第11話(前編1)――「御侍の部屋」
1113年8月7日の朝、崔麗華は新しく与えられた部屋で目を覚ました。以前の女官の6人部屋とは違い、室内には誰もいなかった。
寝台のほかに衣を入れる箱、鏡台、低い卓があり、窓の外には小さな庭が見える。衣桁には、薄青色の女官衣に代わって、御侍として用意された衣が掛かっていた。
豪華な部屋ではない。それでも、誰かが起きればほかの者も目を覚ます共同生活とは、大きく違っていた。
麗華は寝台を降り、窓を開けた。朝の空気には前日の暑さが残っていたが、夜露を含んだ庭の草や土の匂いが入ってきた。遠くでは、皇宮の朝の支度を告げる鐘が鳴っていた。
卓には、前の部屋から持ってきた竹札と紙が置かれている。衣や日用品の多くは女官たちが運んだが、香について自分で書き留めた物だけは、麗華が確かめて持ってきた。
札の1枚には、8月6日に皇帝が選んだ香として、龍脳の名が記されていた。立場が変わっても、香の記録は昨日までの続きだった。
「崔御侍様、朝餉をお持ちいたしました」
戸の外から声が掛かり、麗華が入るよう伝えると、女官が盆を運んできた。粥に蒸した野菜、塩漬けの菜、温かい茶が載っている。昨日まで女官たちと食べていた朝餉より、品数が増えていた。
「毎朝、このように用意していただけるのでございますか」
「御侍様には、この程度をご用意することになっております。お済みになりましたら、お呼びください。片付けに参ります」
「今までは自分で運んでおりましたので、慣れるまで忘れるかもしれません」
女官は笑った。
「廊下へお出しにならなくても結構でございますよ」
「覚えておきます」
麗華は粥を口へ運んだ。米は柔らかく煮えており、空腹の朝には十分だった。食事を終えると、御侍の衣へ着替えた。
その日の午前、皇帝からの呼び出しはなかった。香の記録を続ける許しは得ているので、麗華は部屋で待ち続けず、女官へ行き先を伝えて尚服局へ向かった。
毎朝通っていた道だが、この日は前を歩いていた者が足を止め、道を空けることがあった。御侍となったことは、すでに宮中へ伝わっていた。
◇ ◇ ◇
布倉へ入ると、働いていた女官たちの手が止まった。最初に気づいた孫玉英が、以前と同じように名を呼びかけた。
「麗華……」
途中で言葉を止め、姿勢を正した。
「崔御侍様、お越しになったのですね」
「昨日までは、麗華でございましたのに」
「今日は、お立場が違います」
麗華にも否定はできなかった。皇帝自身が御侍として扱うよう命じたのである。自分の判断で以前と同じ身分を名乗れば、その決定を軽んじることになってしまう。
奥から劉彩雲が出てきた。麗華が香の記録を続ける許しを得たと伝えると、すでに聞いていると答えた。
「ただし、もう倉付きの見習いではございません。以前のように、朝から夕方までここにいる必要はありませんよ」
「承知しております。今日は記録を確かめに参りました」
「香倉へ入る時は、これまでどおり私どもへお知らせください。御侍になられても、尚服局の品を自由に持ち出せるわけではございません」
「もちろんです。私が勝手に持ち出したと思われる方が困りますので、そのようにしていただければ助かります」
彩雲の表情が和らいだ。
「そこは変わっておりませんね」
「一夜で、香の扱い方まで変わるわけではございませんから」
玉英が笑いをこらえるように顔を伏せた。麗華は以前の卓へ座り、残されていた竹札を確かめた。
「今朝、陛下がお選びになった香と、お渡しした時刻を教えてください」
「白檀を、卯の刻を少し過ぎた頃にお渡ししました。袋は昨日と同じ白絹で、黄色の紐を使っています。昨夜戻された龍脳の袋にも、異常はありませんでした」
麗華は筆を取り、日付と香の種類、受け渡しの時刻を書き入れた。御侍となって初めて尚服局でしたことは、昨日までと同じ仕事だった。
筆を置いた時、入口にいた若い女官が、頭を下げたまま顔を上げずにいるのに気づいた。
「何か御用でございますか」
「いいえ、何もございません」
「それなら、仕事を続けてください。私が来るたびに皆様の手が止まっては、困ってしまいます」
彩雲も持ち場へ戻るよう声を掛け、倉には再び布を動かす音が戻った。
麗華は、自分が同じつもりで来ても、周囲は以前のように接することができないのだと実感した。御侍は高い地位ではないが、皇帝のそばに召された女である。昨日まで一緒に働いていた者たちには、それだけで十分な変化だった。
記録を終えると、麗華は竹札を彩雲へ渡した。
「必要な分を写して、私の部屋にも置きたいのですが、よろしいでしょうか。元の札を持ち出すつもりはございません」
「原本をこちらで保管できるのであれば、構いません」
「ありがとうございます」
尚服局が管理する札を自分の部屋へ移せば、香の仕事まで自分の権限に取り込んだように見える。麗華が望んでいるのは、仕事を奪うことではなく、これからも関わり続けることだった。
◇ ◇ ◇
午後になると皇帝から迎えが来て、麗華は庭に面した部屋へ案内された。
趙佶は卓に数枚の絵を広げていた。以前見せられた小鳥の絵とは違い、花や竹を描いた物もある。麗華が礼をすると、趙佶は顔を上げ、新しい部屋の様子を尋ねた。
「十分な広さでございます。ただ、朝起きた時に誰もいないことには、まだ慣れておりません」
「6人部屋へ戻りたいとは申さぬのだな」
「それは申しません。荷物も運び終え、自分で確かめたい物も整理いたしました」
趙佶は笑い、香の竹札まで持っていったそうだなと続けた。
「尚服局の元の札は、倉に残しております。部屋に置くのは、自分の控えと、許しを得て写した物だけでございます」
「そこまで分ける必要があるのか」
「記録を私物のように持ち出せば、あとで調べる方が困ります。陛下から続けるお許しを頂いた仕事ですから、扱いも間違えたくありません」
「御侍になっても、考えることは帳面か。では、仕事ではないこともさせよう」
趙佶は竹の絵を1枚取り上げ、麗華へ見せた。重なった葉は墨の濃さが描き分けられ、手前と奥が分かるようになっていた。
「見て、どう思う」
「竹でございますね」
「それは余にも分かる。そなたにどう見えたかを聞いておる」
麗華は絵を見直した。
「風が吹いているように見えます。葉の向きがそろっておりませんし、こちらの細い枝も少し曲がっておりますので」
「風のない部屋で描いた物だぞ」
「それでも、私には風を受けているように見えます」
趙佶は絵を卓へ戻した。
「やはり、そなたに見せると面白い」
「気の利いた感想を申し上げられないからではございませんか」
「上手なことを申す者なら、ほかにいくらでもおる」
趙佶は別の絵を広げた。その日は香についてほとんど話さず、絵を見せたり、華宝舗で扱っていた品について尋ねたりした。清河県と開封では客の好みが違ったかとも聞かれ、麗華は自分が商いを通じて知った範囲で答えた。
日が傾く頃、趙佶は午前中の話を持ち出した。
「今日は尚服局へ行ったそうだな。御侍になった翌日から、倉へ戻る女も珍しかろう」
「見習いに戻ったのではございません。任されていた香の記録を、確かめに参りました」
「余が呼ばぬ日は、そうして過ごすつもりか」
「香の仕事がある日は尚服局へ参ります。ほかにすることがあれば、それもいたします。陛下からお呼びがあれば、すぐに参ります」
趙佶はしばらく麗華を見た。
「余に会いたいとは思わぬのか。そなたは、もっとそばへ来たいと申していたではないか」
「今も、会いたいと思っております。ただ、部屋で1日待っていても、お呼びいただける時刻が早くなるわけではございません」
趙佶は声を上げて笑った。
「確かにな」
麗華も笑い、呼び出しは夕刻まで続いた。
◇ ◇ ◇
それから10日ほどの間に、麗華は何度も皇帝から呼ばれた。2日続けて呼ばれることもあれば、何もない日もあった。
書画の殿で新しい絵を見せられたり、庭を歩く皇帝の後ろについて香の話をしたりした。夕餉の席へ呼ばれ、趙佶が食事を終えるまで話し相手を務めることもあった。
寝所へ召される夜も続いたが、麗華は翌朝には香の記録を確かめた。尚服局へ行かない日は、届けられた書付を部屋で読み、分からないことがあれば彩雲へ尋ねた。立場が変わったからといって、自分だけで決めることはしなかった。
宮中には、麗華より美しい女も、高い位を持つ女もいる。一度目に留まっても、皇帝の関心が別の女へ移ることはある。寵愛を得たからといって、それまで積み重ねた仕事を捨てるつもりはなかった。
むしろ、そばへ呼ばれるようになった今こそ、任せたことを間違えずに果たす女であり続ける必要があった。
8月の後半には、麗華の部屋に香の記録の写しが増え、皇帝の使いが戸口へ現れることも多くなった。書画や食事、庭で過ごす時間にも呼ばれるようになり、麗華は御侍として、皇帝の日々の暮らしに関わり始めていた。




