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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第2話(後編1)――「妻を取らない状元」

 1223年春。


 18歳の倉達也(ツァン・ダーイエ)は殿試で1位となり、状元に選ばれた。


 15年間科挙に落ち続けた沈景文(シェン・ジンウェン)も、合格者の最下位ながら進士となった。


 長く科挙合格者を出せなかった沈氏から、一度に状元と進士が出たことで、沈家を取り巻く状況は大きく変わる。


 祝い客が相次ぎ、達也には有力な家から縁談も持ち込まれた。


 しかし達也は、相手の家柄も財産も確かめようとはしなかった。


 返事は最初から決まっていた。

 (1223年春、南宋・臨安府(リンアンフ)・沈家)


 合格発表の翌朝も、達也は日の出前に庭へ出た。


 状元になっても日課は変えない。


 庭を走り、拳と蹴りを繰り返し、最後に投げと組み討ちの動きを確かめる。


 14歳の沈文進(シェン・ウェンジン)も一緒だった。


「達也兄さん」


「何だ」


「昨日、状元になったばかりなのに、今日も同じなのですね」


「状元になったからといって、昨日までできなかったことが急にできるようになるわけじゃない」


「それはそうですが」


「なら続けるぞ」


「はい」


 文進が構えた。


 達也は踏み込んできた文進の腕を取り、力の向きを変えて地面へ転がした。


 文進はすぐに起き上がった。


「前より長く立っていられました」


「ああ。足が止まらなくなった」


「もう一度お願いします」


「来い」


 2人が再び向き合ったところで、屋内から沈慧娘(シェン・フイニャン)が出てきた。


「達也兄さん、父上が呼んでいます」


「朝から?」


「お客様が来ています」


「誰だ」


「お祝いの方です。本家の宗礼伯父上も来ています」


 達也は庭の入り口を見る。


 門の向こうから人の声が聞こえていた。


「分かった」


 達也は文進へ言った。


「今日はここまでだ」


「はい」


 2人は顔と手を洗い、屋内へ戻った。


 ◇ ◇ ◇


 客間には朝早くから何人もの客が集まっていた。


 酒、菓子、布などの祝い品が積まれている。


 その中には、これまで景文の家へほとんど顔を出さなかった親族もいた。


 沈宗礼(シェン・ゾンリー)は客間の奥に座り、訪れる者へ応対していた。


 達也が入ると、客たちの視線が集まった。


「来たか」


 宗礼が呼んだ。


「ああ」


「こちらへ座れ。皆、お前へ祝いを言いに来ている」


 達也は宗礼の隣へ座った。


 親族の1人が頭を下げた。


「18歳で状元とは見事です。沈氏にとっても大きな誉れとなりました」


「ありがとう」


 達也はそれ以上余計なことは言わなかった。


 別の男も続ける。


「景文殿も進士になられた。沈氏が再び栄える兆しでしょう」


 景文が苦笑した。


「私は一番下ですがね」


「それでも進士は進士です」


 宗礼が言った。


「そのとおりだ。順位はどうあれ、景文が進士になったことに変わりはない」


 景文は伯父を見た。


「昨日まで最下位と言い続けていたではありませんか」


「祝い客の前では言わん」


「本人の前では言うのですか」


 客間に笑いが起きた。


 達也も笑ったが、それ以上は口を挟まなかった。


 状元となったことで、自分を見る目が昨日までとは明らかに違っている。


 その変化を達也はよく見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 祝い客が帰り始めた頃、宗礼が達也と景文を残した。


「達也。話がある」


「何だ」


「縁談だ」


 景文が先に反応した。


「もう来たのですか」


「昨日からだ。今朝までに本家へ5件来ている」


 達也は宗礼を見る。


「全部断ってくれ」


 宗礼は聞き返した。


「全部?」


「ああ」


「相手を聞かなくてよいのか」


「聞かなくていい」


「家柄も?」


「いらない」


「相手の娘がどのような者かも聞かぬのか」


「聞かない」


 宗礼の顔から祝いの席の笑みが消えた。


「達也。状元の婚姻は、お前1人の話ではなくなる。よい家と縁を結べば、官人として先へ進む助けにもなる」


「それでも断る」


「理由を聞いてよいか」


 達也は少し考えてから答えた。


「会ったこともない女を、家柄や金のために妻にする気はない」


「お前が相手を見てから決めてもよい」


「同じだ」


「なぜだ」


「俺は妻を取るつもりがない」


 景文が驚いた。


「ずっとか?」


「少なくとも今は取らない」


「18歳だぞ」


「分かってる」


「状元なら、望めば名家の娘を妻にできる」


「だから何だ」


 達也は宗礼を見る。


「俺の出世のために、会ったこともない女と夫婦になる気はない。縁談は全部断ってくれ」


 宗礼は達也の顔をしばらく見ていた。


「誰か心に決めた女がいるのか」


 達也は答えなかった。


 景文も達也を見る。


 達也は話を戻した。


「相手の家を侮って断るわけじゃない。俺に妻を迎える意思がないと伝えてくれ。それで十分だ」


 宗礼はそれ以上追及しなかった。


「分かった」


「悪いな」


「お前の婚姻だ。無理に決めても意味はない」


「助かる」


「ただし、今後も縁談は来るぞ」


「全部同じように断ってくれ」


「頑固だな」


「ああ」


 宗礼は苦笑した。


「そこまで言うなら任せろ」


 ◇ ◇ ◇


 昼を過ぎても沈家への訪問は続いた。


 状元を出した家として、沈氏は一夜で注目されるようになった。


 以前は景文が科挙へ落ちるたびに距離を置いていた親族も、今は笑顔で訪れている。


 達也はその様子を見ても怒らなかった。


 人は利益があるところへ集まる。


 それ自体は珍しいことではない。


 重要なのは、誰がどの時点で近づいてきたかを覚えておくことだった。


 夕方になると宗礼は本家へ戻った。


 縁談については、すべて本家で断ると約束した。


 景文は宗礼を見送ったあと、達也へ尋ねた。


「本当に全部断るのか」


「ああ」


「惜しいと思わないのか」


「何が」


「有力な家の娘を妻にできるんだぞ」


「だから妻を取る気がないと言っただろ」


「お前は女が好きじゃなかったのか」


「好きだ」


「では余計に分からん」


 達也は景文を見る。


「女が好きなのと、誰かを妻にするのは別だ」


「そんなものか」


「俺にはそうだ」


 景文はそれ以上聞かなかった。


 達也が8か月間、誰へ最も強く目を向けてきたか、景文も知らないわけではない。


 だが妻の玉蘭は、達也の口説きを受け入れていない。


 景文はそのことを知っているからこそ、達也が妻を取らない理由について、それ以上問いたださなかった。


 ◇ ◇ ◇


 夕食のあと、玉蘭が台所で食器を片付けていた。


 達也は水を飲むために入ってきた。


「まだ片付けてるのか」


「今日はお客様が多かったですから」


 玉蘭は卓の上へ重ねた器を運んでいた。


 達也は何も言わず、その半分を持った。


 玉蘭が見る。


「運んでくれるのですか」


「ああ」


「珍しいですね」


「手が空いてる」


 2人で器を棚へ戻した。


 玉蘭が口を開いた。


「縁談が来ているそうですね」


「ああ」


「宗礼伯父上から聞きました」


「全部断った」


 玉蘭の手が止まった。


「全部?」


「ああ」


「まだ相手を見てもいないのでしょう」


「見る必要がない」


「なぜですか」


「妻を取る気がないからだ」


 玉蘭は達也を見る。


「状元になったのですよ。これから先、家を持つことも必要になるでしょう」


「必要になったら考える」


「今は考えないのですか」


「ああ」


「せっかくよいお話が来ているのに」


 達也は水を飲み、椀を置いた。


「玉蘭」


 今度はふざけた調子ではなかった。


「俺は、好きでもない女を妻にする気はない」


 玉蘭は何も言わなかった。


「家柄がいいから、金があるから、官人として得になるから。それだけで妻を決める気もない」


「あなたらしくないですね」


「そうか?」


「もっと損得で決める人だと思っていました」


「損得は考える」


「やはり」


「でも、それで全部決めるわけじゃない」


 玉蘭は達也の顔を見た。


 いつもの軽口ではないことは分かった。


「私が理由ですか」


 達也はごまかさなかった。


「ああ」


 玉蘭の顔が強張った。


「達也」


「分かってる。先に最後まで聞いてくれ」


 玉蘭は黙った。


「俺は玉蘭が好きだ」


 達也は続けた。


「でも景文から奪うつもりはない」


 玉蘭は驚いて達也を見た。


「文進や慧娘から母親を奪う気もない。沈家を壊す気もない」


「それなら……」


「ああ。もう毎日口説かない」


 玉蘭の目が揺れた。


「本当に?」


「景文は俺を家へ入れた。俺を信用してる。文進も俺を慕ってる。本家の親父も俺を養子にした」


 達也は玉蘭から目をそらさなかった。


「その家を、自分の欲しい女のために壊すほど馬鹿じゃない」


 玉蘭は答えなかった。


「だから安心しろ」


 達也は言った。


「俺はもう、玉蘭に返事を迫らない」


 玉蘭は卓へ手を置いた。


「なら、縁談を受けてもよいではありませんか」


「それは別だ」


「なぜです」


「玉蘭を諦めるために別の女を妻にする方が、俺には不誠実だ」


「私はあなたの妻にはなれません」


「分かってる」


「主人がいます」


「分かってる」


「子どももいます」


「それも分かってる」


「それでも?」


「ああ」


 達也は答えた。


「好きなのをやめろと言われても、そこまではできない。ただ、何もしないことはできる」


 玉蘭は返す言葉を失った。


 長い間、達也は遠慮なく自分を口説いてきた。


 断っても翌日にはまた声を掛けてきた。


 その男が今、自分から一線を引こうとしている。


 怒ったわけでも、思いを捨てたわけでもない。


 沈家を壊さないために、自分から踏み込むことをやめると言っていた。


「ありがとうございます」


 玉蘭がようやく答えた。


「礼を言われることじゃない」


「それでもです」


 達也は何も返さなかった。


 しばらくして玉蘭が尋ねた。


「では、これから私を口説かないのですね」


「ああ」


「毎朝も?」


「言わない」


「今日も綺麗だ、と?」


「言わない」


 玉蘭は黙った。


 達也は、その顔にわずかな寂しさが浮かんだことに気付いた。


 それでも何も言わなかった。


 ここで言葉を重ねれば、自分で決めたことを破ることになる。


「じゃあ寝る」


「はい」


「おやすみ、玉蘭」


「お休みなさい、達也」


 達也は台所を出た。


 玉蘭はしばらく、その背中を見送っていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 達也はいつもどおり文進と庭で身体を鍛えた。


 春の朝は暖かく、庭の土も冬の頃ほど冷たくない。


 稽古を終えたところへ玉蘭が来た。


「朝餉ですよ」


「ああ」


 達也は玉蘭を見た。


 いつもなら、ここで必ず声を掛けていた。


 だが今日は何も言わなかった。


「文進、顔を洗え」


「はい」


 達也も井戸へ向かう。


 玉蘭はその場に残った。


 8か月近く、毎日のように聞いていた言葉がない。


 望んでいたはずなのに、実際になくなると妙に耳が寂しかった。


 達也は振り返らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、本家から宗礼が訪ねてきた。


「達也」


「何だ」


「また縁談だ」


「断ってくれ」


「今度は相当な家だぞ」


「同じだ」


「娘も評判がよい」


「関係ない」


「顔くらい見てからでも遅くない」


「会わない」


 宗礼は達也を見た。


「本当に妻を取らぬつもりか」


「今はな」


「縁談を持ってくる家がなくなるぞ」


「それでいい」


「後悔するなよ」


「しない」


 宗礼は諦めた。


「分かった。断る」


「頼む」


 景文がそばで聞いていた。


「本当に頑固だな」


「前からだろ」


「確かにそうだ」


 それ以降も縁談は何件か来たが、達也は相手の名すら詳しく聞かず、すべて断った。


 名家の娘だからという理由で妻を取るつもりはなかった。


 ◇ ◇ ◇


 達也が女そのものへ興味を失ったわけではなかった。


 縁談として持ち込まれる娘に興味を持たないだけだった。


 家と家の都合で相手を決められるより、自分の目で見て気に入った女へ自分から近づく方が、達也の性に合っている。


 相手に夫がいるからといって、それだけで美しい女に目を向けなくなる男でもなかった。


 ただし玉蘭だけは別だった。


 景文は達也を信じている。


 文進も慧娘も、達也を家族のように受け入れている。


 玉蘭を欲しいという理由で、その家族を壊すことはしない。


 達也はそう決めた。


 その日の夕方、玉蘭が庭を横切った。


 達也は書物を読んでいた。


 以前なら必ず顔を上げて声を掛けた。


 今日は玉蘭を見たあと、何も言わずに書物へ目を戻した。


 玉蘭も足を止めず、そのまま庭を通り過ぎた。


 2人とも相手を意識していた。


 それでも言葉にはしなかった。


 達也には、科挙の次に進むべき道がある。


 状元となった18歳の青年へ、間もなく朝廷から最初の官職が与えられることになる。

 1223年春、達也と景文の科挙合格によって、沈家には多くの祝い客が訪れた。


 18歳で状元となった達也には、有力な家から縁談も相次いで持ち込まれる。


 しかし達也は相手の家柄や財産、容姿さえ確かめず、すべての縁談を断った。


 達也は玉蘭への思いを隠さなかったが、景文や子どもたちとの関係を壊すつもりもなかった。


 そのため玉蘭を口説くことをやめ、返事を求めることもしなくなる。


 一方で、達也が女そのものへ興味を失ったわけではない。


 家同士が決めた縁談で妻を迎えるのではなく、自分が気に入った女へ自分から近づく道を選んだ。


 状元となった達也には、次に朝廷から官職が与えられようとしていた。

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