第12話(後編1)――「側室と兄嫁」
(1119年初夏、北宋・開封府・平西王府)
沈玉英と初めて会ってから、10日ほどが過ぎた。その間に、倉達也は沈家を2度訪れた。
父の沈忠明と兄の沈文雄には、軍馬の仕入れや禁軍の訓練、西北での実戦経験を持つ武官について尋ねた。聞きたいことはいくらでもあり、軍の話をするための訪問という説明に嘘はなかった。
ただ、沈家へ行けば玉英にも会える。達也にとっては、それも同じくらい大事だった。
2度目の訪問を終えた夜、達也は呉月娘の部屋へ入った。
「玉英を側室に迎えることにした」
月娘は帳面から顔を上げた。
「もうお話がまとまったのでございますか。玉英は何と申しましたか」
「本人には、まだ聞いていない。俺の気持ちが決まったという意味だ」
「それでは、お決めになったとは申せませんね」
月娘が帳面を閉じると、達也は向かいに座った。
「美人だし、頭も悪くない。父と兄は禁軍の武官で、本人も軍人の家同士の付き合いを知っている。俺には、ありがたい相手だ」
「ずいぶん、王様に都合のよい方でございますね」
「その通りだ。女として気に入ったし、沈家との縁も欲しい。両方がかなうなら、俺の方から断る理由はない」
月娘は達也を見た。
「玉英が今のお言葉を聞いたら、怒るかもしれませんよ」
「似たようなことは、父親にも話してある。隠しておいて、後から知られる方が面倒だろう」
「そこまで率直におっしゃったのですか」
「玉英だって、平西王の側室になる利点は考えるはずだ。俺も損得を考えるし、向こうにも考えてもらえばよい」
月娘は呆れたように笑った。
「王様らしいお考えでございますね」
「格好のよいことを言っても、俺が欲しいものは変わらないからな」
◇ ◇ ◇
翌日、達也は沈家へ使いを送り、今度は玉英本人と話したいと伝えた。
3日後、家族で王府へ伺うという返事が届いた。その夕刻、忠明夫妻、文雄夫妻、玉英が訪れ、月娘も交えて茶を飲んだ。
しばらくして、達也が玉英へ向き直った。
「今日は、お前に返事を聞きたい。俺の側室になれ」
忠明の表情が固くなり、玉英も驚いて達也を見た。
「ずいぶん急なお話でございますね」
「回りくどく話しても、求めることは同じだからな」
忠明が娘に声をかけようとすると、玉英は父を見た。
「私がお答えいたします。その前に、王様のお考えを確かめさせてください」
玉英は姿勢を正し、達也へ尋ねた。
「私を迎えたいのは、実家が軍人の家だからでございますか」
「それもある。父親も兄も禁軍にいて、お前も武官の家同士の付き合いを知っている。俺には役に立つ」
「それなら、私でなくてもよいのではございませんか。軍人の家の女は、ほかにもおります」
「俺は玉英が美人だから気に入ったんだ。家柄だけで選ぶつもりなら、こんな話し方はしない」
玉英は返事を止めた。月娘が顔を伏せ、笑いをこらえていた。
「父や兄の前で、そのようなことをおっしゃるのでございますか」
「父親にだけ言って、本人に言わない方がおかしいだろう。顔を見て気に入ったし、話してみれば頭もよい。沈家との縁まで持てるなら、俺には願ってもない相手だ」
文雄がとうとう笑った。
「王様は、本当にお隠しになりませんね」
「兄上は、黙っていてください」
玉英ににらまれ、文雄は謝った。達也はそのやり取りを見てから、返事を促した。
「俺の考えは話した。お前は、どう思っている」
玉英は少し考え、王府での立場を確かめた。
「側室になれば、こちらで暮らし、王妃様の下に入るのでございますね。すでに大勢の奥方がおられる中で、私だけを特別に扱うとは、おっしゃらないのですね」
「言わない。月娘が王妃で、静蘭と瓶児が妃だ。今いる8人は側室で、お前も同じ立場になる。妻妾は合わせて12人になるな」
「王様のお寝所にも、伺うことになるのでございましょう」
「もちろんだ。側室として迎えたいと言っているのだからな」
玉英の頬が赤くなった。月娘は口を挟まず、2人の話を聞いていた。
「その立場で来る気があるか、聞かせてくれ。嫌なら、俺は別の女を探す」
玉英は達也を見返した。
「ずいぶん簡単におっしゃいますね」
「お前を気に入ったのは本当だが、断られれば、それまでだ。俺にはすでに11人の妻妾がいる。お前だけが女というわけでもない」
「本人の前で、そこまでおっしゃるとは。本当にひどい方でございますね」
「今ごろ分かったのか」
玉英は思わず笑った。しばらくして笑みが収まると、月娘へ顔を向けた。
「王妃様は、私が王府へ入っても、本当に構わないのでございますか。嫉妬なさることはございませんか」
「嫉妬するかどうかと、王様が新しい女を迎えることは別でございます。私は、お止めしないと約束しております」
月娘は達也を見てから、言葉を添えた。
「この方を止めようとする方が、疲れますから」
「俺の前で、それを言うのか」
「事実でございます」
玉英はまた笑った。やがて姿勢を正し、父に向き直った。
「父上、私も考えて参りました」
忠明が娘を見守る中、玉英は達也へ答えた。
「平西王様の側室になります。ただし、飾り物として暮らすつもりはございません。軍人の家について私が知っていることは、お伝えいたします。役に立つ女だと思って迎えるのでしたら、その力も使ってくださいませ」
「頼もしい返事だな。ますます気に入った」
達也が笑うと、玉英も頬を赤らめながら微笑んだ。
◇ ◇ ◇
玉英が王府へ移ったのは、それから7日後だった。
大げさな婚礼にはしなかったが、沈家から嫁入り道具が運び込まれ、王府では部屋と女中を用意した。月娘は妻妾全員を集め、玉英を迎えた。
「今日から、玉英が王府で暮らします。皆も力を貸してあげてください」
玉英は一同に頭を下げた。
「沈玉英でございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
潘金蓮が玉英を見て笑った。
「本当にお美しい方ですね。王様が急いでお迎えになった理由が分かりました」
「顔だけで決めたのではないぞ」
達也が口を挟むと、金蓮は面白そうに尋ねた。
「では、ほかにはどのようなところを気に入られたのでございますか」
「父と兄が禁軍の武官で、軍人の家との縁もできる」
「王様、初日くらい、もう少し夢のあることをおっしゃってくださいませ」
玉英に言われ、広間に笑いが起こった。達也も笑いながら言い直した。
「美人で、頭もよく、軍の話も分かる。そういうところを気に入ったんだ」
「最初から、そうおっしゃってくださればよいのです」
玉英は平西王府の9人目の側室となった。王妃が1人、妃が2人、側室が9人で、達也の妻妾は合わせて12人になった。
◇ ◇ ◇
玉英を迎えてから、沈家との付き合いは一層深くなった。忠明や文雄は以前より気軽に王府を訪れるようになり、達也へ禁軍の武官を紹介した。
玉英も、軍人の妻や娘が集まる席で知ったことを話した。
「この2つの家は、昔から折り合いが悪いのです。同じ席へお招きになる時は、お気を付けください」
「何がきっかけで仲が悪くなったんだ」
「父親の代に、昇進を争ったそうでございます。それ以来、家同士の付き合いが途絶えております」
「当人同士の争いが、次の代まで続くのか。面倒なことだな」
「王様は、その面倒な家同士を、婚姻で結ぼうとなさっているのでございましょう」
達也は笑った。
「そうだったな。やはり、お前の話は役に立つ」
「それも、私を迎えた目的の半分だったのでございましょう」
「半分より、少し多いかもしれない」
「そこは、私の美しさが8割だとおっしゃってくださいませ」
「では、8割だ」
「今から言い直しても、遅うございます」
玉英は呆れながらも笑っていた。達也は、こうして言い返してくる女となら、退屈せずに暮らせそうだと思った。
◇ ◇ ◇
その頃、呉家の親族も、開封と清河を行き来する機会が増えていた。中でも呉鎧は、武官の紹介役として、たびたび王府を訪れていた。
ある日、呉鎧は妻を伴って来た。
妻の名は陳玉琴。36歳で、長く武官の妻として家を守ってきた女だった。その日は、達也から贈られた真珠の簪を挿していた。
達也はすぐに気付いて声をかけた。
「玉琴、その簪を使ってくれているのだな。よく似合っている」
「ありがとうございます。頂いた品ですから、大切に使わせていただいております」
玉琴は髪に手を触れた。達也は、その顔を以前より長く見つめていた。
落ち着いた顔立ちに、成熟した女らしい柔らかな身体つきが似合っている。若い娘とは違う魅力を感じた。
「王様、何か付いておりますか」
「いや。美人だと思って見ていた」
玉琴の表情が変わった。
「私は鎧の妻で、月娘の兄嫁でもございます。そのようなお言葉は、お控えくださいませ」
「それは知っている。ただ、似合うから褒めたんだ」
「王様が女をお褒めになる時は、それだけでは済まないと聞いております」
「誰から聞いた。月娘か」
「月娘からではございません」
「それなら、金蓮あたりだな」
玉琴は思わず笑ったが、すぐに表情を戻した。
「とにかく、おやめくださいませ」
「分かった」
達也があっさり引いたため、玉琴は少し拍子抜けしたようだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、達也は呉鎧と軍の話をしていた。玉琴は、月娘たちと別の部屋で過ごしていた。
話が終わり、達也は夫妻を門の近くまで見送った。
「また来てくれ。次は、東平府にいた将の話を聞きたい」
「承知しました。詳しいことを確かめてまいります」
呉鎧が馬へ向かうと、達也は後を追おうとした玉琴を呼び止めた。
「先ほど褒めたことだが、本当に嫌だったのか」
玉琴は周囲を見た。夫は少し先におり、月娘たちは屋敷の中だった。
「そのお話は、もうお忘れくださいませ。困ります」
「困ることと、嫌なことは違うだろう。本当に嫌なら、もう言わない」
玉琴はすぐには答えず、達也を見た。
「そうして確かめようとなさること自体、おやめくださいませ」
それだけ言い、夫の後を追った。
達也はその背を見送りながら、嫌だとは言わなかったと考えた。自分にはまだ望みがあるのだと、受け取っていた。
◇ ◇ ◇
半月ほど後、呉鎧夫妻が再び王府を訪れた。今度は呉鎧が武官を2人連れており、皆で夕餉を取ることになった。
男たちが酒を飲みながら軍の話を続ける間、女たちは別室へ移った。
宴が終わりかけた頃、達也は庭へ出た。池の近くに玉琴が立っていた。
「少し風に当たっていたのか。俺も、外へ出たくなってな」
達也が隣に立つと、玉琴は少し距離を取った。
「また何かおっしゃるおつもりでございますね」
「まだ何も言っていないぞ」
「お顔を見れば分かります。女のことになると分かりやすいと、月娘も申しておりました」
「やはり月娘も話していたのだな」
玉琴が笑うと、達也はその横顔を見た。
「何度会っても、美人だと思う」
「おやめくださいと申し上げたはずです。王様も、お分かりになったとおっしゃいました」
「やめようとは思った。だが、会うとまた言いたくなる」
「無茶なことをおっしゃいますね。王妃様も妃も、大勢の側室もおられるではございませんか」
「玉英を迎えたから、12人になった。それでも、お前を見ると欲しくなる」
玉琴は達也から目をそらした。
「そのようにおっしゃられては、困ります」
「困るのは分かる。俺を嫌だと思っているのか、それを聞きたい」
達也はそれ以上近づかず、触れようともしなかった。玉琴はしばらく黙っていたが、やがて声を落とした。
「嫌ではないから、困るのでございます」
達也の顔に笑みが浮かんだ。
「そのようなお顔をなさらないでください。私は鎧の妻で、月娘の兄嫁です。知られれば、どのようなことになるかお分かりでしょう」
「分かっている。だから、知られないようにすればよい」
「簡単におっしゃいますね」
「簡単ではないから、軽はずみなことはしない。今夜、何かしようというつもりもない。ただ、諦める気はなくなった」
達也はそう言って、少し離れた。
玉琴はため息をつきながら、達也を見た。
「本当に、西門様に似てこられましたね」
「褒められたと思ってよいのか」
「違います」
「それは残念だ」
玉琴は、とうとう笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
その後も、達也は玉琴へ言い寄った。
呉鎧や月娘の前では、普段通りに接した。玉琴に声をかけるのは、ほかの者に聞かれずに話せる時だけだった。
次の機会は、呉鎧が王府の馬場で武官と話している時だった。玉琴は女中とともに月娘へ届け物を持ってきており、帰りがけの廊下で達也に会った。
「もう帰るのか。少し茶を飲んでいけばよい」
「お誘いを受ければ、また同じことをおっしゃるのでございましょう。今日は、このまま失礼いたします」
「分かった。気を付けて帰ってくれ」
達也は道を空けた。玉琴が数歩進んだところで、もう一度呼びかけた。
「今日も綺麗だな。それだけは言っておきたかった」
玉琴は振り返り、呆れた顔をした。
「懲りない方でございますね」
口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。
その次は、呉家の親族が集まった夕餉の後だった。2人で話せる間を見つけると、達也はためらわずに誘った。
「俺の愛人になる気はないか」
「ございません。そのお話をなさるのも、おやめくださいませ」
「少し考えてからでもよいだろう」
「考えるつもりもございません」
「では、次に会った時に、また聞く」
「聞かないでくださいと申し上げているのです」
玉琴は達也をにらんだが、そのことを月娘にも呉鎧にも話さなかった。
夫か月娘に告げれば、少なくとも今まで通りには言い寄れなくなるだろう。それでも玉琴は黙っていた。
22歳の平西王に美しいと言われ、会うたびに目で追われる。断っても、次に会えばまた求められる。そのことを、全く嬉しくないとは思えなかった。自分でも、それが分かっているからこそ困っていた。
◇ ◇ ◇
5度目は、玉琴自身が王府へ来た時だった。呉鎧から達也へ宛てた書状を持っていたが、使いの者に任せてもよい用件だった。
達也は書状を読み終え、玉琴へ顔を向けた。
「鎧は、今日はどうしている」
「軍務で城外へ出ております。お返事がございましたら、私がお預かりいたします」
「急ぎの返事ではない。茶くらい飲んでいけ」
玉琴は少し迷った。
「また私を口説くおつもりなのでございましょう」
「ああ。そのつもりだ」
「それなら帰ります。2人で茶を飲めば、また同じお話になるのですから」
玉琴が立ち上がると、達也は止めなかった。
彼女は戸の前まで歩いたが、手をかけずに立ち止まった。達也が黙って待っていると、やがて振り返った。
「王様。本当に、誰にも知られないのでございましょうね」
「何を知られたくないのか、お前の口から聞きたい」
「意地悪をなさらないでくださいませ。私が、何度もここへ来るようになれば……」
「今日は、鎧の書状を届けに来ただけだ」
「今日の用件ではなく、その先のことを申し上げているのです」
玉琴の顔が赤くなった。
達也は立ち上がったが、近づかずに卓の向こうで足を止めた。
「嫌なら、今日もこのまま帰ればよい。俺は何度でも口説くつもりだったが、最後に決めるのはお前だ」
「何度も言い寄っておきながら、最後だけ私に決めさせるのですか。ずるい方ですね」
「俺が勝手に決めるわけにはいかないだろう」
玉琴は笑った。
「本当に無茶な方です。月娘や鎧に知られたら、どうなさるおつもりですか」
「知られないようにする。お前も話さないだろう。今までのことも、誰にも話していない」
玉琴は目を伏せた。
「話せません。私まで、疑われてしまいますから」
「もう、疑われても仕方のない気持ちになっているのか」
「それ以上おっしゃったら、帰ります」
達也が口を閉じると、玉琴もその場を動かなかった。しばらくして、自分から椅子へ戻った。
「お茶を頂いてから帰ります」
達也は女中を呼ばず、自分で茶を注いだ。
「平西王様にお茶を入れていただくとは思いませんでした」
「誰かを呼べば、2人ではなくなるからな」
「初めから、そのおつもりなのですね。本当に悪い方です」
「今になって気付いたわけではないだろう」
玉琴は茶碗を受け取り、また笑った。
◇ ◇ ◇
その日、玉琴が王府を出たのは、日が傾いてからだった。付き添いの女中には、王妃の部屋で長く話していたと伝えた。
月娘は別の部屋にいたため、その説明を知らなかった。達也も何も話さなかった。
6日後、玉琴は再び王府を訪れた。今度は呉鎧の書状もなく、月娘へ渡す菓子を持ってきたという。
月娘としばらく話した後、帰る前に達也の書房へ寄った。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。入ってくれ」
達也は女中を下がらせた。玉琴は椅子に座らず、達也を見た。
「先日のことについて、申し上げておきたいことがございます」
「聞かせてくれ」
「私は王府へ入るつもりはありません。側室にもなりませんし、月娘にも、ほかの奥方にも知られたくありません」
「分かっている。お前は鎧の妻だ。王府へ迎えるつもりはないし、誰かに話すつもりもない」
「林夫人にも、お話しにならないでくださいませ」
達也は少し驚いた顔をした。
「林夫人に、お前のことを話す理由はないだろう」
「王様のお相手だと聞いております。だから、確かめておきたいのです。本当に、誰にも話さないとお約束くださいますね」
「約束する」
「私も、誰にも話しません」
達也は立ち上がり、玉琴の前へ進んだ。
「それは、俺との関係を受け入れるという意味に取ってよいのか」
玉琴は顔を上げられなかった。
「何度、言わせるのでございますか。本当に意地が悪い方です」
「大事なことだからな。嫌なら、今でも帰れる」
玉琴は達也を見た。
「帰りません」
初めて、はっきりとそう答えた。
達也はそれ以上聞かず、玉琴も拒まなかった。2人とも、その後に何が起きるかを承知し、それを誰にも話さないと決めていた。
玉琴は、その日も夕刻まで王府にいた。帰る時には普段と同じ顔をしており、達也もいつも通りに見送った。
◇ ◇ ◇
その夜、達也は月娘と夕餉を取った。
「今日は姉上が、菓子を持って来てくださいました」
「俺も会った。少し話をしたぞ」
「兄上から、何か伝言でもございましたか」
「いや、そういう話ではなかった」
月娘はそれ以上尋ねず、達也も何も付け加えなかった。魚を箸で取り、普段通りに食べ続けた。
「今日は、何だか御機嫌ですね」
「玉英を迎えたからではないかな」
「それは、もう何日も前のことでございます」
「軍人との付き合いが増えてきたこともある。話を聞ける相手が多くなったからな」
「それなら、よろしいのですが」
月娘は少し不思議そうにしただけで、食事に戻った。
同じ頃、玉琴も清河へ戻る馬車の中で、夫の呉鎧と普段通りに話していた。達也も玉琴も、秘密を守ることには慎重だった。
達也の頭にあったのは、関係が露見すれば面倒なことになる、という考えだった。知られなければ騒ぎにはならない。ならば、知られないように振る舞えばよいと思っていた。
◇ ◇ ◇
玉英を側室に迎え、沈家との縁を深める一方で、達也は武官を紹介してくれた呉鎧の妻とも関係を持った。
本人は、その2つを矛盾とは考えていなかった。沈家とのつながりも玉英自身も欲しく、呉鎧の力を借りながら玉琴も手に入れたかった。どちらかを諦めるのではなく、すべてを得ようとしていた。
もちろん、露見すれば今まで築いてきた関係が崩れる恐れはある。だからこそ、玉琴とのことは隠し通すつもりだった。
力を借りたい者とは付き合いを重ね、気に入った相手には贈り物をする。欲しい女には言い寄り、その場で断られれば引いても、次の機会にはまた口説く。相手の気持ちが自分へ向いたと思えば、その機会を逃さなかった。
西門慶が生きていれば、笑って酒を勧めたかもしれない。達也はもはや、彼の女遊びを聞いて笑うだけの男ではなくなっていた。




