第12話(中編1)――「王妃の実家」
(1119年初夏、北宋・開封府・平西王府)
林文瑞は、約束通り数日後に平西王府を訪れた。倉達也は書房へ通して席を勧め、禁軍の実情について話を聞いた。
「今日は堅苦しい話をするつもりはない。先日の続きを聞かせてくれ。まず、騎兵の馬が足りないというのは、どの程度なのだ」
「帳簿の上では数がそろっていても、戦に出せる馬となると不足しております。よい馬を持つ隊もあれば、足の遅い馬や老いた馬まで数に入れている隊もございます」
「兵の訓練も隊によって違うと言っていたな。日頃の訓練や、実戦の経験には、どれほど差がある」
「訓練は隊長の考えに左右されます。毎日十分に行っているとは限りません。騎射の得意な者もおりますが、全員が同じように射られるわけではございませんし、西北で戦った者と、都をほとんど出たことのない者とでは、経験も違います」
達也は聞いた内容を紙に書き留めた。帳簿に兵が1万人と記されていても、その全員が同じように戦えるわけではない。数だけで軍の強さを判断する危うさが、文瑞の話からも分かった。
「禁軍の中で、実際に兵を率いて戦える将を知っているか」
「何人か思い当たりますが……」
文瑞が言いよどむと、達也は筆を置いた。
「今ここで名前を挙げなくてもよい。名だけ聞いて俺が呼びつければ、相手も何事かと身構えるだろう。まずはお前と同じように、会って話をしたい」
「宴へお招きになるのでございますか」
「ああ。食事をして、酒を飲めばよい。馬を見に行っても、弓を射ても構わない。俺がどんな人間なのか知ってもらい、こちらも相手を知りたいんだ」
文瑞は達也の意図を確かめるように尋ねた。
「金に備えて、兵や将を集めようとなさっているのでございますか」
「その備えもあるが、今すぐ兵を集めるつもりはない。今度、信用できる者を2人か3人連れてきてくれ。身分より実力を見たい。ただし、口の軽い者は避けてほしい」
「承知しました。そのように人を選びます」
「無理に俺へ味方させようとする必要はないぞ。王府へ来たからといって、仕えると約束してもらうつもりもない。まずは飯を食い、話して帰ってもらえれば十分だ」
文瑞は少し意外そうな顔をしたが、達也の言葉を受け入れた。
達也も、それ以上の目的は明かさなかった。いずれ北宋を取る考えまで知っているのは、月娘だけでよい。今は、金への備えについて軍人の意見を聞くという説明で足りた。
◇ ◇ ◇
文瑞が帰った後、達也は呉月娘の部屋へ向かった。月娘は帳面を開き、女中や乳母の仕事の割り振りを確かめていた。
「少し、実家のことを聞きたい。お前の父親は軍人だったのか」
月娘は顔を上げた。
「今ごろお尋ねになるのでございますか。父は清河左衛の千戸でございました」
「千戸だったのか。そんな話は聞いていなかったぞ」
「隠していたわけではございません。王様が、お尋ねにならなかったのです」
達也は椅子に座った。月娘は帳面を閉じ、今になって実家を気にする理由を尋ねた。
「軍人とのつながりを増やしたいと思ってな。だが、その前に、お前の親族のことさえ十分に知らないと気付いた。兄弟もいるんだろう。今、どんな仕事をしているのか教えてくれ」
「兄と弟がおります。兄は皆から呉大舅と呼ばれておりますが、名は呉鎧でございます。右所の正千戸として、今も軍務に就いております」
「実の兄が現役の正千戸なのか。月娘、それはもっと早く知りたかった」
「ですから、王様がお尋ねにならなかったのでございます」
達也は額に手を当てた。西門家の女たちを迎え、自分の家族を作ることに気を取られ、その実家まで十分に目を向けていなかった。
「弟も軍に関わっているのか」
「呉二舅と呼ばれております。兄ほど軍務には深く関わっておらず、商いにも携わっております」
「それなら、馬や穀物、武具を扱う商人を知っているかもしれないな」
「どのような商人と付き合っているかまでは、私には分かりません。詳しいことは本人にお聞きください」
達也はうなずき、ほかの親族についても話してほしいと頼んだ。
月娘には呉大姨という姉がおり、その夫の沈姨夫とも付き合いが深かった。近親には呉舜臣と、その妻の鄭三姐もいる。鄭三姐は商家や有力者との交際を持つ女だった。
「急に、私の実家へご興味をお持ちになりましたね」
「王妃の親族をろくに知らない王では、間が抜けているだろう。今さらだが、ようやく気付いた」
月娘が笑うと、達也も苦笑した。
「近い親族は、今話した方々でございます。多くは清河や、その周辺に住んでおります」
「それなら、一度皆を招こう。俺は顔を知らないし、向こうも俺をよく知らない。王妃になったお前に会いに来てもらうのも、よい機会だ」
「皆を、王府へお呼びしてよいのでございますか」
「もちろんだ。お前の親族なら、俺の親族でもある」
月娘はしばらく達也を見つめた。
「王様から、そのように言っていただけるとは思いませんでした。西門家から私どもを迎えてくださった後は、新しい家族のことばかりお考えのように見えましたので」
「実家との縁を切れと言った覚えはないぞ。俺が気を回さなかったのは悪かったが、これからは遠慮せずに呼べばよい」
「ありがとうございます。皆にも知らせます」
月娘は閉じていた帳面を脇へ寄せ、親族へ出す文の支度を始めた。
◇ ◇ ◇
その日のうちに、達也は開封府の役人へ命じ、月娘の実家について調べさせた。
現在の住まいや仕事だけでなく、親族や婚姻の関係、付き合いのある軍人や商人も確かめるよう求めた。月娘の父が千戸を務めていた頃から、縁の続いている家も調査の対象とした。
罪や不正を探るためではない。王妃の親族について、平西王が正式に把握するという名目だった。
数日後から届き始めた報告の中で、達也が特に注目したのは呉鎧だった。父の代から軍籍にあり、清河周辺だけでなく、東平府や開封へ出入りする軍人にも知人がいた。
「これは頼りになりそうだな」
達也は報告書を読み進めた。
呉二舅は兄ほど軍務に深く関わっていないが、店や商人との付き合いがあった。軍を動かすには、米や塩、飼葉、布、革、荷車、馬、鉄など、さまざまな物資が要る。品物を集め、運べる商人とのつながりも欠かせなかった。
呉大姨と沈姨夫にも親族や知人がおり、呉舜臣夫妻を通じて、別の商家や有力家にも縁が続いていた。
1人の女を妻に迎えれば、父母や兄弟だけでなく、その配偶者の実家とも関わりが生まれる。達也は報告書を閉じ、西門慶が婚姻と人付き合いを通じて勢力を広げていた理由を、改めて考えた。
◇ ◇ ◇
約半月後、清河方面から数台の馬車と騎馬が平西王府へ到着した。
正式な招待状を受けて訪れたのは、呉鎧夫妻、呉二舅夫妻、呉大姨と沈姨夫、呉舜臣と鄭三姐だった。
一行は王府の大きさに圧倒されていた。門にも中庭にも兵が立ち、役人が出入りしている。西門家とは比べものにならず、その主人は西夏を滅ぼした平西王である。
広間では、達也と月娘が待っていた。呉鎧が進み出て、深く頭を下げた。
「平西王様にお目にかかります。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
「そんなに固くならなくてよい。月娘の兄なら、俺にとっても義兄だ」
「そうおっしゃっていただけるのは光栄ですが、私どもにとっては平西王様でございますので……」
ようやく顔を上げた呉鎧に、月娘が笑いかけた。
「兄上、王様はこのような方なのです」
「俺の悪口を言うなよ、月娘」
「まだ何も申しておりません」
2人のやり取りに、一行の緊張が少し解けた。呉大姨が月娘に近づき、その手を取った。
「本当に王妃になったのですね。西門家にいた頃には、こんな日が来るとは思いませんでしたよ」
「私もです。姉上たちに来ていただけて、嬉しゅうございます」
姉妹が再会を喜ぶ間、達也はほかの親族から挨拶を受けた。皆が落ち着いてから、招いた理由を説明した。
「今日は何かを命じるために呼んだのではない。月娘が王妃になったのに、その親族と俺がろくに会っていないのは、おかしいと思ってな」
「本来なら、こちらからご挨拶に伺うべきでございました」
呉鎧が頭を下げると、達也は気にしなくてよいと答えた。
「これを機会に、行き来してくれ。ただ、身内だからというだけで役目を与えるつもりはない。仕事を頼むなら、その者に任せられるかどうかを見て決める。逆に、力を借りられると思えば、遠慮なく頼むつもりだ」
一同は姿勢を正して聞いていたが、呉鎧は笑みを見せた。
「よく分かりました。お役に立てることがあれば、お申し付けください」
「そう言ってもらえると助かる。回りくどい話は苦手なんだ」
◇ ◇ ◇
夕餉は親族だけで取った。曹静蘭と李瓶児も顔を出し、8人の側室も順に挨拶したが、身重の者が多いため、皆を長く引き留める大宴会にはしなかった。
食事が進むと、達也は呉鎧に軍の話を向けた。
「父親の代から付き合っている武官がいると聞いた。今も交流は続いているのか」
「はい。清河や東平府におりますし、開封へ移った者もおります。禁軍に入っている者も、何人か存じております」
「今度、紹介してもらいたい。ただし、俺が兵を集めているという話にはしないでくれ。西夏戦役を終えた平西王が、金への備えについて意見を聞きたがっていると伝えればよい」
「承知しました。どのような席をお考えでございますか」
「食事をしながら話したい。馬を見たり、弓を射たりしてもよいだろう。俺も一緒に身体を動かすつもりだ」
呉鎧は、それなら軍人たちも喜ぶだろうと答えた。
「御前試合で何人もの猛者を倒された話は、よく知られております。西夏王を素手で倒したとも聞いておりますので、王様に会いたがる者は多いでしょう」
「後の話は、少し違う気もするが」
「首を折られたと聞いております」
「そこまで広まっているのか」
「軍人は、そのような話が好きでございますから」
達也は笑った。文瑞を通じて禁軍の若い武官と知り合い、呉鎧からは父の代以来の軍人を紹介してもらえる。別々の経緯を持つ者たちから、話を聞けるようになりそうだった。
続いて達也は、呉二舅へ商人との付き合いを尋ねた。
「軍へ物を納めている者にも、知り合いはいるか」
「米や飼葉を扱う商人なら、何人かおります。馬商人については、兄の方が詳しいと思います」
「私も数人、存じております」
呉鎧が答えると、達也は双方に紹介を頼んだ。
「すぐに大きな注文を出すつもりはない。まず会って、扱っている品や仕事の仕方を聞きたい」
誰が約束を守り、どの程度の仕事を任せられるのか。平西王の金だけを目当てに近づく者ではないか。達也は、実際に付き合いながら確かめるつもりだった。
◇ ◇ ◇
食事の後、達也は呉鎧、呉二舅、沈姨夫、呉舜臣と別室へ移った。酒が行き渡ると、手元に紙を置いて話を切り出した。
「軍人の家と、もっと強く結び付くには、どうするのがよいと思う」
「やはり婚姻でございましょう」
呉鎧が答えると、達也もうなずいた。
「俺もそう考えていた。俺自身が側室を迎えることもできるし、家臣同士の婚姻を取り持つ方法もある」
「王様には、すでに大勢の奥方がおられると聞いております。それでも、まだお迎えになるおつもりでございますか」
呉二舅が尋ねた。
「必要なら考える。家同士を婚姻で結ぶこと自体は、珍しくないだろう」
「武官の家では、特にそうでございます」
沈姨夫が同意した。
「娘を嫁がせた相手と、宴で顔を合わせただけの相手では、付き合いの深さも違いますから」
達也は呉鎧へ向き直った。
「開封の武官の家に、縁談を考えられそうな女はいないか。未婚でも、再婚を望む未亡人でも構わない。家柄は軍人の家がよい」
「お相手の容姿についても、ご希望がおありでしょうか」
「美人がよい。側室に迎えるのだから、そこは気になる。それと、人柄や分別も大事だ」
呉二舅が吹き出し、呉鎧も笑った。
「王様は、その点も率直でいらっしゃいますね」
「隠しても仕方がないだろう」
呉鎧はしばらく考え、1人の名を挙げた。
「沈玉英という方が、思い当たります。23歳の未亡人で、夫を病で亡くしております。実家は禁軍の武官の家で、父も兄も軍務に就いております」
「俺より1歳上か。本人は、どのような女なのだ」
「武官の家で育っておりますから、軍の話には慣れております。ただ、ご自身が剣を振るうような方ではございません」
呉鎧は、玉英が詳しいのは軍人の家同士の付き合いだと説明した。どの家が親しく、誰と誰の折り合いが悪いのか、どの将がどの隊に縁を持つのか。武官の妻や母親たちの間で交わされる話も、よく知っているという。
達也は興味を引かれた。役職や所属を書いた一覧だけでは、そうした関係までは分からない。
「本人に会ったことはあるのか。容姿の評判も、聞いておきたい」
「何度かお目にかかっております。美しい方だと評判でございますよ」
「それなら、まず沈家と普通に付き合えるようにしてくれ」
「玉英殿を、こちらへお招きいたしましょうか」
「いや、先に父親や兄と会いたい。いきなり未亡人を王府へ呼べば、誰でも縁談だと思うだろう。まず軍人同士として話をし、家のことも知ってからにする」
「承知しました。そのように進めます」
達也は、地位を使って早急に縁組をまとめるつもりはなかった。玉英本人だけでなく、沈家と関係を築くことにも意味がある。相手にも望ましい縁組だと考えてもらわなければ、長い付き合いにはならないと思っていた。
◇ ◇ ◇
その夜、親族を送り出した後、達也は月娘の部屋へ入った。
「今日は疲れただろう。もう休んだ方がよい」
「少し疲れましたが、久しぶりに皆と会えて嬉しゅうございました。王様、お招きくださってありがとうございます」
「今まで会おうとしなかった俺が、気を回せていなかったんだ」
達也は月娘の隣に腰を下ろした。月娘の顔には、再会の喜びが残っていた。
「鎧は頼りになりそうだな。さっそく軍人を紹介してもらうよう頼んだ」
「もう兄上に仕事をお任せになるのでございますか」
「すぐに部下にするわけではない。父親の代からの知り合いに、会わせてもらうだけだ。あれだけの付き合いがあるなら、力を借りたい」
「兄上も、お役に立てれば喜ぶと思います」
達也は月娘を見た。
「父親も兄も軍人だったのだな。お前も、そういう家で育ったわけか」
「私自身は、戦えませんよ」
「それは分かっている。ただ、俺が戦へ出る時にも慌てないのは、そのせいかと思ってな」
「毎回、心配しております。お止めしないのは、止めても行かれるからでございます」
「そうだったな」
2人は顔を見合わせて笑った。しばらくして、月娘が別室での話を尋ねた。
「兄上たちとは、ほかにどのようなお話をなさったのでございますか」
「軍人の家との縁談について聞いた。まだ何も決めていないが、鎧から沈玉英という23歳の未亡人を教えてもらった。父も兄も禁軍の武官らしい」
「もう縁談のお話まで進んだのですか。側室にお迎えになるおつもりでございますね」
「会ってから考える。まずは父親や兄と付き合うことにした」
月娘は名前を覚えるように繰り返した。
「沈玉英という方なのですね。美しい方なのでございますか」
「鎧はそう言っていた」
「そこは、もう確かめておられたのですね。王様は本当にお変わりになりません」
月娘が笑いながら腹に手を置くと、達也も笑みを返した。
「変わらない方が、安心できるか」
「はい。王様が王様のままでいらっしゃる方が、私は安心いたします」
達也は月娘の肩を抱き、そのまましばらく寄り添っていた。
◇ ◇ ◇
それから、平西王府へ軍人が少しずつ出入りするようになった。
文瑞は禁軍の若い武官を2人連れてきた。呉鎧も旧知の武官を紹介した。皆、初めは平西王を前にして緊張していたが、達也は軍議のような席にはしなかった。
食事や酒を出し、馬や弓について話した。西夏で何が役に立ち、何が役に立たなかったかを語り合い、時には王府の庭で身体を動かした。
達也がまだ22歳だと知って驚く者も多かった。西夏を滅ぼした王と聞き、威圧的な大将を想像していた者もいたが、実際の達也は相手の身分にかかわらず話を聞き、知らないことは知らないと認めた。
一方、戦に関わる話になると、細部まで尋ねた。馬1頭に与える飼葉の量や、兵1人が1日に食べる米、負傷者の運び方、夜間の部隊間の連絡など、将兵の働きを支える事柄にも関心を示した。
やがて軍人たちの間で、平西王は現場の話をよく聞くという評判が広がり始めた。
達也は忠誠を誓わせず、北宋を裏切れとも言わなかった。相手の話を聞き、名前を覚え、次に会った時には前の話の続きを尋ねた。相手にも、戦功や爵位だけでなく、達也という人間を知ってもらおうとしていた。
いずれ遼へ兵を向ける時、この中から共に戦う者が出るかもしれない。さらに先の戦でも、今から重ねる付き合いが意味を持つ可能性はあった。ただ、その時に誰が自分を選ぶかは、まだ分からない。
月娘の実家と文瑞を通じて、武官や商人との縁は広がり始めていた。まだ会っていない沈家にも、これから話を聞く機会ができるだろう。
達也は開封にとどまりながら、次の戦を支える人々との付き合いを、一つずつ築いていった。




