第13話(前編2)――「再び皇帝の寝所へ」
1115年4月15日、開封府の皇宮は春の盛りを迎えていた。庭では桃や杏が花を付け、木々には若葉が広がっている。回廊を吹き抜ける風も和らぎ、日中は薄い衣でも寒さを感じなくなっていた。
この日、崔麗華は18歳になった。3年前の同じ日、15歳の姿で北宋へ来たことを知る者は、彼女のほかにいない。今は皇帝の美人となり、皇子の母として暮らしていた。
朝、麗華は自室で皇子を膝に座らせていた。生後7か月ほどになり、背を支えれば、しばらく身体を起こしていられるようになっている。
皇子が卓上の竹札へ手を伸ばしたため、麗華は手の届かないところへ移した。
「これは、つかんではいけませんよ」
代わりに袖を握られると、そのままにしておいた。皇子は布の感触を確かめるように指を動かしていた。
「今日は尚服局へお出かけになりますか」
女官に尋ねられ、麗華は皇子の背を支えながら答えた。
「午前だけ参ります。昼の食事までには戻りますので、その間の世話をお願いします」
「承知いたしました。こちらでお預かりいたします」
産後しばらくは、皇子のそばを離れる時間をできるだけ減らしていた。今は元気に育っており、世話を任せられる女官もいる。麗華は自分でしなくてもよいことを任せ、ほかの用事にも時間を使うようになっていた。
子を大切にすることと、朝から晩まで自分だけで世話をすることは同じではない。麗華は皇子を女官に預け、付き添いを伴って尚服局へ向かった。
布倉では春物の衣が運び込まれ、冬物との入れ替えが進んでいた。劉彩雲が麗華を迎え、香の記録を用意した。
「最近、陛下がお使いになる香を確かめたいのです。数日分を見せてください」
差し出された竹札には、龍脳や梅花香、白檀などの名が記されていた。冬に比べて白檀を使う日が減り、軽い香が増えている。
「暖かくなり、お好みも変わってきたのでしょうか」
「庭へお出になる日も増えております。お過ごしになる場所も、冬とは違ってまいりました」
彩雲の話を聞いていると、孫玉英が香倉から小箱を運んできた。
「新しい香もございます。お試しになりますか」
「陛下から、別の香を使いたいというご希望がございましたか」
「いえ、特には伺っておりません。ただ、新しい物をお出しすれば、お喜びになるかと思いまして」
「それなら、今すぐ替えなくてもよいでしょう。今の香に飽きておられると分かってからでも、遅くはありません」
玉英は笑みを浮かべた。
「以前は、陛下へお見せする香を、随分熱心に考えておられましたね。今はもう、お好みが分かるようになられたのですね」
「以前は、何をお好みになるかも知りませんでしたから。今も少し分かるようになっただけで、すべて承知したつもりになるのは危ないと思います」
「その慎重さは、以前と変わりませんね」
彩雲が言うと、麗華は竹札を戻した。
「変える必要がございませんので」
美人となった今は、以前ほど頻繁に香倉へ入る必要はなかった。それでも、皇帝が何を使っているかは確かめていた。
皇帝に近づくためだけに引き受けた仕事なら、寵愛を得た時点で手放してもよかった。麗華はそうせず、求められた時に応じられるよう、記録に目を通し続けていた。
◇ ◇ ◇
午後、皇帝から使いが来た。麗華は庭に面した書画の殿へ案内された。
趙佶は窓際の卓で牡丹を描いていた。庭にも同じ色の花が咲き始めている。麗華が礼をすると筆を置き、向かいの椅子を勧めた。
「皇子は元気か。この前は、座らせても倒れると申しておったな」
「支えがあれば、座っていられるようになりました。少しずつですが、できることが増えております」
「余も見ておかねばならぬな」
「お時間がございましたら、ぜひお越しくださいませ。皇子も喜ぶと思います」
「まだ、余が父だとは分からぬであろう」
「それでも、お顔を覚えることはできるかもしれません」
趙佶は笑って筆を取り、しばらく牡丹を描いた。麗華がその手元を見ていると、今度は彼女自身の体調を尋ねた。
「そなたも、身体が戻ったようだな。医官には診せておるか」
「はい。普通に暮らしてよいと言われております。以前のように歩いても、疲れなくなりました」
「それなら、そろそろ余のもとへ泊まってもよいであろう。皇子の母になってから、夜は来なくなったな」
麗華は皇帝へ顔を向けた。出産後は身体を休める必要があり、その後も夜は皇子のそばで過ごすことが多かった。
「産後は休ませていただいておりました。でも、今は体調も戻っております」
「余に会うより、皇子といる方がよいのではないか」
「皇子とは毎日会えます。陛下とは、お呼びいただかなければ、お会いできない日もございます」
「それで不満はないのか」
「会えないままでよいとは思っておりません。お呼びがあれば、こうして参っております」
趙佶は筆を止めた。
「余が申しておるのは、寝所のことだ」
「そちらも、お召しになれば参ります。私が勝手に入るわけにはまいりませんから」
「余に言わせるつもりなのだな」
麗華は皇帝の顔を見て笑った。
「ですから、私だけが悪いわけではございません」
「では、余が悪いと申すか」
「そこまでは申し上げておりません」
趙佶も笑った。麗華は、皇帝とのこうしたやり取りを、久しぶりに楽しんでいることに気付いた。
出産によって暮らしの中心は変わったが、趙佶との関係まで失われたわけではない。今の立場を得られたのも、皇帝から繰り返し求められてきたからだった。その関係を自分から遠ざける理由はなかった。
趙佶は再び絵に筆を入れた。
「もう1人、皇子を欲しいと思うか」
皇帝の方から出た言葉に、麗華は少し驚いた。
「授かるのでございましたら、嬉しゅうございます」
「次が女児であってもか」
「もちろんでございます。男児であれば、なお嬉しく思います。今の皇子が丈夫に育っておりますので、弟ができれば心強いでしょう」
麗華は、それ以上のことは話さなかった。男児をもう1人産めば、自分の立場も強まる。その計算を、皇帝に聞かせる必要はなかった。
「そなたも欲が出たな。男児なら、なおよいと申すか」
「女児を大切にしないという意味ではございません。子をもう1人欲しいと願うことが、それほど欲深いのでしょうか」
「分かっておる。だが、次も男であれば面白い」
「陛下がお決めになれるのでしたら、お願いしたいところでございます」
「余にも、それは決められぬ。そもそも、まず子ができねば、生まれもせぬぞ」
趙佶が麗華を見た。麗華もその言葉の意味を理解したが、笑みを返すだけにとどめた。
◇ ◇ ◇
夕刻になっても麗華は帰されず、そのまま趙佶の夕餉に招かれた。
卓には蒸した魚、鶏肉と筍の煮物、青菜、豆腐の汁、白い飯が並んだ。麗華が箸を進めていると、趙佶がその様子を見た。
「以前より食べるようになったな。前は、もう少し少なかったであろう」
「皇子を産んでから、よくお腹が空くようになりました」
「その調子では、太るぞ」
「今も、太って見えますか」
「見たところは変わらぬ」
「それなら、頂きます」
麗華が筍を口へ運ぶと、趙佶は笑った。
「普通は、そこで少し控えるものではないか。美しい女でも、食欲には勝てぬのだな」
「お腹が空いておりますので。食べずにいれば、空いたままでございます」
「その通りではあるが、身も蓋もない答えだ」
「陛下がお尋ねになったので、正直に申し上げました」
食事を終える頃には窓の外が薄暗くなり、庭から虫の声が聞こえ始めていた。
趙佶は茶碗を置き、麗華へ尋ねた。
「今夜も、皇子のところへ帰るのか」
「夜の世話をする女官がおります。陛下が残れと仰せになるのでしたら、こちらにおります」
「ずいぶん簡単に申すな」
「難しくお答えする必要がございますか」
趙佶は笑った。
「では、今夜は残れ」
「承知いたしました。皇子の世話を頼んでまいりますので、一度部屋へ戻ることをお許しくださいませ」
許しを得ると、麗華は自室へ向かった。
◇ ◇ ◇
皇子は寝台の上で、女官に着替えさせてもらっていた。麗華が入ると、すぐに顔を向けた。
「今夜は陛下のもとに残ります。朝まで戻らないつもりですので、皇子の世話をお願いします」
「承知いたしました。こちらでお預かりいたします」
「熱が出るなど、いつもと違うことがあれば、すぐに知らせてください」
女官へ頼んでから皇子を抱き上げると、子は母の顔を見て、衣の襟を握った。
「朝には戻りますよ」
言葉の意味は、まだ分からない。麗華はしばらく抱いた後、皇子を女官へ返した。
母となっても、皇帝の寵愛を受ける女であることに変わりはなかった。自分が寝所へ召される間も、皇子には世話をする者が付いている。子育てと皇帝との関係の、どちらかを捨てる必要はなかった。
麗華は衣を整えて趙佶のもとへ戻り、その夜、久しぶりに皇帝の寝所で過ごした。
◇ ◇ ◇
それから、趙佶が麗華を寝所へ召す夜は再び増えていった。
皇帝には政務があり、ほかの后妃もいるため、毎晩ではなかった。それでも、書画を見せるために呼ばれた日や、夕餉をともにした日には、そのまま残ることが多くなった。
翌朝には自分の部屋へ戻って皇子を抱き、昼には香の記録を読んだ。必要があれば尚服局へ出向き、皇帝から呼ばれれば、そのそばへ行った。
母となって用事は増えたが、どれかを手放すつもりはなかった。皇子を丈夫に育てながら寵愛を保ち、上の位へ進む機会を待つ。また子を授かれば、その子も無事に産みたかった。
その先に何を望んでいるのかは、誰にも話さなかった。
5月のある朝、皇帝の寝所から戻ると、皇子はすでに起きていた。麗華の姿を見るなり両腕を伸ばしたため、抱き上げて膝に座らせた。
「起きて待っていたのですか」
皇子は、すぐに袖を握った。麗華がその手元を見ると、女官が笑った。
「崔美人様のお衣がお好きなのでございましょう」
「そのうち、破られてしまいそうですね」
背を支えてやると、皇子は以前より長く身体を起こしていられた。麗華は傾きかけた腰を支え直しながら、その顔をのぞいた。
「少し上手になりましたね」
「もうすぐ、お1人で座られるかもしれません」
「楽しみです。そうなれば、また目が離せなくなりますね」
皇子は順調に育ち、趙佶と夜を過ごす暮らしも戻ってきた。次に何が起きるかは分からないが、今はできることを続けていけばよかった。
やがて、自分の身体にも新しい変化が現れるかもしれない。麗華はその可能性を胸に置いたまま、誰にも口にせず、皇子の背を支えていた。




