第2話(前編1)――「15年分の答案」
1222年7月上旬。
18歳の倉達也は、南宋の首都臨安府で北宋時代から続く沈家へ転がり込んだ。
当主の沈景文は40歳。25歳から15年間科挙を受け続けてきたが、一度も合格していない。
達也は景文へ科挙の勉強を教える代わりに、部屋と食事を用意させた。
翌日から、景文の15年分の答案を使った特訓が始まる。
その一方で達也は、自分の身体にも不思議な感覚が残っていることに気付く。
過去の記憶はない。
だが学問と同じように、戦う技術も消えてはいなかった。
1222年7月上旬。
18歳の倉達也は、南宋の首都臨安府で北宋時代から続く沈家へ転がり込んだ。
当主の沈景文は40歳。25歳から15年間科挙を受け続けてきたが、一度も合格していない。
達也は景文へ科挙の勉強を教える代わりに、部屋と食事を用意させた。
翌日から、景文の15年分の答案を使った特訓が始まる。
その一方で達也は、自分の身体にも不思議な感覚が残っていることに気付く。
過去の記憶はない。
だが学問と同じように、戦う技術も消えてはいなかった。
本文
(1222年7月上旬、南宋・臨安府・沈家)
沈家で最初の朝を迎えた達也は、日の出前に目を覚ました。
庭へ出ると、夜の熱気が少し残っていた。土は前日の夕立で湿り、植木の葉から落ちる水滴が朝の光を受けていた。
達也は庭の端まで歩き、手足を動かした。
身体は18歳になっている。
肩も腰も軽く、身体のどこにも疲れは残っていない。
達也は拳を握り、正面へ突き出した。
何気なく出したはずだったが、拳は最短の軌道を通り、腰と肩が自然に連動した。
「何だ」
もう一度やった。
今度は左右を変える。
足を上げると、蹴りも迷わず出た。
踏み込み、突き、蹴り、相手を崩して投げる動きまで、頭で考えなくても身体が動く。
達也は庭の土を踏みながら何度か繰り返した。
「学問だけじゃないのか」
自分が誰から習ったのかは分からない。
どこで戦ったのかも覚えていない。
それでも技術は残っている。
昨日、食堂で科挙の答案を書いた時と同じだった。
過去は消えているのに、身につけた能力は失われていない。
達也は庭を走ったあと、腕や腹、脚を鍛えた。
身体が18歳になった以上、この身体も鍛え直した方がいい。
学問だけで生きるつもりもなかった。
達也が蹴りを繰り返していると、廊下から声がした。
「何をしているのですか」
14歳の沈文進だった。
「身体を鍛えている」
「科挙の先生なのに?」
「科挙を受ける奴が殴られない保証でもあるのか」
文進は庭へ下りてきた。
「その蹴りはどこで習ったのですか」
「分からん」
「また記憶がないのですか」
「ああ。ただ、身体は知ってるらしい」
「僕にもできますか」
「やってみろ」
文進は達也の真似をして足を上げたが、身体が傾いて転びそうになった。
達也が肩をつかんで支えた。
「いきなり高く蹴るな。まず立ち方からだ」
「難しいですね」
「慣れればできる」
「毎朝やるのですか」
「ああ」
「僕も来ていいですか」
「寝坊しなければな」
文進は嬉しそうに笑った。
達也は再び庭を走り始めた。
これから景文へ科挙の勉強を教える。
自分の身体も鍛える。
どちらかを捨てる理由はなかった。
◇ ◇ ◇
朝餉のあと、沈景文は達也を自分の書斎へ連れていった。
棚には経書や史書が並び、壁際には木箱が積まれている。
「これだ」
景文が最初の箱を開けた。
中には紙の束が入っていた。
「全部、答案か」
「ああ」
「15年分?」
「残っている物だけだ。初めの頃は捨てた物もある」
「十分だ」
達也は床へ座り、古い順に紙を並べた。
景文も向かいへ座った。
「今日から何を教える」
「まだ教えない」
「何?」
「まず、あんたがどうやって15年も落ち続けたのか調べる」
「嫌な言い方だな」
「合格した答案が1枚もないんだから仕方ないだろ」
景文は反論できなかった。
達也は古い答案から読み始めた。
文章そのものは悪くない。
経書の知識もある。
字も整っている。
ところが問いへの答えがなかなか出てこない。
必要のない故事を持ち出し、自分が知っていることを次々と書き足している。
別の答案では、試験官に立派な文章だと思わせようとしたのか、難しい言葉を使い過ぎていた。
さらに読み進める。
数年後の答案になると知識は増えている。
それでも合格には近づいていない。
むしろ知識が増えた分だけ、書き込み過ぎる癖が強くなっていた。
達也は午前中いっぱい答案を読み、昼前に紙を3つの山へ分けた。
景文が尋ねた。
「何を分けた」
「悪い答案、もっと悪い答案、ひどい答案だ」
「全部悪いのか!」
「受かってないだろ」
「それはそうだが、それなら分ける意味がないではないか」
「ある」
達也は最初の山を指した。
「これは知識は合っているが、問いから外れている」
次の山を示した。
「こっちは答えは合っているのに、余計なことを書き過ぎている」
最後の山には最も多くの紙が積まれていた。
「これは途中から、自分が何を答えたいのか分からなくなってる」
景文は紙を1枚取った。
「そこまでひどいか」
「ひどい」
「15年も勉強したんだぞ」
「だから知識はある」
「なら、なぜ受からない」
「知識を試験の答案にできてないからだ」
景文は眉を寄せた。
達也は新しい紙を取り、問いを1つ書いた。
「科挙は、あんたがどれだけ勉強したかを自慢する場所じゃない。出された問いに、決められた時間で、試験官が読んで分かる答えを書く場所だ」
「そんなことは分かっている」
「分かってないから落ちてる」
「お前は本当に遠慮がないな」
「合格したいなら、俺に遠慮させるな」
景文は達也を見ていたが、やがて笑った。
「分かった。続けろ」
「今日から毎日1題書け」
「1題?」
「本番と同じつもりで時間を決める。書き終わったら俺が見る」
「経書を確認しても?」
「駄目だ」
「なぜだ」
「試験中に棚から本を出せるのか」
「出せない」
「なら普段から同じ条件でやれ」
景文は納得した。
達也は積まれた答案を指した。
「それから、最初の1か月は新しい知識を増やさなくていい」
「勉強するなと言うのか」
「違う。あんたはもう十分知っている。今持っている知識を、答案の中で正しく使えるようにする」
「そんなやり方は初めてだ」
「15年同じやり方で落ちたんだから、初めての方がいいだろ」
景文は苦笑した。
「それを言われると何も返せんな」
こうして景文の特訓が始まった。
◇ ◇ ◇
昼餉を終えると、達也は井戸の近くで顔を洗った。
夏の日差しは朝より強くなり、庭には蝉の声が響いている。
手拭いで顔を拭いていると、陸玉蘭が台所から出てきた。
達也は玉蘭を見るなり声を掛けた。
「今日も綺麗だな」
玉蘭は足を止めた。
「昨日会ったばかりでしょう」
「昨日綺麗だった女が、今日も綺麗だから言った」
「主人の勉強はどうなのですか」
「かなり悪い」
「達也」
書斎の方から景文の声が飛んできた。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言った」
「少しは加減しろ!」
玉蘭が笑った。
「主人を本当に合格させられるのですか」
「させるつもりだ」
「簡単ではありませんよ。15年ですから」
「15年落ちたから、16年目も落ちるとは限らない」
「随分と頼もしいことを言いますね」
「受かったら何かくれるか」
「あなたには部屋と食事を出しています」
「それは勉強代だろ」
「ほかに何が欲しいのです」
達也は玉蘭を見た。
「奥さんでもいいぞ」
玉蘭の目が細くなった。
「主人が聞いていますよ」
「知ってる」
「達也!」
再び景文の声が飛んだ。
玉蘭は声を上げて笑った。
「主人を合格させる前に追い出されないようにしてください」
「それは困るから、今日はこれくらいにしておく」
「今日は、ですか」
「ああ。明日はまた言う」
「毎日言うつもりなのですか」
「美人じゃなくなったらやめる」
「では、一生やめないことになりますね」
達也は玉蘭の顔を見た。
「自分でもそう思ってるのか」
玉蘭は言葉に詰まった。
「本当に口が減りませんね」
「褒めたのに」
「もう書斎へ戻ってください」
「ああ」
達也は笑いながら書斎へ戻った。
玉蘭はその背中を見送り、呆れたように首を振った。
18歳の青年に本気で腹を立てる気にはならない。
ただ、出会った翌日からここまで遠慮なく亭主の妻へ声を掛ける男も珍しかった。
◇ ◇ ◇
景文の特訓は、その日から毎日続いた。
達也は日の出前に起き、庭を走ってから拳や蹴りの動きを繰り返した。
文進も3日目から一緒に起きるようになった。
達也は拳の出し方、足の運び方、相手につかまれた時の身体の外し方などを、自分の身体を動かしながら確かめていった。
ある朝、文進が達也の腕を両手でつかんだ。
「これならどうしますか」
「こうする」
達也は力任せに引かず、身体を回しながら文進の腕を取った。
次の瞬間、文進の身体が土の上へ転がった。
「痛っ」
達也はすぐに手を放した。
「だから土の上でやってるんだ」
「今、何をしたのですか」
「投げた」
「どうやって?」
「説明しにくいな」
「覚えていないから?」
「多分な」
自分でも妙だった。
相手を崩す位置が分かる。
腕をどう取れば動けなくなるかも分かる。
拳をどこへ打ち込めば効くかまで、感覚として残っている。
達也は文進を起こした。
「俺と同じことをいきなりやるな。お前は足運びからだ」
「はい」
「それから、倒れた時に手を突くな」
「なぜですか」
「手首を痛める」
「分かりました」
その日の朝餉で、文進は得意そうに家族へ話した。
「達也兄さんはすごいです。僕が腕をつかんだら、すぐ投げられました」
沈慧娘が達也を見る。
「学問だけではないのですね」
「そうらしい」
景文が尋ねた。
「お前は本当に何をしてきたんだ」
「それが分かれば俺も苦労しない」
玉蘭が達也の腕へ目を向けた。
「毎朝、庭を走っているのは知っていましたが、そんなことまでしているのですか」
「ああ」
「科挙を受けるのに必要なのですか」
「必要かどうかじゃない。俺が強くなりたいからやってる」
「学問があれだけできても、まだ足りないのですか」
「欲しいものは多い方がいい」
「欲張りですね」
「そうだな」
達也は玉蘭へ目を向けた。
「女もな」
玉蘭は箸を置いた。
「朝から始めないでください」
景文が笑った。
「玉蘭、相手にするから続けるんだ」
「あなたの先生でしょう。何とかしてください」
「科挙は教わるが、女房の口説き方まで教わる気はない」
「止めてくださいと言っているのです」
「それは達也に言え」
玉蘭が達也を見る。
「やめてください」
「嫌だ」
「即答ですね」
「嘘をついても仕方ないだろ」
慧娘と文進が笑った。
玉蘭も呆れた顔をしながら、朝餉を食べ続けた。
◇ ◇ ◇
10日が過ぎた。
景文の答案は、まだ合格できる出来ではなかった。
それでも変化は出始めていた。
最初の3日間は、達也が余計だと判断した文章へ次々と線を引いた。
4日目からは、書き始める前に答えの骨組みを作らせた。
何を問われているのか。
最初に何を答えるのか。
どの古典を使うのか。
最後にどうまとめるのか。
景文は最初、そこまで考えてから書くことを面倒がった。
しかし実際にやると、途中で書き直す回数が減った。
答案も以前より簡潔になった。
「短すぎないか」
景文が心配した。
「前よりいい」
「知っていることをもっと書けるぞ」
「書くな」
「せっかく覚えたのに」
「聞かれてない」
達也は景文の答案を返した。
「試験官は、あんたが何冊本を読んだか数えるために答案を読むんじゃない」
「分かってきたよ」
「本当に?」
「少しはな」
「なら明日も書け」
「毎日か」
「毎日だ」
「鬼だな」
「15年落ちた人間に優しくして受かるのか」
「またそれを言う」
「受かったら言わない」
景文は笑いながら新しい紙を用意した。
◇ ◇ ◇
7月の終わりには、景文自身が以前との違いを感じるようになっていた。
その日の問題を書き終えた景文は、筆を置いて達也へ紙を渡した。
達也は最初から読んだ。
景文は向かい側で返事を待った。
「どうだ」
達也は最後まで読んでから答えた。
「前よりいい」
景文の顔が明るくなった。
「本当か」
「ああ」
「初めて褒めたな」
「褒めてない。前よりいいと言っただけだ」
「同じようなものだ」
「違う」
「では、受かるか」
「まだ無理だ」
景文の顔が曇った。
「少しくらい夢を見せろ」
「試験場で落ちるより、今言われた方がいいだろ」
「それはそうだが」
達也は答案を卓へ戻した。
「ただ、初めて合格する人間の答案に近づいてきた」
景文は紙へ目を落とした。
15年間、勉強が足りないと思ってきた。
経書を読み直し、新しい解釈を覚え、過去の答案も研究した。
それでも結果は変わらなかった。
ところが18歳の居候に書き方を変えられてから、わずか1か月で、自分でも文章が違うと分かるようになった。
「達也」
「何だ」
「お前、本当に俺を合格させるつもりなんだな」
「最初から言ってるだろ」
「食堂で会っただけの俺を?」
「あんたが受かれば、俺は飯と部屋を失わずに済む」
「結局そこか」
「それだけじゃない」
「何だ」
「15年落ちた男を受からせたら、俺の腕が証明できる」
景文は笑った。
「やっぱり自分のためじゃないか」
「他人のためだけに付き合うほど、俺は親切じゃない」
「正直な奴だ」
「それに」
達也は続けた。
「あんたは頭が悪いわけじゃない。落ちる書き方を15年も続けただけだ」
景文は達也を見た。
「そんな言い方をされたのは初めてだ」
「なら、受かる書き方を覚え直せばいい」
景文は自分の答案を手に取った。
「やってみるよ」
「やってもらわないと困る」
「分かってる」
2人が話しているところへ、玉蘭が茶を運んできた。
「今日は随分と機嫌がよいですね」
景文が答案を妻へ見せた。
「達也に初めて、前よりいいと言われた」
「それは珍しいですね」
「だろう?」
玉蘭には答案の細かな良し悪しまでは分からなかったが、夫がこれほど嬉しそうに自分の文章を見せるのは久しぶりだった。
「達也」
「何だ」
「ありがとうございます」
「まだ受かってないぞ」
「それでも主人の顔が変わりました」
達也は玉蘭を見る。
「礼なら別の物でもいい」
「何が欲しいのですか」
「分かってるだろ」
玉蘭は達也の顔を見た。
「分かりません」
「本当に?」
「分かりません」
「なら今夜、部屋で教えてやろうか」
景文がすぐに口を挟んだ。
「それは駄目だ」
「まだ何もしてない」
「する前に止めてるんだ」
玉蘭は笑った。
「主人の答案だけ見ていてください」
「毎日見てる」
「なら十分でしょう」
「奥さんも毎日見てる」
「そちらは見なくて結構です」
達也は笑った。
「それは無理だな」
玉蘭は茶を置き、書斎を出た。
廊下へ出ても、後ろでは景文と達也が言い合う声が聞こえている。
玉蘭にとって達也は、まだ夫より18歳も若い、厚かましい居候だった。
だが、その居候が来てから、15年間同じところで足踏みしていた夫の答案が初めて変わり始めている。
それだけは認めないわけにはいかなかった。
書斎では、達也が翌日の問題を用意していた。
1223年の科挙まで、まだ時間はある。
景文には直すべき癖が山ほど残っている。
達也自身も毎朝身体を鍛え、今の18歳の身体を強くしていた。
学問も武術も、中途半端にする気はない。
玉蘭への口説きも同じだった。
翌朝、達也は朝餉の席へ来た玉蘭を見るなり言った。
「今日も綺麗だな」
玉蘭は呆れた。
「本当に毎日言うのですね」
「言っただろ」
「いつまで続けるつもりですか」
「奥さんが俺になびくまでだ」
「では、ずっと続けることになりますよ」
「それでもいい」
景文が横から口を挟んだ。
「その根気を俺の科挙だけに使え」
「両方やってるだろ」
「だから困るんだ」
慧娘と文進が笑い、玉蘭も呆れながら朝餉へ箸を伸ばした。
達也は何事もなかったように飯を食べ始めた。
沈家へ来て1か月。
景文の答案は、ようやく変わり始めた。
達也の身体も、毎日の鍛錬で少しずつ締まってきた。
そして玉蘭への遠慮のない口説きも、沈家ではすっかり毎日のことになり始めていた。
1222年7月、達也は沈景文が15年間書き続けてきた科挙答案を調べ、不合格の原因を見つけた。
景文は学識が足りないのではない。
知っていることを書き過ぎ、問いへ直接答えず、答案を立派に見せようとして文章を重くする癖があった。
達也は新しい知識を増やす前に、毎日1題を本番と同じ条件で書かせ、問いへ正面から答える訓練を始めた。
1か月後、景文の答案には初めて明確な改善が現れる。
一方、達也は早朝の走り込みと格闘技の鍛錬も始めた。
過去の記憶はないが、拳、蹴り、投げ、組み討ちなどの技術は身体に残っていた。
14歳の文進も達也と一緒に身体を鍛え始める。
達也は科挙の特訓と身体作りを続けながら、36歳の玉蘭にも毎日のように声を掛けた。
玉蘭は相手にしていない。
それでも、夫の答案をわずか1か月で変え始めた18歳の居候を、ただの口の軽い若者とは見られなくなり始めていた。




