第12話(前編1)――「王妃に告げた天下」
(1119年初夏、北宋・開封府・倉家)
平西王となってからも、倉達也は夜明け前に起きて身体を動かし、朝餉を終えると開封府衙へ向かった。
西夏旧領を治める身となったが、開封知府の職は辞めておらず、皇帝からも辞任を命じられていない。征服後の処理は現地に残した将兵と役人に任せ、その報告を受けて開封から指示を出していた。
ただ、この体制をいつまでも続けるわけにはいかなかった。広い西夏旧領には、宋の支配を快く思わない者も残っている。旧西夏の官吏を使いながら徴税の仕組みを整え、降伏した兵もまとめ直さなければならない。
達也には、さらにその先を見据えた考えもあった。
その夜、夕餉を済ませた達也は、呉月娘の部屋を訪れた。身ごもっている月娘の腹は、衣の上からも膨らみが分かるようになっていた。
「今日は早いのでございますね。西夏から何か知らせがございましたか」
「ああ。その報告もあるが、今日はお前と話したくて、府衙の仕事を早めに切り上げた。人払いしてくれ」
いつもと違う口調に、月娘は手にしていた帳面を閉じた。女中を下がらせて戸を閉めさせると、達也のもとへ戻った。
「これで誰もおりません。どうぞ、お話しください」
「まず座ってくれ。立っていると腹に障る」
「まだそこまで弱ってはおりませんよ」
「分かっている。俺が気になるだけだ」
月娘は笑って椅子に腰を下ろした。達也も向かいに座ったが、すぐには話し始めなかった。
「王様。人払いまでなさったのですから、よほど大事なお話なのでございましょう」
「その王様という呼ばれ方にも、まだ慣れないな」
「西夏を滅ぼして王になられた方が、何を今さらおっしゃるのでございますか」
「西夏を取ったからこそ、考えるようになったんだ。俺は、もっと国が欲しい」
月娘は笑みを収め、達也を見返した。
「西夏だけでは足りないとおっしゃるのでございますか」
達也は卓上の紙を広げた。北宋と西夏、その北にある遼や金の位置を記した簡単な地図だった。
「今までは、金が強くなる前に兵を育て、開封を守ろうと考えていた。だが、西夏を手に入れて考えが変わった」
西夏を示していた指を北へ動かし、さらに東へ移した。
「まず遼を取り、次に金を滅ぼす。最後は宋も俺のものにする」
月娘は地図から顔を上げた。達也の表情に冗談の気配はなく、問いかける声にも緊張がにじんだ。
「北宋までお取りになるのであれば、皇帝陛下を倒すことになります。そこまでお考えなのでございますか」
「ああ。俺が中華の皇帝になるつもりだ」
これまでも達也は、金の侵攻に備えて兵を強くする必要を説いていた。しかし、今夜の話は宋を守るための戦ではない。仕えている皇帝を倒し、自らその座に就くという決意だった。
月娘が言葉を探していると、達也は地図へ目を戻した。
「西夏を取る前なら、こんなことは考えなかったかもしれない。だが、実際に2万人を動かして西夏軍を破り、王都まで落とした。国を取った後に何が必要になるのかも、少しずつ見えてきた」
「遼は今、金に押されているのでございましょう。その遼を、金より先に取ろうとなさるのですね」
「できればそうしたい。遼の土地も兵も馬も、すべて金のものになれば厄介だ。金がこれ以上強くなる前に、俺が押さえたい」
月娘は地図を見つめたまま考え込んだ。達也も返事を急かさず、彼女が口を開くのを待った。
「皇帝陛下には、大きな恩がございます。侯爵に取り立ててくださり、平西将軍に任じ、平西王にまでしてくださった。その陛下に兵を向けることになっても、お心は変わらないのでございますね」
「恩は分かっている。だが、陛下への恩と、この国を誰が治めるかは別に考えている。俺が何もしなければ、宋はいずれ金に滅ぼされるかもしれない。それなら金を潰し、その後は宋も俺が治めた方がよいと思う」
「王様ご自身が、皇帝になりたいからでもございますね」
「もちろんだ。国や民のためだと、格好のよいことだけを言うつもりはない。俺自身が天下を取りたいんだ」
月娘はその答えに、ようやく笑みを見せた。
「そこまでおっしゃっていただければ、お気持ちはよく分かります」
「怒るかと思っていた」
「私が怒ったところで、おやめにはならないのでございましょう。西夏へ行くなと申しても、王様は行かれました。敵の総大将と戦うなと申しても、きっと戦われたでしょう。天下を取るとお決めになった今、泣いてお止めしても、お聞きにはならないと思います」
達也は苦笑して月娘を見た。
「俺はそんなに人の話を聞かないか」
「お聞きにはなります。ただ、聞くだけでございます」
言い返せない達也に月娘は笑ったが、すぐに声を改めた。
「このお話は、ほかの方にもなさるのでございますか。曹静蘭や李瓶児にも、お知らせになるのでしょうか」
「いや。今のところ、知っているのはお前だけだ。2人にも、まだ言うつもりはない」
「私だけにお話しになったのには、何か理由があるのでございますね」
達也は月娘を見据えた。
「お前を俺の正室にしたい。平西王の王妃になってくれ」
月娘は目を見開いた。西夏から戻った時、達也は静蘭、月娘、瓶児の3人に上下を設けず、同格の妃とすると決めていた。
「前には、3人を同じ妃にするとおっしゃいました。それを今になって変えるのは、天下をお取りになるためでございますか」
「ああ。平西王のままで一生を終えるなら、それでもよかった。だが、これから領地を増やしていくつもりなら、家の中も今のままではいけない。誰が最後の判断をするのか、はっきりさせておきたい」
達也は、月娘に任せたい理由を続けた。
「倉家の内情を一番よく知っているのはお前だ。俺が西夏へ行っている間も、妻妾や女中、乳母たちをまとめて家を守ってくれた。これからも、その役目を任せたい」
「静蘭も、商いや外とのお付き合いを引き受けております」
「そちらは引き続き静蘭に頼む。瓶児にも、できることをしてもらう。だが、家の中で意見が分かれた時には、お前に決めてほしいんだ」
月娘は腹に手を置き、しばらく考えた。
「以前、正室になることをお断りした時は、静蘭や瓶児との間に上下を作る必要はないと思っておりました。でも、王様が本当に天下をお取りになるのであれば、妻妾も家臣も、今とは比べものにならないほど増えるのでございましょう」
「そうなると思う。だからこそ、お前に頼んでいる」
「でしたら、皆が同じ立場というわけにはまいりませんね。分かりました。私が王妃をお引き受けいたします」
達也の顔から緊張が解けた。それを見た月娘は、念を押すように続けた。
「ただし、お受けする以上、私からも申し上げておきたいことがございます。王様も、女のことをお話しになりたいのでございましょう」
「やっぱり分かるか」
「わざわざ私にだけ天下のお話をなさって、正室になるようお求めなのです。それだけでは済まないと思っておりました」
達也は頭をかき、月娘の顔をうかがった。
「これから、側室や側女が増えると思う」
「今でも何人おられると思っているのでございますか。国を3つも4つも取ろうという方が、この先、1人も女を増やさないとは思っておりません」
「それを言われると困るが……。月娘には、王妃として認めてほしいんだ」
月娘は達也から目をそらさなかった。
「側室を迎えるたびに、私の許しを求めるというお話でございますか」
「いや。誰を側室や側女にするかは、俺に決めさせてほしい。そのことには口を出さず、ほかの妻妾にも口を出させないでくれ。そこまで頼みたい」
「ずいぶん都合のよいお願いでございますね。家の中を任せると言いながら、迎える女については口を出すなとおっしゃる」
「都合のよいことを頼んでいるのは分かっている。それでも、聞いてほしい」
月娘は黙って考えた。達也も、この頼みまで簡単に受け入れてもらえるとは思わず、返事を待った。
「女を増やすことは、おやめにならないのでしょうね。ただ、新しい女を迎えたからといって、今いる者を捨てたり、子を産んだ女を粗末にしたりなさっては困ります。それに、嫌がる女を無理に側室にするようなことは、お許しできません」
「今いる者を捨てるつもりはない。子を産んだ女を粗末にも扱わないし、嫌がる女を無理に迎えることもしない。それは約束する」
「それなら、王妃としてお約束いたします。王様がどなたを側室や側女になさろうと、私は口を出しません。静蘭や瓶児、ほかの側室たちにも、口を出させないようにいたします」
達也が礼を言おうとすると、月娘は話を続けた。
「ただし、屋敷の秩序は守っていただきます。新しく来た女が、先にいる者を追い出そうとしたり、子供同士を争わせたりすることは許しません」
「そこはお前に任せる。必要なことは遠慮なく言ってくれ」
「王様ご自身が女を増やされるのでございます。揉め事の後始末まで、すべて私に押し付けないでくださいませ」
「そうならないように努力する」
「そのお返事が一番心配でございます」
月娘のため息に、達也は笑った。向かいの椅子から隣へ移り、膨らんだ腹に手を当てた。
「まずは、この子が無事に生まれることだな。それまでは開封にいる」
「西夏のこともございますのに、お残りになれるのでございますか」
「俺の代わりに任せられる男を決めた。崔文亮を行かせようと思っている」
月娘は、その人選には納得したものの、気になる点を口にした。
「静蘭の息子ですから、お人柄はよく存じております。ただ、まだ若うございます。広い西夏を任せても大丈夫でしょうか」
「俺も22歳だぞ」
月娘が思わず笑うと、達也も笑みを返した。
「年だけで決めるつもりはない。文亮は信用できるし、俺の命令も守る。旧西夏の役人や降伏した軍人も、使える者は残すように言う。勝手に税を上げたり、宋から来た者ばかり重く用いたりすることもさせない。平西王はあくまで俺で、文亮には代理として統治を任せる」
「天下を目指すお考えも、お伝えになるのでございますか」
「それは話さない。今はお前だけが知っていればよい」
「承知いたしました。私も誰にも申しません」
月娘は腹に置かれた達也の手に、自分の手を重ねた。
「それにしても、皇帝への道は簡単ではございませんよ。遼も金も、北宋より強い兵を持っているのでございましょう」
「分かっている。だから面白いとも思うんだ」
「王様なら、そのようにおっしゃると思っておりました」
月娘の呆れた顔を見て、達也は言葉を継いだ。
「無策で戦うつもりはない。西夏を取ったことで土地も兵も馬も手に入った。それを生かして、勝てるだけの準備をする。急ぐべき時と、待つべき時を間違えなければ、道は開ける」
「では私は、王様がお帰りになる家を守ります。天下を取っても、帰る家がなくなってはお困りでしょう」
「その通りだ。頼りにしている」
達也は腹を圧迫しないように腕を回し、月娘を抱き寄せた。
◇ ◇ ◇
数日後、文亮が倉家へ呼ばれた。広間で待っていた達也は席を勧めると、西夏から届いた報告書を差し出した。
「まず、これを読んでくれ。現地を治めるうえで、気になることがあれば聞きたい」
文亮は報告書に目を通した。降伏した城や残された兵、穀物の備蓄、税の徴収状況に加え、宋軍との争いについても記されていた。旧西夏の官吏を残すべきかどうか、現地の意見も添えられている。
「宋から大量に役人を送り込めば、反発が強くなると思います。西夏の官吏でも、これまで通り働く者は残した方がよろしいでしょう」
「俺もそう考えている。降伏した兵については、どう扱うべきだと思う」
「反乱の恐れがある者には武器を持たせられません。ただ、すべて追い出せば食べていけない者が増えます。使える者は残し、働かせるべきだと思います」
達也はその答えを聞いてから、本題を切り出した。
「文亮、西夏へ行ってくれ。俺の代理として、統治を任せたい」
文亮は報告書から顔を上げた。
「兵としてではなく、王様の代わりに国を治めるのでございますか」
「そうだ。俺は月娘の出産を見届けるまで開封に残るし、知府の仕事も続ける。その間、西夏を任せられる者が必要なんだ」
「ありがたいお話ですが、私に務まるでしょうか。国を治めたことなどございません」
文亮の戸惑いを受け止めながら、達也は務め方を説いた。
「最初から何でもできる者はいない。政務で分からないことがあれば現地の役人に聞き、軍のことは将軍たちに聞けばよい。分かったふりをして決めるな。判断に迷った時は、開封へ知らせてくれ」
「承知しました。自分だけで決めようとせず、現地の者の話をよく聞きます」
「それから、西夏の民を、負けた国の人間だからと軽く扱うことは許さない。俺の領地になった以上、彼らも俺の民だ。宋から来た兵が家へ押し入り、物を奪うようなことがあれば、厳しく取り締まれ」
「その点は徹底いたします」
「降伏した旧西夏軍の兵も、むやみに殺す必要はない。騎兵として使える者は残しておけ」
「金との戦に備えるのでございますね」
「そうだ。今から兵を整えておく必要がある」
達也は、そこから先の考えまでは話さなかった。文亮に今任せるのは、西夏の統治と兵の再編だ。天下を取る計画まで知らせるつもりはなかった。
「出発は10日後にしてくれ。それまでに支度を整え、静蘭にも自分から話しておくように」
「承知しました。母上も、この役目には驚くと思います」
「俺から支度まで頼むと、妊婦を働かせるなと怒られそうだからな」
「母上は、王様にも遠慮いたしませんから」
文亮が笑うと、達也もつられて笑った。
文亮の退出後、達也は卓上に地図を広げた。西夏の北東には遼があり、その先には金がある。
これまでは1127年に開封が陥落する歴史を変えようとしてきたが、今は都を守るだけでは満足できなかった。西夏を征服した経験が、自ら国を取り、治めることへの自信につながっていた。
もっとも、次の戦を始める前に、手に入れた領地を固めなければならない。現地の統治は文亮に任せ、自分は月娘の出産を見届けながら、開封知府として都の内情を押さえる。その間に兵や物資を整え、遼へ進む機会を探るつもりだった。
達也は地図を畳んだ。皇帝を目指す決意は、まだ月娘だけが知っていればよい。今は、その実現に必要な準備を一つずつ進める時だった。




