第1話(中編2)――「ベランダへ出る前に」
1123年6月下旬。
麗華は1986年の横須賀から倉田佑馬を救い出し、開封へ連れてきた。
達也は約束どおり、王府で預かっていた麗華の3人の子どもを宿舎へ戻した。
残る仕事は1つである。
2026年のホーチミンへ行き、自分が殺すことになる夫・鳴海修司を、その前に連れ出す。
34歳の元銀行員である鳴海は、この先に何が起きるのか何も知らない。
(1123年6月下旬、開封府・宿舎)
崔麗華が宿舎へ戻ると、3人の子どもはすでに部屋へ帰されていた。
麗華の姿を見ると、皇女が最初に駆け寄ってきた。
「母上」
麗華は娘を抱き、続いて2人の皇子の顔を確かめた。
怪我はない。
食事もきちんと与えられていた。
上の皇子が言った。
「王府では外へ出てはいけないと言われただけです」
「怖いことはありませんでしたか」
「ありません」
麗華は頷いた。
達也は約束を守った。
佑馬を連れて戻ったことで、麗華が逃げないと判断したのである。
皇女が尋ねた。
「母上、もうどこにも行かないのですか」
麗華は娘の頭を撫でた。
「あと1度だけです」
「また遠くですか」
「はい。でも、それで終わります」
その日は3人と一緒に過ごした。
翌朝、麗華は自室へ入り、扉を閉めた。
衣の内側からリモコンを取り出す。
行き先は2026年のホーチミン。
鳴海修司が死亡する日の夜である。
麗華は、自宅へ帰る直前の時間を指定した。
部屋の中へ行く必要はない。
鳴海本人を捕まえればよい。
麗華は表示を確認した。
そしてボタンを押した。
◇ ◇ ◇
(2026年、ホーチミン・高層ビル)
麗華は建物の廊下へ現れた。
冷房の風が衣を揺らした。
白い壁と照明、エレベーター、磨かれた床。
11年間離れていた現代の風景である。
麗華は廊下の端で待った。
やがてエレベーターが止まった。
扉が開く。
スーツ姿の男が出てきた。
鳴海修司である。
34歳。
片手に鞄を持ち、ネクタイを少し緩めている。
鳴海は何も知らない。
これから自宅へ帰り、いつものように妻と話すつもりでいる。
その先に自分の死があるとは考えてもいない。
麗華は鳴海の前へ出た。
「鳴海修司さん」
鳴海が足を止めた。
「はい?」
「少しお話があります」
鳴海は麗華を見た。
漢民族の顔をした女が、見慣れない古い衣服を着ている。
「どちら様ですか」
「今すぐここを離れてください」
「何ですか、いきなり」
「自宅へ入ってはいけません」
鳴海の表情が変わった。
「どういう意味です?」
「説明している時間がありません」
「それじゃ分かりませんよ」
鳴海は麗華を避け、自宅へ向かおうとした。
麗華が腕をつかんだ。
「待ってください」
「離してください」
「今夜だけは帰ってはいけません」
「だから何なんですか」
鳴海が腕を振りほどいた。
「あなた、妻の知り合いですか」
麗華は一瞬黙った。
「そう考えてください」
「だったら名前くらい言ってください」
「今は言えません」
「怪しすぎるでしょう」
鳴海は自宅へ歩き始めた。
麗華は後を追った。
「鳴海さん」
「もういいです。警備を呼びますよ」
「それでも構いません」
「なら、そこで待っていてください」
鳴海が鍵を取り出した。
麗華は決めた。
説得する必要はない。
達也から求められたのは、鳴海を納得させることではなく、生きたまま連れてくることである。
「すみません」
「何がですか」
麗華は鳴海の腕をつかんだ。
「またですか。離してください!」
「離しません」
「おい!」
鳴海が麗華の手を外そうとした。
麗華はもう片方の手でリモコンを操作した。
「何だ、それ」
「後で説明します」
「何をする気だ!」
麗華はボタンを押した。
◇ ◇ ◇
(1123年6月下旬、開封府・平西王府)
鳴海の足が石畳へ着いた。
勢いを失い、片膝をつく。
「何だ?」
麗華は腕を放した。
鳴海はすぐに立ち上がった。
「何をした!」
「着きました」
「どこに?」
「開封です」
「開封?」
鳴海は周囲を見た。
木造の建物が並んでいる。
庭には武装した兵が立ち、馬の姿も見える。
現代の建物は1つもない。
鳴海は辺りを見回した。
「何だ、ここ」
「開封です」
「中国なのは分かる。これは何の施設ですか」
「1123年です」
鳴海が麗華を見る。
「何年?」
「1123年です」
「……何を言ってるんですか」
「今から王様に会ってもらいます」
「待ってください」
鳴海は自分の鞄を確認した。
スマートフォンを取り出す。
画面はつく。
通信はない。
鳴海は周囲をもう一度見た。
「撮影じゃないんですか」
「違います」
「映画村みたいな場所?」
「違います」
「じゃあ、俺をどこへ連れてきたんです」
「今言ったでしょう」
「1123年なんて信じられるわけがない!」
「それも分かっています」
「戻してください」
「今はできません」
「今は?」
「先に王様と話してください」
「王様なんか知るか!」
鳴海が声を上げた。
兵たちがこちらを見る。
麗華は兵へ手を出さないよう合図した。
「私は何も知らないんですよ」
鳴海が言った。
「仕事から帰ってきただけです。それを突然つかまれて、訳の分からない場所へ連れてこられた」
「はい」
「はいじゃない!」
「怒って当然です」
「だったら戻してください」
「その話も王様としてください」
「また王様ですか」
「はい」
鳴海は頭を抱えた。
「何なんだよ……」
麗華は答えなかった。
説明しても信じるはずがない。
目の前にあるものを自分で見てもらう方が早かった。
兵が近づいてきた。
「王様がお待ちです」
麗華が頷いた。
「行きましょう」
鳴海はその場から動かなかった。
「行かなかったら?」
「ここに残るだけです」
「帰れない?」
「はい」
鳴海は麗華を睨んだ。
「最悪だな」
「それは否定しません」
「お前が言うな」
鳴海は仕方なく麗華について歩き始めた。
◇ ◇ ◇
平西王府の書房では、達也と佑馬が待っていた。
麗華が入る。
鳴海も遅れて入った。
達也が立ち上がった。
「鳴海修司だな」
鳴海は達也を見る。
26歳の漢民族の男である。
「そうですけど、あなたは?」
「倉達也だ」
「倉?」
「日本にいた時は倉田達也だった」
鳴海は黙った。
「日本人?」
「元はな」
鳴海は麗華を見た。
また達也を見る。
「何なんですか、これは」
「麗華に無理を言って連れてきてもらった」
「麗華?」
鳴海が初めてその名前を聞いた。
達也が麗華を指した。
「こいつだ」
鳴海は眉を寄せた。
「初めて聞く名前です」
「そうだろうな」
達也は椅子を指した。
「座れ」
「その前に戻してください」
「少し話を聞け」
「俺は何も知らないんですよ」
「ああ。知っている」
「だったら先に説明してください」
「簡単に言う」
達也は鳴海を見た。
「お前は今日、死ぬはずだった」
鳴海の表情が止まった。
「……何ですか、それ」
「今夜、自宅でだ」
「誰が?」
「お前が」
「そんなことは聞いてない!」
「当然だ。まだ起きていないからな」
鳴海は麗華を見る。
「さっき俺を家に入れるなと言ったのは、それか」
「はい」
「何で俺が死ぬ」
達也は答えた。
「殺されるからだ」
「誰に」
少し間が空いた。
達也が麗華を見た。
「妻に」
鳴海は笑わなかった。
「俺の妻?」
「ああ」
「そんな馬鹿な」
鳴海は麗華へ顔を向けた。
「あなたは妻の知り合いなんですか」
麗華は答えた。
「違います」
「じゃあ誰なんだ」
麗華は鳴海を見た。
「私です」
「何が」
「あなたの妻です」
鳴海は完全に動きを止めた。
やがて眉を寄せた。
「……は?」
「あなたが知っているフランス人の妻です」
「ふざけないでください」
「ふざけていません」
「顔が違うだろ」
「時間を移動した時に変わりました」
「時間移動?」
「はい」
鳴海は達也を見た。
「この人、何を言ってるんですか」
「本当だ」
「あなたまで?」
「ああ」
鳴海は椅子にも座らず、2人を見比べた。
「俺は夢でも見てるのか」
佑馬が横から声を掛けた。
「俺も最初はそう思った」
鳴海が佑馬を見る。
「あなたは?」
「倉田佑馬だ。こいつの父親」
佑馬が達也を指した。
鳴海は2人の顔を見比べる。
「似てませんね」
「俺も1986年からここへ連れてこられたばかりだ」
「1986年?」
「ああ」
鳴海は額を押さえた。
「もう何が何だか分からない」
達也が言った。
「全部理解する必要はない」
「ありますよ!」
「今大事なのは1つだ」
達也は鳴海を見た。
「お前は生きている」
鳴海は黙った。
「麗華が迎えに行かなければ、お前は今夜死んでいた」
「だから、どうして分かる」
「俺はその先を知っているからだ」
「どうやって」
「それを話すと長くなる」
「俺には大事な話でしょう!」
「そうだな」
達也は頷いた。
「だが、今日全部聞いても整理できん。先にお前自身のことを決めろ」
「俺自身?」
「2026年へ戻りたいか、ここに残るかだ」
「戻りたいに決まってるでしょう」
「そうか」
「仕事もあります。生活もあります」
「妻もいるか」
鳴海が止まった。
「……います」
「その妻がお前を殺す」
「まだ信じていません」
「それでいい」
達也は麗華を見る。
「麗華。お前から言え」
麗華は鳴海の正面へ立った。
「私は、あなたを殺すつもりでした」
鳴海の顔が強張った。
「何のために」
「生命保険です」
「……」
「あなたには多額の生命保険を掛けていました」
鳴海はしばらく何も言わなかった。
「嘘だ」
「いいえ」
「お前が俺の妻だという証拠もない」
「そうですね」
「認めるのか」
「顔が違う以上、そう言われると思っていました」
鳴海は麗華を睨んだ。
「なら証明してみろ」
麗華は答えた。
「何を聞きたいですか」
鳴海は少し考えた。
そして、妻でなければ答えられないことをいくつか尋ねた。
麗華はすべて答えた。
鳴海は途中から質問をやめた。
表情が変わっていた。
「……本当に?」
「はい」
「本当に、お前なのか」
「はい」
鳴海は椅子へ座った。
両手で顔を覆った。
「何なんだよ……」
誰も急かさなかった。
しばらくして、鳴海が顔を上げた。
「俺を殺すつもりだった?」
「はい」
「保険金のために?」
「はい」
「今日?」
「はい」
鳴海は麗華を見た。
「それで未来のお前が、俺を助けに来た?」
「そうです」
「意味が分からない」
「私も、こうなるとは思っていませんでした」
「だったら、どうして助けた」
麗華は達也を見た。
「王様との取引です」
鳴海の顔に怒りが戻った。
「俺を助けたかったからじゃないのか」
「違います」
麗華はごまかさなかった。
「私は3人の子どもを守る必要があります。そのための条件でした」
「……」
「ですが、あなたが死なない方がよいことまで否定するつもりはありません」
鳴海は立ち上がった。
麗華へ近づく。
「俺はお前を信じていたんだぞ」
「はい」
「夫婦だったんだぞ」
「はい」
「それを金のために殺す?」
「そうするつもりでした」
「ふざけるな!」
鳴海が麗華の胸元をつかんだ。
兵が動きかける。
達也が手を上げた。
「放っておけ」
兵が止まった。
麗華も抵抗しなかった。
鳴海の拳が震えている。
だが殴らなかった。
「俺は何も知らなかった」
「はい」
「家へ帰るところだった」
「はい」
「普通に帰れば、お前が待っていたんだな」
「そうです」
鳴海は麗華を放した。
数歩離れた。
「今すぐ顔を見たくない」
「分かりました」
鳴海は達也へ向き直った。
「俺を元の時間へ戻せますか」
「できる」
「なら戻してください」
麗華が達也を見る。
達也はすぐには答えなかった。
「今戻れば、また同じ妻のところへ帰るぞ」
「警察へ行きます」
「それもできる」
「なら」
「ただ、俺はお前にここへ残ってほしい」
「なぜですか」
「元銀行員だからだ」
鳴海は目を細めた。
「それだけ?」
「ああ」
「人を800年以上前へさらっておいて、理由がそれだけですか」
「俺には大きな理由だ」
「無茶苦茶だな」
「否定はしない」
佑馬が笑った。
「俺も似たような目に遭った」
鳴海が佑馬を見る。
「あなたも残るんですか」
「今のところはな」
「家族は?」
「1986年にいる」
「じゃあ帰りたいでしょう」
「会いたいよ」
佑馬は答えた。
「だが、死んでいたはずの俺がここにいる。まずは少し考える」
鳴海は黙った。
達也が言った。
「鳴海。今すぐ決めなくていい」
「本当に?」
「ああ」
「だったら最初からそう言ってください」
「帰せと言われた直後に帰すほど素直じゃない」
「王様ってみんなそんなものですか」
「俺だけかもしれん」
鳴海はため息をついた。
「少なくとも今日は、何も決められません」
「それでいい」
「銀行の話も今は聞きたくない」
「明日にする」
「本当にやる気なんだな」
「ああ」
鳴海は頭を振った。
達也が兵を呼んだ。
「鳴海の部屋を用意しろ。佑馬の近くでいい」
「承知しました」
「食事と着替えも用意しろ」
「はい」
鳴海が言った。
「監禁ですか」
「王府の外へ出たければ出てもいい」
「言葉も分からない」
「案内を付ける」
「帰る道だけない?」
「今のところはな」
「十分監禁じゃないか」
「そう思うならそう思え」
鳴海は麗華を見た。
「俺は、お前を許してない」
「分かっています」
「その言い方も腹が立つ」
「では黙ります」
「そうしてくれ」
鳴海は兵と一緒に書房を出た。
佑馬も立ち上がった。
「俺も少し付き合うよ」
達也が頷く。
「頼む、父さん」
「同じ時代から来た人間がいた方が話しやすいだろ」
佑馬は鳴海を追って出ていった。
◇ ◇ ◇
書房には達也と麗華だけが残った。
達也が麗華を見る。
「これで2人だ」
「はい」
「父さんも生きている」
「はい」
「鳴海も生きている」
「はい」
麗華は衣の内側からリモコンを取り出した。
「約束でしたね」
「ああ」
黒いリモコンを卓へ置いた。
達也が手に取る。
「もういいのか」
「3人の子どもも戻りました」
「ああ」
「佑馬さんも鳴海も連れてきました」
「ああ」
「なら、私が持っている理由はありません」
達也はリモコンをしまった。
「確かに受け取った」
麗華が尋ねた。
「これで私との取引は終わりですね」
「終わりだ」
「過去のことは?」
「俺から追うことはもうない」
「約束どおり?」
「ああ」
麗華は頷いた。
「では、私も約束どおり働きます」
「まだ皇帝になってないぞ」
「分かっています」
「太后でもない」
「それも分かっています」
「開封知府でもない」
「ですから早くなってください」
達也は眉を上げた。
「俺を急かすのか」
「仕事が決まっているのに待たされるのは嫌いです」
「本当にお前らしいな」
「王様が私を選んだのでしょう」
「そうだった」
麗華は立ち上がった。
「鳴海は怒っています」
「当然だ」
「私を許すことはないかもしれません」
「それは鳴海が決めればいい」
「はい」
「俺はお前を使う。それだけだ」
麗華は少し笑った。
「王様らしい答えです」
「褒めてるのか」
「いいえ」
「そうか」
麗華は戸口へ向かった。
「子どもたちのところへ戻ります」
「ああ」
「王様」
「何だ」
「鳴海を無理に銀行員へ戻さないでください」
達也が麗華を見る。
「意外なことを言うな」
「今日は自分が殺される予定だったと知らされたばかりです」
「分かってる」
「ならよいです」
「明日から働かせるつもりはない」
「少し安心しました」
「明後日ならいいか」
麗華が振り返った。
「やはり王様に人のことは言われたくありません」
「何の話だ」
「悪党です」
達也が笑った。
「早く子どものところへ戻れ」
「そうします」
麗華は書房を出た。
廊下の先では、佑馬が鳴海と話しながら歩いていた。
鳴海はまだ何も理解できていないだろう。
それで当然である。
つい先ほどまで2026年のホーチミンで仕事から帰ってきただけの男だった。
自分が死ぬことも知らなかった。
妻が自分を殺そうとしていることも知らなかった。
時間移動など、考えたことさえなかった。
その男が今、1123年の開封を歩いている。
麗華は足を止めず、自分の宿舎へ向かった。
倉田佑馬は死ななかった。
鳴海修司も死ななかった。
2人を連れてくるという達也との約束は果たした。
そして麗華の手から、時間移動用リモコンも離れた。
これから先は、逃げる時代を探す必要はない。
麗華には、3人の子どもがいる。
そして達也が皇帝になれば、開封で仕事が待っている。
麗華は1123年に残ることを、自分で選んだのである。
1123年6月下旬、麗華は2026年のホーチミンへ向かい、自宅へ帰る直前の鳴海修司を捕まえた。
この時点の鳴海は、自分がその夜に殺されることも、妻の計画も、時間移動の存在も何も知らない。
麗華は無理に事情を説明せず、抵抗する鳴海をそのまま1123年の開封へ連れてきた。
開封で達也から、自分がその夜に妻によって殺されるはずだったと聞かされた鳴海は、初めて事情を知る。
さらに麗華自身が、鳴海の妻だったフランス人であり、保険金を得るために鳴海を殺すつもりだったことを認めた。
鳴海は麗華を許していない。
しかし、本来死ぬはずだった鳴海は生きたまま開封へ来た。
これにより、達也が麗華へ命じた2人の救出は完了した。
麗華は約束どおり時間移動用リモコンを達也へ渡す。
倉田佑馬と鳴海修司は、ともに死ぬはずだった日を越えた。
麗華もまた、逃げるための道具を手放し、1123年の開封に残る道を選んだ。




