第3話(前編1)――「金の向こうを見る状元」
(1223年春、南宋・臨安府・沈氏本家)
夜明け前、達也は沈氏本家の裏門を出た。
前夜の雨は止んでいたが、石畳にはまだ水が残っている。道端の土も湿っており、走るたびに草と泥の匂いが鼻へ入った。
店の戸はほとんど閉じていた。
朝餉の支度を始めた家から薪を割る音が聞こえ、少し離れたところでは鶏が鳴いている。
達也は足を止めず、町の外れまで走った。
毎朝続けているうちに、走る距離は自然に伸びていた。
最初から速く走ることはしない。一定の速さを保ち、呼吸が乱れれば少し落とし、整えば元へ戻す。
以前なら途中で何度か歩いていた距離でも、今はそのまま走り切れる。
本家へ戻る頃には額から汗が流れていたが、門をくぐって庭へ入るまでに呼吸はかなり戻っていた。
達也は上衣を脱いだ。
水を一口飲んでから、庭の中央へ立つ。
まず足を運ぶ。
前へ出る。
下がる。
横へ動く。
そこから拳を出し、腰を回して蹴る。
何度も繰り返してから、今度は庭の木へ掛けた丈夫な布を握り、自分の身体を引き上げた。
肩と背中へ力が入る。
地面へ降りると腕立て伏せを始めた。
数だけ増やすのではなく、身体を深く下ろして同じ動きを続ける。
最後に腹と脚を鍛え、立ち上がった時には薄い下着が汗で肌へ張り付いていた。
「毎朝、本当によく続きますね」
廊下から声がした。
蘇玉香だった。
玉香は使用人へ朝の仕事を伝えたあと、そのまま庭を見ていたらしい。
「おはようございます」
達也は手拭いで顔を拭った。
「おはようございます。今日はいつもより遅く戻られましたね」
「少し遠くまで走りました」
「まだ距離を伸ばしているのですか」
「走れるようになったので」
玉香は達也を見た。
沈氏本家へ移ってきた頃より、肩や腕が厚くなっている。胸も広く、背中には布越しでも筋肉の動きが見えた。
何より、あれだけ動いたあとでも話す時の息が乱れていない。
「随分変わるものですね」
「何がですか」
「身体です」
達也は自分の腕へ目を落とした。
「毎日見ていますから、自分ではよく分かりません」
「こちらは毎日同じ時間に見ているわけではありませんから」
「それなら玉香さんの方が分かるかもしれませんね」
「少なくとも、前より逞しくなりました」
「それはよかった」
達也は桶から水をくみ、口をすすいだ。
玉香はまだそこにいた。
「疲れないのですか」
「疲れます。ただ、前ほど残らなくなりました」
「朝からこれだけ動いて、そのあと枢密院でしょう」
「身体を動かすのは朝だけですから」
「帰りも遅い日がありますよね」
「仕事が増えれば仕方ありません」
玉香は達也の肩へ目を向けた。
「無理をなさらないようにしてください」
「ありがとうございます」
達也は手拭いを肩へ掛けた。
「朝餉はもうできますか」
「はい。そろそろ皆さんも集まります」
「では身体を洗ってきます」
達也はそのまま庭を離れた。
玉香は後ろ姿を見送った。
以前、達也は2人だけになった時に、自分を綺麗だと言った。
それ以後は何も言わない。
今朝も、目の前にいるのに口説こうとはしなかった。
玉香は庭へ落ちた汗の跡へ一度目を向けると、朝餉の部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
朝餉を終えた達也は官服へ着替え、枢密院へ向かった。
臨安の大通りはすでに動き始めている。
市場へ野菜を運ぶ荷車と、米俵を載せた荷車が行き交い、水路では荷船が岸へ寄せられていた。
店先では粥や餅を売る支度が進み、煮炊きの煙が低い屋根の上へ流れている。
達也は枢密院へ入ると、自分の席へ向かった。
卓の上には、北方から届いた書付が積まれていた。
金軍の配置。
淮河方面の宋軍。
城ごとの兵数。
兵糧の残量。
軍馬の数。
道路の状態。
渡河に使える船。
難民の流入。
その中には、金よりさらに北の戦況を伝える報告も混じっている。
達也は蒙古に関する書付を抜き出し、金の報告と並べた。
金が蒙古軍に押されている。
城を失った。
兵を北へ回した。
別の地方では住民が南へ逃げている。
1枚ずつ読んでから、達也は地図を広げた。
南宋の北に金がある。
その金を蒙古が北から削っている。
金軍が弱れば南宋への圧力は減る。
そこだけを見れば悪い話ではない。
だが金が失った土地には、蒙古が入る。
達也は蒙古軍の動きを示した報告を地図の横へ置いた。
近くの席では、年長の官人2人が金について話していた。
「北へ兵を取られている今なら、金も南へ大軍を出せまい」
「だからこそ好機だ。こちらから攻めればよい」
「また大戦を始めるのか」
「いつまで守っている。弱った時に攻めず、いつ失地を取り返すのだ」
「取ったあとを考えろ。城を取れば守備兵を置く。兵糧も運ぶ。道も直す。金を追って北へ出続ければ、それだけ南宋も疲れる」
「だから何もしないというのか」
「金との戦を増やさないことと、何もしないことは違う」
もう何度も繰り返されている議論らしかった。
片方は北へ攻めるべきだと言い、もう片方は戦線を広げることを嫌っている。
達也は口を挟まず、蒙古の報告を読み続けた。
やがて上役の官人が席を回ってきた。
達也の卓に金と蒙古の報告が並んでいるのを見て、足を止めた。
「蒙古も読んでいるのか」
「はい」
「何か見つけたか」
「まだ調べています」
「話せるところまででよい」
上役は達也の横へ座った。
達也は地図を向けた。
「金が北から押されています」
「それは分かっている」
「金がさらに弱った時のことを考えていました」
「南へ出てくるという話か」
「それもあります」
達也は淮河を指した。
「北で土地を失えば、金が南へ活路を求めることは考えられます。そうなれば、この辺りの守りが要ります」
「今も備えている」
「はい。ただ、もう1つあります」
「何だ」
「金が南へ出る余力まで失った場合です」
達也は指を北へ動かした。
「金が蒙古に領土を奪われ続ければ、蒙古がこちらへ近づきます」
上役は地図を見た。
「金が滅びるところまで考えるのか」
「そこまで行くかどうかは分かりません」
「では、なぜ考える」
「分からないからです」
上役が達也を見る。
「続けろ」
「金が持ち直すなら、それでよい。蒙古との戦が長引けば、蒙古も兵と馬を使います」
「ああ」
「ですが、金が負け続けるなら、その先も見ておかなければなりません」
「蒙古が南宋へ来ると?」
「来ないとは言い切れません」
上役はしばらく地図を見ていた。
近くにいた官人の1人が話へ加わった。
「だから金と手を結べというのか」
「そこまでは考えていません」
達也は答えた。
「金が南宋との約束を守る保証もありませんし、こちらが金のために兵を出す理由もありません」
「ならどうする」
「急いで金を潰さないことです」
先ほど主戦論を話していた官人が眉を寄せた。
「金を攻めるなと?」
「取った土地を守り続けられるなら、攻める選択もあるでしょう」
「なら反対ではないのだな」
「戦そのものに反対しているのではありません」
達也は地図へ目を戻した。
「金を倒すことだけを目的にするのは危ないと言っています」
「なぜだ」
「金が蒙古と戦っている間は、蒙古の兵が金に向いているからです」
上役が言った。
「こちらが金を攻めれば、蒙古を助けることになる」
「そうなる場合があります」
「では、その間に何をする」
「南宋の守りを調べます」
達也は淮河を指した。
「まずここです」
「何を見る」
「兵数だけでは足りません」
達也は卓に置かれた報告を何枚か手に取った。
「実際に動ける兵が何人いるのか。病人は何人いるのか。兵糧は何日分あるのか。馬と飼料は足りているのか。倉は雨を防げるのか。荷車が通れる道があるのか。渡河に使う船が何艘あるのか。それを一緒に見ます」
「そこまで調べるのか」
「兵が1万人いると書いてあっても、その1万人へ飯を運べなければ戦えません」
上役が別の書付を手に取った。
「殿試でも似たことを書いていたな」
「はい」
「ほかは」
達也は西へ指を動かした。
「襄陽と漢水です」
「そこも見る?」
「北から南へ入る道は1つではありません」
さらに西へ移す。
「四川へ入る道も調べておいた方がよいと思います」
別の官人が尋ねた。
「蒙古の騎兵をそこまで恐れるのか」
「恐れる前に知りたいのです」
「何をだ」
「どれほどの速さで動くのか。どれだけ馬を使うのか。食料をどうしているのか。城をどう攻めるのか。川をどう渡るのか」
達也は蒙古関係の報告を示した。
「金軍が蒙古と戦っているなら、こちらはそこから学べます」
「金が負けるところを見るというわけか」
「勝つところも見ます」
「何のために」
「蒙古が何を嫌うのか分かるからです」
上役は少し考えた。
「蒙古は騎兵が強いと聞く」
「なら、こちらから広い平地へ出て騎兵の速さに付き合う必要はありません」
「川や山を使う?」
「使えるものは使います。南宋には水路も多い」
「城へ籠もるだけでは勝てんぞ」
「籠もるだけとは言っていません」
達也は答えた。
「相手の得意なところで全部戦わないというだけです」
上役は達也を見た。
「お前なら今、金へどうする」
「大きな戦を増やしません」
「和平を結ぶ?」
「必要なら交渉はしてよいと思います。ただ、和平したから安心するのは違います」
「なるほど」
「金が蒙古と戦っている間に、こちらを整えます」
達也は言った。
「道路を直し、倉を調べ、船をそろえる。城壁が傷んでいるなら修理する。兵の報告も実数に近づける。何年か時間が取れるなら、その時間を使います」
主戦論を話していた官人が尋ねた。
「失地はどうする」
「取れる時に取ればよいでしょう」
「先ほどと話が違わないか」
「取るなとは言っていません」
達也は相手を見た。
「取ったあとに守れる場所を取るべきだと言っています」
官人は黙った。
「金が弱ったから北へ出る。城を取る。そこで兵糧が足りなくなり、蒙古まで来たら、こちらが困ります」
別の官人が笑った。
「状元殿は欲が深いな」
「何がですか」
「金には蒙古と戦わせ、失地は守れるところだけ取る。その間に南宋は力を蓄える」
「その方が得だと思います」
「随分とはっきり言う」
「損をするために戦う理由はないでしょう」
何人かが笑った。
上役は再び地図へ目を落とした。
「では、今の話をまとめろ」
「何を入れますか」
「金を攻める側の意見と、戦を避けたい側の意見。その両方だ」
「はい」
「それからお前の案も書け」
「金と蒙古が戦っている間に備えを進める案ですね」
「ああ」
「淮河、襄陽、四川も入れますか」
「入れろ。ただし大工事を始めろとは書くな」
「まず調査です」
「そうだ」
上役は蒙古の報告を達也の前へ戻した。
「蒙古についても、今分かっていることと、まだ分からないことを分けて書け」
「承知しました」
「明日まででよい」
「今日出せます」
「なら今日出せ」
「はい」
達也は新しい紙を広げた。
最初に現在の金の状況を書いた。
北方へ兵を取られているため、南へ出せる力は以前より落ちている。
しかし、北で追い詰められれば南へ動く可能性がある。
逆に北で敗れ続ければ、蒙古が南へ近づく。
次に朝廷内の2つの意見を整理した。
弱った金へ攻勢を掛け、失った土地を取り戻す。
大きな戦を避け、南宋の兵と財を温存する。
どちらにも利点と危険がある。
達也は、その下へ自分の案を書いた。
金との戦を必要以上に増やさない。
金には北で蒙古と戦わせる。
その間に淮河、襄陽、漢水、四川方面の実情を調べる。
兵数。
病人。
兵糧。
倉。
軍馬と飼料。
道路。
水路。
渡河用の船。
城壁。
援軍を送る経路。
そのうえで、弱いところから直す。
蒙古についても、ただ兵が強いという話では足りない。
移動速度。
騎兵の数。
馬の使い方。
補給。
攻城。
渡河。
冬と夏の行軍。
金軍が勝った戦と負けた戦。
知るべきことはいくらでもあった。
達也は筆を走らせた。
金をどうするかだけを考えていては足りない。
その向こうで戦っている相手まで見なければ、次に何が起きるか判断できない。
◇ ◇ ◇
日が傾いてから、達也は書き終えた報告を上役へ渡した。
上役はその場で読み始めた。
達也は自分の席へ戻り、残っていた別の報告へ手を伸ばした。
しばらくして呼ばれた。
「達也」
「はい」
「これを少し直せ」
上役は報告の一か所を指した。
「四川まで一度に調べろと読める」
「では優先順位を入れます」
「まず淮河だ。その次に襄陽と漢水。四川は既存の報告を集めるところからでよい」
「分かりました」
「蒙古の情報も同じだ」
「はい」
「商人や難民から聞くことはできるが、話をそのまま事実にするな」
「複数の話を突き合わせます」
「それを書け」
「承知しました」
達也は紙を受け取り、自分の席へ戻った。
足りないところを直す。
上役の判断に従い、調査の順番を明確にした。
蒙古についても、聞き取りと軍報を分け、確認できた事実と推測を混ぜない形へ改めた。
修正したものを再び出すと、今度は受け取られた。
「明日から、この方針で手元の報告を整理してみろ」
「分かりました」
「勝手に各地へ命令を出すなよ」
「出せません」
「分かっているならいい」
上役は書付をまとめた。
「使えるところがあれば、上へ回す」
「お願いします」
達也は礼をして席へ戻った。
◇ ◇ ◇
沈氏本家へ戻った時には雨が降っていた。
軒から落ちた水が庭へ筋を作り、土の表面を黒くしている。
達也が廊下へ上がると、沈文紹が奥から出てきた。
「今日は遅かったですね」
「書き直しがありました」
「朝廷の書類ですか」
「はい」
「状元でも書き直さされるのですね」
「当然でしょう」
達也は濡れた袖を払った。
「上役の方が仕事を知っています」
「それを素直に言えるのはよいことですね」
「直した方がよいところを直さず、意地を張っても仕方ありません」
文紹が笑った。
「朝もあれだけ走っていたのに、夜まで仕事ですか」
「少しずつ慣れてきました」
「私は朝の鍛錬だけで1日分働いた気になりそうです」
「毎朝やれば変わりますよ」
「私は見ているだけにします」
2人は話しながら夕食の部屋へ入った。
宗礼もすでに席に着いている。
玉香は料理の確認をしていた。
達也が入ると顔を上げた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
それだけである。
食事が始まると、達也は宗礼から枢密院の仕事について尋ねられた。
「北の様子はどうだ」
「金が蒙古にかなり押されています」
「こちらへまた来そうか」
「可能性はあります」
「朝廷は何と言っている」
「金を攻めたい者もいれば、戦を広げたくない者もいます」
宗礼が箸を置いた。
「お前は?」
「金だけを見ない方がよいと思っています」
「蒙古か」
「はい」
宗礼はそれ以上、役所の細かな話を聞かなかった。
「飯の席で軍議を続けても仕方ないな。食え」
「そうします」
文紹が笑った。
「達也殿は朝から走り、昼は金と蒙古を見て、夜は飯を食う暇も惜しみそうですね」
「飯はきちんと食べます」
「そこは安心しました」
玉香が料理をよそった椀を達也の前へ置いた。
「朝から動いているのですから、しっかり召し上がってください」
「ありがとうございます」
達也は普通に受け取った。
玉香も次の料理へ手を伸ばす。
人前で2人の間に特別なやり取りはなかった。
だが玉香は、朝の庭で見た達也の姿を覚えていた。
毎朝同じことを続け、少しずつ身体が変わっていく。
朝廷へ出るようになっても、それは変わらない。
達也の方も、食事の途中で玉香と目が合ったことには気付いた。
しかし、それ以上は何もしなかった。
食事を終えると自室へ戻った。
卓には枢密院から持ち帰った写しがある。
達也は灯火を近づけ、蒙古に関する記録をもう一度開いた。
明日の朝も走る。
明日の昼も北方の報告を読む。
身体が1日で変わらなかったのと同じで、国の守りも一度の命令では変わらない。
だが、金と蒙古が戦っている間は使える。
その時間を無駄にしない。
達也は次の書付へ手を伸ばした。




