第2話(中編2)――「状元と最下位」
1223年春。
倉達也と沈景文は、解試、省試をそろって突破した。
残るのは殿試である。
15年間、最初の解試さえ越えられなかった景文は、ついに進士の座を目前にした。
達也の目標は合格ではない。
最初から狙っているのは1位の状元だ。
そして沈家で暮らし始めてから8か月余り、達也は景文を鍛えながら、36歳の陸玉蘭を毎日のように口説き続けていた。
(1223年春、南宋・臨安府・沈家)
省試を突破してからも、達也は景文を休ませなかった。
殿試を目前に控えた朝も、いつもと同じように書斎へ紙を並べた。
「今日も書くのか」
景文が嫌そうな顔をした。
「当たり前だろ」
「もう省試は通ったんだぞ」
「殿試が残ってる」
「少しくらい喜びに浸らせろ」
「進士になってから浸れ」
「お前は本当に容赦がないな」
景文は文句を言いながら席へ着いた。
達也は問題を1つ書いて渡した。
「今日は政治について書け」
「またか」
「殿試で何を問われても、経書の言葉を並べるだけじゃ駄目だ。自分ならどうするかを書け」
「それはお前の方が得意そうだな」
「そうか?」
「お前の文章を読んでいると、官人になったことがあるどころか、国を治めたことまであるように見える時がある」
達也は筆を止めた。
「俺が?」
「ああ」
「18歳だぞ」
「だから不思議なんだ」
「覚えてないな」
「分かっている。だから気味が悪い」
「褒めてるのか」
「半分だけな」
景文は問題へ目を戻した。
達也も自分の答案を書き始めた。
過去の記憶は戻っていない。
それでも国をどう治めるか、人をどこへ置けば働くか、金や物をどう動かせば国が強くなるかという問題になると、考えは自然にまとまった。
達也自身、それを不思議には思っていた。
しかし使える知識や知恵があるなら、使えばよい。
思い出せない過去を考え続けるより、目の前の殿試で1番を取る方が先だった。
◇ ◇ ◇
昼になると、玉蘭が書斎へ食事を運んできた。
「少し休んでください」
「ちょうど腹が減ってた」
達也が料理へ手を伸ばす。
玉蘭は景文の答案を見た。
「殿試の前まで書くのですね」
「達也が休ませてくれない」
「主人のためでしょう」
「分かっているが、こいつは俺より元気なんだ」
達也が言った。
「朝の鍛錬をしてないからだ」
「科挙に格闘技は要らない」
「身体が強ければ疲れにくい」
「お前は朝から文進を投げて、それから俺を答案で痛めつける。元気すぎるんだ」
玉蘭が笑った。
「確かに、夏より随分逞しくなりましたね」
達也はすぐに玉蘭を見る。
「やっと認めたな」
「見れば分かります」
「毎日見てたのか」
「同じ家にいるのですから見えます」
「俺の身体を?」
「そういう意味ではありません」
「触って確かめてもいいぞ」
「結構です」
「また断るのか」
「毎回同じことを言わせないでください」
景文が呆れた。
「殿試の前くらい、俺の妻を口説くのを休めないのか」
「何で?」
「集中しろ」
「してる」
「どこがだ」
「科挙も玉蘭も両方狙ってる」
「妻を呼び捨てにするな」
玉蘭が達也を見る。
「いつの間に玉蘭になったのです」
「今」
「奥さんに戻してください」
「嫌だ」
「嫌ではありません」
「玉蘭の方が近くなった感じがする」
「近くなっていません」
「8か月も一緒に住んでるだろ」
「だから何です」
「そろそろ俺にもなびいていい頃だ」
「主人がそこにいますよ」
「いるな」
景文が箸を置いた。
「俺を見ながら言うな」
玉蘭は笑いをこらえながら、達也の椀へ料理を足した。
「口を動かすなら、こちらを食べてください」
「玉蘭がよそってくれるなら食う」
「名前を戻してください」
「考えておく」
「考えることではありません」
達也は機嫌よく食べ始めた。
玉蘭も以前ならすぐに話を切り上げていたが、この頃には達也の言葉を受け流しながら会話を続けるようになっていた。
◇ ◇ ◇
殿試の前夜。
景文は何度も書斎へ入り、翌日の持ち物を確かめていた。
達也は庭で軽く身体を動かしたあと、いつもより早く部屋へ戻ろうとした。
廊下で玉蘭と会った。
「明日は殿試ですね」
「ああ」
「緊張していないのですか」
「してない」
「主人は夕方から落ち着きません」
「景文は15年分緊張してるんだろ」
「そんな言い方をして」
玉蘭は達也の衣服へ目を向けた。
襟の一部がほつれている。
「待ってください」
「何だ」
「そこがほつれています」
玉蘭は達也を座らせ、針と糸を持ってきた。
「明日着ていくのでしょう」
「ああ」
「なら直しておきます」
玉蘭は衣服を受け取り、ほつれた部分へ針を通した。
達也は向かいに座り、その手元を見ていた。
「玉蘭」
「奥さんです」
「2人きりだぞ」
「だから何です」
「今なら景文はいない」
「書斎にいます」
「ここにはいない」
「同じ家です」
「細かいな」
「あなたが勝手なのです」
玉蘭は糸を結んだ。
「できました」
「ありがとう」
達也が衣服を受け取った。
「珍しく素直ですね」
「礼くらい言う」
「いつもそうならよいのですが」
「じゃあ礼に抱きしめてやろうか」
「やはり駄目です」
玉蘭は達也の手が届く前に離れた。
達也は笑った。
「警戒するのが速くなったな」
「8か月も一緒にいれば分かります」
「俺のことが?」
「少しは」
達也が玉蘭を見る。
「なら、俺が本気なのも分かるだろ」
玉蘭の顔から笑いが消えた。
「何がです」
「毎日、冗談だけで口説いてるわけじゃない」
「主人の妻ですよ」
「知ってる」
「なら、それ以上は言わないでください」
「今日はな」
「明日は言うのですか」
「殿試から帰ったら」
玉蘭は呆れた。
「まず試験を終えてきてください」
「状元を取ったら?」
「それとこれは別です」
「まだ駄目か」
「駄目です」
玉蘭はそう答えて立ち上がった。
達也も無理に引き止めなかった。
玉蘭は部屋へ戻りながら、達也が言った言葉を考えていた。
毎日ふざけているように見える。
だが本気だと言われると、以前のように、ただの冗談として笑って済ませることはできなかった。
◇ ◇ ◇
(1223年春、南宋・皇城)
殿試の日が来た。
沈家を出る前、景文は家族の前に立った。
「行ってくる」
玉蘭が夫へ言った。
「ここまで来たのですから、いつもどおり書いてきてください」
「ああ」
慧娘と文進も父を励ました。
達也が後ろから口を挟んだ。
「景文」
「何だ」
「最後だから忘れるなよ」
「聞かれたことを書く、だろ」
「分かってるじゃないか」
「何百回言われたと思ってる」
「なら大丈夫だ」
沈宗礼も本家から来ていた。
「景文、ここまで来た以上、順位は気にするな。進士になって帰ってこい」
「はい」
宗礼は達也を見る。
「お前には順位を気にしろと言っておく」
「1番だろ」
「そうだ」
「分かってる」
達也が門へ向かう。
玉蘭が声を掛けた。
「達也」
「何だ」
「あなたも頑張ってください」
達也は足を止めた。
「今日はちゃんと言ったな」
「何をです」
「俺にも」
「試験へ行く人へ言うのは当然でしょう」
「帰ってきたら褒美をもらう」
「また始まりましたね」
「行ってくる」
「はい」
達也と景文は並んで皇城へ向かった。
◇ ◇ ◇
殿試に進んだ受験者たちは、決められた場所へ案内された。
景文は周囲を見回した。
ここまで残った者ばかりである。
解試の時とは違い、景文が見ても学識のありそうな者がそろっていた。
「達也」
「何だ」
「さすがに緊張してきた」
「皇帝が見てるから?」
「それもある」
「問題は同じだ。聞かれたことを書けばいい」
「お前は本当に変わらんな」
「今さら変わってどうする」
やがて2人は、それぞれの席へ着いた。
問題が示された。
国を治める者が何を重んじ、民の暮らしを安定させ、国力を保つべきかを論じる内容だった。
景文は問題を読んだあと、達也に教えられた手順を守った。
まず何を答えるかを決める。
次に必要な典拠を選ぶ。
余計な故事は入れない。
それから筆を取った。
一方の達也は、問題を読んだ時には、すでに答えの骨組みが頭の中にできていた。
農民から無理に取り立てれば、税はその年だけ増えても、翌年以降の生産が落ちる。
道や水路を整えれば、人と物が動く。
倉を整え、凶作に備えれば、民は土地を捨てずに済む。
役人は数を増やすより、それぞれの役目を明確にして働かせる。
軍を維持するには、金だけでは足りない。食料、馬、道、倉、職人まで考える必要がある。
書きながら、達也自身も妙に感じた。
考えているというより、すでに知っていることを書いている感覚だった。
なぜ知っているのかは分からない。
だが今は、それを考える時ではない。
達也は古典の引用だけで文章を飾らず、実際に国をどう動かすかまで書いた。
最後まで書き終えると、最初から読み返した。
余計な部分を削り、言葉を整えた。
景文も時間内に最後まで書き切った。
筆を置いた時、昔のように「もっと書かなければならない」という焦りはなかった。
問われたことには答えた。
それでよいと、今の景文には分かっていた。
◇ ◇ ◇
殿試が終わり、2人は皇城を出た。
景文は肩の力を抜いた。
「終わった」
「ああ」
「今度こそ本当に終わった」
「結果が残ってる」
「今日くらい忘れさせろ」
「どうだった」
「書き切った」
「余計なことは?」
「書いていない」
「ならいい」
「お前は?」
「1番を取れると思う」
景文が達也を見る。
「少しは遠慮して言えないのか」
「何で?」
「ここまで来た連中は皆、省試を通ったんだぞ」
「だから?」
「強い相手ばかりだ」
「俺も強い」
「学問の話だよな」
「どっちでもいい」
景文は笑った。
「お前といると、緊張していたのが馬鹿らしくなる」
「それなら役に立ったな」
2人は沈家へ戻った。
玉蘭たちは門で待っていた。
「どうでした」
玉蘭がまず景文へ尋ねた。
「全部書いた」
「それならよかったです」
次に達也を見る。
「あなたは?」
「状元になる」
「もう決まったのですか」
「まだ」
「では決まってから言ってください」
「先に言った方が格好いいだろ」
「違ったらどうするのです」
「違わない」
玉蘭は笑った。
「本当に自信だけは誰にも負けませんね」
「学問も負けない」
「それは結果を見てからです」
「じゃあ賭けるか」
「何をです」
「俺が状元なら2人で酒」
「またそれですか」
「今度は状元だぞ」
「主人も一緒です」
「景文が最下位なら?」
景文が横から声を上げた。
「なぜ俺を勝手に最下位にする!」
「受かればいいと言っただろ」
「本当に最下位だったら、お前を恨むぞ」
「落ちるよりいい」
「それはそうだが!」
慧娘と文進が笑い、玉蘭も笑った。
◇ ◇ ◇
数日後、最終の順位が発表された。
沈家からは宗礼、景文、達也がそろって見に行った。
掲示の前には大勢の人が集まっていた。
景文は人混みを見ただけで落ち着かなくなった。
「先に俺を見る」
「好きにしろ」
景文が上から名前を探し始めた。
10番。
20番。
50番。
100番。
まだない。
「ないな」
「まだ下がある」
「分かってる」
200番を越える。
300番。
400番。
「本当に大丈夫なのか」
「俺に聞くな」
景文はさらに下を見る。
500番を越えた。
宗礼も黙って掲示を追っている。
景文の顔から余裕が消えた。
そして、一番下まで来た。
「……あった」
達也が横からのぞく。
一番最後の名前。
沈景文。
景文はしばらく掲示を見たまま動かなかった。
「最下位だ」
「ああ」
「本当に最下位じゃないか!」
景文が達也を振り返った。
「お前が余計なことを言うからだ!」
「俺が順位を決めたわけじゃない」
「言っただろう! 俺が1番で、あんたは最後でも受かればいいと!」
「そのとおりになったな」
「喜ぶところなのか!」
宗礼が口を挟んだ。
「景文」
「伯父上」
「合格だ」
景文が宗礼を見る。
「最下位でも進士だ」
景文はもう一度、自分の名を見た。
15年間、解試を一度も通れなかった。
それが16回目の挑戦で解試を抜け、省試を抜け、殿試まで終えた。
順位は一番下。
それでも名前は合格者の中にある。
「……進士か」
「ああ」
宗礼が答えた。
「沈家から、久しぶりに進士が出た」
景文は自分の名を見ながら笑った。
「最下位でも進士だな」
達也が言った。
「最初からそう言ってる」
「お前に言われると腹が立つ」
「でも受かった」
「ああ」
景文は達也の肩を叩いた。
「受かったよ」
「よかったな」
「お前のおかげだ」
「じゃあ今度から俺の言うことをもっと素直に聞け」
「それとこれとは別だ」
宗礼が笑った。
「ところで達也」
「何だ」
「お前の名前をまだ見ていないぞ」
「一番上だろ」
「また言うか」
景文が掲示の最上段へ目を向けた。
そのまま黙った。
宗礼も見る。
最上位。
1位。
そこに記されていた名前は、倉達也だった。
景文が達也を見る。
「……本当に1番だ」
「ああ」
「状元だぞ」
「狙ったからな」
「狙ったら取れるものじゃない!」
「取れたんだからいいだろ」
宗礼は掲示へ近づき、自分の目で名前を確かめた。
倉達也。
1位。
沈氏本家が養子に迎えた18歳の青年が、状元になった。
そして分家の景文も、最下位ながら進士となった。
宗礼は2人の名前を交互に見た。
「上と下を沈家で取ったか」
景文が苦い顔をした。
「伯父上まで言わないでください」
達也は笑った。
「榜の両端だな」
「お前は上だから笑えるんだ」
「でも合格しただろ」
「ああ」
景文も笑った。
「それだけは認める」
◇ ◇ ◇
3人が沈家へ戻ると、玉蘭、慧娘、文進が待っていた。
景文は門を入るなり言った。
「受かった」
玉蘭の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「ああ」
「順位は?」
景文は答えにくそうに達也を見た。
達也が代わりに答えた。
「一番下」
「達也!」
玉蘭は驚いたが、すぐに夫へ向き直った。
「でも合格したのでしょう」
「ああ」
「ならいいではありませんか」
「お前もそう言うのか」
「15年間落ち続けたのですよ。今度は進士です」
景文は妻の言葉を聞き、笑った。
「そうだな」
慧娘と文進も父親を囲んだ。
「父上、おめでとうございます」
「最下位でもすごいですよ」
「文進、お前まで最下位と言うな」
笑いが起きた。
玉蘭は達也を見る。
「あなたは?」
「1番」
「え?」
「状元だ」
玉蘭は達也の顔を見たまま返事をしなかった。
「どうした」
「本当に?」
「ああ」
玉蘭は宗礼を見る。
宗礼が答えた。
「本当だ。達也が1位だ」
玉蘭の目が再び達也へ戻った。
1222年7月、景文が食堂で出会い、そのまま家へ連れてきた18歳の青年だった。
素性も分からず、自分の親さえ覚えていなかった。
その男が夫の15年間の悪い癖を直した。
夫を初めて解試へ通し、省試も突破させ、ついには進士にした。
そして自分自身は殿試で1位になった。
「状元……」
「ああ」
「本当に取ったのですね」
「言っただろ」
「言っていましたけど、本当に取るとは……」
達也は玉蘭へ近づいた。
「じゃあ褒美だな」
玉蘭は我に返った。
「またそれですか」
「状元だぞ」
「主人も進士です」
「それは俺が教えた」
「自分で言いますか」
「事実だろ」
景文が横から言った。
「今日くらいは言わせてやれ。悔しいが、本当にこいつのおかげだ」
玉蘭が夫を見る。
「あなたまで」
「15年駄目だった俺が受かったんだ。認めるしかない」
玉蘭は再び達也を見る。
達也はいつもと同じように笑っている。
だが、その姿は8か月前とは違って見えた。
毎朝の鍛錬で身体は逞しくなった。
学問では夫を進士へ導き、自分は状元になった。
18歳という年齢だけを見て、ただの若者として扱うことはもうできなかった。
「玉蘭」
「奥さんです」
「まだ駄目か」
「何がです」
「俺と2人で酒」
玉蘭はすぐには答えなかった。
達也がその顔を見る。
「迷ったな」
「迷っていません」
「今、間があった」
「ありません」
「じゃあ今夜」
「皆で祝いましょう」
「また景文も?」
「主人の合格祝いでもあります」
「仕方ない」
景文が呆れた。
「俺の合格祝いなのに、なぜお前が仕方ないと言う」
玉蘭が笑った。
達也も笑った。
その夜、沈家では2人の合格を祝う宴が開かれた。
15年間落ち続けた景文は、最下位で進士となった。
素性の分からない居候として沈家へ転がり込んだ達也は、沈氏本家の養子となり、18歳で状元となった。
そして玉蘭も、夫を進士へ導いた達也を、以前とは違う目で見るようになっていた。
1223年春、達也と景文は最後の殿試へ臨んだ。
景文は達也から教えられたやり方を最後まで守り、余計な知識を並べず、問われたことへ正面から答えた。
達也は国をどう治めるかという問いに対し、民の暮らし、税、道路、水路、倉、役人、軍などを具体的に組み合わせた答案を書いた。
最終結果は、達也が1位の状元。
景文は合格者の最下位となった。
15年間、解試さえ突破できなかった景文は、16回目の挑戦でついに進士となった。
沈氏は一度に状元と進士を出すことになった。
そして玉蘭も、夫を合格へ導き、自分自身は状元となった達也を、以前のような18歳の居候としてだけは見られなくなっていた。




