、雨漏りで腐っていれば使えない。


 達也は朝に見つけた数字の違いをもう一度確認した。


 次に返ってくる報告で、どこまで実態が見えるか。


 そこから先を考えればよい。


 ◇ ◇ ◇


 数日後。


 達也は夜明け前からいつもの道を走っていた。


 この日は前より長い距離を走ったあと、最後の区間だけ速度を上げた。


 本家の裏門へ戻る頃には汗が背中を流れていた。


 それでも庭へ入って少し歩けば、呼吸は戻ってくる。


 達也は休まず鍛錬へ移った。


 拳と蹴りを終え、布を握って身体を引き上げる。


 回数を重ねると腕と背中が熱くなった。


 地面へ降りたところで、廊下から玉香の声がした。


「今日は随分汗をかいていますね」


「最後だけ速く走りました」


「それでも、もう普通に話せるのですね」


「少し待てば戻ります」


 玉香は手に水差しを持っていた。


「こちらをどうぞ」


「ありがとうございます」


 達也は受け取り、水を飲んだ。


 冷たい水が喉を通った。


「いつも用意しているのですか」


「今日はたまたま持ってきただけです」


「そうですか」


 達也は水差しを返した。


 玉香は達也の腕へ目を向けたあと、尋ねた。


「お仕事の数字は合いましたか」


 達也が笑った。


「覚えていたのですか」


「合っていなければ理由を探すとおっしゃったでしょう」


「まだ探しているところです」


「見つかりそうですか」


「新しい報告を出してもらうことになりました」


「達也さんが命じたのですか」


「いいえ。上役です」


「では、その報告を達也さんが見る?」


「そうなります」


「忙しくなりますね」


「数字が返ってくれば、今より面白くなります」


「やはり楽しんでいるではありませんか」


「少しは」


 玉香が笑った。


「朝餉まであまり時間がありませんよ」


「もう終わります」


「では早く身体を洗ってください」


「はい」


 達也は素直に答えた。


 玉香は廊下を戻っていった。


 達也はその後ろ姿を見たが、声は掛けなかった。


 水桶へ向かい、残っていた汗を洗い流した。


 ◇ ◇ ◇


 それから半月ほどして、淮河方面から最初の返答が届いた。


 達也は上役の席へ呼ばれた。


 卓の上に新しい書付が3通置かれている。


「来たぞ」


 上役が言った。


 達也は最初の1通を開いた。


 以前の報告では兵は9200人。


 新しい報告では、籍にある人数は9186人。


 だが実際に軍営や城にいるのは7934人だった。


 病人と負傷者。


 別の場所へ出ている兵。


 長く戻っていない者。


 それぞれが分けて書かれている。


 達也は次の報告を開いた。


 こちらも総数と実数が違う。


 3通目では兵数の差は小さかったが、軍馬に問題があった。


 帳面では700頭を超えている。


 すぐ使える馬は500頭余りだった。


 達也は3通を並べた。


「随分違ったな」


 上役が言った。


「はい」


「水増しだと思うか」


「まだそれだけでは分かりません」


 達也は最初の報告を指した。


「外へ出ている兵がかなりいます。病人もいる。長く戻っていない者については調べる必要があります」


「逃亡兵かもしれん」


「死者の処理が遅れている可能性もあります」


「軍馬は?」


「病気と怪我が多いです」


「報告では700頭以上いた」


「数だけならいます」


 上役は書付を取り上げた。


「使えるのは500余り」


「はい」


「これでは違う軍だな」


「戦う時に使える方で考えるべきでしょう」


 上役はしばらく数字を見ていた。


「続けるぞ」


「はい」


「試す場所を増やす」


「分かりました」


「それから、この3か所については数字が違った理由を確認させる」


「誰に命じますか」


「こちらで決める。お前は手元の報告を整理しろ」


「承知しました」


 上役が最初の書付を達也へ返した。


「蒙古の前に、こちらの軍を知る必要がありそうだな」


「私もそう思います」


「金を攻める話をするにしても、この数字ではな」


「取れる城の数より、動ける兵の数を先に知った方がよいでしょう」


 上役が笑った。


「また飯と数字か」


「どちらも戦には必要です」


「分かった。やれ」


 達也は3通の書付を持って自分の席へ戻った。


 南宋には兵がいる。


 城もある。


 船もある。


 馬もいる。


 だが、帳面に書かれた数と、その日に使える数は同じではなかった。


 金をどうするか。


 蒙古をどう防ぐか。


 その前に、自分たちが何を持っているのかを正しく知る必要がある。


 達也は新しい紙を広げた。


 兵数を書き写し、その横へ実際に動ける数を書いた。


 次は軍馬。


 その次は兵糧。


 数字が合わないところには印を付ける。


 今度は理由まで調べる。


 北を見る仕事は、南宋自身の足元を確かめるところから始まっていた。

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