第11話(中編1)――「麗華、懐妊」
1114年1月の朝、開封府の皇宮には冷たい風が吹いていた。夜の間に冷えた瓦から水滴が落ち、石敷きの廊下には薄い霜が残っている。部屋では炭が焚かれていたが、戸が開くたびに外の冷気が足元へ流れ込んだ。
崔麗華は卓の前に座り、運ばれてきた朝餉を見た。白粥、蒸した青菜、塩漬けの大根に、細く裂いた鶏肉の汁物が添えられている。何度も食べている、いつもの献立だった。
ところが、汁物の蓋が開いて鶏肉と葱の匂いが立った途端、胃の奥から強いむかつきが込み上げた。麗華が顔を背けると、膳を運んできた女官が手を止めた。
「崔御侍様、気分がすぐれないのでございますか。昨夜、何か変わった物を召し上がりましたか」
「陛下のところで夕餉を頂きましたが、特に変わった物は食べておりません。申し訳ありませんが、汁物を下げてください」
水をひと口飲んでも、吐き気は治まらなかった。女官が器を持ち上げると、再び匂いが鼻へ入り、麗華は口元を押さえて立ち上がった。
「少し、外の空気を吸ってまいります」
「お顔の色がよくありません。どうか、お気をつけください」
廊下へ出て冬の空気を吸うと、むかつきは少し和らいだ。
前夜に酒は飲んでおらず、腹痛や下痢もない。熱があるようにも感じなかった。食べ物が傷んでいたなら、同じ物を口にした者にも異変が出るかもしれない。だが、麗華には別に思い当たることがあった。
月のものが来ていなかった。
部屋へ戻った麗華は、卓に置いていた紙を取り上げた。香の記録とは別に残していた、自分の体調についての覚え書きだった。最後に月のものが始まった日から数えると、いつもより明らかに遅れていた。
「宮中の医官に診ていただけますか。ただ、陛下へのお知らせは、診察を受けてからにしてください」
女官は驚いて麗華を見た。
「まだ、お伝えしなくてもよろしいのでございますか」
「何も分からないうちにお知らせしても、ご心配をお掛けするだけです。まずは診ていただきます」
女官が医官を呼びに出ると、麗華は白粥だけを少し食べた。体調を崩しただけなのか、子を宿したのかは、まだ分からない。望んでいることだからといって、懐妊だと決めつけるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
午前のうちに医官が来た。麗華は月のものが来ていない期間と、朝餉の匂いで吐き気がしたことを説明した。
医官は何度か脈を取り直しながら、ほかにも体調の変化がないか尋ねた。
「最近、眠気が強くなったり、食べ物の好みが変わったりしておりませんか」
「以前より眠くなることはございます。ただ、冬になったためだと思っておりました」
胸の張りについても聞かれ、麗華はそれもあると答えた。続く問いにも分かる範囲で答えると、医官は診察を終え、麗華へ向き直った。
「まだ月が浅く、今後の様子を見る必要はございますが、御懐妊と考えてよろしいかと存じます」
麗華は医官の顔を見た。
「子を授かったのでございますね。まだ、確かとは言えないのでしょうか」
「今申し上げられるのは、御懐妊と判断できる脈だということでございます。しばらくして、もう一度診せていただきます」
麗華は初めて、自分の腹へ手を当てた。外から分かる変化はない。それでも、皇帝の子がいる可能性は高いという。
「分かりました。これから、どのようなことに気をつければよろしいでしょうか」
「無理をなさらず、食べられる物を少しずつ召し上がってください。体を冷やさぬようにもお気をつけください」
「香を扱う仕事は続けておりますが、差し支えはございませんか」
「普段の香で気分が悪くならなければよいでしょう。ただし、強い香は避けてください。薬も、こちらで必要と判断した物以外は、お飲みにならないように」
麗華は医官の言葉を覚えた。食べ物や飲み物だけでなく、部屋で焚く香にも、これまで以上に気を配る必要があった。
医官が退出すると、女官が皇帝へ知らせるかと尋ねた。今度は麗華も迷わなかった。
「お願いします。医官からも診立てをお伝えいただいてください。私が申し上げるより、その方が確かでございます」
女官が医官を追って出ていくと、麗華は椅子に座った。
喜びはあった。皇帝の子を宿したのであれば、御侍となってから目指してきた道を、さらに進めることになる。だが、先に考えたのは、無事に産めるかどうかだった。
懐妊しただけで、子が生まれるわけではない。腹の中で育ち、出産までたどり着かなければならなかった。男児か女児かを思い描くより、今は体を大切にすることが先だった。
◇ ◇ ◇
昼前には皇帝から使いが来た。麗華が支度をして立ち上がると、宦官が、歩いて参る必要はないと告げた。
「陛下のお命じで、輿をご用意しております」
「歩けないほどではございませんが……」
麗華は驚いたものの、皇帝の指示と聞いて従った。輿で運ばれ、部屋へ入ると、趙佶はすぐに顔を上げた。
「こちらへ来い。医官から聞いたぞ。子ができたそうだな」
「懐妊と思われるとのことでございました。ただ、まだ月が浅いため、改めて診ていただくことになっております」
「そんなに用心深く言わずともよかろう。嬉しくはないのか」
「もちろん、うれしゅうございます。子を授かったのであれば、これほどありがたいことはございません」
趙佶は麗華の腹へ目を向けた。衣の上からは、まだ何も分からなかった。
「余の子か。男であればよいな」
「まずは、無事に生まれてくれることを願っております。女であっても、陛下と私の子でございますから」
「欲深いそなたなら、男を望むと思っておったが」
「男であれば、もちろん嬉しく思います。ただ、望むことと、自分で決められることは違います」
趙佶は笑った。
「そこでも、同じことを申すのだな」
「考えるだけで男児になるのでしたら、1日中考えております」
「それは便利だな」
趙佶がさらに笑い、麗華も顔をほころばせた。
椅子を勧められて座ると、趙佶は、これまでのように宮中を歩き回らないよう命じた。
「香の記録も、人に持ってこさせればよい。わざわざ尚服局へ行くことはあるまい」
「普段は部屋で読みます。ただ、確かめたいことがある時だけは、参るお許しを頂きとうございます。毎日通う必要はありません」
「体に障らぬ範囲ならよい」
「ありがとうございます」
趙佶は麗華を見て、御侍のままにはしておけないと口にした。麗華は意味を察したが、自分から何かを求めることはしなかった。
皇帝は、控えていた宦官へ命じた。
「麗華を才人とする。必要な手続きを進めよ」
「承知いたしました」
麗華は椅子から降り、御前に膝をついて礼を述べた。
「ありがたく存じます」
「もっと驚くかと思ったぞ」
「驚いております。ただ、今朝、子を授かったと聞いた時の方が、驚きは大きゅうございました」
「位よりも、子の方が大事か」
「今は、そうでございます」
趙佶は「今は」と繰り返し、麗華の顔を見た。
「才人にしていただいたことも、もちろん嬉しく思っております。けれど、無事に産めなければ、今日の喜びまで悲しい思い出になるかもしれません」
皇帝の顔から笑みが消えた。
「縁起でもないことを申すな」
「申し訳ございません」
「無事に産め。余も、それを望んでおる」
麗華は頭を下げた。
初めて皇帝に召されてから、およそ5か月で、御侍から才人へと位が上がった。それでも、この日何度も気に掛かったのは、新しい身分より、腹の中にいるという子のことだった。
男か女かは、まだ分からない。麗華は腹へ手を添え、まずは無事に育ち、生まれてきてほしいと願った。




