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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第11話(中編1)――「麗華、懐妊」

 1114年1月の朝、開封府(カイフォンフ)の皇宮には冷たい風が吹いていた。夜の間に冷えた瓦から水滴が落ち、石敷きの廊下には薄い霜が残っている。部屋では炭が焚かれていたが、戸が開くたびに外の冷気が足元へ流れ込んだ。


 崔麗華(ツイ・リーファ)は卓の前に座り、運ばれてきた朝餉を見た。白粥、蒸した青菜、塩漬けの大根に、細く裂いた鶏肉の汁物が添えられている。何度も食べている、いつもの献立だった。


 ところが、汁物の蓋が開いて鶏肉と葱の匂いが立った途端、胃の奥から強いむかつきが込み上げた。麗華が顔を背けると、膳を運んできた女官が手を止めた。


「崔御侍様、気分がすぐれないのでございますか。昨夜、何か変わった物を召し上がりましたか」


「陛下のところで夕餉を頂きましたが、特に変わった物は食べておりません。申し訳ありませんが、汁物を下げてください」


 水をひと口飲んでも、吐き気は治まらなかった。女官が器を持ち上げると、再び匂いが鼻へ入り、麗華は口元を押さえて立ち上がった。


「少し、外の空気を吸ってまいります」


「お顔の色がよくありません。どうか、お気をつけください」


 廊下へ出て冬の空気を吸うと、むかつきは少し和らいだ。


 前夜に酒は飲んでおらず、腹痛や下痢もない。熱があるようにも感じなかった。食べ物が傷んでいたなら、同じ物を口にした者にも異変が出るかもしれない。だが、麗華には別に思い当たることがあった。


 月のものが来ていなかった。


 部屋へ戻った麗華は、卓に置いていた紙を取り上げた。香の記録とは別に残していた、自分の体調についての覚え書きだった。最後に月のものが始まった日から数えると、いつもより明らかに遅れていた。


「宮中の医官に診ていただけますか。ただ、陛下へのお知らせは、診察を受けてからにしてください」


 女官は驚いて麗華を見た。


「まだ、お伝えしなくてもよろしいのでございますか」


「何も分からないうちにお知らせしても、ご心配をお掛けするだけです。まずは診ていただきます」


 女官が医官を呼びに出ると、麗華は白粥だけを少し食べた。体調を崩しただけなのか、子を宿したのかは、まだ分からない。望んでいることだからといって、懐妊だと決めつけるつもりはなかった。


 ◇ ◇ ◇


 午前のうちに医官が来た。麗華は月のものが来ていない期間と、朝餉の匂いで吐き気がしたことを説明した。


 医官は何度か脈を取り直しながら、ほかにも体調の変化がないか尋ねた。


「最近、眠気が強くなったり、食べ物の好みが変わったりしておりませんか」


「以前より眠くなることはございます。ただ、冬になったためだと思っておりました」


 胸の張りについても聞かれ、麗華はそれもあると答えた。続く問いにも分かる範囲で答えると、医官は診察を終え、麗華へ向き直った。


「まだ月が浅く、今後の様子を見る必要はございますが、御懐妊と考えてよろしいかと存じます」


 麗華は医官の顔を見た。


「子を授かったのでございますね。まだ、確かとは言えないのでしょうか」


「今申し上げられるのは、御懐妊と判断できる脈だということでございます。しばらくして、もう一度診せていただきます」


 麗華は初めて、自分の腹へ手を当てた。外から分かる変化はない。それでも、皇帝の子がいる可能性は高いという。


「分かりました。これから、どのようなことに気をつければよろしいでしょうか」


「無理をなさらず、食べられる物を少しずつ召し上がってください。体を冷やさぬようにもお気をつけください」


「香を扱う仕事は続けておりますが、差し支えはございませんか」


「普段の香で気分が悪くならなければよいでしょう。ただし、強い香は避けてください。薬も、こちらで必要と判断した物以外は、お飲みにならないように」


 麗華は医官の言葉を覚えた。食べ物や飲み物だけでなく、部屋で焚く香にも、これまで以上に気を配る必要があった。


 医官が退出すると、女官が皇帝へ知らせるかと尋ねた。今度は麗華も迷わなかった。


「お願いします。医官からも診立てをお伝えいただいてください。私が申し上げるより、その方が確かでございます」


 女官が医官を追って出ていくと、麗華は椅子に座った。


 喜びはあった。皇帝の子を宿したのであれば、御侍となってから目指してきた道を、さらに進めることになる。だが、先に考えたのは、無事に産めるかどうかだった。


 懐妊しただけで、子が生まれるわけではない。腹の中で育ち、出産までたどり着かなければならなかった。男児か女児かを思い描くより、今は体を大切にすることが先だった。


 ◇ ◇ ◇


 昼前には皇帝から使いが来た。麗華が支度をして立ち上がると、宦官が、歩いて参る必要はないと告げた。


「陛下のお命じで、輿をご用意しております」


「歩けないほどではございませんが……」


 麗華は驚いたものの、皇帝の指示と聞いて従った。輿で運ばれ、部屋へ入ると、趙佶(ジャオ・ジー)はすぐに顔を上げた。


「こちらへ来い。医官から聞いたぞ。子ができたそうだな」


「懐妊と思われるとのことでございました。ただ、まだ月が浅いため、改めて診ていただくことになっております」


「そんなに用心深く言わずともよかろう。嬉しくはないのか」


「もちろん、うれしゅうございます。子を授かったのであれば、これほどありがたいことはございません」


 趙佶は麗華の腹へ目を向けた。衣の上からは、まだ何も分からなかった。


「余の子か。男であればよいな」


「まずは、無事に生まれてくれることを願っております。女であっても、陛下と私の子でございますから」


「欲深いそなたなら、男を望むと思っておったが」


「男であれば、もちろん嬉しく思います。ただ、望むことと、自分で決められることは違います」


 趙佶は笑った。


「そこでも、同じことを申すのだな」


「考えるだけで男児になるのでしたら、1日中考えております」


「それは便利だな」


 趙佶がさらに笑い、麗華も顔をほころばせた。


 椅子を勧められて座ると、趙佶は、これまでのように宮中を歩き回らないよう命じた。


「香の記録も、人に持ってこさせればよい。わざわざ尚服局へ行くことはあるまい」


「普段は部屋で読みます。ただ、確かめたいことがある時だけは、参るお許しを頂きとうございます。毎日通う必要はありません」


「体に障らぬ範囲ならよい」


「ありがとうございます」


 趙佶は麗華を見て、御侍のままにはしておけないと口にした。麗華は意味を察したが、自分から何かを求めることはしなかった。


 皇帝は、控えていた宦官へ命じた。


「麗華を才人とする。必要な手続きを進めよ」


「承知いたしました」


 麗華は椅子から降り、御前に膝をついて礼を述べた。


「ありがたく存じます」


「もっと驚くかと思ったぞ」


「驚いております。ただ、今朝、子を授かったと聞いた時の方が、驚きは大きゅうございました」


「位よりも、子の方が大事か」


「今は、そうでございます」


 趙佶は「今は」と繰り返し、麗華の顔を見た。


「才人にしていただいたことも、もちろん嬉しく思っております。けれど、無事に産めなければ、今日の喜びまで悲しい思い出になるかもしれません」


 皇帝の顔から笑みが消えた。


「縁起でもないことを申すな」


「申し訳ございません」


「無事に産め。余も、それを望んでおる」


 麗華は頭を下げた。


 初めて皇帝に召されてから、およそ5か月で、御侍から才人へと位が上がった。それでも、この日何度も気に掛かったのは、新しい身分より、腹の中にいるという子のことだった。


 男か女かは、まだ分からない。麗華は腹へ手を添え、まずは無事に育ち、生まれてきてほしいと願った。

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