第3話(前編2)――「数字の合わない兵」
(1223年春、南宋・臨安府・沈氏本家)
夜明け前、達也はいつものように本家を出た。
雨は降っていなかったが、空には雲が多く、朝の空気には湿気が残っていた。
達也は走り始めた。
途中から少し速度を上げる。
橋を渡り、道が広くなったところでさらに速く走り、しばらくして元の速さへ戻した。
それを何度か繰り返す。
同じ速さで長く走るだけではなく、速く動いたあとでも早く呼吸を整えられる身体にしたかった。
本家へ戻ると、庭を歩きながら息を整えた。
以前より回復が早い。
達也は上衣を脱ぎ、拳と蹴りの鍛錬へ移った。
踏み込んで拳を出し、身体を引く。
横へ動いて蹴りを放ち、すぐに足を戻す。
足を止めず、何度も動きを繰り返した。
そのあと木に掛けた布を使って身体を引き上げ、腕、肩、背中を鍛えた。
最後に腕立て伏せを終えて立ち上がると、廊下に蘇玉香がいた。
「今日は途中で随分速く走っていましたね」
達也は手拭いを取った。
「見えましたか」
「門の外へ出た時に、少しだけ」
「同じ速さばかりでは飽きますから」
「それだけですか」
「速く走ったあと、どれくらいで息が戻るかも確かめています」
玉香は達也の顔を見た。
「もう普通に話していますね」
「前なら、しばらく何もしたくありませんでした」
「毎日続けると、そこまで変わるのですね」
「まだ変わると思います」
達也は桶の水で顔を洗った。
冷たい水が首から胸へ流れる。
玉香は手にしていた布を使用人へ渡した。
「お仕事でも、毎日数字を見ているのですか」
「数字も見ます」
「面白いのですか」
「合っていれば、すぐ終わります」
「合っていなければ?」
「理由を探します」
玉香が笑った。
「そちらの方が楽しそうですね」
「面倒ですが、何か出てきますから」
「今日も遅くなりそうですか」
「どうでしょう。昨日出した書付の返事次第です」
「では朝餉をしっかり召し上がってください」
「そうします」
達也は身体を洗うため庭を離れた。
玉香はそのまま朝の仕事へ戻った。
◇ ◇ ◇
枢密院へ着くと、達也はすぐ上役から呼ばれた。
前日に提出した書付が卓の上へ置かれている。
何か所かに書き込みが加えられていた。
「上へ回した」
上役が言った。
「どうなりましたか」
「全部そのまま通ったわけではない」
「当然でしょう」
「まず淮河を見る」
達也は卓へ近づいた。
「現地へ人を出すのですか」
「まだだ。先に今ある報告を洗う」
「どの範囲ですか」
「淮河沿いの主要な城と軍営だ。兵、兵糧、馬、船、道路について届いているものを集めた」
上役は横に積まれた書付を指した。
「お前がやれ」
「分かりました」
「ただし、不正探しをしろと言っているのではない」
「数字が違っていても、すぐ不正とは決めません」
「それでいい」
上役は別の紙を渡した。
「同じ場所について、兵を扱う報告と兵糧を扱う報告が別々に来ている。書いた日も違う」
「それを合わせるのですね」
「ああ。何が分かるか見ろ」
達也は書付を抱えて自分の席へ戻った。
まず場所ごとに分けた。
同じ城。
同じ軍営。
同じ州。
そのうえで日付をそろえる。
軍の報告では兵が1万2000人いる。
ところが、その少し後に出された兵糧の報告を見ると、米の消費量がその人数と合わない。
別の城では兵が増えたと書かれているのに、軍馬と飼料の数字がほとんど変わっていなかった。
また別の場所では、兵数は前月と同じなのに、病人の数だけ急に増えている。
達也は紙へ数字を書き写し、横へ並べた。
兵が減っているのか。
兵糧が余っているのか。
報告の日付がずれているだけなのか。
別の場所へ出ている兵まで在籍数へ入れているのか。
病人や負傷者も同じ数へ入っているのか。
まだ分からない。
昼前になると、上役が様子を見に来た。
「何か出たか」
「数字は合いません」
「やはりか」
「ただ、理由はまだ分かりません」
達也は書き写した紙を見せた。
「ここは兵1万2000人となっています」
「ああ」
「ですが兵糧の減り方を見ると、その人数が毎日食べているようには見えません」
「水増しか」
「まだ分かりません」
「ほかに何がある」
「別の場所へ出ている兵が籍だけ残っている。死者の処理が遅れている。病人が別の場所で食事をしている。報告の日付がずれている。いくつか考えられます」
「なるほど」
「ここは逆です」
達也は別の書付を示した。
「兵数が増えていますが、馬の数が増えていません」
「歩兵を増やしたのではないか」
「それなら問題ありません。ただ、増援が騎兵を含むならおかしい」
「報告には書いていないのか」
「増援としかありません」
上役は紙を見た。
「分からんことが多いな」
「書き方がそろっていません」
「そこか」
「はい」
達也は何枚かの報告を並べた。
「兵数と書いても、実際に城にいる兵だけを書くところもあれば、別の任務へ出ている者まで含めているところがあります」
「病人は?」
「そこも違います。含めるところと、別に書くところがあります」
「軍馬もか」
「総数だけを書くところがあります。使える馬と病気の馬を分けている報告もあります」
上役は腕を組んだ。
「これでは比べにくいな」
「はい」
「ならどうする」
「書き方をそろえます」
「新しい報告を出させるのか」
「まず淮河方面だけで試した方がよいと思います」
「何を書かせる」
達也は紙を取った。
「兵は、籍にある総数と、実際にその場所にいる人数を分けます」
筆を動かす。
「その中から病人と負傷者、別の場所へ出ている兵、すぐ戦える兵も分けます」
「細かくなるな」
「今よりは増えます」
「続けろ」
「馬も総数だけではなく、使える馬と、病気や怪我で使えない馬を分けます」
「ああ」
「兵糧は量だけではなく、今いる兵で何日持つかを書かせた方が比較しやすいです」
「倉ごとに量が違うからか」
「はい」
「飼料は?」
「同じです」
達也は続けた。
「船は総数と使える数。道路は晴れた日だけではなく、雨のあとでも荷車が通れるかを書かせます」
上役が笑った。
「役人が嫌がりそうだな」
「最初だけでしょう」
「毎月これを書けと言われたら文句が来るぞ」
「毎月全部を見る必要はありません」
「では?」
「兵と兵糧は定期的に。道路や城壁は変化があった時か、季節ごとでもよいと思います」
「なるほど」
上役は達也の紙を取った。
「案を作れ」
「今日ですか」
「お前なら今日と言うだろう」
「では今日出します」
「そうしろ」
◇ ◇ ◇
午後になると、達也は新しい報告の形を作り始めた。
複雑にし過ぎれば現地の負担が増える。
簡単にし過ぎれば、今と変わらない。
必要なものだけを残した。
兵については、籍にある人数、現地にいる人数、病人と負傷者、任務で外へ出ている人数。
馬については、総数と使用可能な数。
兵糧と飼料については、現在量と何日分あるか。
船については、総数と使用できる数。
道路は主要な道だけを対象にした。
荷車が通れるか。
雨のあとに通れるか。
壊れた橋がないか。
それ以上は、必要になってから聞けばよい。
達也が書いていると、前日に金との戦について話していた官人が寄ってきた。
「今日は蒙古ではないのか」
「淮河です」
「何をしている」
「報告の書き方をそろえています」
官人は達也の紙を見た。
「ずいぶん細かいな」
「今のままでは数字を比べられません」
「兵が何人いるか分かれば十分ではないか」
「その兵がそこにいれば、です」
「どういう意味だ」
達也は朝から調べていた報告を見せた。
「ここでは兵1万2000人となっています」
「ああ」
「ですが、何人が病気で、何人が別の場所へ出ているか分かりません」
「それでも籍には1万2000人いる」
「戦になった日に1万2000人並びますか」
官人は紙を見た。
「並ばぬかもしれんな」
「私は、そこが知りたいのです」
「兵糧まで見るのも同じか」
「はい」
「戦になれば集めればよい」
「どこから集めますか」
「近隣からだ」
「近隣の倉に何日分あるか分からなければ、集められる量も分かりません」
官人は苦笑した。
「お前と話していると、戦より飯の話ばかりになるな」
「飯を食わずに戦える兵がいるなら、その兵だけ数えれば楽なのですが」
官人が笑った。
「確かにいないな」
「でしょう」
「だが紙が増えるぞ」
「増やし過ぎないようにしています」
達也は作りかけの様式を見せた。
「これだけか」
「今のところは」
「もっと山ほど書かせるのかと思った」
「読む方も困ります」
「そこは分かっているのだな」
「紙を増やすために仕事をしているわけではありません」
官人は笑いながら自分の席へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
夕刻近くになり、達也は案を上役へ出した。
上役は最初から最後まで目を通した。
「兵の総数と現地数を分けたか」
「はい」
「病人、負傷者、外へ出ている兵も別」
「はい」
「これなら数字が合わない理由も見つけやすいな」
「全部が分かるとは思いませんが、今よりは分かります」
「船まで入れたのはなぜだ」
「淮河ですから」
「そうだったな」
「兵糧を水路で運べる場所も多いでしょう」
上役は最後の部分を読んだ。
「道路は雨のあとを見るのか」
「今日までの報告では、通行できるとしか書いていないものがあります」
「晴れている時だけかもしれない」
「はい」
「春から夏は雨も増える」
「その時に荷車が動かなければ困ります」
上役は紙を卓へ置いた。
「よし」
「使いますか」
「まず数か所で試す」
「淮河方面ですか」
「ああ」
「全部へ一度に出さないのですね」
「現地から文句が来るかもしれん」
「それも見た方がよいでしょう」
「何を見る」
「書けない項目があるなら、なぜ書けないのかです」
上役が達也を見る。
「お前は面倒なところまで見るな」
「そこが分からなければ、報告を変えても同じです」
「分かった」
上役は使いの者を呼び、達也が作った案を数か所で試すための準備を命じた。
正式な命令は上役から出る。
達也はその横で、必要な写しをまとめた。
「達也」
「はい」
「これが返ってきたら、お前が比べろ」
「分かりました」
「数字が違っても、いきなり役人を疑うなよ」
「承知しています」
「本当に不正なら?」
「その時は別です」
「それでいい」
話は終わった。
達也は自分の席へ戻った。
蒙古を調べる仕事は続いている。
しかし、その前に南宋自身が何を持っているのか分からなければならない。
紙の上で1万人いても、実際に動けるのが8000人なら、8000人として考えた方がよい。
船が100艘あっても、40艘が壊れているなら60艘しかない。
倉に米があると書かれていても、雨漏りで腐っていれば使えない。
達也は朝に見つけた数字の違いをもう一度確認した。
次に返ってくる報告で、どこまで実態が見えるか。
そこから先を考えればよい。
◇ ◇ ◇
数日後。
達也は夜明け前からいつもの道を走っていた。
この日は前より長い距離を走ったあと、最後の区間だけ速度を上げた。
本家の裏門へ戻る頃には汗が背中を流れていた。
それでも庭へ入って少し歩けば、呼吸は戻ってくる。
達也は休まず鍛錬へ移った。
拳と蹴りを終え、布を握って身体を引き上げる。
回数を重ねると腕と背中が熱くなった。
地面へ降りたところで、廊下から玉香の声がした。
「今日は随分汗をかいていますね」
「最後だけ速く走りました」
「それでも、もう普通に話せるのですね」
「少し待てば戻ります」
玉香は手に水差しを持っていた。
「こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
達也は受け取り、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通った。
「いつも用意しているのですか」
「今日はたまたま持ってきただけです」
「そうですか」
達也は水差しを返した。
玉香は達也の腕へ目を向けたあと、尋ねた。
「お仕事の数字は合いましたか」
達也が笑った。
「覚えていたのですか」
「合っていなければ理由を探すとおっしゃったでしょう」
「まだ探しているところです」
「見つかりそうですか」
「新しい報告を出してもらうことになりました」
「達也さんが命じたのですか」
「いいえ。上役です」
「では、その報告を達也さんが見る?」
「そうなります」
「忙しくなりますね」
「数字が返ってくれば、今より面白くなります」
「やはり楽しんでいるではありませんか」
「少しは」
玉香が笑った。
「朝餉まであまり時間がありませんよ」
「もう終わります」
「では早く身体を洗ってください」
「はい」
達也は素直に答えた。
玉香は廊下を戻っていった。
達也はその後ろ姿を見たが、声は掛けなかった。
水桶へ向かい、残っていた汗を洗い流した。
◇ ◇ ◇
それから半月ほどして、淮河方面から最初の返答が届いた。
達也は上役の席へ呼ばれた。
卓の上に新しい書付が3通置かれている。
「来たぞ」
上役が言った。
達也は最初の1通を開いた。
以前の報告では兵は9200人。
新しい報告では、籍にある人数は9186人。
だが実際に軍営や城にいるのは7934人だった。
病人と負傷者。
別の場所へ出ている兵。
長く戻っていない者。
それぞれが分けて書かれている。
達也は次の報告を開いた。
こちらも総数と実数が違う。
3通目では兵数の差は小さかったが、軍馬に問題があった。
帳面では700頭を超えている。
すぐ使える馬は500頭余りだった。
達也は3通を並べた。
「随分違ったな」
上役が言った。
「はい」
「水増しだと思うか」
「まだそれだけでは分かりません」
達也は最初の報告を指した。
「外へ出ている兵がかなりいます。病人もいる。長く戻っていない者については調べる必要があります」
「逃亡兵かもしれん」
「死者の処理が遅れている可能性もあります」
「軍馬は?」
「病気と怪我が多いです」
「報告では700頭以上いた」
「数だけならいます」
上役は書付を取り上げた。
「使えるのは500余り」
「はい」
「これでは違う軍だな」
「戦う時に使える方で考えるべきでしょう」
上役はしばらく数字を見ていた。
「続けるぞ」
「はい」
「試す場所を増やす」
「分かりました」
「それから、この3か所については数字が違った理由を確認させる」
「誰に命じますか」
「こちらで決める。お前は手元の報告を整理しろ」
「承知しました」
上役が最初の書付を達也へ返した。
「蒙古の前に、こちらの軍を知る必要がありそうだな」
「私もそう思います」
「金を攻める話をするにしても、この数字ではな」
「取れる城の数より、動ける兵の数を先に知った方がよいでしょう」
上役が笑った。
「また飯と数字か」
「どちらも戦には必要です」
「分かった。やれ」
達也は3通の書付を持って自分の席へ戻った。
南宋には兵がいる。
城もある。
船もある。
馬もいる。
だが、帳面に書かれた数と、その日に使える数は同じではなかった。
金をどうするか。
蒙古をどう防ぐか。
その前に、自分たちが何を持っているのかを正しく知る必要がある。
達也は新しい紙を広げた。
兵数を書き写し、その横へ実際に動ける数を書いた。
次は軍馬。
その次は兵糧。
数字が合わないところには印を付ける。
今度は理由まで調べる。
北を見る仕事は、南宋自身の足元を確かめるところから始まっていた。




