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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第12話(後編1)――「側室と兄嫁」

 (1119年初夏、北宋・開封府(カイフォンフ)・平西王府)


 沈玉英(シェン・ユーイン)と初めて会ってから、10日ほどが過ぎた。その間に、倉達也(ツァン・ダーイエ)は沈家を2度訪れた。


 父の沈忠明(シェン・ジョンミン)と兄の沈文雄(シェン・ウェンション)には、軍馬の仕入れや禁軍の訓練、西北での実戦経験を持つ武官について尋ねた。聞きたいことはいくらでもあり、軍の話をするための訪問という説明に嘘はなかった。


 ただ、沈家へ行けば玉英にも会える。達也にとっては、それも同じくらい大事だった。


 2度目の訪問を終えた夜、達也は呉月娘(ウー・ユエニャン)の部屋へ入った。


「玉英を側室に迎えることにした」


 月娘は帳面から顔を上げた。


「もうお話がまとまったのでございますか。玉英は何と申しましたか」


「本人には、まだ聞いていない。俺の気持ちが決まったという意味だ」


「それでは、お決めになったとは申せませんね」


 月娘が帳面を閉じると、達也は向かいに座った。


「美人だし、頭も悪くない。父と兄は禁軍の武官で、本人も軍人の家同士の付き合いを知っている。俺には、ありがたい相手だ」


「ずいぶん、王様に都合のよい方でございますね」


「その通りだ。女として気に入ったし、沈家との縁も欲しい。両方がかなうなら、俺の方から断る理由はない」


 月娘は達也を見た。


「玉英が今のお言葉を聞いたら、怒るかもしれませんよ」


「似たようなことは、父親にも話してある。隠しておいて、後から知られる方が面倒だろう」


「そこまで率直におっしゃったのですか」


「玉英だって、平西王の側室になる利点は考えるはずだ。俺も損得を考えるし、向こうにも考えてもらえばよい」


 月娘は呆れたように笑った。


「王様らしいお考えでございますね」


「格好のよいことを言っても、俺が欲しいものは変わらないからな」


 ◇ ◇ ◇


 翌日、達也は沈家へ使いを送り、今度は玉英本人と話したいと伝えた。


 3日後、家族で王府へ伺うという返事が届いた。その夕刻、忠明夫妻、文雄夫妻、玉英が訪れ、月娘も交えて茶を飲んだ。


 しばらくして、達也が玉英へ向き直った。


「今日は、お前に返事を聞きたい。俺の側室になれ」


 忠明の表情が固くなり、玉英も驚いて達也を見た。


「ずいぶん急なお話でございますね」


「回りくどく話しても、求めることは同じだからな」


 忠明が娘に声をかけようとすると、玉英は父を見た。


「私がお答えいたします。その前に、王様のお考えを確かめさせてください」


 玉英は姿勢を正し、達也へ尋ねた。


「私を迎えたいのは、実家が軍人の家だからでございますか」


「それもある。父親も兄も禁軍にいて、お前も武官の家同士の付き合いを知っている。俺には役に立つ」


「それなら、私でなくてもよいのではございませんか。軍人の家の女は、ほかにもおります」


「俺は玉英が美人だから気に入ったんだ。家柄だけで選ぶつもりなら、こんな話し方はしない」


 玉英は返事を止めた。月娘が顔を伏せ、笑いをこらえていた。


「父や兄の前で、そのようなことをおっしゃるのでございますか」


「父親にだけ言って、本人に言わない方がおかしいだろう。顔を見て気に入ったし、話してみれば頭もよい。沈家との縁まで持てるなら、俺には願ってもない相手だ」


 文雄がとうとう笑った。


「王様は、本当にお隠しになりませんね」


「兄上は、黙っていてください」


 玉英ににらまれ、文雄は謝った。達也はそのやり取りを見てから、返事を促した。


「俺の考えは話した。お前は、どう思っている」


 玉英は少し考え、王府での立場を確かめた。


「側室になれば、こちらで暮らし、王妃様の下に入るのでございますね。すでに大勢の奥方がおられる中で、私だけを特別に扱うとは、おっしゃらないのですね」


「言わない。月娘が王妃で、静蘭と瓶児が妃だ。今いる8人は側室で、お前も同じ立場になる。妻妾は合わせて12人になるな」


「王様のお寝所にも、伺うことになるのでございましょう」


「もちろんだ。側室として迎えたいと言っているのだからな」


 玉英の頬が赤くなった。月娘は口を挟まず、2人の話を聞いていた。


「その立場で来る気があるか、聞かせてくれ。嫌なら、俺は別の女を探す」


 玉英は達也を見返した。


「ずいぶん簡単におっしゃいますね」


「お前を気に入ったのは本当だが、断られれば、それまでだ。俺にはすでに11人の妻妾がいる。お前だけが女というわけでもない」


「本人の前で、そこまでおっしゃるとは。本当にひどい方でございますね」


「今ごろ分かったのか」


 玉英は思わず笑った。しばらくして笑みが収まると、月娘へ顔を向けた。


「王妃様は、私が王府へ入っても、本当に構わないのでございますか。嫉妬なさることはございませんか」


「嫉妬するかどうかと、王様が新しい女を迎えることは別でございます。私は、お止めしないと約束しております」


 月娘は達也を見てから、言葉を添えた。


「この方を止めようとする方が、疲れますから」


「俺の前で、それを言うのか」


「事実でございます」


 玉英はまた笑った。やがて姿勢を正し、父に向き直った。


「父上、私も考えて参りました」


 忠明が娘を見守る中、玉英は達也へ答えた。


「平西王様の側室になります。ただし、飾り物として暮らすつもりはございません。軍人の家について私が知っていることは、お伝えいたします。役に立つ女だと思って迎えるのでしたら、その力も使ってくださいませ」


「頼もしい返事だな。ますます気に入った」


 達也が笑うと、玉英も頬を赤らめながら微笑んだ。


 ◇ ◇ ◇


 玉英が王府へ移ったのは、それから7日後だった。


 大げさな婚礼にはしなかったが、沈家から嫁入り道具が運び込まれ、王府では部屋と女中を用意した。月娘は妻妾全員を集め、玉英を迎えた。


「今日から、玉英が王府で暮らします。皆も力を貸してあげてください」


 玉英は一同に頭を下げた。


「沈玉英でございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 潘金蓮(パン・ジンリエン)が玉英を見て笑った。


「本当にお美しい方ですね。王様が急いでお迎えになった理由が分かりました」


「顔だけで決めたのではないぞ」


 達也が口を挟むと、金蓮は面白そうに尋ねた。


「では、ほかにはどのようなところを気に入られたのでございますか」


「父と兄が禁軍の武官で、軍人の家との縁もできる」


「王様、初日くらい、もう少し夢のあることをおっしゃってくださいませ」


 玉英に言われ、広間に笑いが起こった。達也も笑いながら言い直した。


「美人で、頭もよく、軍の話も分かる。そういうところを気に入ったんだ」


「最初から、そうおっしゃってくださればよいのです」


 玉英は平西王府の9人目の側室となった。王妃が1人、妃が2人、側室が9人で、達也の妻妾は合わせて12人になった。


 ◇ ◇ ◇


 玉英を迎えてから、沈家との付き合いは一層深くなった。忠明や文雄は以前より気軽に王府を訪れるようになり、達也へ禁軍の武官を紹介した。


 玉英も、軍人の妻や娘が集まる席で知ったことを話した。


「この2つの家は、昔から折り合いが悪いのです。同じ席へお招きになる時は、お気を付けください」


「何がきっかけで仲が悪くなったんだ」


「父親の代に、昇進を争ったそうでございます。それ以来、家同士の付き合いが途絶えております」


「当人同士の争いが、次の代まで続くのか。面倒なことだな」


「王様は、その面倒な家同士を、婚姻で結ぼうとなさっているのでございましょう」


 達也は笑った。


「そうだったな。やはり、お前の話は役に立つ」


「それも、私を迎えた目的の半分だったのでございましょう」


「半分より、少し多いかもしれない」


「そこは、私の美しさが8割だとおっしゃってくださいませ」


「では、8割だ」


「今から言い直しても、遅うございます」


 玉英は呆れながらも笑っていた。達也は、こうして言い返してくる女となら、退屈せずに暮らせそうだと思った。


 ◇ ◇ ◇


 その頃、呉家の親族も、開封と清河(チンホー)を行き来する機会が増えていた。中でも呉鎧(ウー・カイ)は、武官の紹介役として、たびたび王府を訪れていた。


 ある日、呉鎧は妻を伴って来た。


 妻の名は陳玉琴(チェン・ユーチン)。36歳で、長く武官の妻として家を守ってきた女だった。その日は、達也から贈られた真珠の簪を挿していた。


 達也はすぐに気付いて声をかけた。


「玉琴、その簪を使ってくれているのだな。よく似合っている」


「ありがとうございます。頂いた品ですから、大切に使わせていただいております」


 玉琴は髪に手を触れた。達也は、その顔を以前より長く見つめていた。


 落ち着いた顔立ちに、成熟した女らしい柔らかな身体つきが似合っている。若い娘とは違う魅力を感じた。


「王様、何か付いておりますか」


「いや。美人だと思って見ていた」


 玉琴の表情が変わった。


「私は鎧の妻で、月娘の兄嫁でもございます。そのようなお言葉は、お控えくださいませ」


「それは知っている。ただ、似合うから褒めたんだ」


「王様が女をお褒めになる時は、それだけでは済まないと聞いております」


「誰から聞いた。月娘か」


「月娘からではございません」


「それなら、金蓮あたりだな」


 玉琴は思わず笑ったが、すぐに表情を戻した。


「とにかく、おやめくださいませ」


「分かった」


 達也があっさり引いたため、玉琴は少し拍子抜けしたようだった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕刻、達也は呉鎧と軍の話をしていた。玉琴は、月娘たちと別の部屋で過ごしていた。


 話が終わり、達也は夫妻を門の近くまで見送った。


「また来てくれ。次は、東平府にいた将の話を聞きたい」


「承知しました。詳しいことを確かめてまいります」


 呉鎧が馬へ向かうと、達也は後を追おうとした玉琴を呼び止めた。


「先ほど褒めたことだが、本当に嫌だったのか」


 玉琴は周囲を見た。夫は少し先におり、月娘たちは屋敷の中だった。


「そのお話は、もうお忘れくださいませ。困ります」


「困ることと、嫌なことは違うだろう。本当に嫌なら、もう言わない」


 玉琴はすぐには答えず、達也を見た。


「そうして確かめようとなさること自体、おやめくださいませ」


 それだけ言い、夫の後を追った。


 達也はその背を見送りながら、嫌だとは言わなかったと考えた。自分にはまだ望みがあるのだと、受け取っていた。


 ◇ ◇ ◇


 半月ほど後、呉鎧夫妻が再び王府を訪れた。今度は呉鎧が武官を2人連れており、皆で夕餉を取ることになった。


 男たちが酒を飲みながら軍の話を続ける間、女たちは別室へ移った。


 宴が終わりかけた頃、達也は庭へ出た。池の近くに玉琴が立っていた。


「少し風に当たっていたのか。俺も、外へ出たくなってな」


 達也が隣に立つと、玉琴は少し距離を取った。


「また何かおっしゃるおつもりでございますね」


「まだ何も言っていないぞ」


「お顔を見れば分かります。女のことになると分かりやすいと、月娘も申しておりました」


「やはり月娘も話していたのだな」


 玉琴が笑うと、達也はその横顔を見た。


「何度会っても、美人だと思う」


「おやめくださいと申し上げたはずです。王様も、お分かりになったとおっしゃいました」


「やめようとは思った。だが、会うとまた言いたくなる」


「無茶なことをおっしゃいますね。王妃様も妃も、大勢の側室もおられるではございませんか」


「玉英を迎えたから、12人になった。それでも、お前を見ると欲しくなる」


 玉琴は達也から目をそらした。


「そのようにおっしゃられては、困ります」


「困るのは分かる。俺を嫌だと思っているのか、それを聞きたい」


 達也はそれ以上近づかず、触れようともしなかった。玉琴はしばらく黙っていたが、やがて声を落とした。


「嫌ではないから、困るのでございます」


 達也の顔に笑みが浮かんだ。


「そのようなお顔をなさらないでください。私は鎧の妻で、月娘の兄嫁です。知られれば、どのようなことになるかお分かりでしょう」


「分かっている。だから、知られないようにすればよい」


「簡単におっしゃいますね」


「簡単ではないから、軽はずみなことはしない。今夜、何かしようというつもりもない。ただ、諦める気はなくなった」


 達也はそう言って、少し離れた。


 玉琴はため息をつきながら、達也を見た。


「本当に、西門様に似てこられましたね」


「褒められたと思ってよいのか」


「違います」


「それは残念だ」


 玉琴は、とうとう笑ってしまった。


 ◇ ◇ ◇


 その後も、達也は玉琴へ言い寄った。


 呉鎧や月娘の前では、普段通りに接した。玉琴に声をかけるのは、ほかの者に聞かれずに話せる時だけだった。


 次の機会は、呉鎧が王府の馬場で武官と話している時だった。玉琴は女中とともに月娘へ届け物を持ってきており、帰りがけの廊下で達也に会った。


「もう帰るのか。少し茶を飲んでいけばよい」


「お誘いを受ければ、また同じことをおっしゃるのでございましょう。今日は、このまま失礼いたします」


「分かった。気を付けて帰ってくれ」


 達也は道を空けた。玉琴が数歩進んだところで、もう一度呼びかけた。


「今日も綺麗だな。それだけは言っておきたかった」


 玉琴は振り返り、呆れた顔をした。


「懲りない方でございますね」


 口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。


 その次は、呉家の親族が集まった夕餉の後だった。2人で話せる間を見つけると、達也はためらわずに誘った。


「俺の愛人になる気はないか」


「ございません。そのお話をなさるのも、おやめくださいませ」


「少し考えてからでもよいだろう」


「考えるつもりもございません」


「では、次に会った時に、また聞く」


「聞かないでくださいと申し上げているのです」


 玉琴は達也をにらんだが、そのことを月娘にも呉鎧にも話さなかった。


 夫か月娘に告げれば、少なくとも今まで通りには言い寄れなくなるだろう。それでも玉琴は黙っていた。


 22歳の平西王に美しいと言われ、会うたびに目で追われる。断っても、次に会えばまた求められる。そのことを、全く嬉しくないとは思えなかった。自分でも、それが分かっているからこそ困っていた。


 ◇ ◇ ◇


 5度目は、玉琴自身が王府へ来た時だった。呉鎧から達也へ宛てた書状を持っていたが、使いの者に任せてもよい用件だった。


 達也は書状を読み終え、玉琴へ顔を向けた。


「鎧は、今日はどうしている」


「軍務で城外へ出ております。お返事がございましたら、私がお預かりいたします」


「急ぎの返事ではない。茶くらい飲んでいけ」


 玉琴は少し迷った。


「また私を口説くおつもりなのでございましょう」


「ああ。そのつもりだ」


「それなら帰ります。2人で茶を飲めば、また同じお話になるのですから」


 玉琴が立ち上がると、達也は止めなかった。


 彼女は戸の前まで歩いたが、手をかけずに立ち止まった。達也が黙って待っていると、やがて振り返った。


「王様。本当に、誰にも知られないのでございましょうね」


「何を知られたくないのか、お前の口から聞きたい」


「意地悪をなさらないでくださいませ。私が、何度もここへ来るようになれば……」


「今日は、鎧の書状を届けに来ただけだ」


「今日の用件ではなく、その先のことを申し上げているのです」


 玉琴の顔が赤くなった。


 達也は立ち上がったが、近づかずに卓の向こうで足を止めた。


「嫌なら、今日もこのまま帰ればよい。俺は何度でも口説くつもりだったが、最後に決めるのはお前だ」


「何度も言い寄っておきながら、最後だけ私に決めさせるのですか。ずるい方ですね」


「俺が勝手に決めるわけにはいかないだろう」


 玉琴は笑った。


「本当に無茶な方です。月娘や鎧に知られたら、どうなさるおつもりですか」


「知られないようにする。お前も話さないだろう。今までのことも、誰にも話していない」


 玉琴は目を伏せた。


「話せません。私まで、疑われてしまいますから」


「もう、疑われても仕方のない気持ちになっているのか」


「それ以上おっしゃったら、帰ります」


 達也が口を閉じると、玉琴もその場を動かなかった。しばらくして、自分から椅子へ戻った。


「お茶を頂いてから帰ります」


 達也は女中を呼ばず、自分で茶を注いだ。


「平西王様にお茶を入れていただくとは思いませんでした」


「誰かを呼べば、2人ではなくなるからな」


「初めから、そのおつもりなのですね。本当に悪い方です」


「今になって気付いたわけではないだろう」


 玉琴は茶碗を受け取り、また笑った。


 ◇ ◇ ◇


 その日、玉琴が王府を出たのは、日が傾いてからだった。付き添いの女中には、王妃の部屋で長く話していたと伝えた。


 月娘は別の部屋にいたため、その説明を知らなかった。達也も何も話さなかった。


 6日後、玉琴は再び王府を訪れた。今度は呉鎧の書状もなく、月娘へ渡す菓子を持ってきたという。


 月娘としばらく話した後、帰る前に達也の書房へ寄った。


「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


「もちろんだ。入ってくれ」


 達也は女中を下がらせた。玉琴は椅子に座らず、達也を見た。


「先日のことについて、申し上げておきたいことがございます」


「聞かせてくれ」


「私は王府へ入るつもりはありません。側室にもなりませんし、月娘にも、ほかの奥方にも知られたくありません」


「分かっている。お前は鎧の妻だ。王府へ迎えるつもりはないし、誰かに話すつもりもない」


「林夫人にも、お話しにならないでくださいませ」


 達也は少し驚いた顔をした。


「林夫人に、お前のことを話す理由はないだろう」


「王様のお相手だと聞いております。だから、確かめておきたいのです。本当に、誰にも話さないとお約束くださいますね」


「約束する」


「私も、誰にも話しません」


 達也は立ち上がり、玉琴の前へ進んだ。


「それは、俺との関係を受け入れるという意味に取ってよいのか」


 玉琴は顔を上げられなかった。


「何度、言わせるのでございますか。本当に意地が悪い方です」


「大事なことだからな。嫌なら、今でも帰れる」


 玉琴は達也を見た。


「帰りません」


 初めて、はっきりとそう答えた。


 達也はそれ以上聞かず、玉琴も拒まなかった。2人とも、その後に何が起きるかを承知し、それを誰にも話さないと決めていた。


 玉琴は、その日も夕刻まで王府にいた。帰る時には普段と同じ顔をしており、達也もいつも通りに見送った。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、達也は月娘と夕餉を取った。


「今日は姉上が、菓子を持って来てくださいました」


「俺も会った。少し話をしたぞ」


「兄上から、何か伝言でもございましたか」


「いや、そういう話ではなかった」


 月娘はそれ以上尋ねず、達也も何も付け加えなかった。魚を箸で取り、普段通りに食べ続けた。


「今日は、何だか御機嫌ですね」


「玉英を迎えたからではないかな」


「それは、もう何日も前のことでございます」


「軍人との付き合いが増えてきたこともある。話を聞ける相手が多くなったからな」


「それなら、よろしいのですが」


 月娘は少し不思議そうにしただけで、食事に戻った。


 同じ頃、玉琴も清河へ戻る馬車の中で、夫の呉鎧と普段通りに話していた。達也も玉琴も、秘密を守ることには慎重だった。


 達也の頭にあったのは、関係が露見すれば面倒なことになる、という考えだった。知られなければ騒ぎにはならない。ならば、知られないように振る舞えばよいと思っていた。


 ◇ ◇ ◇


 玉英を側室に迎え、沈家との縁を深める一方で、達也は武官を紹介してくれた呉鎧の妻とも関係を持った。


 本人は、その2つを矛盾とは考えていなかった。沈家とのつながりも玉英自身も欲しく、呉鎧の力を借りながら玉琴も手に入れたかった。どちらかを諦めるのではなく、すべてを得ようとしていた。


 もちろん、露見すれば今まで築いてきた関係が崩れる恐れはある。だからこそ、玉琴とのことは隠し通すつもりだった。


 力を借りたい者とは付き合いを重ね、気に入った相手には贈り物をする。欲しい女には言い寄り、その場で断られれば引いても、次の機会にはまた口説く。相手の気持ちが自分へ向いたと思えば、その機会を逃さなかった。


 西門慶(シーメン・チン)が生きていれば、笑って酒を勧めたかもしれない。達也はもはや、彼の女遊びを聞いて笑うだけの男ではなくなっていた。

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