第2話(後編1)――「妻を取らない状元」
1223年春。
18歳の倉達也は殿試で1位となり、状元に選ばれた。
15年間科挙に落ち続けた沈景文も、合格者の最下位ながら進士となった。
長く科挙合格者を出せなかった沈氏から、一度に状元と進士が出たことで、沈家を取り巻く状況は大きく変わる。
祝い客が相次ぎ、達也には有力な家から縁談も持ち込まれた。
しかし達也は、相手の家柄も財産も確かめようとはしなかった。
返事は最初から決まっていた。
(1223年春、南宋・臨安府・沈家)
合格発表の翌朝も、達也は日の出前に庭へ出た。
状元になっても日課は変えない。
庭を走り、拳と蹴りを繰り返し、最後に投げと組み討ちの動きを確かめる。
14歳の沈文進も一緒だった。
「達也兄さん」
「何だ」
「昨日、状元になったばかりなのに、今日も同じなのですね」
「状元になったからといって、昨日までできなかったことが急にできるようになるわけじゃない」
「それはそうですが」
「なら続けるぞ」
「はい」
文進が構えた。
達也は踏み込んできた文進の腕を取り、力の向きを変えて地面へ転がした。
文進はすぐに起き上がった。
「前より長く立っていられました」
「ああ。足が止まらなくなった」
「もう一度お願いします」
「来い」
2人が再び向き合ったところで、屋内から沈慧娘が出てきた。
「達也兄さん、父上が呼んでいます」
「朝から?」
「お客様が来ています」
「誰だ」
「お祝いの方です。本家の宗礼伯父上も来ています」
達也は庭の入り口を見る。
門の向こうから人の声が聞こえていた。
「分かった」
達也は文進へ言った。
「今日はここまでだ」
「はい」
2人は顔と手を洗い、屋内へ戻った。
◇ ◇ ◇
客間には朝早くから何人もの客が集まっていた。
酒、菓子、布などの祝い品が積まれている。
その中には、これまで景文の家へほとんど顔を出さなかった親族もいた。
沈宗礼は客間の奥に座り、訪れる者へ応対していた。
達也が入ると、客たちの視線が集まった。
「来たか」
宗礼が呼んだ。
「ああ」
「こちらへ座れ。皆、お前へ祝いを言いに来ている」
達也は宗礼の隣へ座った。
親族の1人が頭を下げた。
「18歳で状元とは見事です。沈氏にとっても大きな誉れとなりました」
「ありがとう」
達也はそれ以上余計なことは言わなかった。
別の男も続ける。
「景文殿も進士になられた。沈氏が再び栄える兆しでしょう」
景文が苦笑した。
「私は一番下ですがね」
「それでも進士は進士です」
宗礼が言った。
「そのとおりだ。順位はどうあれ、景文が進士になったことに変わりはない」
景文は伯父を見た。
「昨日まで最下位と言い続けていたではありませんか」
「祝い客の前では言わん」
「本人の前では言うのですか」
客間に笑いが起きた。
達也も笑ったが、それ以上は口を挟まなかった。
状元となったことで、自分を見る目が昨日までとは明らかに違っている。
その変化を達也はよく見ていた。
◇ ◇ ◇
祝い客が帰り始めた頃、宗礼が達也と景文を残した。
「達也。話がある」
「何だ」
「縁談だ」
景文が先に反応した。
「もう来たのですか」
「昨日からだ。今朝までに本家へ5件来ている」
達也は宗礼を見る。
「全部断ってくれ」
宗礼は聞き返した。
「全部?」
「ああ」
「相手を聞かなくてよいのか」
「聞かなくていい」
「家柄も?」
「いらない」
「相手の娘がどのような者かも聞かぬのか」
「聞かない」
宗礼の顔から祝いの席の笑みが消えた。
「達也。状元の婚姻は、お前1人の話ではなくなる。よい家と縁を結べば、官人として先へ進む助けにもなる」
「それでも断る」
「理由を聞いてよいか」
達也は少し考えてから答えた。
「会ったこともない女を、家柄や金のために妻にする気はない」
「お前が相手を見てから決めてもよい」
「同じだ」
「なぜだ」
「俺は妻を取るつもりがない」
景文が驚いた。
「ずっとか?」
「少なくとも今は取らない」
「18歳だぞ」
「分かってる」
「状元なら、望めば名家の娘を妻にできる」
「だから何だ」
達也は宗礼を見る。
「俺の出世のために、会ったこともない女と夫婦になる気はない。縁談は全部断ってくれ」
宗礼は達也の顔をしばらく見ていた。
「誰か心に決めた女がいるのか」
達也は答えなかった。
景文も達也を見る。
達也は話を戻した。
「相手の家を侮って断るわけじゃない。俺に妻を迎える意思がないと伝えてくれ。それで十分だ」
宗礼はそれ以上追及しなかった。
「分かった」
「悪いな」
「お前の婚姻だ。無理に決めても意味はない」
「助かる」
「ただし、今後も縁談は来るぞ」
「全部同じように断ってくれ」
「頑固だな」
「ああ」
宗礼は苦笑した。
「そこまで言うなら任せろ」
◇ ◇ ◇
昼を過ぎても沈家への訪問は続いた。
状元を出した家として、沈氏は一夜で注目されるようになった。
以前は景文が科挙へ落ちるたびに距離を置いていた親族も、今は笑顔で訪れている。
達也はその様子を見ても怒らなかった。
人は利益があるところへ集まる。
それ自体は珍しいことではない。
重要なのは、誰がどの時点で近づいてきたかを覚えておくことだった。
夕方になると宗礼は本家へ戻った。
縁談については、すべて本家で断ると約束した。
景文は宗礼を見送ったあと、達也へ尋ねた。
「本当に全部断るのか」
「ああ」
「惜しいと思わないのか」
「何が」
「有力な家の娘を妻にできるんだぞ」
「だから妻を取る気がないと言っただろ」
「お前は女が好きじゃなかったのか」
「好きだ」
「では余計に分からん」
達也は景文を見る。
「女が好きなのと、誰かを妻にするのは別だ」
「そんなものか」
「俺にはそうだ」
景文はそれ以上聞かなかった。
達也が8か月間、誰へ最も強く目を向けてきたか、景文も知らないわけではない。
だが妻の玉蘭は、達也の口説きを受け入れていない。
景文はそのことを知っているからこそ、達也が妻を取らない理由について、それ以上問いたださなかった。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、玉蘭が台所で食器を片付けていた。
達也は水を飲むために入ってきた。
「まだ片付けてるのか」
「今日はお客様が多かったですから」
玉蘭は卓の上へ重ねた器を運んでいた。
達也は何も言わず、その半分を持った。
玉蘭が見る。
「運んでくれるのですか」
「ああ」
「珍しいですね」
「手が空いてる」
2人で器を棚へ戻した。
玉蘭が口を開いた。
「縁談が来ているそうですね」
「ああ」
「宗礼伯父上から聞きました」
「全部断った」
玉蘭の手が止まった。
「全部?」
「ああ」
「まだ相手を見てもいないのでしょう」
「見る必要がない」
「なぜですか」
「妻を取る気がないからだ」
玉蘭は達也を見る。
「状元になったのですよ。これから先、家を持つことも必要になるでしょう」
「必要になったら考える」
「今は考えないのですか」
「ああ」
「せっかくよいお話が来ているのに」
達也は水を飲み、椀を置いた。
「玉蘭」
今度はふざけた調子ではなかった。
「俺は、好きでもない女を妻にする気はない」
玉蘭は何も言わなかった。
「家柄がいいから、金があるから、官人として得になるから。それだけで妻を決める気もない」
「あなたらしくないですね」
「そうか?」
「もっと損得で決める人だと思っていました」
「損得は考える」
「やはり」
「でも、それで全部決めるわけじゃない」
玉蘭は達也の顔を見た。
いつもの軽口ではないことは分かった。
「私が理由ですか」
達也はごまかさなかった。
「ああ」
玉蘭の顔が強張った。
「達也」
「分かってる。先に最後まで聞いてくれ」
玉蘭は黙った。
「俺は玉蘭が好きだ」
達也は続けた。
「でも景文から奪うつもりはない」
玉蘭は驚いて達也を見た。
「文進や慧娘から母親を奪う気もない。沈家を壊す気もない」
「それなら……」
「ああ。もう毎日口説かない」
玉蘭の目が揺れた。
「本当に?」
「景文は俺を家へ入れた。俺を信用してる。文進も俺を慕ってる。本家の親父も俺を養子にした」
達也は玉蘭から目をそらさなかった。
「その家を、自分の欲しい女のために壊すほど馬鹿じゃない」
玉蘭は答えなかった。
「だから安心しろ」
達也は言った。
「俺はもう、玉蘭に返事を迫らない」
玉蘭は卓へ手を置いた。
「なら、縁談を受けてもよいではありませんか」
「それは別だ」
「なぜです」
「玉蘭を諦めるために別の女を妻にする方が、俺には不誠実だ」
「私はあなたの妻にはなれません」
「分かってる」
「主人がいます」
「分かってる」
「子どももいます」
「それも分かってる」
「それでも?」
「ああ」
達也は答えた。
「好きなのをやめろと言われても、そこまではできない。ただ、何もしないことはできる」
玉蘭は返す言葉を失った。
長い間、達也は遠慮なく自分を口説いてきた。
断っても翌日にはまた声を掛けてきた。
その男が今、自分から一線を引こうとしている。
怒ったわけでも、思いを捨てたわけでもない。
沈家を壊さないために、自分から踏み込むことをやめると言っていた。
「ありがとうございます」
玉蘭がようやく答えた。
「礼を言われることじゃない」
「それでもです」
達也は何も返さなかった。
しばらくして玉蘭が尋ねた。
「では、これから私を口説かないのですね」
「ああ」
「毎朝も?」
「言わない」
「今日も綺麗だ、と?」
「言わない」
玉蘭は黙った。
達也は、その顔にわずかな寂しさが浮かんだことに気付いた。
それでも何も言わなかった。
ここで言葉を重ねれば、自分で決めたことを破ることになる。
「じゃあ寝る」
「はい」
「おやすみ、玉蘭」
「お休みなさい、達也」
達也は台所を出た。
玉蘭はしばらく、その背中を見送っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
達也はいつもどおり文進と庭で身体を鍛えた。
春の朝は暖かく、庭の土も冬の頃ほど冷たくない。
稽古を終えたところへ玉蘭が来た。
「朝餉ですよ」
「ああ」
達也は玉蘭を見た。
いつもなら、ここで必ず声を掛けていた。
だが今日は何も言わなかった。
「文進、顔を洗え」
「はい」
達也も井戸へ向かう。
玉蘭はその場に残った。
8か月近く、毎日のように聞いていた言葉がない。
望んでいたはずなのに、実際になくなると妙に耳が寂しかった。
達也は振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
数日後、本家から宗礼が訪ねてきた。
「達也」
「何だ」
「また縁談だ」
「断ってくれ」
「今度は相当な家だぞ」
「同じだ」
「娘も評判がよい」
「関係ない」
「顔くらい見てからでも遅くない」
「会わない」
宗礼は達也を見た。
「本当に妻を取らぬつもりか」
「今はな」
「縁談を持ってくる家がなくなるぞ」
「それでいい」
「後悔するなよ」
「しない」
宗礼は諦めた。
「分かった。断る」
「頼む」
景文がそばで聞いていた。
「本当に頑固だな」
「前からだろ」
「確かにそうだ」
それ以降も縁談は何件か来たが、達也は相手の名すら詳しく聞かず、すべて断った。
名家の娘だからという理由で妻を取るつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
達也が女そのものへ興味を失ったわけではなかった。
縁談として持ち込まれる娘に興味を持たないだけだった。
家と家の都合で相手を決められるより、自分の目で見て気に入った女へ自分から近づく方が、達也の性に合っている。
相手に夫がいるからといって、それだけで美しい女に目を向けなくなる男でもなかった。
ただし玉蘭だけは別だった。
景文は達也を信じている。
文進も慧娘も、達也を家族のように受け入れている。
玉蘭を欲しいという理由で、その家族を壊すことはしない。
達也はそう決めた。
その日の夕方、玉蘭が庭を横切った。
達也は書物を読んでいた。
以前なら必ず顔を上げて声を掛けた。
今日は玉蘭を見たあと、何も言わずに書物へ目を戻した。
玉蘭も足を止めず、そのまま庭を通り過ぎた。
2人とも相手を意識していた。
それでも言葉にはしなかった。
達也には、科挙の次に進むべき道がある。
状元となった18歳の青年へ、間もなく朝廷から最初の官職が与えられることになる。
1223年春、達也と景文の科挙合格によって、沈家には多くの祝い客が訪れた。
18歳で状元となった達也には、有力な家から縁談も相次いで持ち込まれる。
しかし達也は相手の家柄や財産、容姿さえ確かめず、すべての縁談を断った。
達也は玉蘭への思いを隠さなかったが、景文や子どもたちとの関係を壊すつもりもなかった。
そのため玉蘭を口説くことをやめ、返事を求めることもしなくなる。
一方で、達也が女そのものへ興味を失ったわけではない。
家同士が決めた縁談で妻を迎えるのではなく、自分が気に入った女へ自分から近づく道を選んだ。
状元となった達也には、次に朝廷から官職が与えられようとしていた。




