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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第12話(後編2)――「王様を待つ夜」

 (1119年初夏、北宋・開封府(カイフォンフ)・平西王府)


 沈玉英(シェン・ユーイン)が平西王府へ入って、数日が過ぎた。


 広い部屋と女中が用意され、衣や装身具にも不足はなかった。王妃の呉月娘(ウー・ユエニャン)から王府の決まりを教わり、曹静蘭(ツァオ・ジンラン)や李瓶児(リー・ピンアル)、ほかの側室たちとも顔を合わせた。


 実際に暮らし始めると、妻妾の多さを改めて感じた。自分を含めて12人もいるのだから、達也が自分の部屋を訪れるのは、何日かに1度になると思っていた。


 最初の夜に来た時は、新しい側室を迎えたのだから当然だと受け止めた。しかし、翌晩も、その次の晩も達也は訪れた。


 4日目の夕刻には、玉英の方が落ち着かなくなっていた。


「王様は今夜、どちらでお過ごしになるのか、聞いておりますか」


「いえ、伺っておりません」


 玉英は、それ以上尋ねなかった。ただ、夕餉を終えた後も、何度か戸の方へ目を向けていた。


 やがて廊下に足音が聞こえ、女中が戸を開けた。


「王様がお越しでございます」


 倉達也(ツァン・ダーイエ)が入ってきた時、玉英は自分でも気付かないうちに笑っていた。


「ずいぶん嬉しそうだな。俺を待っていたのか」


「そのように見えましたか。気のせいでございます」


「それなら、今日は帰ろうかな」


「来たばかりで、お帰りになるのでございますか」


 思わず引き留めると、達也が笑った。玉英はからかわれたと気付き、頬を赤らめた。


「王様は意地が悪うございます」


「今さらだろう」


 達也は、いつものように玉英の隣へ座った。


 ◇ ◇ ◇


 亡夫との暮らしが不幸だったわけではない。しかし、夫婦になってしばらくすると、夫が玉英の寝所を訪れる日は次第に少なくなった。


 同じ家に住み、食事をし、必要なことを話す。夫婦になれば暮らしはそうして落ち着くもので、毎日のように求められるわけではないと思っていた。


 達也は、それまで玉英が知っていた夫とは違った。時間があれば部屋に来て、昼間に顔を合わせても、今夜も行くと平然と言った。


「昨日もお越しになったではございませんか。ほかの奥方のところへは、行かれなくてよいのですか」


「9人は身重だからな。恵蓮と一丈青のところにも行っているぞ」


 玉英は言葉に詰まった。自分を訪れるだけでも十分だと思っていたのに、ほかの2人とも夜を過ごしているという。


「それほどお忙しくて、お身体は大丈夫なのでございますか」


「俺は平気だ。心配なのは、お前の方ではないのか」


 図星だった。玉英が目をそらすと、達也は笑った。


「疲れているなら、今日は早く寝ようか」


「それは嫌でございます。ただ、王様がお元気すぎると申し上げているのです」


「俺はまだ22歳だぞ。お前だって23歳だろう」


「年が近いからといって、同じようにはまいりません。男と女では違います」


 玉英は真面目に答えたが、達也の顔を見ているうちに、最後には自分も笑ってしまった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、玉英は宋恵蓮(ソン・フイリエン)と一丈青と茶を飲んでいた。


 ほかの妻妾は身重で、今、王府で達也と夜を過ごすのは、この3人が中心になっていた。


「玉英、少し疲れていませんか」


 恵蓮に尋ねられ、玉英は茶碗を置いた。


「顔に出ておりますか」


「私たちにも覚えがありますから、分かります」


 一丈青も笑ってうなずいた。玉英はためらった後、声を落とした。


「王様は、以前からあのようにお元気なのでございますか」


「ええ。いつも同じとは申しませんが、お元気な時は大変です」


 恵蓮に続いて、一丈青が答えた。


「西夏へ行かれる前は、ほかの方もお相手をしていましたから、私たちにも休む日がありました。今は9人が身重ですので、どうしても残る者のところへいらっしゃいます」


「これほど大勢の妻妾がおられる理由が、少し分かった気がいたします」


 玉英が言うと、恵蓮は笑い出した。


「それだけが理由ではございませんよ」


「もちろん、分かっております」


「王様は、美人を見ると欲しくなる方ですから」


 一丈青の率直な言い方に、玉英も笑った。


「それは否定できませんね」


「王様がお越しになるのが、嫌になったわけではないのでしょう」


 恵蓮の問いには、玉英はすぐに首を振った。


「嫌ではございません。ただ、こんなに毎日いらっしゃるとは思っていなかったのです」


「それでも、急にお越しにならなくなれば、寂しいのではありませんか」


 一丈青に言われ、玉英は返事に詰まった。


 恵蓮と一丈青が顔を見合わせた。その表情を見て、玉英は何を言われるのか察した。


「もう、王様をお待ちになっているのですね」


「待っているというほどでは……」


 言いかけて、玉英はやめた。昨夜も一昨日も、廊下の足音が気になっていた。今夜は誰の部屋へ向かうのだろうと、考えるようになっている。


「少しは、お待ちしております」


 玉英が認めると、一丈青は笑った。


「王様を好きになった者は、初めのうちは皆、そのように申します」


 玉英は茶碗へ目を落とした。もう、否定する気にはならなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、達也が訪れると、玉英はいつもより早く戸口へ迎えに出た。


「今日は早いな。俺の足音が聞こえたのか」


「たまたま、戸の近くにいただけでございます」


「そう言いながら、待っていたのではないか」


「王様は、同じことばかりお尋ねになりますね」


「お前の口から聞きたいんだ」


 玉英は恥ずかしそうに笑った。


「お待ちしておりました。これでよろしいですか」


「初めから、そう言えばよいだろう」


「得意になられるので、言いたくなかったのです」


 達也は楽しそうに笑った。玉英も、その顔を見ると嬉しかった。王府へ入ったばかりの頃より、ずっと身近な相手に感じられた。


 部屋に入ってから、玉英は気になっていたことを尋ねた。


「なぜ、毎日のように私のところへ来てくださるのでございますか」


「新しく迎えた側室だからな」


 玉英の顔から笑みが消えた。


「新しいから、それだけでございますか」


「美人だし、気に入っているからに決まっているだろう」


「初めから、気に入っているとおっしゃってくださればよいのです」


「どれも本当のことだぞ」


「本当なら何をおっしゃってもよい、というわけではございません。王様は、女心をもう少しお考えくださいませ」


「12人も妻妾がいるのに、まだ足りないのか」


「人数と理解は別でございます」


 達也が難しそうな顔をすると、玉英は笑った。


「少しは勉強してくださいませ」


「それなら、お前が教えてくれ」


「教えすぎれば、ほかの女を口説く時にお使いになるでしょう。それは嫌でございます」


 達也は声を上げて笑い、玉英もつられて笑った。


 ◇ ◇ ◇


 王府の暮らしに慣れるにつれ、玉英の役目も増えていった。


 父の沈忠明(シェン・ジョンミン)や兄の沈文雄(シェン・ウェンション)につながる武官だけでなく、その妻や娘、姉妹についても玉英は知っていた。軍務の話をしているだけでは分からない家同士の事情を、達也へ伝えた。


「先日お会いになった李(リー)将軍ですが、張(ジャン)都頭と親しいように振る舞っていても、少しお気を付けください」


「何か、折り合いの悪いことがあるのか」


「娘の婚姻を巡って揉めたそうで、奥方同士が大変仲の悪い間柄なのです」


「また、家同士の争いか。面倒なことだな」


「以前も、同じことをおっしゃいましたね」


 玉英は笑ったが、すぐに話を続けた。


「事情を知らずに同じ場所で重く用いれば、後で王様がお困りになるかもしれません。本人同士の付き合いだけでは、分からないこともございます」


「だから、お前の話を聞けて助かっている」


「便利な側室でございましょう」


「ああ。美人で、便利だ」


「そこは少し、言い方をお考えくださいませ」


「では、美人で頭がよく、頼りになる」


「それなら結構でございます」


 玉英は呆れたように言いながらも、嬉しそうだった。


 達也は、玉英を迎えた判断に満足していた。顔が好みというだけでなく、話していて退屈せず、軍人社会のこともよく知っている。平西王という地位におびえて、何でも同意する女でもなかった。


 自分にとって都合のよい相手だと考えていたが、その気持ちを本人に隠すつもりもなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ある朝、玉英は月娘の部屋へ呼ばれた。


「何かございましたか」


「少し話をしたかっただけです。どうぞ、お座りなさい」


 月娘は椅子を勧め、王府の暮らしに慣れたか、ほかの妻妾とはうまく付き合えているかを尋ねた。玉英は、皆によくしてもらっていると答えた。


「それは何よりです。王様とも、仲よく過ごしているようですね」


 玉英が返事に迷うと、月娘は笑った。


「毎日のように、お部屋へいらしているのでしょう。王府の中ですから、そのくらいは分かります」


「申し訳ございません。私ばかり……」


「謝ることではありませんよ。私も静蘭も瓶児も身重で、ほかの皆も同じです。今、王様のお相手をするのは、玉英と恵蓮、一丈青が中心でしょう」


 月娘が腹に手を置くと、玉英は少し声を落とした。


「そのことで、王様に大勢の妻妾がおられる理由が、ようやく分かってまいりました。恵蓮たちが休みたいと申していた意味も分かります」


 月娘は吹き出した。


「私たちも、以前に経験しておりますから」


「王妃様までお笑いになるとは思いませんでした」


「もっとも、妻妾が多い理由は、それだけではありませんよ」


「恵蓮にも、同じことを言われました」


「王様は女好きです。美人を見れば目で追い、気に入れば口説きます。それはもう、お分かりでしょう」


「はい。そこは、よく分かっております」


 月娘は玉英の顔を見た。


「それでも、嫌にはなりませんか」


 玉英は少し考えてから答えた。


「嫌ではございません。むしろ、毎日のように来ていただけることが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」


 月娘は口を挟まずに聞いていた。


「前の夫とは、年月がたつにつれて寝所を共にする日が減りました。その頃は、夫婦とはそういうものだと思っておりました。寂しいかどうかも、あまり考えなかったのです」


「今は、違うのでございますね」


「ええ。夕刻になると、今日は来てくださるだろうかと考えてしまいます」


 玉英は恥ずかしそうに笑った。


「それは、王様ご自身を気に入ったからでしょう」


「やはり、そうなのでしょうね。ただ、御本人にはあまりお話しにならないでくださいませ。得意になられると困ります」


「もう、お気付きだと思いますよ。王様は、そういうことには妙に勘がよいのです」


 玉英は困った顔をした後、月娘と一緒に笑った。


 ◇ ◇ ◇


 その夜も、達也は玉英の部屋を訪れた。


 玉英は月娘との話を思い出し、恵蓮と一丈青のことを尋ねた。


「今日は、ほかのお2人のところへ行かれなくてよろしいのでございますか」


「昨日は恵蓮で、一昨日は一丈青だった。今夜は、お前と過ごしたいと思って来たんだ」


「それなら、よろしゅうございますけれど」


 玉英が笑みを浮かべると、達也はその顔を見た。


「俺が来て、嬉しいのだろう」


「いつもと変わりません」


「顔に出ているぞ。隠すのは無理だな」


 玉英は観念した。


「嬉しゅうございます。ただ、その得意そうなお顔を見ると、言わなければよかったと思います」


「俺も、お前のところへ来るのが好きなんだ。そう言われれば嬉しいに決まっている」


 玉英は達也を見た。


「本当でございますか。大勢の女の方がおられるので、どこまで本気なのか、分からなくなる時がございます」


「妻妾が多いことと、お前を好きなことは別だ。ほかの者も、気に入っているから一緒にいる」


「皆を好きだとおっしゃるのですか。欲張りな方ですね」


「それは、初めから知っていただろう」


「はい。存じておりました」


 玉英は笑った。


 達也は、金も兵も、女も欲しがる。求めるものが多く、それを遠慮して諦める男ではない。玉英は、その一面を知ったうえで側室になっていた。


 ◇ ◇ ◇


 やがて、恵蓮、一丈青、玉英の間には、仲間意識が生まれ始めた。達也が誰の部屋を訪れるかを争うより、互いに休む日を確保しようとすることもあった。


「今夜は、玉英のところへお願いできればと思っております」


 恵蓮が言うと、玉英は困った顔をした。


「昨日も私でございましたよ。一丈青はいかがですか」


「私も一昨日、お相手をしております」


 3人が顔を見合わせたところへ、達也が来た。


「何を相談しているんだ」


「今夜、王様がどちらでお過ごしになるかを相談しておりました」


 恵蓮が答えると、達也は3人を見回した。


「本人を抜きに決めるなよ」


「では、今夜はどちらへいらっしゃるおつもりですか」


「玉英のところへ行こうと思っていた」


「また私でございますか」


 玉英が言うと、達也は笑った。


「疲れていて嫌なら、やめておくぞ」


「嫌とは申しておりません。そのように聞かれると、返事に困るのです」


 恵蓮と一丈青は顔を見合わせて笑った。


「玉英も、すっかり王様に慣れましたね」


「私も、そう思います」


 玉英はため息をついたが、顔は笑っていた。達也は3人の様子を見て、満足そうに言った。


「やはり、女は多い方がよいな」


「王様」


 3人の声が重なった。


「そういうことを、私たちの前で堂々とおっしゃらないでくださいませ」


「本当のことを言っただけだぞ」


「そこがいけないのでございます」


 達也は笑った。3人も呆れながら、その顔を見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 王府の外では、沈忠明や沈文雄、林文瑞(リン・ウェンルイ)、呉鎧(ウー・カイ)を通じた付き合いが広がっていた。


 達也は紹介された武官たちと食事をし、馬や軍の話を聞いた。その後で玉英に家族関係を尋ねると、男同士の会話だけでは分からなかった事情が見えてきた。


 表では親しく振る舞っていても、家同士では争っている者がいた。逆に、役職や所属が離れていても、婚姻によって強く結ばれた家もあった。


「軍は、兵や役職だけを見ていても分からないものだな」


「武官にも家があり、その家には親族との付き合いがございますから。御本人だけで決められないこともあるのです」


「お前を迎えてよかった。こうして話を聞けるだけでも助かる」


「また、役に立つからでございますか」


「それだけではない。毎晩会いたくなるほど美人だし、話すのも楽しい」


 玉英は笑った。


「そのお言葉を、先におっしゃっていただきたかったのです。女として気に入っていると言ってから、仕事のことを褒めてくださいませ」


「言う順番まで考えなければならないのか」


「12人も妻妾がおられるのですから、そのくらいはお考えになってください」


 達也は言い返せず、苦笑した。


 ◇ ◇ ◇


 王府へ入った当初、玉英は、沈家と平西王を結ぶための婚姻だと考えていた。自分が側室になれば実家にも利益があり、達也には禁軍との縁ができる。それでよいと思っていた。


 だが、暮らしてみると、その考えだけでは自分の気持ちを説明できなくなった。


 夕刻になれば達也の予定が気になり、廊下に足音がすれば耳を澄ませた。別の部屋へ向かったと知ると残念に思い、自分の戸が開けば嬉しかった。


 達也は忙しくても顔を出し、軍の話を聞き、冗談を言った。夜には、玉英を女として求めた。大勢の妻妾がいながら、新しく迎えた自分を放っておかないことが、玉英には嬉しかった。


 もちろん、恵蓮と一丈青の苦労も分かった。身重ではない3人で達也の相手を続けるのは楽ではなく、休みたい日もある。それでも、訪れる回数が減れば寂しくなるだろうと思っていた。


 玉英は、その気持ちを否定しなくなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 ある夜、達也が部屋を出ようとすると、玉英が呼び止めた。


「明日は、どちらへいらっしゃるのでございますか」


「まだ決めていない。明日も来てほしいのか」


 以前なら、ただ予定を尋ねただけだと答えただろう。玉英は少し迷った後、素直にうなずいた。


「はい。来ていただきとうございます」


 達也は笑った。


「分かった。明日も来よう」


「恵蓮と一丈青のところにも、行ってあげてくださいませ」


「分かっている」


「でも、明日は私のところへいらしてください」


「お前も欲張りだな」


 玉英は達也を見た。


「王様にだけは、言われたくございません」


 達也は声を上げて笑った。


「その通りだな」


 戸を開ける前に振り返り、もう一度告げた。


「明日も来る」


「お待ちしております」


 今度は、玉英も恥ずかしがらずに答えた。


 達也が自分1人で満足する男ではないことは、もう分かっている。それでも、自分を求めて来てほしかった。家同士の利益を考えて受け入れた婚姻に、夫を待つ気持ちが加わっていた。


 玉英は達也を見送り、明日の夜を楽しみにしながら戸を閉めた。

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