第1話(後編2)――「名門沈家の居候」
1123年7月上旬。
大乾皇帝となった倉達也は、父の倉田佑馬を太上皇帝に冊立し、大乾の実権を任せることを決めた。
開封は太后兼開封知府の崔麗華へ任せる。
達也自身は時間移動用リモコンを使い、100年後の南宋の首都臨安府へ向かう。
肉体年齢は18歳に設定した。
しかし、11年間も桑畑の土中に埋まっていたリモコンは完全には直っていなかった。
臨安へ着いた達也は、自分の過去を失っていた。
それでも、科挙を首席で突破した学識と知恵、欲深さ、好色さ、悪辣さは、そのまま残っていた。
(1123年7月上旬、開封府・皇城)
「父さんを太上皇帝にする」
達也がそう告げると、倉田佑馬は息子の顔を見た。
「俺は皇帝になったことがないぞ」
「俺の父親だからいい」
「よくないだろう」
「大乾は俺が作った国だ。俺が決める」
佑馬は呆れたが、達也は冗談を言っているわけではなかった。
「俺がいない間、大乾の最後の判断は父さんに任せる。重臣も通訳も付ける」
「お前はどこへ行く」
「100年先だ」
傍らにいた崔麗華が尋ねた。
「また時間移動をするのですか」
「ああ。南宋の臨安を見てくる」
「どれくらい留守にするつもりですか」
「決めていない」
「皇帝になったばかりでしょう」
「だから父さんに国を任せる」
達也は麗華へ向き直った。
「お前は開封を頼む」
「承知しました」
佑馬が口を挟んだ。
「麗華まで簡単に引き受けるな」
「私は開封知府です。開封を任されることに問題はありません」
「父さんが国全体を見て、麗華が開封を見る。それでいい」
佑馬は達也を見た。
「勝手な息子だな」
「今さらだろ」
佑馬にも返す言葉はなかった。
達也はその日のうちに佑馬を太上皇帝に冊立し、自分が不在の間、大乾の政務を任せた。
皇后呉月娘にも事情を告げた。
「本当に行くのですか」
「ああ」
「必ず戻ってください」
「分かってる」
月娘は達也を見た。
「100年後で女を増やさないでくださいね」
達也は返事をしなかった。
「なぜ黙るのですか」
「まだどんな女がいるかも知らない」
「そこを心配しているのです」
達也は笑った。
「行ってくる」
「もう止めません。ただ、そのリモコンには気を付けてください」
「ああ」
◇ ◇ ◇
達也は皇城の一室へ入り、麗華から受け取った時間移動用リモコンを取り出した。
行き先は1222年の南宋、臨安府。
肉体年齢は18歳。
表示窓には、設定した数字と地名が出ている。
達也が決定のボタンへ指を掛けた時、表示が一度消えた。
すぐに元へ戻った。
「まだ調子が悪いのか」
もう一度確かめた。
1222年。
臨安。
18歳。
設定に間違いはない。
達也はボタンを押した。
その姿が皇城から消えた。
◇ ◇ ◇
(1222年7月上旬、南宋・臨安府)
達也は人通りの少ない路地に立っていた。
表通りへ出ると、夏の日差しの下を荷車や馬が行き交い、水路では荷を積んだ船が動いている。店先から肉を焼く匂いや油の香りが流れ、商人の呼び声が絶えなかった。
達也は周囲を見た。
「臨安か……」
ここが臨安であることは分かる。
しかし、なぜ自分がここにいるのか思い出せなかった。
懐から黒いリモコンを取り出した。
表示窓は消えている。
何度かボタンを押したが、反応はなかった。
「何だ、これは」
自分の名前は分かる。
倉達也。
18歳。
ところが両親の名前も、生まれた場所も、昨日まで何をしていたのかも分からない。
達也は記憶を探ったが、自分の過去だけが抜け落ちていた。
その一方で、通りの看板は読める。
人々の言葉も分かる。
古典、歴史、詩文、算術の知識も頭に残っている。
「思い出せないものは仕方ないな」
達也は使えないリモコンを懐へ戻した。
腹が減っていた。
まず飯を食い、そのあと住む場所を探せばよい。
近くにあった食堂へ入った。
店内には肉を煮た匂いが漂っていた。昼時を過ぎていたため客は少なく、奥の卓では40歳ほどの男が経書と紙を広げている。
達也は飯と肉料理を注文した。
食べながら男の様子を見ると、同じ文章を何度も書き直していた。
やがて男は答案らしい紙を読み、納得できない様子で筆を置いた。
達也は料理を食べながら言った。
「それじゃ受からないぞ」
男が振り返った。
「何だと?」
「科挙の答案だろ」
「そうだ。だがお前に何が分かる」
「書き出しから悪い。聞かれていないことまで書いているし、知っていることを詰め込み過ぎだ」
男は達也を睨んだ。
「若造が知ったようなことを言うな」
「15年くらい受けているのか」
男の顔が変わった。
「なぜ分かる」
「その経書だ。長く使い込んでいる。それだけ勉強しているのに、答案は試験で点を取る書き方になっていない」
男は腕を組んだ。
「俺は今年40だ。25歳から15年間受け続けている」
「合格したことは?」
「ない」
「やっぱりな」
「腹の立つ若造だ」
「なら問題を出せ」
「何?」
「俺が書いてやる。あんたの答案と比べれば分かる」
男は達也をしばらく見てから、紙と筆を差し出した。
「そこまで言うなら書いてみろ」
達也は問題を読んだ。
何を書くべきかはすぐ分かった。
問いの意図を外さず、必要な古典だけを使い、余計な部分を削って文章を組み立てる。
筆は止まらなかった。
男は最初こそ不機嫌そうに見ていたが、途中から達也の手元へ身を寄せた。
達也が筆を置いた。
「こんなところだ」
男は答案を手に取り、最後まで読んだ。
もう一度、最初から読み直す。
「お前、誰に学んだ」
「知らん」
「知らんとは何だ」
「記憶がない」
「ふざけているのか」
「本当に分からん。ただ、これくらいは書ける」
男は達也の答案を卓へ置いた。
「認める。俺よりはるかにうまい」
「最初からそう言っている」
「本当に腹の立つ奴だな」
それでも男は笑った。
「俺は沈景文だ」
「倉達也だ」
景文は達也の衣服を見た。
「臨安の人間ではないな」
「多分な」
「またそれか」
「自分でも分からないんだ」
「家は?」
「ない」
「親は?」
「分からん」
「泊まる所はあるのか」
「まだない」
達也はそこで景文を見た。
「ちょうどいいな」
「何がだ」
「あんた、今年も科挙を受けるんだろ」
「ああ」
「俺が教えてやる」
景文は目を見開いた。
「18歳のお前が、40歳の俺にか」
「年齢で受かるなら、あんたは15年も落ちてない」
景文は苦い顔をした。
「容赦がないな」
「その代わり、俺を家に住ませろ。飯も食わせてくれ」
「いきなり居候か」
「あんたは科挙に受かりたい。俺は宿が欲しい。悪い取引じゃない」
「お前が俺を合格させられる保証はない」
「なら1か月試せ」
達也は景文の答案を指した。
「1か月たっても答案が今のままなら、追い出せばいい」
景文は達也が書いた答案をもう一度見た。
「妻に相談する」
「亭主なのにか」
「家に人を住ませる話だ。俺1人で決めることじゃない」
「なら一緒に行く」
「遠慮というものを知らんのか」
「遠慮して今夜の宿が見つかるのか」
景文はとうとう笑った。
「分かった。来い」
「話が早くて助かる」
達也は残っていた飯を食べ終え、景文と店を出た。
◇ ◇ ◇
沈家は臨安城内の大通りから少し入った場所にあった。
門や塀には年月を感じさせるが、敷地は広く、普通の町人の家とは明らかに違った。
歩きながら景文が話した。
「沈家は北宋の頃には、何人も官人を出した家だ」
「今は?」
「南へ移ってから勢いが落ちた。曽祖父の代を最後に、科挙に通った者がいない」
「あんたが受かれば久しぶりというわけか」
「ああ。だから諦めきれない」
「それなら受かればいい」
「簡単に言うな」
「15年間同じやり方で駄目なら、やり方を変えればいい」
景文は横目で達也を見た。
「本当にお前が何者なのか気になるな」
「俺も知りたい」
門を入ると、36歳の女が出てきた。
景文の妻、陸玉蘭だった。
派手な衣服ではないが、身なりは整っている。顔立ちは端正で、景文が帰るとすぐ手にしていた紙や本へ目を向けた。
「あなた、その方は?」
「倉達也という。しばらく家へ置きたい」
「急ですね」
「食堂で会った」
景文は達也の答案を妻へ渡し、食堂での出来事を説明した。
玉蘭は文章に目を通してから達也を見た。
「18歳だと伺いましたが」
「ああ」
「主人に科挙の勉強を教えるのですか」
「そのつもりだ」
「随分と自信がありますね」
「なければ自分から言わない」
達也は玉蘭を見た。
36歳とは思えないほど若々しく、顔立ちだけでなく身体つきも達也の好みに合っていた。
視線に気付いた玉蘭が尋ねた。
「私の顔に何か付いていますか」
「いや。美人だと思って見ていた」
「達也!」
景文が声を上げた。
「俺の妻だぞ」
「見れば分かる」
「分かっているなら、いきなり口説くな」
「美人だと言っただけだ」
玉蘭は景文へ顔を向けた。
「本当にこの方を家へ置くのですか」
「学問は本物だ」
「それ以外に問題がありそうですが」
「俺も今そう思っている」
そこへ2人の子どもが来た。
16歳の娘、沈慧娘と、14歳の息子、沈文進である。
景文が達也を紹介した。
「しばらく家へ住んでもらう。俺の科挙の答案を見てもらうことになった」
文進が達也を見た。
「父上よりずっと若いではありませんか」
「俺もそう言った」
「それでも教えてもらうのですか」
「俺より文章がうまい」
景文が素直に認めたため、慧娘も達也を見る目を変えた。
達也は2人へ言った。
「俺は面倒な挨拶は要らない。普通に話してくれ」
文進が尋ねた。
「父上以外にも勉強を教えるのですか」
「分からないことがあれば聞けばいい。ただし、教えたらちゃんとやれ」
「はい」
玉蘭は達也と夫を見比べた。
「空いている部屋があります。まず1か月にしましょう」
「それでいい」
「食事はこちらで用意します。その代わり、主人の勉強をきちんと見てください」
「それが家賃だな」
「そう考えてください」
話は決まった。
その夜から、達也は沈家で暮らすことになった。
◇ ◇ ◇
夕食には景文、玉蘭、慧娘、文進と達也がそろった。
景文から沈家のことを聞き、文進からは臨安の町の様子を聞いた。慧娘も必要なところを補ってくれた。
玉蘭は達也の話を聞きながら、時折その顔を見ていた。
記憶がないという18歳の青年が、夫よりも優れた科挙答案を書いたという話を、まだすべて信じたわけではなかった。
食事が終わる頃、景文が尋ねた。
「明日から何をする」
「まず、あんたが残している答案を全部見せてくれ」
「15年分だぞ」
「全部残っているのか」
「ほとんど残してある」
「ちょうどいい。どこで同じ失敗をしているか分かる」
「また悪いところを探すのか」
「受かるために来たんだろ」
「ああ」
「なら直すしかない」
景文は笑った。
「分かったよ、先生」
「先生はやめろ。達也でいい」
「では達也、明日から頼む」
「ああ」
達也は茶へ手を伸ばし、向かいに座る玉蘭へ目を向けた。
玉蘭も気付いた。
「また見ていますね」
「綺麗な女が目の前にいるんだから見るだろ」
「主人も目の前にいますよ」
「それも見えてる」
景文が呆れた。
「お前、俺を科挙に受からせる前に追い出されるぞ」
「それは困る。もう少し我慢してくれ」
「我慢するのは俺なのか」
慧娘と文進が笑った。
玉蘭も呆れながら口元を緩めた。
達也には、自分が100年前に皇帝だった記憶はない。
大乾も、開封も、23人の妻妾も覚えていない。
だが、学識も知恵も、人を見る目も残っている。
そして好色さも、欲深さも、遠慮のなさも変わっていなかった。
住む場所は手に入った。
まずは15年間落ち続けている景文の答案を直す。
その先で、自分も何を目指すか決めればよい。
18歳になった達也の新しい暮らしは、名門沈家の居候から始まった。
1222年7月上旬、18歳となって臨安へ移った達也は、過去の人生に関する記憶を失った。
それでも科挙を首席で突破できる学識と知恵、胆力、欲深さ、好色さは残っている。
達也は食堂で、北宋時代から続く名門沈家の当主沈景文と知り合った。
40歳の景文は25歳から15年間科挙を受け続けているが、一度も合格していない。
達也は景文の答案の欠点を見抜き、自分が勉強を教える代わりに、食事と部屋を用意するよう交渉した。
こうして達也は沈家へ転がり込んだ。
沈家には、36歳の妻陸玉蘭、16歳の娘沈慧娘、14歳の息子沈文進がいる。
達也は景文を科挙へ合格させるために勉強を教えながら、沈家の家族とも暮らし始める。
そして好色な達也は、早くも美しい玉蘭へ目を向けていた。




