第13話(前編1)――「皇太子が決まる」
1115年2月、開封府の皇宮には、まだ冬の冷気が残っていた。夜の間に冷えた瓦には薄い霜が付き、庭の池から吹く風も冷たい。それでも昼の日差しは強まり、梅の枝には花が増えていた。
崔麗華は窓際に座り、皇子を膝の上で支えていた。前年9月に生まれた子は腕や脚に肉が付き、抱き上げた時の重さも増している。目の前の物に手を伸ばすようになり、この朝も麗華の胸元に下がる衣の紐をつかんだ。
「それは引っ張ってはいけませんよ」
指を外してやると、今度は袖を握った。そばにいた女官が、その手元を見て笑った。
「お力が強くなられましたね。そろそろ、お座りになるかもしれません」
「毎日つかまれておりますから、力が付いたことはよく分かります。少し座らせてみましょうか」
麗華は腰と背を支え、皇子の身体を起こした。しばらくは座っていたが、支える手を緩めると右へ傾いたため、すぐに抱き直した。
「1人で座るには、まだ早いようですね」
「もう少しでございましょう。日に日に丈夫になっておられます」
出産直後は、泣き声や乳の飲み方、熱の有無が気になって仕方がなかった。今も体調の記録は続けているが、手足を盛んに動かす姿を見ると、少しずつ安心できるようになっていた。
戸の外から女官が声をかけ、麗華の許しを得て入ってきた。
「皇太子冊立について、後宮にも知らせがございました。定王趙桓殿下を、正式に皇太子となさるとのことでございます」
麗華は皇子を抱いたまま顔を上げた。
「冊立の儀の日取りも、決まったのでございますか」
「詳しいことは、追って知らせがあるそうです」
「分かりました。祝いの品などについて決まりましたら、私にも知らせてください」
趙桓は皇帝の長男で、麗華が後宮へ入る以前から確かな立場にあった。自分の皇子とは年齢も違い、今さら驚く知らせではなかった。
女官は一礼したものの、その場にとどまっていた。麗華が用件はまだあるのかと尋ねると、腕の中の皇子へ目を向けた。
「崔美人様にも皇子様がおられますので、今回のことを、どのようにお考えなのかと思いまして……」
皇子を持つ女なら、ほかの皇子が皇太子になることを複雑に受け止めると思ったのだろう。麗華は子の頬に触れながら答えた。
「この子は、まだ生まれて5か月ほどです。自分で座ることもできないのですから、皇太子様と比べるような年齢ではございません」
「立ち入ったことを申し、失礼いたしました」
「謝る必要はありません。ただ、私の部屋でも、冊立はお祝いとして扱ってください。この子も皇太子様も陛下の御子です。私だけが祝いを渋る方がおかしいでしょう」
女官は承知して退出した。
麗華が視線を戻すと、皇子は何も知らずに母の指へ手を伸ばしていた。
「あなたには、まだ関係のない話ですね」
握られた指をそのままにして、麗華は子の顔を見た。
後宮の頂点へ進みたいという望みは、皇宮へ入る前から変わっていない。しかし、その望みと、幼い息子を皇太子へ押し上げることは別だった。
乳を飲み、眠り、人に抱かれて過ごす赤子を皇太子と比べ、自分から争いを始めても、得るものより失うものの方が多い。今、そのようなことをするつもりはなかった。
自分の本当の望みも、後宮で口にする必要はない。誰にも明かさずに、胸に収めておくつもりだった。
◇ ◇ ◇
冊立の知らせが広まると、後宮でもその話題が増えた。麗華の前で露骨に皇位継承を論じる者はいなかったが、どの宮が祝いを用意したか、どれほどの品を贈るのかといった話は伝わってきた。
麗華は支度に必要なことだけを聞き、ほかの者の思惑を論じる話には加わらなかった。
数日後、張婕妤に呼ばれた時にも、皇太子の話が出た。
部屋では炭が焚かれ、卓に温かい茶と菓子が置かれていた。麗華が礼をすると、張婕妤は椅子を勧め、まず皇子の様子を尋ねた。
「元気に育っております。最近は、手の届く物を何でもつかもうとなさるので、前より目を離せなくなりました」
「丈夫になるのはよいことですが、母親は大変ですね」
張婕妤は茶を飲んでから、話題を変えた。
「後宮では、皇太子様のお話ばかりです。そなたにも皇子がいるのに、落ち着いていますね」
「私が騒いでも、決まったことは変わりません。それなら、祝いの支度を進める方がよいと思っております」
「そうは言っても、複雑な気持ちにはならないのですか。そなたの皇子も、いずれ大きくなります」
麗華は茶碗に手を伸ばした。
「まだ乳飲み子でございます。大きくなる頃、宮中がどうなっているかも分かりません。今から遠い先のことばかり考えても、仕方がないと思います」
「意外に、欲がないのですね」
「欲がないとは申し上げておりません」
麗華が笑うと、張婕妤は軽い調子で尋ねた。
「では、何を望んでいるのです」
麗華はすぐには答えなかった。問いかけに応じて、本当の望みを明かす必要はない。
「今は、皇子が丈夫に育ってくれれば十分でございます。まだ5か月ほどですから、気にかかることも多いのです」
「今は、ということですね。その先については、お話しにならない」
「分からないことを、分かっているようには申し上げられません」
張婕妤は麗華の顔を見てから笑った。
「以前から、そこは変わりませんね」
それ以上は尋ねられず、麗華も余計なことは話さなかった。
張婕妤の問いが単なる興味によるものなのか、皇子を持つ自分の反応を確かめるためなのかは分からない。どちらであっても、自分の目的を教える理由にはならなかった。
◇ ◇ ◇
冊立の日、皇宮は朝から人の往来が多かった。官員や宦官の足音が回廊に響き、普段は人の少ない通路も慌ただしかった。
麗華は儀式へ出る立場ではなく、自室で皇子と過ごした。昼を過ぎた頃、女官が無事に冊立を終えたと知らせに来た。
「私からの祝いとは別に、この子の名でも品を贈れますか」
「はい。お贈りになれます」
「では、そのように手配してください。品は決まりに外れない物を選び、私からの分も、ほかの美人方に比べて不自然に多くも少なくもならないようにお願いします」
女官が承知して下がると、麗華は皇子を抱き上げた。
目立つ品を贈り、皇太子へ特別に取り入ろうとしているように見せるつもりはなかった。かといって、皇子を持つ母だから祝いを惜しんだとも思われたくない。立場に応じて祝えば、それで十分だった。
「今日から、お兄様が皇太子様です」
膝に座らせて話しかけると、皇子は麗華の声に反応した。意味が分かるはずもなく、顔を向けたまま身体を前へ傾けた。
「あなたは、まず自分で座れるようにならなければいけませんね」
麗華が慌てて支えると、皇子は楽しそうに声を上げた。母が遊んでくれたとでも思ったのか、抱き直してからも機嫌がよかった。
皇太子が決まったことは受け入れたが、息子の将来まで諦めたわけではなかった。今から決める必要がないと考えているだけだった。
当面は、自分自身の立場を強めることを考えていた。美人より上には、まだいくつもの位があり、そこへ進むには皇帝の寵愛を失わないことが大切だった。皇子も1人より2人、さらに多くなれば、自分を支える力が増すかもしれない。
そうした考えは、誰かに聞かせずとも胸の内で育てていけた。
◇ ◇ ◇
数日後、麗華は皇帝趙佶のもとへ呼ばれた。
趙佶は書画の殿で、新しい絵を見ていた。麗華が礼をすると顔を上げ、椅子を勧めた。卓には、梅と鳥を描いた紙が置かれていた。
「皇子は元気か。そろそろ座る頃であろう」
「元気でございます。支えてやれば座りますが、1人ではまだ倒れてしまいます」
趙佶は絵へ目を戻しながら、後宮の様子を尋ねた。
「皇太子のことで、後宮も賑やかであったそうだな。そなたも祝いを出したと聞いた」
「皆様、支度をなさっておりました。私からも、皇子の名でも品を贈らせていただきました」
「赤子からも祝うたのか」
「陛下の御子として、兄君である皇太子様をお祝いしても、おかしくはないと思いました」
趙佶は麗華を見た。
「自分にも皇子がいるのに、ほかに思うところはないのか。まだ赤子でも、いずれ大きくなる。その時のことも考えるであろう」
皇子を産んだ后妃として、気持ちを尋ねられているのだろうと麗華は受け止めた。自分の本心を見抜かれたと考える理由はなかったが、何をどこまで答えるかは選ばなければならなかった。
「考えることはございます。まずは丈夫に育ち、学ぶ年になれば、よく学んでほしいと思っております。その先については、まだ分かりません」
「皇太子の座を望みはしないのか」
麗華は、皇帝の顔を見て答えた。
「それは陛下がお決めになることでございます。私が今から何か申し上げれば、皇太子様とこの子を争わせたいように聞こえてしまいます」
「そのつもりはないと申すか」
「今はございません。まだ5か月ほどの子ですから、何年も先のことまで決めることはできません」
趙佶はしばらく麗華を見ていた。
「そなたは先を欲しがるくせに、先の話になると慎重だな」
「先まで進みたいからこそ、今する必要のないことは、したくございません」
「なるほど。そういう考えか」
皇帝は、それ以上皇子の将来を尋ねなかった。
以前にも、皇后になりたいのかと、冗談とも本気ともつかない調子で問われたことがあった。その時も麗華は答えず、今も最終的な望みを明かすつもりはなかった。
相手が皇帝であっても、何もかも言葉にする必要はない。望みを口にするより、その場所へ進むことが大事だった。
趙佶は卓上の絵を麗華へ向けた。
「それより、こちらを見よ。どう思う」
麗華は紙に描かれた梅と鳥へ目を移した。
「梅に鳥を配した絵でございますね」
「何が描かれているかは、余にも分かる」
麗華は思わず笑った。皇太子の話はそこで終わり、趙佶の関心も絵へ戻っていた。
麗華も、それ以上は先ほどの話に触れず、皇帝とともに卓上の絵を見た。




