第11話(後編2)――「皇子の母、美人となる」
皇子を出産した翌朝、崔麗華が目を覚ますと、部屋の外はすでに明るくなっていた。
普段なら日の出より前に目が覚めるが、その日は体が寝台へ沈んだように重かった。夜中にも何度か眠りが途切れ、腹には鈍い痛みが残っている。腰も重く、少し体勢を変えただけで、出産で使い切った力がまだ戻っていないことが分かった。
麗華は目を開けると、まず皇子の姿を探した。そばに控えていた女官が気付き、寝台へ近づいてくる。
「お目覚めでございますか」
「はい。皇子はどちらにおりますか」
「すぐそばでお休みになっております。夜中には何度かお泣きになりましたが、今はよく眠っておられます」
麗華は昨夜の記憶をたどった。確かに泣き声を聞いて目を覚ました覚えはあるものの、その後どうしたのかまでははっきりしないほど疲れていた。
「寝たままで構いませんので、抱かせてください」
「では、お体を支えます」
女官に上半身を支えてもらい、麗華は皇子を腕の中へ受け取った。
昨日よりも顔の赤みが少し引き、目を閉じたまま口を動かしている。
「昨日と少し顔が変わったように見えますね」
「赤子は毎日のように変わるものだと聞いております」
「それなら、見逃さないようにしなければなりません」
麗華が指先を差し出すと、皇子の小さな手がそれを握った。力は弱いが、自分の意思でつかんでいることは分かる。
麗華はしばらくその手を眺めてから、皇子の顔へ視線を戻した。
「本当に、男の子なのですね」
「はい。皇子様にございます」
昨日から何度も聞かされた言葉だったが、朝になって改めて聞くと、その意味がようやく胸に落ちてきた。
出産の最中は痛みと子の無事だけで頭がいっぱいだった。今は、その子が自分の腕の中で息をしている。
麗華は皇子の頭を支えながら、男児を産んだという事実を初めて落ち着いて受け止めた。
◇ ◇ ◇
午前中には、張婕妤から祝いの品が届いた。
使いの女官は産後の麗華へ直接会うことはせず、上等な絹と皇子の衣に使える布を預けて帰った。その後も別の後宮女性から次々と祝いが届き、部屋の一角には箱や包みが増えていった。
麗華が御侍となった時にも贈り物は届き、才人へ昇った時にも祝いを受けた。しかし、今回は明らかに数が多い。
麗華個人への祝いではなく、皇帝の皇子が生まれたことへの祝いも含まれているからだ。
麗華は女官へ命じた。
「私への祝いと、皇子へ頂いた品は分けて記録してください。同じ方から届いた物でも一緒にしてはなりません」
「皇子様は、まだご自分でお使いになることはできませんが、それでも分けておくのでございますか」
「今は使えなくても、品は残ります。この子へ贈られた物を、私への贈り物として扱うわけにはまいりません」
「承知いたしました。保管場所も分けて記しておきます」
「お願いいたします」
麗華は皇子のためにも記録を作らせた。誰から何が届き、衣や布であればどこへ保管したかまで残しておく。
商いをしていた頃から、物の所有者と出入りを分けて記録することは麗華にとって当たり前だった。品が増えれば、なおさら曖昧にはできない。
◇ ◇ ◇
3日ほどたつと、麗華は寝台から起きている時間を少しずつ増やした。
それでも部屋の外へ出る許しはまだなく、麗華自身も無理をするつもりはなかった。歩けば腹と腰に響き、夜には皇子が泣く。昼間に眠気が襲ってくることもあり、産後の体が思っていた以上に戻らないことを身をもって知った。
尚服局から香の記録も届いていたが、麗華は一度目を通すだけにしていた。
ある日の午後、孫玉英が見舞いに訪れた。
皇帝の女となってから、麗華と玉英が以前のように2人だけで話す機会は減っていた。玉英は寝かされている皇子を見ると、思わず身を乗り出した。
「本当に、お生まれになったのですね」
「お腹がこれだけ軽くなりましたので、間違いありません」
「崔才人様は、お子をお産みになった翌々日でも、そういうことをおっしゃるのですね」
「昨日までお腹にいた子が、今は目の前で寝ている方が不思議なのでございます」
玉英は皇子の顔をのぞき込んだ。
「陛下に似ていらっしゃるのでしょうか」
「私も昨日から何度も見ておりますが、まだ誰に似ているのか分かりません。鼻も目も、今は赤子らしいとしか申し上げられません」
玉英が笑い、麗華もつられて笑った。
しばらく皇子を眺めたあと、麗華は尚服局の様子を尋ねた。
「香倉の方は変わりありませんか」
「問題ございません。彩雲様も、崔才人様は今は香より皇子様をご覧になるようにと申しておりました」
「私もそのつもりでおります。記録には目を通しておりますが、今は私が香倉へ行かなくても困ることはありません」
「以前でしたら、自分の目で確かめるとおっしゃったでしょうね」
「以前は、この子がおりませんでしたから」
麗華が皇子へ目を向けると、玉英もしばらくその横顔を見つめた。
「崔才人様は、ずいぶん変わられました」
「御侍になった時にも、同じことを言われました」
「あの時は、立場が変わっただけで、ご本人はあまり変わっておられませんでした。でも今は、本当にお母様になられたのだと思います」
麗華はすぐには返事をしなかった。
母という言葉を、自分へ向けて言われたのは初めてだった。
昨日までの自分は皇帝の女であり、才人だった。そこへ皇子の母という立場が加わった。
麗華は腕の中で眠る子を見ながら、その変化を受け止めた。
◇ ◇ ◇
出産から数日後、趙佶が再び麗華のもとを訪れた。
麗華が寝台から降りようとすると、趙佶はそのままでよいと制した。
「顔色は戻ってきたな。体はどうだ」
「昨日よりずいぶん楽になりました。皇子も、よく飲み、よく泣き、よく眠っております」
「それなら十分だ」
趙佶は眠っている皇子の顔をのぞき込んだ。
「そろそろ余に似てきたか」
「玉英にも同じことを聞かれましたが、まだ分かりません。生まれて数日でございますし、目を開けている時間も短うございます」
「目元は、そなたに似ているようにも見えるがな」
「陛下がそう思われるのでしたら、もう少し大きくなってから確かめてくださいませ」
趙佶は笑いながら椅子へ座った。
「そなたに聞いた余が悪かったようだ。それより、祝いの品がずいぶん届いているそうだな」
「はい。皇子へ頂いた品と、私への祝いは分けて記録しております」
「そこまで分けるのか」
「この子へ贈られた物を、私が頂いたことにしたくありませんので」
「まだ赤子だ。母であるそなたが使っても、誰も何も申さぬだろう」
「誰も言わなくても、私には分かります。あとで何が誰の物だったのか分からなくなる方が困ります」
趙佶は以前にも似た答えを聞いたことを思い出したらしく、笑みを浮かべた。
「贈り物を断った時と同じだな。そなたは、自分の物と他人の物を分けることには本当に厳しい」
「混ぜてしまえば、あとで困るのは自分でございます」
趙佶はしばらく麗華を見ていたが、やがて声を改めた。
「皇子を産んだそなたを、才人のままにしておく必要もあるまい」
麗華が顔を上げると、趙佶はそばに控えていた宦官へ命じた。
「麗華を美人とする。手続きを進めよ」
「承知いたしました」
麗華は一瞬、返事を忘れた。
御侍から才人へ進んだ時よりも、今度は何を告げられたのかすぐに理解できた。その分、驚きもはっきりしていた。
「陛下、ありがとうございます」
「今度は驚いている顔をしておるな。前は位が上がったことより、懐妊の方に驚いていた」
「今回は、すでに皇子が生まれておりますので、美人にしていただいたことをそのまま喜べます」
「もっと上を欲しがるかと思っていたぞ」
麗華は趙佶の顔を見た。
「いつかは、さらに上へ行きとうございます。ただ、今日、美人にしていただいたことを足りないとは思っておりません」
「余には同じことに聞こえるが」
「違います。今いただいた位がうれしいことと、この先も上を望むことは別でございます」
趙佶は声を立てて笑った。
「相変わらず、何でも分けて考える女だな」
「同じものではございませんので」
「皇子まで産んだのだ。もっと大きな望みを申してみてもよいぞ」
麗華は腕の中の皇子へ目を落とした。
「今は、この子を無事に育てることが一番でございます。それに、私の体が戻りましたら、また陛下のおそばへ参りとうございます」
「そちらも忘れておらぬか。余より子ばかりになるかと思っておった」
「この子が生まれたのは、陛下がおられたからでございます。忘れるはずがございません」
趙佶は満足したように皇子へ視線を戻した。
「それなら、早く体を戻せ」
「医官の言うことを聞いて、きちんと休みます」
「余の命より医官を優先するのか」
「お体のことは医官の方が詳しゅうございます。陛下がお産までお扱いになるのでしたら、陛下に伺います」
趙佶はまた笑った。
「それは医官に任せる」
「私もそういたします」
麗華も笑い、趙佶はしばらく眠る皇子を眺めてから部屋をあとにした。
◇ ◇ ◇
美人への昇格が後宮へ伝わると、改めて祝いの品が届いた。
張婕妤からも使いが来たため、今度は麗華自身が返書を用意させた。皇子の誕生と美人への昇格を祝ってもらったことへの礼を述べ、体が戻れば改めて挨拶へ行くと記した。
それ以上のことは書かなかった。
張婕妤が麗華の昇格を喜んでいるのか、警戒しているのか、それとも面白くないと思っているのかは分からない。本人が口にしていない以上、麗華が勝手に決めることではなかった。
ただし、自分を取り巻く状況が以前と違うことは理解している。
麗華には趙佶の寵愛があり、皇子が生まれ、才人から美人へ進んだ。後宮の女たちが麗華の動きを気にする理由は、それだけ増えている。
だからこそ、麗華は余計な敵を作るつもりもなかった。
皇子を産んだからといって、年長の皇子たちについて口を出す必要はない。将来、誰がどの地位へ進むのかを今から語る理由もなかった。
麗華にとって大切なのは、自分の息子が皇帝の子として無事に育つことである。
◇ ◇ ◇
出産から1か月ほどたつと、麗華はようやく部屋の外へ出られるようになった。
久しぶりに庭へ出ると、空気はすでに秋のものへ変わっていた。木々の葉には黄色が混じり、池の蓮も枯れ始めている。
麗華は女官を伴って庭を歩いたが、尚服局まで足を延ばすことはせず、一周したところで部屋へ戻った。まだ無理をして体調を崩す時ではない。
部屋では皇子が目を覚ましていた。
麗華が抱き上げると、生まれたばかりの頃より首や腕に力が出ており、わずかに重くなっていることも分かった。
「少し重くなりましたね」
「お元気に育っていらっしゃいます」
女官の言葉に、麗華は皇子を胸へ抱き寄せた。
「このまま丈夫に育ってください」
宮中へ入った時、麗華は尚服局の見習いにすぎなかった。それから御侍となり、才人へ進み、今は皇子の母として美人の位を得ている。
それでも皇后までは遠い。
皇帝にはほかにも后妃がおり、年長の皇子たちもいる。美人より上の位もいくつも残っている。
皇子を1人産んだからといって、そのすべてを飛び越えられるわけではなかった。
麗華は皇子の顔を見ながら、焦る必要はないと考えた。
趙佶から必要とされ続け、この子を丈夫に育てる。自分の体が戻れば再び皇帝のそばへ行き、その先でまた子を授かることもあるだろう。
次も皇子なら、麗華の立場はさらに強くなるかもしれない。しかし、それは今決められることではない。
まず守るべきなのは、腕の中にいる最初の皇子だった。
何も持たずに北宋へ来た15歳の少女は、17歳になった今、皇帝の皇子を腕に抱く美人となっている。
皇后へ続く道は、まだ先にある。
麗華は皇子を抱いたまま、その道を急がず進むつもりでいた。




