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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第1話(前編1)――「桑畑のリモコン」

 1123年6月下旬。


 遼、金、旧北宋領を支配下へ入れた平西王倉達也(ツァン・ダーイエ)は、開封を新しい首都とした。


 王妃呉月娘(ウー・ユエニャン)をはじめとする妻妾と子どもたちも開封へ移り、旧北宋皇后の崔麗華(ツイ・リーファ)と3人の子どもも宿舎へ入った。


 だが麗華には、誰にも話していない秘密があった。


 北宋へ来た1112年、麗華は壊れた時間移動用のリモコンを清河県(チンホーシエン)郊外の桑畑へ埋めている。


 そして麗華は、西夏へ運ばれた時から、平西王達也にも大きな秘密があると気付いていた。



 (1122年11月下旬、西夏へ向かう大型輸送車内)


 大型輸送車が街道の凹凸を拾うたび、床から低い振動が伝わってきた。


 崔麗華(ツイ・リーファ)は、毛布の上で眠る3人の子どもを見ながら、車内の壁へ手を触れた。


 冷たい金属だった。


 窓の外では、馬に乗った西夏兵が車列と並んで走っている。しかし麗華たちが乗っている物は、馬にも牛にも引かれていない。


 床下から規則正しい機械音が響き、車輪はゴムで覆われている。揺れは馬車よりはるかに少なく、速度も違った。


 麗華には分かる。


 これは北宋の物ではない。西夏にも、遼にも、金にも作れる物ではなかった。


 麗華は顔を上げた。


 少し離れた場所で、倉達也(ツァン・ダーイエ)が兵と話している。


 手には無線機があった。


「後方車、異常はないか」


 雑音のあと、離れた車両から声が返ってきた。


「異常ありません」


「速度を上げるな。病人を乗せている車に合わせろ」


「承知しました」


 麗華は何も言わずに、そのやり取りを聞いた。


 無線機まである。


 これで疑う余地はなかった。


 平西王倉達也は、この時代だけを知る人間ではない。


 1119年の宴席で初めて会った時、麗華は達也を養兄崔文亮(ツイ・ウェンリャン)の主君としてしか見ていなかった。


 若くして開封知府となり、その後、西夏の王にまで上り詰めた男である。


 異常な出世だとは思った。しかし、自分と同じように別の時代から来た人間だとは考えなかった。


 今は違う。


 現代の車両を何台も持ち、無線機を兵へ持たせ、それを軍隊として動かしている。


 達也自身が未来から来たのか、それとも未来と行き来できるのか。そこまでは分からない。


 ただ1つだけ、麗華には確信できた。


 この男は、自分が元いた世界を知っている。


 麗華は眠っている上の皇子の毛布を掛け直した。


 顔には何も出さなかった。


 達也が自分の正体を知っているかどうかも分からない。分からない以上、こちらから余計なことを話す理由はなかった。


 ◇ ◇ ◇


 (1123年6月下旬、開封府(カイフォンフ))


 それから7か月が過ぎた。


 遼は滅び、金も滅びた。


 旧北宋領の大半も達也へ従い、開封は再び大国の中心として動き始めていた。


 城門を出入りする荷車は増え、市場には各地から穀物、布、茶、薬材、木材が運び込まれている。戦の間に閉じていた店も次々と戸を開け、大路には商人の呼び声が戻っていた。


 その一方、町の要所には平西王軍の兵が立っている。


 麗華は、王妃呉月娘(ウー・ユエニャン)たちとともに開封へ移ったあと、3人の子どもと宿舎へ入った。


 旧北宋の後宮へ戻されたわけではない。


 かつて役人や賓客が使っていた建物を改修した宿舎で、部屋は広く、食事も衣服も不足していなかった。


 2人の皇子と1人の皇女にも、それぞれ世話をする者が付けられている。


 達也から行動を厳しく制限されたこともなかった。


 町へ出る時には護衛を付けるよう求められたが、それは麗華だけではなく、旧北宋皇族や達也の家族にも共通していた。


 麗華は数日間、何もせずに開封の様子を見た。


 達也が本当に自分を疑っているなら、急いで動けば墓穴を掘る。しかし、いつまでも待つつもりもなかった。


 麗華には確かめなければならない物がある。


 1112年4月15日。


 北宋へ初めて来た日、東平府(ドンピンフ)清河県(チンホーシエン)郊外の桑畑へ埋めたリモコンである。


 あの日、表示窓にはひびが入り、ボタンを押しても反応しなかった。


 使えないから埋めた。


 捨てなかったのは、いつか直す手段が見つかる可能性を捨てきれなかったからである。


 11年が過ぎた。


 壊れた機械が土の中で直るはずはない。麗華自身も、それは分かっていた。


 それでも達也が現代の車両を持ち込んでいると知った今、あのリモコンをそのまま放置するわけにはいかなかった。


 達也に見つかれば、自分の正体につながる証拠になる。


 壊れたままなら別の場所へ移す。もし何らかの理由で使えるなら、話はまったく変わる。


 麗華は3人の子どもが朝餉を食べている席で、世話役の女へ言った。


「清河県へ行きたいのです」


 女が驚いた。


「清河県でございますか」


「昔、私が暮らしていたところです。店と土地を残しております。長く人任せにしておりましたので、一度見ておきたいのです」


「王府へお伺いを立てましょうか」


「お願いします」


 理由に嘘はなかった。


 麗華は清河県に華宝舗と財産を残している。


 北宋が滅び、支配者まで変わった以上、所有関係を確かめたいという申し出は不自然ではない。


 翌日には許可が出た。


 麗華は、あまりにも簡単に許可が出たことを警戒した。


 達也から質問もなかった。


 清河県へ行く理由を詳しく尋ねられることもなく、護衛を付けるという条件だけで認められた。


 それでも、自分から願い出た以上、急に取りやめる方が不自然である。


 麗華は予定どおり清河県へ向かうことにした。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、麗華は清河県へ入った。


 11年前と比べれば、町の見え方は大きく変わっていた。


 当時は言葉も分からず、銭の使い方さえ知らなかった。


 今は町の人間の話を聞き、役所の書付も読める。


 華宝舗も残っていた。


 建物には何度か手が入れられていたが、商いは続いている。麗華が所有者であることを示す帳面や書付も保管されていた。


 麗華は店の帳簿を確かめ、働いている者へ銀を渡した。


 表向きの用事は、それで済んだ。


 翌朝、まだ町が動き始める前に麗華は宿を出た。


 護衛には、近くを歩いてくるだけだと告げた。


「お1人では危のうございます」


「町の外へ遠く行くつもりはありません。昔住んでいたところを見たいだけです。朝餉までには戻ります」


「ですが」


「それでは、華宝舗で待っていてください。戻らなければ探しに来てください」


 護衛は納得していない顔だったが、麗華はそのまま歩き出した。


 町を抜けると、人通りが減った。


 朝の空気には土と草の湿った匂いがあった。畑では農民が働き始め、遠くから牛の鳴き声が聞こえる。


 麗華は昔の道をたどった。


 11年前と同じ景色ではない。


 桑の木は育ち、切られた木もある。畑の境も少し変わっていた。


 それでも用水路は残っていた。


 麗華は流れに沿って歩き、曲がり角で足を止めた。


 ここだった。


 水路の曲がり方を見れば思い出せる。


 麗華は周囲を見た。


 農民の姿は離れている。


 麗華は用水路から歩数を数えた。


 11年前、自分で決めた歩数である。


 桑の木の根元に着いた。


 目印に置いた3個の石は、そのままではなかった。2個は近くに残っていたが、1個は少し離れたところへ動いている。


 麗華はしゃがみ、両手で土を掘った。


 表面は乾いていたが、少し下へ行くと土が湿っている。


 爪の間へ黒い土が入った。


 何度か場所をずらした。


 指先に硬い物が当たった。


 麗華は土を払う手を止めた。


 さらに土を除けると、黒い筐体が見えた。


「あった……」


 思わず声が漏れた。


 麗華は周囲を見てから、リモコンを掘り出した。


 泥が付いている。


 だが形は崩れていなかった。


 麗華は袖で表面の土を拭った。


 そこで異変に気付いた。


 1112年には、表示窓に大きなひびが入っていた。


 そのひびがない。


 麗華は目を近づけた。


 見間違いではなかった。


 表示窓は滑らかにつながり、壊れていた部分も元へ戻っている。


「どうして……」


 理由は分からなかった。


 11年間、土の中へ埋めていただけである。修理する者などいるはずがない。


 麗華はボタンへ指を置いた。


 一度押した。


 表示窓に数字が現れた。


 麗華は画面を見つめたまま動かなかった。


 もう一度操作した。


 数字が変わる。


 年月日を指定する画面も開いた。


 年齢を指定する機能も生きている。


 壊れていない。


 直っている。


 麗華はリモコンを両手で持ったまま、その場へ座り込んだ。


 北宋へ来た直後、何度押しても反応しなかった機械である。


 それが今は使える。


 麗華の頭に最初に浮かんだのは、自分1人で逃げることではなかった。


 3人の子どもだった。


 2人の皇子と1人の皇女。


 この11年間に得たものの中で、置いていけないのは3人だけである。


 麗華は立ち上がった。


 ここに長くいるべきではない。


 リモコンを衣の内側へ入れ、掘った土を戻した。


 石も適当に置き直した。


 達也が何者であろうと、もう関係ない。


 3人を連れて時間移動すればよい。


 行き先は、子どもたちをそろえてから決めればよい。


 麗華は急いで清河県へ戻った。


 ◇ ◇ ◇


 麗華が桑畑へ入った時、離れた畦の陰には男が1人身を伏せていた。


 開封から麗華の動きを追ってきた男である。


 男は麗華へ近づかなかった。


 桑の木の根元を掘り、土の中から何かを取り出し、それを衣の内側へ隠すところまで離れた場所から見届けた。


 麗華が桑畑を離れてから、男はようやく立ち上がった。


 桑の木の根元まで行くことはせず、掘り返した跡だけを遠くから確かめ、そのまま街道へ戻った。


 その日の夕方、報告は開封へ送られた。


 ◇ ◇ ◇


 (1123年6月下旬、開封・平西王府)


 達也は書房で報告を聞いた。


「麗華は清河県の華宝舗へ入り、帳簿を確認しております。その翌朝、護衛を店へ残し、1人で町の外へ出ました」


「どこへ行った」


「桑畑です」


 達也は卓の上へ置いていた書付から顔を上げた。


「桑畑?」


「はい。用水路の近くです。人のいない場所へ入り、桑の木の根元を掘っておりました」


「何を掘り出した」


「そこまでは確認できませんでした。近づけば気付かれるため、距離を取っております。ただ、何かを衣の中へ入れたことは間違いありません」


 達也は考えた。


 麗華が清河県へ行くと聞いた時から、人を付けていた。


 華宝舗を見に行くこと自体は不自然ではない。


 麗華が北宋へ来て最初に財産を築いた土地である。


 しかし、自分から護衛を遠ざけ、1人で郊外の桑畑へ入ったとなれば話は違う。


「その場所は記録したか」


「しております」


「掘るな。そのままにしておけ」


「よろしいのでございますか」


「ああ。麗華にも気付かれるな」


「承知しました」


 達也は別の者を呼んだ。


「麗華の3人の子どもは今どこにいる」


「開封の宿舎でございます」


「今日から王府で預かれ」


 男が達也を見た。


「3人ともでございますか」


「3人ともだ」


「麗華には何と?」


「まだ何も言うな。子どもたちにも怖がらせるようなことをするな。食事も部屋も普通に用意しろ。ただし、王府の外へは出すな」


「承知しました」


「麗華が開封へ戻るまで待つ」


 達也はそこで話を終えた。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、麗華は開封へ戻った。


 宿舎へ着いたのは午後だった。


 旅の疲れはあったが、麗華は自分の部屋へ戻る前に3人の子どもの部屋へ向かった。


 扉を開けた。


 誰もいなかった。


 寝台は整えられている。


 上の皇子が使っている木の玩具も、下の皇子の衣服も、皇女の履物も残っている。


 麗華は廊下へ出た。


「子どもたちはどこですか」


 世話役の女が顔をこわばらせた。


「王府へ参りました」


「何のために?」


「王様のお申し付けでございます」


 麗華の手が衣の内側へ動きかけ、途中で止まった。


 そこにはリモコンがある。


「いつですか」


「3日前です」


「3日前……」


 自分が桑畑へ行った日だった。


 麗華はようやく理解した。


 達也は見ていた。


 清河県へ行った時からではない。もっと前から、自分を見ていた可能性がある。


「王様から、麗華様がお戻りになりましたらお知らせするよう申し付けられております」


 女が続けた。


「王府へ来るようにということですか」


「いいえ」


 廊下の向こうから男の声がした。


「俺が来た」


 麗華が振り返った。


 達也が立っていた。


 護衛が2人いる。


 達也は麗華の部屋へ入ると、卓の前へ座った。


「座れ」


 麗華は向かいへ座らなかった。


「子どもたちはどこですか」


「王府だ。3人とも無事だ。飯も食わせている」


「なぜ、私に断りもなく連れていったのですか」


「お前が俺に断りもなく、清河県の桑畑で穴を掘っていたからだ」


 麗華の顔から表情が消えた。


 達也はその顔を見た。


「見つかったか」


「何のことでございますか」


「11年間、土の中へ埋めていた物だ」


 麗華は答えなかった。


 達也は椅子の背へ体を預けた。


「崔麗華」


 麗華は達也を見た。


「いや」


 達也は言い直した。


「お前には、別の呼び方をした方がいいか」


 麗華の右手が、衣の内側に隠したリモコンへ触れた。


 達也はその動きを見逃さなかった。


「探し物は、無事に見つかったようだな」


 麗華は達也を見たまま動かなかった。


 桑畑へ埋めた物を知っている。


 11年前からそこにあったことまで知っている。


 達也が知っているのは、自分が清河県で何かを掘り出したという事実だけではない。


 麗華はこの時、目の前の男が、自分が北宋へ来る前のことまで知っていると悟った。

 1123年6月下旬、開封へ戻った麗華は、西夏への移送に使われた現代の車両と無線機から、達也がこの時代だけを知る人間ではないと見抜いていた。


 麗華は清河県に残した華宝舗の確認を名目に、11年前に壊れたリモコンを埋めた桑畑へ向かう。


 土の中から見つかったリモコンは、不思議なことに自然修復しており、時間と年齢を再び指定できる状態へ戻っていた。


 麗華は3人の子どもを連れて時間移動するため、リモコンを隠して開封へ戻る。


 しかし達也は、清河県へ向かった麗華の行動を監視していた。


 護衛を残して1人で桑畑へ入り、何かを掘り出したとの報告を受けた達也は、麗華が戻る前に2人の皇子と1人の皇女を王府へ移し、監視下へ置いた。


 開封へ戻った麗華を待っていたのは、空になった子どもたちの部屋と、11年前の秘密まで知っている達也だった。


 麗華と達也の長い因縁は、ようやく本人同士の決着へ向かい始めた。

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