第1話(中編1)――「雨の横須賀から」
1123年6月下旬。
平西王倉達也との取引を受け入れた崔麗華は、最初の仕事として1986年の横須賀へ向かう。
目的は、地面師に騙され、倉田開発㈱の資本金1億円を失った達也の父・倉田佑馬を、自ら命を絶つ前に救い出すことである。
佑馬が最後に知っている達也は、22歳の日本人の息子である。
しかし現在、1123年の開封にいる達也は26歳であり、時間移動によって漢民族の肉体へ変わっている。
達也が求めているのは、失われた1億円ではない。
父親本人である。
(1123年6月下旬、開封府・宿舎)
崔麗華は部屋へ戻ると、扉を閉めた。
衣の内側からリモコンを取り出す。
清河県の桑畑から掘り出した時には、11年前に壊れていた表示窓も操作部分も元へ戻っていた。何度か確かめたが、年月日、場所、肉体年齢の指定はいずれも使える。
麗華は1986年を指定した。
場所は神奈川県横須賀市。
倉田開発㈱の自宅兼事務所である。
時間は、倉田佑馬が自ら命を絶つ前に合わせる。
年齢は変えない。
麗華は現在の漢民族の姿のまま行くことにした。
現代の街中へ北宋の衣服で突然現れれば目立つ。そこで人通りのある道路ではなく、倉田開発㈱の建物内を移動先に選んだ。
今回の目的は金を取り戻すことではない。
地面師を捕らえることでもない。
佑馬を生きたまま開封へ連れて帰ることである。
麗華は表示を確認し、ボタンを押した。
◇ ◇ ◇
(1986年、神奈川県横須賀市・倉田開発㈱)
麗華の足が床へ着いた。
外から雨音が聞こえる。
そこは倉田開発㈱の自宅兼事務所2階であった。
廊下の先に部屋がある。
麗華は物音を立てずに進んだ。
扉は少し開いていた。
中では、倉田佑馬が机の前に座っていた。
机には土地売買の契約書、銀行の振込控え、手帳などが広げられている。
倉田開発㈱の資本金1億円は、前日の午後に土地購入代金として送金されている。
だが、売主は偽物だった。
権利証も印鑑証明も偽物である。
土地の本当の所有者に売却する意思はなく、仲介者も紹介者も姿を消した。
佑馬は尚人の承認を取っていない。
杉浦にも、小沼にも書類を確認させていない。
理恵や達也にも相談しなかった。
町田小山田と相原の物件で成果を上げ、自分の判断だけでも取引をまとめられると考えた末の失敗だった。
佑馬は同じ振込控えを何度も見ていた。
麗華は扉を開いた。
「倉田佑馬さんですね」
佑馬が顔を上げた。
見知らぬ中国人の女が立っている。
「誰だ」
「少し、お話があります」
「どうやって入った」
「その説明もします」
「今は人と話す気分じゃない。帰ってくれ」
「倉田開発㈱の1億円についてです」
佑馬の表情が変わった。
「何だと」
「昨日、土地購入代金として送金した1億円です」
佑馬は椅子から立った。
「お前、何者だ」
「売主は偽物です。権利証も印鑑証明も偽物。本当の所有者は土地を売るつもりなどありません」
「なぜ知っている」
「仲介した者も、紹介した者も、もう逃げています」
「なぜお前が知っている!」
佑馬が机を叩いた。
振込控えが床へ落ちた。
麗華は答えた。
「私も、あなたを騙した側に関わっていたからです」
佑馬の動きが止まった。
「何だと?」
「あなたから1億円を奪った者たちと、私は関係がありました」
佑馬は麗華へ近づき、衣の胸元をつかんだ。
「ふざけるな!」
麗華は抵抗しなかった。
「1億円だぞ!」
「知っています」
「あれは俺の金じゃない! 尚人さんが俺に会社を任せるために出してくれた金だ!」
「知っています」
「俺は尚人さんに相談しなかった。杉浦さんにも、小沼さんにも見せなかった。理恵にも達也にも話さなかった!」
佑馬は麗華を放した。
「町田小山田も相原もうまくいった。それで、自分でもできると思ったんだ」
佑馬は机へ両手をついた。
「俺が馬鹿だった」
麗華は何も言わなかった。
「1億円だぞ……。俺は、どうやって返すんだ」
「返さなくていいそうです」
佑馬が顔を上げた。
「何?」
「達也さんは、1億円を返せとは言っていません」
「達也?」
「はい」
「お前、達也を知っているのか」
「知っています」
「どこにいる」
「中国の開封です」
佑馬が眉を寄せた。
「開封?」
「1123年の開封です」
佑馬はしばらく麗華を見た。
「何を言っている」
「1123年から、あなたを迎えに来ました」
麗華は衣の内側からリモコンを出した。
佑馬の目が止まった。
「それは……」
「時間移動用のリモコンです」
佑馬は笑わなかった。
倉田家は、時間移動そのものを知らない家族ではない。
佑馬自身、尚人によって2026年から1986年へ移されている。
「尚人さんが使っていた物と同じなのか」
「同じ物ではありませんが、時間を移動できます」
「それで、お前が1123年から来たと?」
「はい」
「達也もそこにいる?」
「います」
「なぜだ」
「達也さんも時間を越えました」
佑馬はリモコンと麗華を交互に見た。
「では、お前は何者だ」
麗華は少し間を置いた。
「尚人さんから、フランス女の話を聞いたことがありますか」
佑馬の顔が変わった。
「ある」
「俊介さんから時間移動の装置を奪った女です」
「知っている」
「鳴海修司に生命保険を掛け、殺した女です」
「知っている」
「その女が私です」
佑馬は動かなかった。
麗華は続けた。
「時間移動した時に、この姿へ変わりました」
佑馬の目に怒りが戻った。
「お前が、あのフランス女か」
「そうです」
「親父を1898年へ飛ばした女か」
「はい」
「鳴海を殺したのも」
「私です」
「そのうえ、俺を騙した連中にも関わっていた?」
「はい」
佑馬は麗華を睨んだ。
「よく俺の前に来られたな」
「来なければ、あなたが死ぬからです」
「何?」
「このままなら、あなたは今日、自ら命を絶ちます」
佑馬の顔から血の気が引いた。
「何を……」
「私は、その後を知っています」
「黙れ」
「あなたが亡くなったあと、理恵さんと達也さんが残された書類を調べます」
「やめろ」
「契約書、振込控え、手帳などです」
「やめろと言っている!」
佑馬が怒鳴った。
「2人は地面師のことを調べます」
「黙れ!」
「そして達也さんは、父親を失ったまま生きます」
佑馬は何も言わなくなった。
雨だけが窓を叩いている。
「達也が……俺が死んだことを知っているのか」
「知っています」
「それで、お前をここへ寄こした?」
「はい」
「なぜ、お前なんだ」
「私にしかできないからです」
麗華はリモコンを見せた。
「それだけではありません。私自身が、この事件に関わっています」
「だったら、お前は俺の仇じゃないか」
「そうです」
麗華は否定しなかった。
「達也さんも、それを知っています」
「知っていて、お前を使っているのか」
「はい」
「何を考えているんだ、あいつは」
「私にも分からないところはあります」
麗華は答えた。
「ですが、あなたについて言ったことは簡単でした」
「何と言った」
「1億円はいらない」
佑馬は黙った。
「地面師に騙されたあとでも構わない。金を失っていても構わない」
麗華は続けた。
「父さん本人を連れてこい、と言いました」
佑馬の顔が止まった。
「……何だって?」
「父さん本人が欲しい、と」
「達也が?」
「はい」
「俺は会社の1億円を失ったんだぞ」
「知っています」
「尚人さんから預かった会社だ」
「それも知っています」
「俺が勝手にやった」
「それも全部知ったうえです」
麗華は言った。
「それでも、金ではなく父親を連れてこいと言いました」
佑馬は椅子へ座った。
しばらく何も言わなかった。
「俺は、達也に会えない」
「なぜですか」
「父親が、息子の前にどんな顔をして出ればいい」
「失敗した顔で出ればよいのではありませんか」
佑馬が麗華を睨んだ。
「お前、本当に腹が立つ女だな」
「よく言われます」
「1億円を失ったんだぞ」
「だから達也さんも知っています」
「俺の判断でだ」
「それも知っています」
「それでも来いと言った?」
「はい」
佑馬は両手で顔を覆った。
麗華は待った。
しばらくして、佑馬が尋ねた。
「順子は」
「生きています」
佑馬がすぐに顔を上げた。
「本当か」
「はい」
「どこにいる」
「1986年の東京です」
佑馬は目を見開いた。
「1986年?」
「はい」
「今の時代にいるのか」
「います」
「どういうことだ」
麗華は答えた。
「私が以前、尚人さんと順子さんを1946年2月の東京へ飛ばしました」
佑馬の目が鋭くなった。
「お前が?」
「はい」
「順子まで?」
「はい」
麗華は続けた。
「ですが、直樹さんが俊介さんと一緒に1946年へ行き、2人を見つけました。その後、尚人さんと順子さんは1986年の成城へ戻っています」
佑馬はしばらく動かなかった。
「尚人さんも、今は1986年にいるのか」
「はい」
「順子も?」
「はい」
「親父も?」
「俊介さんも直樹さんに救出されています。1898年のユーコンから1986年へ戻りました」
佑馬は椅子の背にもたれた。
「そうか……」
表情から、少しだけ力が抜けた。
「理恵は」
「理恵さんも1986年にいます」
「無事なのか」
「無事です」
「本当に?」
「はい」
「達也以外は、みんな1986年にいるのか」
「今、私が知っている範囲では、尚人さん、順子さん、俊介さん、理恵さんは1986年にいます」
佑馬は大きく息を吐いた。
「なら……」
そこで言葉を止めた。
麗華は待った。
「だったら、俺も1986年へ戻ればいいんじゃないのか」
「そう思いますよね」
「当たり前だろう」
「順子さんも理恵さんもいる。尚人さんもいる。父親の俊介さんもいる」
「なら、なぜ俺を1123年へ連れていく」
「達也さんが待っているからです」
「達也が?」
「はい」
「先に1986年へ行って、順子たちに会ってからでは駄目なのか」
「私はそう命じられていません」
「命令に忠実なんだな」
「今回は子どもたちがかかっていますから」
「そうだったな」
佑馬は少し考えた。
「達也は、順子たちが1986年にいることも知っているのか」
「もちろん知っています」
「それでも俺を開封へ?」
「はい」
「本当に父親が欲しいだけなのか」
「私はそう聞きました」
佑馬は机の上の振込控えを見た。
「達也らしいと言えば、達也らしいな」
「そうなのですか」
「欲しいと思ったら、先に手元へ持ってくる」
「それは今も変わっていません」
佑馬は苦笑した。
「王様になって、もっとひどくなったか」
「かなり」
佑馬は少し笑った。
その笑いが消えると、また尋ねた。
「達也は何歳になった」
「今は26歳です」
佑馬が眉を寄せた。
「26?」
「はい」
「俺の知っている達也は22歳だ」
「その後、達也さんには4年あります」
麗華は言った。
「あなたが亡くなったあと、達也さんは北宋へ行く準備を続けました。26歳になってから時間移動し、1116年へ渡る時に肉体を19歳へ変えています」
「19歳に?」
「はい。そして1116年から1123年まで7年が過ぎています」
佑馬は少し考えた。
「それで今また26歳か」
「そうです」
「妙な話だな」
「時間移動ですから」
「達也は、俺が知っている姿なのか」
「いいえ」
麗華は答えた。
「顔が違います」
「何?」
「達也さんが北宋へ渡った時、肉体が移動先の人種に合わせて変わりました」
「中国人になったのか」
「漢民族の男性です。顔立ちも、肌も、髪も、体格も変わっています」
佑馬は麗華を見た。
「お前と同じか」
「そうです。私もフランス人だった頃の顔ではありません」
「では、会っても達也だと分からないじゃないか」
「顔では分かりません」
「困ったな」
「本人に確かめてください」
佑馬はしばらく考えた。
「達也は今、何をしている」
「平西王です」
「本当に王様なのか」
「はい」
「何をした」
「西夏を取りました」
「……」
「遼も滅ぼしました」
「待て」
「金も滅ぼしました」
「ちょっと待て」
「北宋もすでにありません。今は開封を新しい首都にしています」
佑馬は額へ手を当てた。
「俺の息子は何をやってるんだ」
「王様です」
「それは今聞いた」
麗華は少し笑った。
「元気ではあります」
「元気すぎるだろう」
「私もそう思います」
佑馬は机の上を見た。
契約書がある。
振込控えがある。
1億円を失った事実は消えない。
「俺がここからいなくなれば、この会社はどうなる」
「分かりません」
「無責任だな」
「達也さんは、それについて何も求めていません」
「金を取り戻せとも言っていない」
「はい」
「地面師を捕まえろとも?」
「言っていません」
「俺を連れてこい。それだけか」
「それだけです」
佑馬は長く黙った。
「逃げることになるな」
「何からですか」
「責任からだ」
「そうでしょうか」
「会社の金を1億円失って、俺だけ800年以上前へ逃げるんだぞ」
「逃げる人間なら、すべて知っている息子の前には行かないでしょう」
佑馬は麗華を見た。
「あなたはこれから達也さんの前へ行くのです」
「……」
「自分が勝手に判断したことも、1億円を失ったことも、全部知られている息子です」
「嫌な言い方をするな」
「事実です」
「お前に言われると余計に腹が立つ」
「私も悪党ですから」
「自分で言うのか」
「達也さんにも言われました」
「達也に?」
「お前は悪党だ、と」
「それでお前は?」
「王様に言われたくありません、と答えました」
佑馬は思わず笑った。
「それは達也が悪い」
「本人も否定しませんでした」
笑いはすぐ消えた。
佑馬は机の上の書類を集めた。
しばらく見てから、元へ戻した。
「分かった」
麗華は尋ねた。
「行きますか」
「ああ」
「本当に?」
「ここに残れば、俺は死ぬんだろう」
「はい」
「死んで理恵と達也に後始末をさせるより、生きて息子に会う」
「その方がよいと思います」
「お前が言うな」
「では言いません」
佑馬は立ち上がった。
「順子と理恵は1986年にいるんだな」
「はい」
「尚人さんも」
「はい」
「親父も」
「はい」
「それなら、いずれ会えるか」
「それは達也さんと相談してください」
「全部あいつ次第か」
「今のところは」
「本当に王様だな」
「かなり勝手です」
「お前もだろう」
「否定しません」
麗華はリモコンを取り出した。
「持っていく物があれば、今のうちに」
佑馬は部屋を見回した。
契約書にも、振込控えにも手を伸ばさなかった。
財布だけを持った。
そして机に置いてあった家族の写真を手に取った。
順子、理恵、達也が写っている。
佑馬はしばらく写真を見たあと、上着の内側へ入れた。
「これだけでいい」
「では行きます」
「達也は本当に俺を待っているんだな」
「はい」
「中国人の顔になった26歳の王様が」
「はい」
「信じられんな」
「会えば分かります」
「顔じゃ分からないんだろう」
「会話で判断してください」
「頼りないな」
麗華は1123年6月下旬、開封、平西王府を指定した。
「私から離れないでください」
「分かった」
「行きます」
「麗華」
「何ですか」
「順子たちが1986年にいることを教えてくれてありがとう」
麗華は少し驚いた。
「私が1946年へ飛ばしたのですが」
「それでも今は生きているんだろう」
「はい」
「なら今はそれでいい」
麗華は何も言わなかった。
ボタンを押した。
◇ ◇ ◇
(1123年6月下旬、開封府・平西王府)
佑馬の足が石畳へ着いた。
目の前には、1986年の日本にはない中国の建物が並んでいる。
庭には武装した兵が立っていた。
麗華を見ると兵たちが一礼する。
佑馬は周囲を見回した。
「本当に来たのか」
「1123年の開封です」
「頭では分かっていても、これは信じられんな」
「もう移動は経験しているでしょう」
「2026年から1986年へ来た時と、800年以上前へ来るのでは話が違う」
「そういうものですか」
「違う」
兵の1人が王府の奥へ走った。
麗華は佑馬を連れて建物へ向かった。
「達也はここにいるのか」
「はい」
「どんな顔だ」
「中国人です」
「それは聞いた」
「見れば、本当に分からないと思います」
「困るな」
やがて前方の戸が開いた。
1人の男が出てきた。
26歳の漢民族の男である。
髪も顔立ちも肌も、日本人だった倉田達也とは違う。
衣服は王侯のものであり、その後ろには兵が控えていた。
佑馬は足を止めた。
まったく知らない男である。
麗華が言った。
「王様。連れてきました」
男は佑馬を見た。
しばらく動かなかった。
「父さん」
日本語だった。
佑馬は男を見つめた。
「お前が……達也か」
「ああ」
「顔が全然違うぞ」
「だから言っただろう」
「俺はお前から何も聞いてない」
「麗華から聞いたんじゃないのか」
「聞いたが、それでも驚く」
達也は少し笑った。
「父さんが最後に見た俺は22歳だった」
「ああ」
「父さんが死んだあと、俺は4年過ごした。26歳になってから1116年へ飛んだ」
「その時に19歳になった?」
「そうだ」
「それで漢民族の体になった」
「ああ」
「そこから7年たって、また26歳」
「そういうことだ」
佑馬は達也をじっと見た。
「本当にお前か」
「何を聞けば信じる」
「順子は」
「1986年の成城にいる」
「理恵は」
「同じだ」
「尚人さんも?」
「1986年に戻っている」
「親父も?」
「直樹さんが救い出して、1986年に戻った」
麗華が言ったことと同じである。
佑馬はさらに尋ねた。
「俺が死んだあと、順子は1946年へ飛ばされたのか」
「ああ。尚人さんと一緒にな」
「それを直樹さんが助けた?」
「俊介爺さんと一緒に1946年へ行って、2人を連れ戻した」
佑馬は目を閉じた。
「そうか」
「ああ」
「みんな生きてるんだな」
「父さん以外はな」
達也は言った。
「だから父さんも生きている方へ変えた」
佑馬が達也を見る。
「お前が麗華を寄こしたのか」
「ああ」
「俺を1986年へ戻さず、ここへ?」
「ああ」
「順子や理恵に先に会わせようとは思わなかったのか」
「思わなかった」
返事が早かった。
「何でだ」
「俺が先に会いたかったからだ」
佑馬は黙った。
達也は続けた。
「父さんは1回死んでるんだ。俺にとってはな」
「……」
「理恵も母さんも尚人さんも1986年にいる。後で会わせる方法は考えればいい」
「簡単に言うな」
「時間移動の道具があるんだ。今すぐ全部決める必要はない」
「お前、本当に昔より勝手になったな」
「王様だからな」
「威張るな」
「父さんには威張ってない」
その言い方で、佑馬の顔が少し緩んだ。
「やっぱり達也か」
「やっと信じたか」
「顔だけなら絶対に信じない」
「俺もそう思う」
達也は父親へ近づいた。
「父さん」
佑馬は逃げなかった。
達也が父親を抱いた。
佑馬はしばらく腕を下ろしたままだったが、やがて達也の背中へ手を回した。
「達也……」
「ああ」
「悪かった」
「何が」
「1億円だ」
達也は父から体を離した。
「それはもういい」
「よくない」
「俺にはどうでもいい」
「会社の資本金だぞ」
「知ってる」
「尚人さんが出してくれた金だ」
「それも知ってる」
「俺が勝手にやった」
「全部知ってる」
達也は父親を見た。
「でも父さん、金はまた作れる」
佑馬は黙った。
「父親は作れない」
佑馬の顔が崩れた。
「だから麗華に言った。1億円はどうでもいい。父さん本人を連れてこいって」
佑馬は何も言えなかった。
「俺は……本当は死んだんだな」
「ああ」
「お前と理恵が後始末をした?」
「ああ」
「そうか」
佑馬は顔を伏せた。
「悪かった」
「もういい」
「よくない」
「今は生きてる」
達也は言った。
「それでいい」
しばらく父子は黙っていた。
麗華は少し離れた場所で待っていた。
達也がようやく麗華へ顔を向けた。
「よくやった」
「約束の1人目です」
「ああ」
「逃げずに戻りました」
「見れば分かる」
「では、私の子どもたちは?」
「返す」
麗華が達也を見た。
「今ですか」
「ああ」
「鳴海はまだ連れてきていません」
「お前は父さんを連れて戻った」
達也は答えた。
「逃げるつもりがないことは分かった。もう3人を王府へ置いておく必要はない」
「信用するのですか」
「半分はな」
「残り半分は?」
「お前の損得勘定だ」
麗華は笑った。
「よく分かっていらっしゃる」
「俺の条件の方が、逃げるより得なんだろう」
「はい」
達也は兵を呼んだ。
「麗華の3人の子どもを宿舎へ戻せ。今日中にだ」
「承知しました」
麗華は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
「では、今のは取り消します」
「本当に可愛げがないな」
「それでも開封知府にするのでしょう」
「能力と可愛げは別だ」
佑馬が2人を見比べた。
「お前たち、本当に仲が悪いのか」
「悪い」
達也が答えた。
「かなり悪いです」
麗華も答えた。
「それで一緒に仕事をするのか」
「使えるから」
「使えるからです」
2人がほぼ同時に答えた。
佑馬は呆れた。
「似た者同士じゃないか」
「それは嫌だ」
達也が言った。
「私も嫌です」
麗華も答えた。
「やっぱり似てるぞ」
達也は父親へ向き直った。
「父さん、今日は休め」
「麗華から、俺にも仕事があると聞いた」
「ああ」
「何をさせる」
「それは明日話す」
「俺に何ができる」
「土地の仕事をしてきただろう」
「最後に大失敗したがな」
「だからいい」
「何がいいんだ」
「成功した話だけ知っている奴より、失敗した理由まで知っている奴の方が使える時がある」
佑馬は達也を見た。
「お前、本気で俺を働かせるつもりなんだな」
「当然だ」
「父親だぞ」
「だからって遊ばせておく理由はない」
「王様になると、親まで働かせるのか」
「王様になる前から働いてもらう」
佑馬は笑った。
「やっぱり達也だな」
今度の言葉には迷いがなかった。
達也も笑った。
麗華はそのやり取りを見届けると、衣の内側のリモコンへ手を当てた。
最初の仕事は終わった。
倉田佑馬は死ななかった。
失った1億円も、地面師に騙された事実も消えていない。
それでも本人は生きて、息子の前へ立っている。
1986年には、順子、理恵、尚人、俊介も生きている。
佑馬が家族と再会する道も残っている。
「王様」
「何だ」
「子どもたちの顔を見てから、次へ行きます」
「ああ」
「次は鳴海修司です」
「ああ」
「2026年のホーチミン。私が殺す前ですね」
「そうだ」
「今度は佑馬さんほど簡単にはいかないと思います」
「分かってる」
「鳴海は私の夫でした」
「ああ」
「そして、私が殺そうとしている時期の鳴海です」
「だから、お前にやらせる」
麗華は達也を見た。
「難しいから?」
「難しいからだ」
前編2で聞いた言葉と同じだった。
「分かりました」
「麗華」
「はい」
「鳴海を殺すなよ」
「今度は殺しません」
「生きて連れてこい」
「承知しました」
麗華は王府を出た。
1人目は終わった。
達也の父親は生きている。
残る1人は、自分が殺した夫である。
鳴海修司を死ぬ前の時間から連れ出し、開封へ連れてくる。
それを果たせば、達也との取引は完了する。
1123年6月下旬、麗華は時間移動用リモコンを使い、1986年の横須賀へ向かった。
倉田佑馬は倉田開発㈱の資本金1億円を地面師へ送金し、騙されたことを知ったあと、自ら命を絶つ直前であった。
麗華は、自分が尚人たちの知るフランス女本人であり、地面師事件にも関わっていたことを佑馬へ明かす。
そのうえで、このままでは佑馬が死亡し、理恵と達也が残された契約書や振込控えなどを調べることになると伝えた。
達也が求めているのは、失われた1億円ではない。
父親本人である。
また、佑馬が気に掛けた家族も生きていた。
1946年2月の東京へ飛ばされていた尚人と順子は、直樹が俊介とともに救出し、1986年の成城へ戻っている。理恵も1986年におり、俊介も1898年のユーコンから救出されて1986年へ戻っている。
それを知った佑馬は1986年へ戻ることも考えるが、まず自分を待っている達也へ会うため、麗華とともに1123年の開封へ向かった。
開封で佑馬を待っていた達也は、佑馬が知る22歳の日本人の姿ではない。
達也は父の死後4年間を1986年で過ごし、26歳で北宋へ向かった。その際、肉体を19歳へ若返らせると同時に漢民族の男性へ変わり、1116年から7年を生きた現在は再び26歳となっている。
顔のまったく違う息子を最初は信じられなかった佑馬も、家族のことや過去を話すうち、目の前の男が達也本人であることを受け入れた。
父子は、死ぬはずだった日を越えて再会した。
達也は約束を守って戻った麗華を信用し、王府で預かっていた3人の子どもを宿舎へ返すよう命じる。
残る仕事は1つ。
2026年のホーチミンへ行き、麗華自身が殺す前の鳴海修司を、生きたまま開封へ連れてくることである。




