第12話(前編2)――「王妃と開封の女」
(1119年初夏、北宋・開封府・倉家)
夕餉を終えた後、倉達也は妻妾全員を広間へ集めた。
妃の曹静蘭、呉月娘、李瓶児に加え、側室の李嬌児、孟玉楼、孫雪娥、潘金蓮、王六児、如意、宋恵蓮、一丈青が席に着いた。
「今日は家のことで話がある。平西王になった時、静蘭、月娘、瓶児の3人を同格の妃とし、正室は置かないと決めた。だが、その考えを改めたい」
女たちの視線が集まる中、達也は月娘を見た。
「月娘を俺の正室、平西王の王妃にする」
月娘はすでにこの話を承知していたが、その場では口を挟まず、皆の反応を待った。最初に声を上げたのは静蘭だった。
「王様のお考えが変わった理由を、お聞かせいただけますか」
「西夏旧領を治めるようになり、これからは家臣も領地も増える。家の中で誰が最後の判断をするのか、決めておいた方がよい。月娘は西門家にいた頃から大きな家をまとめ、俺が戦に出ている間も倉家を預かってくれた。妻妾や子供たち、女中や乳母のことも、一番よく知っている」
達也は静蘭へ向き直った。
「お前には、これまで通り商いと外との付き合いを任せたい。瓶児にも別の仕事を頼むつもりだが、それは改めて話そう。まず、月娘を王妃にすることに異存があれば、ここで聞かせてくれ」
「私は賛成いたします。商いや外の方との交渉なら私にもできますが、これだけ大きくなった王府を毎日まとめるには、月娘の方が適任です」
迷いのない返事に、月娘は静蘭を見た。
「そう言ってもらえると心強いわ。ありがとう」
「私も賛成いたします」
瓶児が笑みを浮かべた。
「私は人に命じるより、困っている方のお話を聞く方が向いておりますから」
「俺もそう思う」
「王様、少しくらい迷ってくださってもよろしいのではございませんか」
広間に笑いが起こり、達也も笑いながら謝った。瓶児は改めて月娘に頭を下げ、王妃になることへの賛意を伝えた。
玉楼に続き、嬌児、雪娥、王六児、如意、恵蓮、一丈青も了承した。最後まで口を開かなかった金蓮に、達也が声をかけた。
「金蓮、お前の考えも聞かせてくれ」
「私が何か申し上げると思って、お待ちになっていたのでございますね」
「何も言わずに済むとは思っていなかった」
「では、ご期待には応えたことになりますね」
女たちが笑う中、金蓮は月娘へ顔を向けた。
「私も賛成いたします。家のことは、もともと月娘が一番よく見ております。王妃になられても不思議ではございません」
全員の了承を得ると、月娘は立ち上がった。
「ありがとうございます。王妃になっても、静蘭や瓶児、皆を見下すつもりはございません。ただし、家の中で争いが起きた時には、最後は私が判断いたします」
「例えば、どのような争いでございますか」
金蓮の問いに、月娘は具体例を挙げた。
「誰が王様に多く召されたか、誰の子が男で誰の子が女だったかと争うことです。新しく来た方が、先にいる者より自分の方が上だと言い出すようなことも許しません」
「俺の寝所まで例に出さなくてもよいだろう」
「一番分かりやすい例でございます」
再び笑いが起こったが、月娘は皆が聞く姿勢に戻るのを待って話を続けた。
「もう1つ、お伝えしておきます。王様からは、今後も新しい側室を迎える可能性があると伺っております」
静蘭と瓶児だけでなく、側室たちも一斉に達也を見た。
「まだお増やしになるのでございますか」
静蘭に尋ねられ、達也は隠さず答えた。
「その可能性はある。増やさないと約束して、嘘になる方が困るだろう」
「ずいぶん正直でございますね」
金蓮が笑うと、月娘は話を戻した。
「私は王妃として、王様がどなたをお迎えになるかには口を出しません。皆にも、そのようにしていただきます。ただし、新しく来た方が今いる者を追い出そうとしたり、寵愛を頼みに威張ったり、子供同士を争わせたりすることは許しません」
「俺も同じ考えだ。家の秩序は月娘に任せる」
「王様にも守っていただきます。新しい方に、そなたが一番大切だとか、今いる者を追い出して迎えるなどと、軽々しくおっしゃらないでください」
「そんな約束はしない。それは守る」
月娘がうなずくと、静蘭と瓶児が頭を下げ、8人の側室もそれに続いた。
「では、今日から月娘を俺の正室、平西王の王妃とする」
達也の言葉を受け、月娘は皆に一礼した。
◇ ◇ ◇
数日後、達也は書房で西夏戦役の帳面を読んでいた。戦死者と負傷者の名に、妻子の有無などが書き添えられている。
戦死した兵の家族には銀を渡し、負傷者の治療費も負担していた。しかし、幼い子供を3人残して夫が死んだ家もあれば、脚を失って兵として働けなくなった者もいる。夫を失った後に、妊娠が分かった妻もいた。
「銀を渡して終わりでは駄目だな」
達也が漏らした言葉を、部屋へ入ってきた瓶児が聞き留めた。
「兵のご家族のことでございますか」
「ああ。戦死した者や負傷した者の家が、その後どうなっているのか気になってな」
瓶児は隣に座り、帳面を読み始めた。
「こちらの奥方には、お子が3人おられるのですね。でも、年齢までは書いてございません。奥方が働けるのか、ご実家などに頼れるのかも分からないようでは、この先の暮らしを考えられませんね」
「俺にもそこまでは分からない。銀を渡した後のことを、調べさせていなかった」
「でしたら、私に調べさせていただけませんか」
達也は瓶児の腹へ目を向けた。
「身重のお前に、あちこち歩かせるわけにはいかないぞ」
「すべての家へ、自分で出向くつもりではございません。まず何軒か伺って、何を確かめればよいかを考えます。その後は、役人や女中に頼めると思います」
瓶児は帳面を指しながら、調べたいことを説明した。
「家族の人数と子供の年齢、住まいの有無、奥方が働けるか、頼れる親族がおられるかを確かめたいのです。負傷した兵については、今の身体でどのような仕事ができるかを調べます。脚を悪くしても、手が動けば武器の手入れや倉の管理ができる方もおられるでしょう」
「先日、お前に別の仕事を頼むと言ったな。その役目を任せたいと思っていたんだ」
瓶児は驚いた顔で達也を見た。
「役人にするという話ではない。調べ役や医者、産婆、女中の力を借りて、誰が何に困っているかを確かめてほしい。費用は静蘭と相談し、人手は月娘に頼んでくれ。役人や軍を動かす必要があれば、俺に言えばよい」
「承知いたしました。ただ銀を配るだけでなく、働ける方には仕事をしていただけるようにしたいと思います。母親が働くために子を預ける場所が必要なら、それを用意します。負傷した方にも、できる仕事を探していただく。そのうえで足りないところを、王府で助ければよいのではないでしょうか」
達也は瓶児の顔を見て笑った。
「お前に任せて正解だったな」
「まだ何もしておりませんよ」
「どう取り組むつもりか聞けただけでも、頼んでよかったと思う」
◇ ◇ ◇
瓶児は実際に数軒の家を訪ねた。
夫を失った27歳の女は、7歳、5歳、2歳の子を育てていた。縫い物はできるものの、幼い子を置いて働きに出ることができない。瓶児は、重い仕事のできない年配の女に、昼間だけ子供を預ける方法を考えた。
別の家には、右脚に大きな傷を負った兵がいた。戦場には戻れないが、手は動き、馬の扱いも心得ている。報告を受けた達也は、負傷兵を身体の状態に応じて兵舎や倉、馬屋、武器庫の仕事へ回す仕組みを作らせた。
戦死者の妻には、出産を控えた女もいた。産婆を頼む銀さえ、生まれてくる子のために残そうとしていたため、瓶児は月娘と静蘭に相談した。
「王府で産婆を雇い、兵の妻の出産にも立ち会っていただけないでしょうか。お金を惜しんで、頼まずに済ませようとしている方がおられるのです」
「私たちも、これから次々に出産を迎えます。腕のよい産婆に常にいてもらえれば、心強いですね」
月娘が人員を整え、静蘭が費用を管理することになった。瓶児の提案で、若い女を産婆の助手として育てる取り組みも始まった。
対象は、まず達也の兵とその家族に限られた。それでも、銀を渡して終えるのではなく、その後の暮らしまで確かめられるようになった。
「いずれ西夏でも、同じことができればよいと思います」
瓶児が話すと、達也は顔を上げた。
「旧西夏軍の兵や、その家族にもか。つい先頃まで敵だった者たちだぞ」
「今は西夏も王様の領地でございます。でしたら、そこに暮らす方々も王様の民ではございませんか」
達也はしばらく瓶児を見てから、うなずいた。
「その通りだな。文亮にも知らせておこう」
◇ ◇ ◇
月娘が王府をまとめ、静蘭と瓶児もそれぞれの仕事を進める中、崔文亮は西夏へ赴任し、達也の代理として統治を始めた。
達也は書房の卓に地図を広げ、次の戦に必要なものを書き出した。兵や馬、武器、食糧だけでなく、治療の備えや資金も要る。軍を率いる将、税を集める役人、物資を運ぶ商人、新たに手に入れた町を治める者も必要だった。
情報と人脈という2つの項目に、達也は丸を付けた。最後に北宋を取るのであれば、今のうちから朝廷や禁軍の中にも、話のできる相手を増やしておかなければならない。
開封にいる間は宴にも出席し、武官や商人と話す。役人の家に招かれれば足を運び、自分でも街を見て回るつもりだった。西夏の統治を固め、家族の出産を待つ間にできることは多かった。
ただ、達也には戦の準備とは別に、身近な問題もあった。11人の妻妾のうち9人が身ごもり、夜を共にできるのは恵蓮と一丈青だけになっていたのである。
その夜、恵蓮の部屋にいると、彼女が遠慮がちに切り出した。
「王様、明日は一丈青のところへおいでくださいませ」
「まだ今夜も終わっていないぞ。俺が嫌になったか」
「そうではございません。お越しくださるのは嬉しいのですが、今は私と一丈青しかおりませんでしょう。以前なら、ほかの方のお部屋へ行かれる間、何日も休めました」
達也の笑いが止まった。恵蓮は困った顔をしながらも、言葉を続けた。
「王様は22歳で、お元気なのも承知しております。でも、私たちにも昼の暮らしがございます。少し休ませていただきたいのです」
「負担をかけていたんだな。悪かった。無理をさせるつもりはない」
「でしたら、時々はお1人でお休みくださいませ」
「そうするように努力する」
「月娘からも、そのお返事が一番心配だと聞いております」
「皆で同じことを言うな」
恵蓮は笑った。達也も、自分が元気だからといって、2人に負担を集中させてはならないと思った。
◇ ◇ ◇
数日後、府衙の仕事を早めに終えた達也は、倉家へ直帰せず、開封の街を歩いた。平西王となった今、完全な1人歩きは難しいが、大勢を引き連れず、護衛には少し離れて付いてこさせた。
市場には夏物の布が並び、薬舗の前には薬草が積まれていた。魚屋の桶では魚が跳ね、茶楼からは客の声が聞こえる。荷車の行き交う大通りで、達也は店に入り、値段や商いの様子を尋ねた。
しかし、顔を知っている者は多かった。「知府様ではございませんか」と気付かれると、店の者が一斉に姿勢を正す。平西王だと分かれば、気軽に値段を聞くことさえ難しかった。
「これでは見物にならないな」
苦笑して大通りを外れると、女中を連れた女が向こうから歩いてきた。40歳を少し過ぎた頃に見え、華美ではないが上質な衣を着ている。高官の家を長く預かってきた女らしい落ち着きがあった。
女は達也を見て足を止めた。
「もしや、平西王様ではございませんか。突然お声をかけて失礼いたします。私は林太尉の妻でございました。林と申します」
「林夫人か。西門慶から、何度も話を聞いたことがある」
林夫人の表情が変わった。
「西門様は、どのようなお話をなさったのでございましょう」
「かなり詳しく聞かされた、とだけ言っておこう」
林夫人は困った顔をした後、笑った。
「それでしたら、私も王様のお話を随分伺っております。初めてお目にかかった殿方には、申し上げにくいことまで」
「西門慶め。俺のことも話していたのか」
達也には心当たりが多く、それ以上は聞けなかった。
西門慶からは、夫の留守が多かった林夫人へ贈り物を重ね、3度目になってようやく受け取ってもらったと聞いていた。その後の関係まで、酒の席で得意げに語っていた男である。林夫人にも、達也の女好きや精力の強さを話していたらしかった。
「林太尉は、お元気なのか」
尋ねると、林夫人の顔が曇った。
「昨年、亡くなりました。長く病んでおりまして、最後は寝台から起きることも難しくなっておりました」
「知らなかった。看病も大変だっただろう」
「もう随分たちました。今は息子夫婦と暮らしておりますので、1人きりではございません」
林夫人は、息子の名を林文瑞と告げた。26歳で、父と同じ軍の道に進み、今は開封の禁軍で騎兵隊の訓練や装備の管理に携わっているという。
「俺より4歳上なのか。禁軍の騎兵を見ているなら、一度話してみたいな」
「本人が聞けば大喜びいたします。嫁の蘇香蘭は22歳で、王様と同じ年でございます。開封では、美人だと少し名の知られた娘なのですよ」
「姑が自分で褒めるとは、よほどの美人なんだな」
「私だけが申しているのであれば、身びいきでございましょう。でも、本当によく人から言われるのです」
「それほどなら、会ってみたくなるな」
林夫人は楽しそうに達也を見た。
「お仕事がお済みでしたら、今から我が家へいらっしゃいませんか。夕餉をご一緒していただければ、息子夫婦もお目にかかれます」
「突然、平西王が行けば慌てるぞ。迷惑にならないか」
「間違いなく慌てます。でも、王様が来てくださると聞いて、嫌がりはいたしません」
達也は笑い、誘いを受けることにした。
◇ ◇ ◇
女中が先に走って知らせたため、林家へ着くと、背の高い若い男が門まで出迎えに来た。
「林文瑞と申します。平西王様をお迎えでき、光栄でございます」
「達也だ。今日は急に押しかけて悪いな」
深く頭を下げた文瑞は、武官らしく身体を鍛えていた。慌てて出てきたものの、受け答えは落ち着いており、父の名を頼みに威張るような様子はなかった。
「母が何か失礼なことを申しませんでしたでしょうか」
「なぜ最初から母親を疑うんだ。夕餉に誘ってもらっただけだぞ」
達也が笑うと、林夫人も息子をにらんだ。
「それが一番驚くのでございます」
文瑞が困った顔をしたところへ、後ろから香蘭が現れた。
淡い桃色の衣を着た、肌の白い女だった。派手な化粧をしていなくても整った目鼻立ちが目を引き、林夫人の言葉が身びいきではなかったと分かった。
「蘇香蘭と申します。平西王様にお目にかかれて、光栄でございます」
「突然来て悪かった。夕餉の支度もあるだろうに」
「とんでもございません。我が家で召し上がっていただけるとは思わず、驚いております」
香蘭は夫より落ち着いており、急な客にも慌てた様子を見せなかった。
話を聞くと、実家は絹を扱う商家だという。嫁いでからも実家とのつながりを保ち、林家で刺繍や仕立ての注文を受け、数人の女を使って裕福な家の衣装を仕立てていた。
「若いのに、しっかり仕事をしているんだな」
達也は素直に感心した。美しい女ではあるが、文瑞の妻であり、そのことと仕事への評価は分けて考えていた。
夕餉には鶏の蒸し物や魚、豆腐、青菜、羊肉などが並んだ。急な訪問にもかかわらず、十分なもてなしだった。
達也は向かいに座った文瑞に、早速、騎兵のことを尋ねた。
「禁軍の馬は足りているのか。訓練の様子も、差し支えない範囲で聞かせてほしい」
文瑞が母を見たため、林夫人は笑った。
「王様は、夕餉の席でも軍のお話でございますか」
「現場を知る者に会えば、聞きたくなるんだ」
文瑞も笑い、馬は十分とはいえず、西北から入ってくるものにも良馬は限られると答えた。訓練の程度も、隊によってかなり違うという。
達也には聞きたいことが次々と浮かんだが、今日は軍議に来たのではなかった。
「すまない。この続きは、また今度にしよう。王府へ来てくれれば、改めて現場の話を聞きたい」
「私をお招きいただけるのでしたら、ぜひ伺います」
文瑞の顔が明るくなった。
「私が夕餉へお招きしただけで、息子まで得をいたしましたね」
「俺も禁軍の話を聞けた。お互い様だ」
林夫人と達也のやり取りに、香蘭が微笑んだ。
「母上が一番お喜びなのではございませんか。王様とお知り合いになり、文瑞まで王府へお招きいただいたのですから」
「計算してお誘いしたわけではありませんよ」
4人は笑い、達也も久しぶりに気楽な夕餉を楽しんだ。
◇ ◇ ◇
食事が終わると、香蘭が席を立った。
「母上と王様には、西門様のお話などもございましょう。私たちは、これで失礼いたします」
香蘭が夫とともに退出し、庭に面した部屋には達也と林夫人が残った。
「よい息子夫婦だな。文瑞は真面目そうだし、香蘭も評判通りの美人だ」
「息子は父に似たのでしょう。香蘭のことも、よく御覧になっていたのでございますね。西門様から、王様は美しい女に弱いと聞いております」
「そんなことまで話していたのか」
「大変お元気だというお話も伺いました。西門様は大げさなお方でしたので、半分ほどに聞いておりましたけれど」
達也は酒杯を置いた。
「そのまま半分にしておいてくれ」
「でも今は、9人の奥方が同時に身ごもっておられるそうではございませんか。西門様のお話も、それほど大げさではなかったようでございますね」
「なぜ、そこまで知っているんだ」
「平西王様のお屋敷のことですもの。開封では、よく知られております」
達也が困った顔をすると、林夫人は楽しそうに笑った。
43歳の林夫人は、達也より21歳年上だった。実際に話すと、西門慶が惹かれた理由が分かる気がした。冗談を受け流す余裕があり、自分の考えもはっきり口にする。達也も、気を張らずに話せた。
「林太尉を亡くして、寂しくはなかったか。息子夫婦がいても、それとは別だろう」
林夫人は少し考えてから答えた。
「寂しくなかったと申せば、嘘になります。子供がそばにいることと、男の方がいることは違いますから」
「そうだろうな」
「22歳の王様が、よくお分かりになりますね」
「妻妾が11人もいれば、少しは分かる」
「ご自分でおっしゃるところは、西門様より正直でございます」
「西門慶なら、自慢しただろう」
「それも確かでございます」
その夜は、それ以上のことは起きなかった。達也が礼を言って辞去すると、林夫人は門まで見送った。
「またお越しくださいませ。ただ、次は先にお知らせください。香蘭が慌てずに済みますから」
「分かった。今度は知らせてから来る」
◇ ◇ ◇
翌日、達也は夕餉の礼として、林家へ上等な茶を届けさせた。相手が気兼ねするほど高価な品にはせず、林夫人からは礼の文が届いた。
それを読みながら、西門慶も贈り物から始めたと話していたことを思い出した。ただ、今の林夫人は未亡人であり、当時とは事情が違う。達也に大勢の妻妾がいることも、彼女は承知していた。
数日後には、夕餉の席で林夫人が好んでいたものに近い酒を送った。今度の返事には、自分で持ってきてほしいと書かれており、達也は思わず笑った。
次に会ったのは、開封の茶楼だった。林夫人は女中を連れ、達也の護衛は離れた席に座った。
2人は茶を飲み、菓子をつまみながら、林太尉が元気だった頃や西門慶の話をした。達也が熊を倒したことや御前試合、西夏との戦についても、林夫人はよく知っていた。
「西門様からも、いろいろ伺いました。女のお話などは、特に詳しゅうございましたよ」
「そこだけは忘れてくれ。何を話したのか、聞くのも怖くなる」
「忘れてしまうには、面白いお話が多すぎます」
茶楼を出た後、2人は市場を歩いた。香を扱う店の前で林夫人が足を止めたため、達也は好みを尋ねた。
「私は、こちらの方が好きでございます」
林夫人が示したのは、淡い香りの香木だった。達也はその場では買わず、3日後に同じ品を林家へ届けさせた。
3度目の贈り物だった。林夫人は箱を開き、香木をしばらく見てから笑った。
「西門様から聞いたのでしょうね」
その日の午後、達也のもとへ夕餉の誘いが届いた。文瑞と香蘭は、その夜、文瑞の同僚の家に招かれているとも記されていた。
達也は文を読み、林夫人の意図を察した。
◇ ◇ ◇
林家へ向かう前、達也は月娘の部屋へ寄った。
「今夜は林夫人の家で夕餉を取る。これから行ってくる」
「このところ、よくお会いになりますね。贈り物も3度お出しになったでしょう」
「よく知っているな」
「王府からお届けしているのですから、分かります。林夫人は43歳、王様は22歳でございましたね」
「21歳違うと言いたいんだろう。それは俺も数えた」
月娘は笑い、達也の顔を見た。
「側室としてお迎えになるおつもりでございますか」
「いや。王府へ入れるつもりはない。林夫人も望むなら、愛人として付き合うことになる」
「お相手のお気持ちも、もうお分かりなのでございましょう。王様は、女のことになるとお顔に出ますから」
達也は苦笑した。
「前に約束した通り、口を出さずにいてくれるか」
「お止めはいたしません。林夫人は未亡人ですし、王府の序列に入ることも望まれないのであれば、私が止める理由はございません。ただ、恵蓮と一丈青のことも忘れないでくださいませ」
「忘れない。それは約束する」
月娘はうなずき、達也を送り出した。
◇ ◇ ◇
その夜の林家は静かだった。文瑞と香蘭は出かけており、達也と林夫人だけで夕餉の卓を囲んだ。
「今夜は、私が王様をお招きしたのでございます。3度目の贈り物も頂きましたから」
林夫人は達也の杯に酒を注いだ。
「やはり気付いたか。西門慶から、贈り物の話を聞いていたんだ」
「西門様は、3度目まで随分苦労なさいました。でも、今の私は未亡人です。誰かの許しを得なければ男の方とお会いできない立場ではございません」
「俺の贈り物を、最初から受け取ってくれたのは、そのためか」
「それもございます。それに、王様が何のために何度も会いに来られるのか、私にも分かっております」
達也と林夫人の視線が合った。
「俺も隠してはいない。迷惑には思わなかったか」
「そうでしたら、今夜お招きしておりません」
茶を飲み、市場を歩き、夕餉を共にするうちに、2人は互いの望みを知っていた。それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。
食事が終わると、女中が卓を片付け、酒と茶を残して下がった。
「今夜は少しお酒を召し上がりましたね。王府へお帰りになるのも大変でしょうから、泊まっていかれませんか」
「そうしてもよいのか」
林夫人は笑った。
「ここまで来て、まだお尋ねになるのでございますか。では、はっきり申し上げます。今夜は、お帰りにならなくても結構でございます」
「分かった。世話になる」
林夫人は立ち上がって部屋を出ると、数歩先で振り返った。
「こちらでございます」
達也はその後に続いた。
◇ ◇ ◇
翌朝、達也は林家で朝餉を取った。林夫人は昨夜までとほとんど変わらず、むしろ達也の方が照れていた。
「王様、西門様のお話は本当でございましたね」
達也の箸が止まった。
「朝から何を言っているんだ」
「今さらお恥ずかしがりになるのでございますか。やはり22歳でございますね」
「林夫人は43歳だろう」
「女の年齢を、朝から確かめないでくださいませ」
「先に俺の年を言ったのは、そちらだぞ」
2人は笑った。しばらくして、達也はこれからの付き合いについて切り出した。
「今後も会いたいと思っている。林夫人は、この関係をどうしたいと考えているんだ」
林夫人は茶碗を置いた。
「王府へ入るようにとは、おっしゃいませんね」
「そのつもりはないが、そう言われたら困るか」
「嫌なのではございません。ただ、私にはこの家を離れる理由がないのです。夫が残した家で、息子夫婦と暮らしております。今の暮らしを変えたいとは思いません」
林夫人には、すでに自分の居場所があった。達也も、そのことは分かっていた。
「王様には王妃も妃も側室もおられます。私は、その中へ入りたいとは思わないのです」
「俺も側室にするつもりはない。この家で暮らし続ければよい」
「でしたら、お会いになりたい時に、ここへお越しください。私がお会いしたくなった時には、文を差し上げます」
「それでよいな。そうしよう」
林夫人も微笑んだ。
こうして林夫人は王府へ入らず、文瑞や香蘭と暮らしながら、達也と男女の付き合いを続けることになった。達也が林家に泊まることもあれば、林夫人の方から呼ぶこともある。互いの暮らしを変えずに会うという形を、2人で選んだのだった。
◇ ◇ ◇
林家を出た達也は、朝の開封を馬で進んだ。
恵蓮と一丈青に夜の負担が集中する状況も、これで少しは変わるだろう。ただ、林夫人と付き合う理由は、それだけではなかった。
林夫人は自分の家と考えを持ち、達也が王だからといって必要以上に持ち上げなかった。会いたい時に会い、それぞれの暮らしへ戻る。その距離の取り方が、達也には心地よかった。
思いがけず、禁軍の武官である文瑞とも知り合えた。開封には、まだ会ったことのない武官や役人、商人が大勢いる。文瑞からは軍の現場について話を聞きたいが、母親との関係を使って従わせるつもりはなかった。
次の戦に備えるには、西夏の統治を固め、兵や物資を整える必要がある。瓶児が始めた家族支援も、続けられる仕組みにしなければならない。家族の出産を待つ間も、開封で取り組むべきことは残っていた。
遼、金、そして北宋を取るという決意は変わらない。だからこそ、準備を怠って足元を崩すわけにはいかなかった。達也はしばらく都にとどまり、人に会い、次の戦に必要なものを整えるつもりだった。




