第12話(後編2)――「王様を待つ夜」
(1119年初夏、北宋・開封府・平西王府)
沈玉英が平西王府へ入って、数日が過ぎた。
広い部屋と女中が用意され、衣や装身具にも不足はなかった。王妃の呉月娘から王府の決まりを教わり、曹静蘭や李瓶児、ほかの側室たちとも顔を合わせた。
実際に暮らし始めると、妻妾の多さを改めて感じた。自分を含めて12人もいるのだから、達也が自分の部屋を訪れるのは、何日かに1度になると思っていた。
最初の夜に来た時は、新しい側室を迎えたのだから当然だと受け止めた。しかし、翌晩も、その次の晩も達也は訪れた。
4日目の夕刻には、玉英の方が落ち着かなくなっていた。
「王様は今夜、どちらでお過ごしになるのか、聞いておりますか」
「いえ、伺っておりません」
玉英は、それ以上尋ねなかった。ただ、夕餉を終えた後も、何度か戸の方へ目を向けていた。
やがて廊下に足音が聞こえ、女中が戸を開けた。
「王様がお越しでございます」
倉達也が入ってきた時、玉英は自分でも気付かないうちに笑っていた。
「ずいぶん嬉しそうだな。俺を待っていたのか」
「そのように見えましたか。気のせいでございます」
「それなら、今日は帰ろうかな」
「来たばかりで、お帰りになるのでございますか」
思わず引き留めると、達也が笑った。玉英はからかわれたと気付き、頬を赤らめた。
「王様は意地が悪うございます」
「今さらだろう」
達也は、いつものように玉英の隣へ座った。
◇ ◇ ◇
亡夫との暮らしが不幸だったわけではない。しかし、夫婦になってしばらくすると、夫が玉英の寝所を訪れる日は次第に少なくなった。
同じ家に住み、食事をし、必要なことを話す。夫婦になれば暮らしはそうして落ち着くもので、毎日のように求められるわけではないと思っていた。
達也は、それまで玉英が知っていた夫とは違った。時間があれば部屋に来て、昼間に顔を合わせても、今夜も行くと平然と言った。
「昨日もお越しになったではございませんか。ほかの奥方のところへは、行かれなくてよいのですか」
「9人は身重だからな。恵蓮と一丈青のところにも行っているぞ」
玉英は言葉に詰まった。自分を訪れるだけでも十分だと思っていたのに、ほかの2人とも夜を過ごしているという。
「それほどお忙しくて、お身体は大丈夫なのでございますか」
「俺は平気だ。心配なのは、お前の方ではないのか」
図星だった。玉英が目をそらすと、達也は笑った。
「疲れているなら、今日は早く寝ようか」
「それは嫌でございます。ただ、王様がお元気すぎると申し上げているのです」
「俺はまだ22歳だぞ。お前だって23歳だろう」
「年が近いからといって、同じようにはまいりません。男と女では違います」
玉英は真面目に答えたが、達也の顔を見ているうちに、最後には自分も笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
数日後、玉英は宋恵蓮と一丈青と茶を飲んでいた。
ほかの妻妾は身重で、今、王府で達也と夜を過ごすのは、この3人が中心になっていた。
「玉英、少し疲れていませんか」
恵蓮に尋ねられ、玉英は茶碗を置いた。
「顔に出ておりますか」
「私たちにも覚えがありますから、分かります」
一丈青も笑ってうなずいた。玉英はためらった後、声を落とした。
「王様は、以前からあのようにお元気なのでございますか」
「ええ。いつも同じとは申しませんが、お元気な時は大変です」
恵蓮に続いて、一丈青が答えた。
「西夏へ行かれる前は、ほかの方もお相手をしていましたから、私たちにも休む日がありました。今は9人が身重ですので、どうしても残る者のところへいらっしゃいます」
「これほど大勢の妻妾がおられる理由が、少し分かった気がいたします」
玉英が言うと、恵蓮は笑い出した。
「それだけが理由ではございませんよ」
「もちろん、分かっております」
「王様は、美人を見ると欲しくなる方ですから」
一丈青の率直な言い方に、玉英も笑った。
「それは否定できませんね」
「王様がお越しになるのが、嫌になったわけではないのでしょう」
恵蓮の問いには、玉英はすぐに首を振った。
「嫌ではございません。ただ、こんなに毎日いらっしゃるとは思っていなかったのです」
「それでも、急にお越しにならなくなれば、寂しいのではありませんか」
一丈青に言われ、玉英は返事に詰まった。
恵蓮と一丈青が顔を見合わせた。その表情を見て、玉英は何を言われるのか察した。
「もう、王様をお待ちになっているのですね」
「待っているというほどでは……」
言いかけて、玉英はやめた。昨夜も一昨日も、廊下の足音が気になっていた。今夜は誰の部屋へ向かうのだろうと、考えるようになっている。
「少しは、お待ちしております」
玉英が認めると、一丈青は笑った。
「王様を好きになった者は、初めのうちは皆、そのように申します」
玉英は茶碗へ目を落とした。もう、否定する気にはならなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、達也が訪れると、玉英はいつもより早く戸口へ迎えに出た。
「今日は早いな。俺の足音が聞こえたのか」
「たまたま、戸の近くにいただけでございます」
「そう言いながら、待っていたのではないか」
「王様は、同じことばかりお尋ねになりますね」
「お前の口から聞きたいんだ」
玉英は恥ずかしそうに笑った。
「お待ちしておりました。これでよろしいですか」
「初めから、そう言えばよいだろう」
「得意になられるので、言いたくなかったのです」
達也は楽しそうに笑った。玉英も、その顔を見ると嬉しかった。王府へ入ったばかりの頃より、ずっと身近な相手に感じられた。
部屋に入ってから、玉英は気になっていたことを尋ねた。
「なぜ、毎日のように私のところへ来てくださるのでございますか」
「新しく迎えた側室だからな」
玉英の顔から笑みが消えた。
「新しいから、それだけでございますか」
「美人だし、気に入っているからに決まっているだろう」
「初めから、気に入っているとおっしゃってくださればよいのです」
「どれも本当のことだぞ」
「本当なら何をおっしゃってもよい、というわけではございません。王様は、女心をもう少しお考えくださいませ」
「12人も妻妾がいるのに、まだ足りないのか」
「人数と理解は別でございます」
達也が難しそうな顔をすると、玉英は笑った。
「少しは勉強してくださいませ」
「それなら、お前が教えてくれ」
「教えすぎれば、ほかの女を口説く時にお使いになるでしょう。それは嫌でございます」
達也は声を上げて笑い、玉英もつられて笑った。
◇ ◇ ◇
王府の暮らしに慣れるにつれ、玉英の役目も増えていった。
父の沈忠明や兄の沈文雄につながる武官だけでなく、その妻や娘、姉妹についても玉英は知っていた。軍務の話をしているだけでは分からない家同士の事情を、達也へ伝えた。
「先日お会いになった李将軍ですが、張都頭と親しいように振る舞っていても、少しお気を付けください」
「何か、折り合いの悪いことがあるのか」
「娘の婚姻を巡って揉めたそうで、奥方同士が大変仲の悪い間柄なのです」
「また、家同士の争いか。面倒なことだな」
「以前も、同じことをおっしゃいましたね」
玉英は笑ったが、すぐに話を続けた。
「事情を知らずに同じ場所で重く用いれば、後で王様がお困りになるかもしれません。本人同士の付き合いだけでは、分からないこともございます」
「だから、お前の話を聞けて助かっている」
「便利な側室でございましょう」
「ああ。美人で、便利だ」
「そこは少し、言い方をお考えくださいませ」
「では、美人で頭がよく、頼りになる」
「それなら結構でございます」
玉英は呆れたように言いながらも、嬉しそうだった。
達也は、玉英を迎えた判断に満足していた。顔が好みというだけでなく、話していて退屈せず、軍人社会のこともよく知っている。平西王という地位におびえて、何でも同意する女でもなかった。
自分にとって都合のよい相手だと考えていたが、その気持ちを本人に隠すつもりもなかった。
◇ ◇ ◇
ある朝、玉英は月娘の部屋へ呼ばれた。
「何かございましたか」
「少し話をしたかっただけです。どうぞ、お座りなさい」
月娘は椅子を勧め、王府の暮らしに慣れたか、ほかの妻妾とはうまく付き合えているかを尋ねた。玉英は、皆によくしてもらっていると答えた。
「それは何よりです。王様とも、仲よく過ごしているようですね」
玉英が返事に迷うと、月娘は笑った。
「毎日のように、お部屋へいらしているのでしょう。王府の中ですから、そのくらいは分かります」
「申し訳ございません。私ばかり……」
「謝ることではありませんよ。私も静蘭も瓶児も身重で、ほかの皆も同じです。今、王様のお相手をするのは、玉英と恵蓮、一丈青が中心でしょう」
月娘が腹に手を置くと、玉英は少し声を落とした。
「そのことで、王様に大勢の妻妾がおられる理由が、ようやく分かってまいりました。恵蓮たちが休みたいと申していた意味も分かります」
月娘は吹き出した。
「私たちも、以前に経験しておりますから」
「王妃様までお笑いになるとは思いませんでした」
「もっとも、妻妾が多い理由は、それだけではありませんよ」
「恵蓮にも、同じことを言われました」
「王様は女好きです。美人を見れば目で追い、気に入れば口説きます。それはもう、お分かりでしょう」
「はい。そこは、よく分かっております」
月娘は玉英の顔を見た。
「それでも、嫌にはなりませんか」
玉英は少し考えてから答えた。
「嫌ではございません。むしろ、毎日のように来ていただけることが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」
月娘は口を挟まずに聞いていた。
「前の夫とは、年月がたつにつれて寝所を共にする日が減りました。その頃は、夫婦とはそういうものだと思っておりました。寂しいかどうかも、あまり考えなかったのです」
「今は、違うのでございますね」
「ええ。夕刻になると、今日は来てくださるだろうかと考えてしまいます」
玉英は恥ずかしそうに笑った。
「それは、王様ご自身を気に入ったからでしょう」
「やはり、そうなのでしょうね。ただ、御本人にはあまりお話しにならないでくださいませ。得意になられると困ります」
「もう、お気付きだと思いますよ。王様は、そういうことには妙に勘がよいのです」
玉英は困った顔をした後、月娘と一緒に笑った。
◇ ◇ ◇
その夜も、達也は玉英の部屋を訪れた。
玉英は月娘との話を思い出し、恵蓮と一丈青のことを尋ねた。
「今日は、ほかのお2人のところへ行かれなくてよろしいのでございますか」
「昨日は恵蓮で、一昨日は一丈青だった。今夜は、お前と過ごしたいと思って来たんだ」
「それなら、よろしゅうございますけれど」
玉英が笑みを浮かべると、達也はその顔を見た。
「俺が来て、嬉しいのだろう」
「いつもと変わりません」
「顔に出ているぞ。隠すのは無理だな」
玉英は観念した。
「嬉しゅうございます。ただ、その得意そうなお顔を見ると、言わなければよかったと思います」
「俺も、お前のところへ来るのが好きなんだ。そう言われれば嬉しいに決まっている」
玉英は達也を見た。
「本当でございますか。大勢の女の方がおられるので、どこまで本気なのか、分からなくなる時がございます」
「妻妾が多いことと、お前を好きなことは別だ。ほかの者も、気に入っているから一緒にいる」
「皆を好きだとおっしゃるのですか。欲張りな方ですね」
「それは、初めから知っていただろう」
「はい。存じておりました」
玉英は笑った。
達也は、金も兵も、女も欲しがる。求めるものが多く、それを遠慮して諦める男ではない。玉英は、その一面を知ったうえで側室になっていた。
◇ ◇ ◇
やがて、恵蓮、一丈青、玉英の間には、仲間意識が生まれ始めた。達也が誰の部屋を訪れるかを争うより、互いに休む日を確保しようとすることもあった。
「今夜は、玉英のところへお願いできればと思っております」
恵蓮が言うと、玉英は困った顔をした。
「昨日も私でございましたよ。一丈青はいかがですか」
「私も一昨日、お相手をしております」
3人が顔を見合わせたところへ、達也が来た。
「何を相談しているんだ」
「今夜、王様がどちらでお過ごしになるかを相談しておりました」
恵蓮が答えると、達也は3人を見回した。
「本人を抜きに決めるなよ」
「では、今夜はどちらへいらっしゃるおつもりですか」
「玉英のところへ行こうと思っていた」
「また私でございますか」
玉英が言うと、達也は笑った。
「疲れていて嫌なら、やめておくぞ」
「嫌とは申しておりません。そのように聞かれると、返事に困るのです」
恵蓮と一丈青は顔を見合わせて笑った。
「玉英も、すっかり王様に慣れましたね」
「私も、そう思います」
玉英はため息をついたが、顔は笑っていた。達也は3人の様子を見て、満足そうに言った。
「やはり、女は多い方がよいな」
「王様」
3人の声が重なった。
「そういうことを、私たちの前で堂々とおっしゃらないでくださいませ」
「本当のことを言っただけだぞ」
「そこがいけないのでございます」
達也は笑った。3人も呆れながら、その顔を見ていた。
◇ ◇ ◇
王府の外では、沈忠明や沈文雄、林文瑞、呉鎧を通じた付き合いが広がっていた。
達也は紹介された武官たちと食事をし、馬や軍の話を聞いた。その後で玉英に家族関係を尋ねると、男同士の会話だけでは分からなかった事情が見えてきた。
表では親しく振る舞っていても、家同士では争っている者がいた。逆に、役職や所属が離れていても、婚姻によって強く結ばれた家もあった。
「軍は、兵や役職だけを見ていても分からないものだな」
「武官にも家があり、その家には親族との付き合いがございますから。御本人だけで決められないこともあるのです」
「お前を迎えてよかった。こうして話を聞けるだけでも助かる」
「また、役に立つからでございますか」
「それだけではない。毎晩会いたくなるほど美人だし、話すのも楽しい」
玉英は笑った。
「そのお言葉を、先におっしゃっていただきたかったのです。女として気に入っていると言ってから、仕事のことを褒めてくださいませ」
「言う順番まで考えなければならないのか」
「12人も妻妾がおられるのですから、そのくらいはお考えになってください」
達也は言い返せず、苦笑した。
◇ ◇ ◇
王府へ入った当初、玉英は、沈家と平西王を結ぶための婚姻だと考えていた。自分が側室になれば実家にも利益があり、達也には禁軍との縁ができる。それでよいと思っていた。
だが、暮らしてみると、その考えだけでは自分の気持ちを説明できなくなった。
夕刻になれば達也の予定が気になり、廊下に足音がすれば耳を澄ませた。別の部屋へ向かったと知ると残念に思い、自分の戸が開けば嬉しかった。
達也は忙しくても顔を出し、軍の話を聞き、冗談を言った。夜には、玉英を女として求めた。大勢の妻妾がいながら、新しく迎えた自分を放っておかないことが、玉英には嬉しかった。
もちろん、恵蓮と一丈青の苦労も分かった。身重ではない3人で達也の相手を続けるのは楽ではなく、休みたい日もある。それでも、訪れる回数が減れば寂しくなるだろうと思っていた。
玉英は、その気持ちを否定しなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ある夜、達也が部屋を出ようとすると、玉英が呼び止めた。
「明日は、どちらへいらっしゃるのでございますか」
「まだ決めていない。明日も来てほしいのか」
以前なら、ただ予定を尋ねただけだと答えただろう。玉英は少し迷った後、素直にうなずいた。
「はい。来ていただきとうございます」
達也は笑った。
「分かった。明日も来よう」
「恵蓮と一丈青のところにも、行ってあげてくださいませ」
「分かっている」
「でも、明日は私のところへいらしてください」
「お前も欲張りだな」
玉英は達也を見た。
「王様にだけは、言われたくございません」
達也は声を上げて笑った。
「その通りだな」
戸を開ける前に振り返り、もう一度告げた。
「明日も来る」
「お待ちしております」
今度は、玉英も恥ずかしがらずに答えた。
達也が自分1人で満足する男ではないことは、もう分かっている。それでも、自分を求めて来てほしかった。家同士の利益を考えて受け入れた婚姻に、夫を待つ気持ちが加わっていた。
玉英は達也を見送り、明日の夜を楽しみにしながら戸を閉めた。




