第13話(中編2)――「皇子を抱く身重の美人」
1115年11月、北宋・開封府の朝は急に冷え込むようになった。皇宮の木々から葉が落ち、回廊の端には風に運ばれた枯葉が集まっている。崔麗華の部屋でも、朝から炭が焚かれていた。
麗華の腹は、衣の上からでもはっきり分かるほど大きくなっていた。立ち上がる時には卓や椅子に手を添えることが増え、長く歩くと腰が重くなる。その一方で、前年に生まれた皇子は1歳を過ぎ、じっとしている時間が減っていた。
その朝も皇子は、床に敷いた厚い布の上で低い卓に両手をつき、立ち上がろうとしていた。麗華が椅子から見守るうちに膝が伸び、卓につかまったまま立ち上がったが、体はまだ揺れている。そばの女官が、転んでも支えられるように手を差し出した。
「まだ手を離してはいけませんよ」
麗華が声をかけた直後、皇子は片手を離した。体が傾き、尻から布の上へ座り込む。一瞬驚いた顔をしたものの、痛くはなかったらしく、泣かずにまた卓へ手を伸ばした。
麗華がそばへ行こうとすると、女官が皇子を支えながら振り向いた。
「崔美人様は、お座りになっていてくださいませ。私がついておりますから」
「すぐそこなのに、思うように動けませんね。この子は動き回るようになったというのに」
椅子に座り直した麗華は、また立とうとしている皇子を見た。今にも歩き出しそうな様子に頬が緩んだが、自分で追いかけるのは難しそうだった。
その時、腹の中から押される感覚があった。最初の妊娠でも経験しているが、動くたびに手を当てずにはいられない。
「お腹のお子も、お動きになるのですか」
「ええ。兄に負けたくないのかもしれませんね」
「今度も男のお子でございましたら、よろしゅうございますね。崔美人様もお望みなのでしょう」
麗華は腹に手を置いたまま、女官へ目を向けた。
「男か女かは、生まれるまで分かりません。まずは無事に生まれてくれることが一番です」
男児を強く望んでいるのは事実だった。しかし、その気持ちも理由も、女官に詳しく話すつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
懐妊を祝う品は、その後も麗華のもとへ届いていた。すでに皇子を1人産み、その子が元気に育つ中で、皇帝の寵愛を受けて再び身ごもった。後宮で麗華を知らない者はほとんどいなくなり、周囲からの扱いにも変化が表れていた。
ある午後、麗華は張婕妤の部屋へ招かれた。腹が大きくなってからは、短い距離を歩く時にも女官を伴っている。張婕妤は入ってきた麗華に椅子を勧め、その腹へ目を留めた。
「ずいぶん大きくなりましたね。最初のお産からあまり間が空いていませんが、お体はつらくありませんか」
「重くなったとは感じます。立ったり座ったりするにも、以前より手間がかかるようになりました」
「陛下は、よほどそなたがお気に入りなのでしょう。最初の皇子を産んだ時には、そのまま子育てに夢中になるかと思っていましたが、また何度も寝所へ召されたそうですね」
「皇子は大切でございますし、陛下にお呼びいただけるのもうれしゅうございます。ただ、陛下が私をどのように思っておいでかまでは、分かりません」
張婕妤は、また慎重な答えが返ってきたという顔をした。
「陛下のお気持ちは分からなくても、そなたが寝所へ参りたかったのは確かでしょう」
麗華は茶を口へ運んでから答えた。
「嫌でしたら、毎回うれしそうに参りません。宮中では皆様ご存じのことですし、今さら隠しても仕方がございませんから」
「そこまで言いますか。本当に陛下から離れるつもりがないのですね」
「陛下の后妃でございますもの。離れたいとは思っておりません」
張婕妤は声を上げて笑ったが、やがて麗華の顔を見ながら話を続けた。
「今度も皇子なら、また位が上がるかもしれませんよ。そちらも楽しみにしているのでしょう」
「位は陛下がお決めになることですから、私には何とも申し上げられません。ただ、頂けるのであれば、お断りする理由はございません」
「そなたは欲がないふりをしませんね。それなのに、何を望んでいるのかは話そうとしない」
「欲がないとは申し上げておりません。けれど、婕妤様も、ご自分のお望みをすべて私にお話しにはならないでしょう」
張婕妤は返事をせずに麗華を見た。その顔に笑みが戻るまで、麗華も黙って待っていた。
「確かに、私も話しませんね。それでは、そなたにばかり尋ねるわけにはいきません」
張婕妤はそれ以上聞こうとせず、麗華も話を広げなかった。同じ後宮で暮らす者同士、胸の内を明かさずにおきたい事情は、互いに分かっていた。
◇ ◇ ◇
張婕妤の部屋から戻る途中、麗華は尚服局へ寄った。妊娠してから香倉へ入る回数は減らしていたが、香の使用記録には引き続き目を通している。
劉彩雲が持ってきた竹札には、ここ数日の記録が記されていた。
「陛下はこのところ、白檀を多くお使いです」
「寒くなって、またお好みが戻りましたね」
麗華が日付を追って読んでいる間、そばにいた孫玉英は、その腹に目を向けていた。麗華が顔を上げると、玉英は気づかれたことに少し照れたように笑った。
「ずいぶん大きくなられたと思いまして。前のお子の時よりも、早いように見えます」
「毎日見ている私には、かえって分かりにくいのです。医官からは、何も言われておりませんよ」
「今度も皇子様でしたら、よろしゅうございますね。弟君がお生まれになれば、お部屋もにぎやかになるでしょう」
「女の子でも、にぎやかになると思いますよ」
玉英も、それはそうだと笑った。麗華は竹札へ目を戻し、記録の続きを読んだ。
皇帝には、男児であればうれしいと伝えてある。周囲にも同じことを言って回る必要はなかった。
◇ ◇ ◇
12月に入る頃には、皇子は家具につかまりながら数歩ずつ動くようになった。ある朝、麗華が椅子から見ていると、女官が卓のそばで両手を広げ、皇子を呼んだ。
「こちらへおいでください」
皇子は卓につかまり、横へ2歩進んだところで手を離した。女官に向かって足を踏み出したものの、すぐに体が前へ傾き、その腕の中へ倒れ込んだ。
「今、1人で歩きましたね」
麗華が思わず身を乗り出すと、女官もうれしそうに顔を上げた。
「ええ、確かに1歩お歩きになりました。今度は崔美人様のところへ行ってみましょうか」
女官に立たせてもらった皇子が、麗華の方を向いた。麗華は両手を伸ばし、自分のもとへ来るように呼びかけた。
皇子は片足を踏み出し、続いてもう片方の足を前へ出したが、3歩目で座り込んだ。麗華は立とうとしたものの、腹が邪魔をしてすぐには動けない。女官が皇子を抱き上げ、椅子まで連れてきた。
「今度は2歩でございましたね」
「もうすぐ、自分で歩けるようになりますね。弟か妹が生まれる頃には、部屋中を歩き回っているかもしれません」
麗華は皇子を受け取った。抱くたびに重くなったと感じる。その子を支えながら、自分の腹にも目を落とした。
◇ ◇ ◇
その日の午後、皇帝趙佶が麗華の部屋を訪れた。立って迎えようとした麗華に、趙佶は入ってくるなり、座ったままでよいと声をかけた。
「ずいぶん腹が大きくなったな。子もよく動くようになったか」
「はい。先ほどまでは、こちらを押しておりました。動いている時なら、陛下にもお分かりになると思います」
麗華は腹の一部に手を添えたが、趙佶が近くへ来ても、子は動かなかった。
「余が来た途端に眠ってしまったか」
「陛下を避けているのかもしれませんね」
「余の子であろうに。生まれてからも、そうでは困るぞ」
「お顔を見れば、きっと喜びます」
趙佶が笑いながら椅子に座ると、女官に手を引かれた皇子が入ってきた。幼い足で進む姿に、趙佶は顔を上げた。
「もう歩けるようになったのか」
「今日、初めて1人で歩きました。まだ2歩だけでございますが」
趙佶は皇子へ手を差し出し、自分のもとへ来るように呼んだ。皇子は父親の顔を見ると、女官の手を離して足を踏み出した。2歩目で体が傾いたが、趙佶が腕を伸ばして受け止めた。
「来たぞ。余のところへ来たかったのであろう」
「先ほどは女官のところへも歩きましたよ」
「それは申さなくてもよい」
麗華が笑うと、趙佶は皇子を抱き上げて膝に座らせた。そのまま麗華の腹へ目を向けた。
「この子の世話をしながら、腹にも1人おるのだから、以前より大変であろう。続けて身ごもったことを後悔してはおらぬか」
「いいえ。確かに忙しくなりましたが、この子は元気ですし、お腹の子も順調だと聞いております。大変でも、後悔はしておりません」
「また男なら、そなたはどうするつもりだ」
「この子と同じように育てます。生まれてくる子のために、まず私がすることは、それでございましょう」
趙佶は、その答えがおかしかったらしく笑った。
「最初の子を身ごもっていた頃にも、張婕妤に同じようなことを申したそうだな」
「覚えております。あの時も、育てるとお答えいたしました」
「そなたの答えは変わらぬか。余は、今度も男であればよいと思っておる」
「私も、男児であればうれしゅうございます」
皇帝の前では、その望みを隠さなかった。ただ、男児を望む理由までは話さず、趙佶もそれ以上は尋ねなかった。
膝の上の皇子が、趙佶の衣をつかんで引っ張った。趙佶が手を外しても、すぐにまた布を握ろうとする。麗華は、いつも自分がされているのと同じ様子に笑った。
「私の袖だけではなかったようですね。気に入った物は何でもつかむのです」
「余の衣は玩具ではないぞ」
「まだ、その違いは分かりませんよ」
趙佶は皇子の顔を見てから、諦めたように抱き直した。麗華は、その様子を椅子から眺めていた。
以前は1人で皇帝の前に座っていた自分に、今は子がいる。その子が皇帝の膝に抱かれ、腹にはもう1人を宿していた。後宮の者たちから向けられる目が変わってきたのも、この姿を見れば当然だと思えた。
だからといって、これから望むことまで自分から明かす必要はない。今は子を無事に産んで育て、その後も皇帝から呼ばれ続けることだ。そうしていれば、自分の立場がどう変わっていくかは、口にしなくても周囲に伝わるはずだった。




