第11話(前編2)――「頼み事を受けない女」
1113年8月の終わり、崔麗華は、自室で尚服局から届いた竹札の写しを整理していた。前日、皇帝趙佶が選んだ香は丁子だった。暑さの和らいだ夕刻、庭へ出る際に使われている。
記録を書き終えたところで、戸の外から声が掛かった。
「崔御侍様、少しお時間を頂けますでしょうか」
麗華が入るよう伝えると、見覚えのない女官が細長い箱を持って現れた。30歳前後に見え、衣の質から、後宮で身分のある女性に仕えている者と思われた。
「御侍にお取り立てになったお祝いを、お持ちいたしました」
女官は卓に箱を置き、蓋を開けた。中には、花の形に細工した銀の簪が収められていた。中央には赤い石がはめ込まれている。
麗華は手を伸ばさず、贈り主の名を尋ねた。
「御侍様を、以前から存じ上げている方でございます」
「私は宮中へ入って長くございません。以前から私をご存じの方は多くないと思いますが、どなたでしょうか」
「お名前を申し上げるほどのことではございません。ほんのお祝いでございますから」
「それでしたら、お持ち帰りください。どなたから頂くのか分からない物は、受け取れません」
女官の顔から笑みが消えた。
「御侍様も、これからお付き合いが増えます。贈り物の1つ1つについて、そこまでお尋ねになっていては――」
「お付き合いが増えるのであれば、なおさら初めに伺っておかなければなりません。この品をお持ちになったのは、お祝いだけのためでしょうか」
麗華が女官を見ると、相手は少し黙ってから声を落とした。
「実は、お願いがございます。陛下がお使いになる香を、御侍様がお選びになると伺いました。新しい香を1つ、候補へ加えていただきたいのです」
「私1人で選んでいるわけではございません。尚服局で候補を決め、最後は陛下にお選びいただいております。その香は、お持ちになっているのでしょうか」
「後ほどお届けできます」
「では、尚服局へ正式にお届けください。香倉で確かめ、問題がなければ候補に加えられることもあると思います」
女官は箱へ目を向けた。
「それでは時間がかかります。御侍様から直接お勧めいただければ、済むことではございませんか」
「陛下がお使いになる物を、確かめずにお持ちすることはできません。この簪は、その口添えへのお礼なのでございますね」
「先にお受け取りいただいても、差し支えないかと存じます」
麗華は箱の蓋を閉じ、女官の前へ戻した。
「香をお勧めする時は、その香が陛下に合うと思う理由を申し上げます。品を頂いたために勧めたと疑われれば、今後どの香を選んでも、信用していただけなくなります」
「このことは、誰にも申しません」
「あなたが黙っていても、私には頂いたことが分かっております」
女官は返す言葉を失った。麗華は箱から手を離した。
「香は、ほかの品と同じように尚服局で確かめます。ただ、お願い事と一緒に持ってこられた以上、この簪は受け取れません」
女官は固い表情で箱を持ち上げたが、それ以上は勧めなかった。麗華は戸口まで見送り、部屋へ戻ると記録の続きを読んだ。
あの簪なら、華宝舗で扱ってもかなりの値が付いたはずだった。それでも、簪1本のために皇帝へ出す香の候補を変える方が、麗華には損だった。
商いでも、金を受け取って悪い品を良いと勧めれば、客は次から来なくなる。皇帝を相手に同じことをすれば、失うものは客1人では済まなかった。
◇ ◇ ◇
数日後、尚服局から部屋へ戻る途中、若い宦官に呼び止められた。廊下で待っていたらしく、少し時間をほしいと言うので、麗華は通行の邪魔にならないよう端へ寄った。
「同じ所で働いている者が、先日の仕事で失敗しまして、上役から仕事を外されることになりました。御侍様から陛下へ、真面目に働く者だとお伝えいただけないでしょうか」
「どのような失敗だったのでございますか」
「それは、私から詳しく申し上げることはできません」
さらに尋ねると、麗華とは面識がなく、働く姿を見たこともない者だった。麗華が、それでは何も判断できないと答えると、宦官は周囲を確かめ、袖から小さな布袋を取り出した。
「皆が真面目な者だと申しております。御侍様から、ほんの一言お伝えいただくだけでよいのです」
差し出された袋の中で、硬い物が触れ合う音がした。銭か銀が入っているらしかったが、麗華は受け取らなかった。
「それは、お戻しください」
「足りませんでしょうか」
「金額の話ではございません。私はその方も、真面目だとおっしゃる方々も存じ上げません。陛下へ、自分が確かめたように申し上げることはできません」
「御侍様のお言葉なら、陛下もお聞きになります」
「お聞きいただけるのであれば、なおさら知らないことは申し上げられません」
宦官は布袋を持ったまま、麗華の顔を見た。
「その者が処分されても、お助けいただけないのでございますね」
「何があったのか分かりませんので、処分が正しいかどうかも判断できません。事情を知らない私が口を出して、本当に助けになるのでしょうか」
麗華は、宦官の手にある袋へ目を向けた。
「それも、誰かに見られる前におしまいになった方がよろしいと思います」
宦官は慌てて袋を袖へ戻した。麗華を恨むより、どうすればよいか分からなくなった様子だった。
「失礼いたしました」
「この話は聞かなかったことにいたします」
宦官は礼を述べ、頭を下げて去った。
麗華は部屋へ戻りながら、自分に持ち込まれる話が変わったことを考えた。女官だった頃は仕事を頼まれても、他人の地位や利益を皇帝へ取り次ぐよう求められることはなかった。
自分に大きな権力があるわけではない。ただ、皇帝と話す機会がある。それだけで、直接近づけない者たちから、口添えを頼まれるようになった。麗華は、その機会を銀と引き換えにするつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
さらに数日後、麗華は香の記録を確かめるため、張婕妤のもとへ呼ばれた。以前選んだ龍脳と白檀の香を、その後も何度か使っているという。
張婕妤は麗華を見ると、香の話より先に、御侍となったことに触れた。
「陛下から、よくお呼びがあるそうですね」
「はい。お呼びいただいております」
「以前なら、分かりませんと答えたでしょうに。ずいぶん素直に認めるようになりましたね」
「お呼びがあることは、隠しても意味がございませんので」
張婕妤は笑ったが、続く問いでは麗華の顔を見据えた。
「陛下とは、私のことをお話しになることもあるのですか」
「以前、婕妤様の香についてお尋ねになったことはございます。ただ、陛下とお話しした内容を、そのままほかの方へ申し上げることはできません」
「私にも話せないと申すのですね」
「申し訳ございません」
張婕妤の目つきが変わった。
「それでは、陛下が私をどうお思いか、そなたから尋ねるつもりもないのですか」
「婕妤様から頼まれたと申し上げて、お尋ねするのでしょうか」
「それは困ります」
「では、私からは何も申し上げません」
張婕妤はしばらく麗華を見たあと、鼻で笑った。
「御侍になっても、そなたは変わりませんね」
「部屋は広くなりましたし、衣も変わりました」
張婕妤は思わず笑い、もうよいと手を振った。麗華は香の使用状況を確かめ、記録を済ませて部屋を出た。
相手の機嫌を取るために、皇帝との会話を明かす必要はない。一方で、必要以上に張婕妤を怒らせる理由もなかった。答えられることには答え、話せないことは断ればよかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、麗華は皇帝から呼ばれた。書画の殿では、趙佶が数枚の書を見ていた。麗華が御前へ進むと、紙から顔を上げた。
「贈り物を返したそうだな」
「どの贈り物でございましょうか」
「銀の簪だ。ほかにも返した物があるのか」
「もう一度、金品を差し出されたことがございます。仕事で失敗した方について、真面目な者だと陛下へ申し上げてほしいと頼まれました」
趙佶の表情が引き締まった。
「その者を知っておるのか」
「存じませんので、お断りいたしました」
「簪の方も、何か頼み事があったのだな」
「新しい香を、尚服局で確かめずにお勧めしてほしいとのことでした。香は正式に尚服局へ届けるよう伝え、簪はお返ししました」
趙佶は書を卓へ置いた。
「高価な物だったそうではないか。祝いの品として受け取ってもよかったのではないか」
「お願い事と一緒でなければ、考えたかもしれません。ですが、あのような品を受け取るのは割に合いません」
「そなたは銭が好きなのであろう。それでも損だと申すか」
「好きでございます。だからこそ、簪1本の代わりに陛下の信用を失うことはできません」
趙佶は笑いかけたが、麗華の続きを待った。
「確かめてもいない香をお勧めして、よくない品だと分かれば、次から私の言葉を信じていただけなくなります」
「一度くらいなら、余に分からぬかもしれんぞ」
「一度受け取れば、次に断る理由が弱くなります。そうして続ければ、いずれは分かることでございます」
趙佶は指先で卓をたたきながら聞いていた。
「商人らしい考え方だな」
「信用を失った店には、客が戻らなくなると知っておりますので」
「余まで客にするな」
「陛下は、私の今の暮らしをお決めになる方でございます。客を1人失うこととは、比べられません」
「ずいぶん現実的だな。余に嫌われれば、それほど困るか」
「御侍でいられなくなることより、お呼びいただけなくなる方が困ります。私は陛下のおそばへ来たくて宮中へ入りました。銀や簪を集めるためではございません」
趙佶は麗華から目を離さなかった。
「華宝舗では、銀を稼いでおったではないか」
「店では、それが仕事でございました。けれど今、陛下のおそばにいることを使って銀を稼げば、いずれここへ来られなくなると思います」
趙佶は笑った。
「やはり欲深い女だ。銀より大きなものを欲しがっておる」
「そのことは、以前から申し上げております」
麗華は否定しなかった。趙佶は椅子の背へ体を預けた。
「では、これからも余への頼み事は、すべて断るつもりか」
「内容によります。自分で見たことや確かめられることでしたら、陛下から尋ねられた時に申し上げます。ただ、知らない方を良い方だとは申し上げられません」
「本当に困っている者が来たら、どうする」
「事情を聞きます。それでも判断できなければ、分からないと申し上げます。間違ったことをお伝えするより、その方がよいと思います」
「面倒な女だな」
麗華が返事を控えていると、趙佶は続けた。
「余が、それでよいと申したら?」
「では、今のままでおります」
趙佶は声を上げて笑った。
その後は、卓に広げていた書について話し始めた。麗華には書の良し悪しは分からなかったが、そう答えると、趙佶は以前と同じように、何が見えるかを尋ねた。麗華も、分かるふりをせず、目に映ったことを伝えた。
贈り物や口利きを断っても、皇帝からの呼び出しは減らなかった。むしろ趙佶は、麗華が何を答え、どこから先は答えないのかを、以前より確かめるようになった。
麗華が欲しいのは、一度きりの贈り物ではなかった。明日も呼んで話を聞きたいと、皇帝に思われることだった。




