第10話(前編2)――「戦う身体」
旧西門邸で一夜を過ごした達也は、宋恵蓮と一丈青を新たな側女として迎えた。
その翌日、倉家へ戻った達也を待っていたのは、思いがけない知らせであった。
第1側室の曹静蘭が身ごもっていることが、初めて明らかになったのである。
守る家族が増えた達也は、同時に北宋の将来を考え始める。
金国と遼を巡る戦乱が、やがて開封へ及ぶことを知っている達也には、今から準備しなければならないことがあった。
(1118年10月、北宋・開封府・倉家)
倉達也が旧西門邸から戻ると、門の内側で呉月娘が待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
月娘は達也の顔を見た。
「よくお眠りになれましたか」
達也は答えなかった。
「知府様」
「はい」
「よくお眠りになれましたか」
「少しは」
「少しでございますか」
「いろいろありまして」
「何がございました」
「後で話します」
月娘の目が細くなった。
「嫌な予感がいたします」
「悪いことばかりではありません」
「では、良いことでもあるのでございますね」
「見る人によっては」
「先にお話しください」
達也は困った。
しかし、門先で話すことでもない。
「その前に、静蘭様と瓶児様は」
「広間におられます」
「では、皆さんの前で話します」
「本当に嫌な予感がいたします」
◇ ◇ ◇
広間へ入ると、李瓶児と曹静蘭が座っていた。
静蘭の隣には医者がいた。
達也の表情が変わった。
「静蘭様。どこか悪いのですか」
「知府様は、私の顔を見るなり病人になさるのでございますね」
「医者がいるではありませんか」
「悪い話ではございません」と瓶児。
「では、何ですか」
静蘭が達也を見た。
「子を授かったようでございます」
達也は何も言わなかった。
「知府様」
「本当ですか」
「はい」
医者が答えた。
「まだ初めでございますので、絶対とは申せませんが、月のものも止まり、脈にも兆しがございます。身ごもっておられると見てよろしいでしょう」
達也は静蘭の前へ座った。
「いつから分かったのですか」
「今朝でございます」
「気分は」
「少し胸がむかつく程度です」
「腹は痛みませんか」
「痛みません」
「食事は」
「取れております」
「熱は」
「ございません」
静蘭が笑った。
「知府様。私は病人ではございません」
「分かっています。でも、まだ初めでしょう」
「はい」
「では無理をしてはいけません」
「商いも休めとおっしゃるのでございますか」
「そこまでは言いません」
「帳面も読んではならないと」
「言いません」
「では、何をなさってはいけないのでございますか」
達也は黙った。
月娘が代わりに答えた。
「知府様から逃げ回ることでございましょう」
瓶児が笑った。
静蘭も意味を理解し、頬を赤らめた。
「それは確かに、控えた方がよろしいかもしれませんね」
「月娘様」
達也は抗議した。
「僕が静蘭様を追い回しているように言わないでください」
「昨夜までは追い回しておられたでしょう」
「普通に夫婦として」
「普通の回数について、後でゆっくり相談いたしましょう」
達也は黙った。
昨日までは、静蘭が身ごもっていることを誰も知らなかった。
達也も特別扱いしていない。
しかし今日からは違う。
「静蘭様」
「はい」
「しばらく無理はさせません」
「知府様のお気持ちは分かりました」
「夜も」
「それ以上は皆様の前でおっしゃらないでください」
静蘭が遮った。
広間に笑いが広がった。
達也も笑った。
それから静蘭の腹へ目を向けた。
まだ衣の上から分かる変化は何もない。
その中に、自分の子がいる。
達也はしばらく言葉を失った。
「嬉しいです」
ようやく、それだけを言った。
静蘭は静かにうなずいた。
「私もでございます」
◇ ◇ ◇
その日の夕餉は、いつもより品数が多かった。
静蘭の妊娠を祝うためである。
ただし本人には酒を飲ませず、脂の強い料理も減らした。
達也は鶏肉、魚、豆腐、青菜を食べながら、月娘から厳しい視線を受けていた。
「知府様」
「はい」
「そろそろ、昨日のお話を伺いましょう」
達也の箸が止まった。
「今ですか」
「皆がおりますので、ちょうどよろしいでしょう」
瓶児も達也を見た。
「旧西門邸で、何がございました」
「宋恵蓮さんと一丈青さんを、側女にしました」
静蘭が箸を置いた。
瓶児の口が開いた。
月娘だけは目を閉じた。
「知府様」
「はい」
「一晩でございますよ」
「分かっています」
「一晩お泊まりになっただけで、なぜ女が2人増えるのでございますか」
「事情がありまして」
達也は最初から説明した。
2人が湯殿へ来たこと。
人妻であると知らずに受け入れたこと。
金蓮から来旺と来昭の妻だと知らされたこと。
その後は関係を続けず、翌朝、本人と夫4人の意思を確かめたこと。
夫たちへ銀を渡し、職を奪わず、双方合意で離縁したこと。
そして2人自身の希望を改めて確かめたうえで、側女としたことを話した。
月娘は最後まで黙って聞いていた。
「銀を渡して、無理に亭主を納得させたのではございませんね」
「違います。嫌なら断ってよいと伝えました」
「恵蓮と一丈青本人にも」
「何度も確かめました」
「ならば、もう何も申しません」
達也は安心した。
「分かっていただけましたか」
「いいえ」
「えっ」
「諦めただけでございます」
瓶児が笑った。
「知府様を一晩旧西門邸へ出すと、側女が2人増えるということは分かりました」
「毎回増えません」
「次からは門番に女を近づけないよう言いつけた方がよろしいかもしれませんね」と静蘭。
「静蘭様まで」
達也の女たちは、これで11人となった。
第1側室が静蘭、第2側室が月娘、第3側室が瓶児。
側女は嬌児、玉楼、雪娥、金蓮、王六児、如意、恵蓮、一丈青の8人である。
月娘は人数を指で数えたあと、ため息をついた。
「知府様」
「はい」
「これ以上増やさないと約束できますか」
達也は考えた。
「できません」
月娘が達也をにらんだ。
「嘘をつくよりよいでしょう」
「そこだけ正直でも困ります」
◇ ◇ ◇
その夜、達也は静蘭の部屋へ入った。
しかし、昨日までとは違った。
寝台へ入り、静蘭を抱き寄せても、それ以上は何もしなかった。
「本当に何もなさらないのでございますか」
「まだ初めですから」
「医者は、寝ているだけで過ごせとは申しておりません」
「それでも心配です」
「昨日まで散々好きになさっていた方とは思えませんね」
「昨日は知りませんでした」
静蘭は達也の胸へ頬を置いた。
「子ができたと分かっただけで、ずいぶん変わるのでございますね」
「当たり前です」
「嬉しいですか」
「ものすごく」
「では、元気に生まれるまで守ってください」
「守ります」
達也は答えた。
その言葉を口にした時、頭に浮かんだのは腹の子だけではなかった。
月娘。
瓶児。
赤子。
側女たち。
屋敷で働く者たち。
そして100人の兵。
守る者は増え続けている。
◇ ◇ ◇
静蘭が眠ったあと、達也は寝台の中で目を開けていた。
北の情勢が頭から離れなかった。
遼。
金。
北宋。
達也は、この先に起こることを知っている。
自分が知る歴史の通りなら、1127年に開封は金軍によって落とされる。
北宋は滅びる。
今は1118年10月である。
9年も残っていない。
「遅いくらいだ」
達也は小さくつぶやいた。
100人の兵を持ったことで満足している場合ではない。
武器をそろえる。
馬を増やす。
兵を鍛える。
情報を集める。
それらは必要である。
しかし、もう1つ足りないものがあった。
自分自身である。
戦になれば、達也は兵だけを前へ出すつもりはなかった。
自分は侯爵だから後ろにいる。
知府だから城内に残る。
そのような戦い方をするつもりはない。
自分が兵へ前へ進めと命じるなら、自分も前へ出る。
そのためには、御前試合で5人を投げた程度で満足してはならない。
試合と戦場は違う。
相手は1人ずつ来ない。
鎧を着け、武器を持ち、何里も移動したあとで戦う。
雨も降る。
雪も降る。
空腹でも動かなければならない。
負傷した兵を助けることもある。
馬から落ちても立たなければならない。
「もっと鍛えよう」
達也は決めた。
◇ ◇ ◇
翌朝、まだ空が暗いうちに達也は庭へ出た。
走った。
最初はゆっくりと屋敷の周囲を回る。
身体が温まると速度を上げた。
その後は石を持ち上げ、脚と腰を鍛えた。
太い木へ縄を掛け、自分の身体を引き上げる。
御前試合のためにしていた鍛錬とは違う。
短時間に力を出すだけではなく、長く動き続ける身体を作ることが目的である。
「知府様」
月娘の声がした。
振り返ると、上着を羽織った月娘が立っていた。
「何をなさっているのでございますか」
「鍛錬です」
「こんな朝早くからでございますか」
「今日から毎日やります」
「昨夜、静蘭様のお部屋で何かございましたか」
「何もしていません」
「そういう意味ではございません」
達也は汗を拭いた。
「戦の準備をします」
月娘の顔が変わった。
「戦でございますか」
「北では遼と金が争っています。この先、何も起こらないとは思えません」
「知府様まで戦われるのでございますか」
「必要になれば」
「兵がおられるでしょう」
「兵だけを行かせるつもりはありません」
月娘は達也を見つめた。
「ご自分が先頭へ立つのでございますか」
「一番前とは限りません。でも、安全な場所から行けと命じるだけの男にはなりたくありません」
「死なれたら困ります」
「だから身体を鍛えます」
「鍛えれば死なないのでございますか」
「死ぬ確率は下げられます」
「屁理屈でございます」
「そうかもしれません」
月娘はため息をついた。
「分かりました。その代わり、食事を抜くのは禁止いたします」
「それも相談したかったのです」
「何でございますか」
「食事を変えたいのです」
月娘の眉が上がった。
◇ ◇ ◇
その日の昼、月娘は雪娥と瓶児を呼び、達也の食事について相談した。
達也自身も卓へ座った。
「何を食べたいのでございますか」と雪娥。
「肉、魚、卵、豆を増やしてください」
「今でも召し上がっております」
「鍛錬を増やすので、もう少し必要です」
「羊肉ばかりでは駄目でございますか」
「鶏も魚もお願いします。内臓も時々食べます」
「青菜は」
「食べます」
「胡麻や木の実は」
「お願いします」
瓶児が口を挟んだ。
「牡蠣もよろしいと聞いたことがございます」
「手に入ったらお願いします」
月娘が瓶児を見た。
「瓶児様」
「何でございましょう」
「それ以上、知府様を元気になさらなくてもよいのではございませんか」
瓶児は口元を押さえた。
「戦のためでございます」
「本当に戦だけのためならよろしいのですが」
達也が言った。
「食べなければ身体は作れません」
月娘は達也を見た。
「分かりました。ただし、食事を変えた結果、夜までさらにお元気になられても、私どもは責任を取りません」
「なぜその話になるのです」
「経験から申し上げております」
◇ ◇ ◇
達也は数日後、1人で洞窟へ向かった。
人目を避けて中へ入る。
残してある物資の中から、鉄分、亜鉛、ビタミンなどを含む栄養補助食品を取り出した。
容器に書かれた量を確かめる。
大量に飲めば強くなるわけではない。
足りない栄養を補うだけでよい。
西門慶が死んだ理由を、達也は忘れていなかった。
薬を飲めば身体の限界が消えるわけではない。
西門慶は薬の力へ頼り、酒を飲み、胸が痛んでも女を抱き続けた。
達也は同じことをするつもりはない。
精力薬へ頼らない。
身体そのものを強くする。
食べる。
鍛える。
休む。
それを毎日続ける。
達也は必要な栄養補助食品だけを持ち、洞窟を出た。
◇ ◇ ◇
それから達也の生活は変わった。
朝は走る。
脚と腰を鍛える。
腕だけでなく、背中と腹も鍛える。
100人の兵が走る日には自分も走った。
兵へ重い荷を持たせる時には、自分も同じ物を担いだ。
「知府様までなさる必要はございません」
部下が言っても聞かなかった。
「僕にできないことを、皆にやれとは言いません」
訓練が終われば食べる。
以前のように昼餉を忘れることも減った。
雪娥が用意した肉や魚を食べ、卵や豆、青菜も残さない。
洞窟から持ち出した栄養補助食品も、決めた量だけ飲む。
夜には妻妾や側女のもとへ行くこともある。
それでも翌朝の鍛錬は休まなかった。
数週間が過ぎると、目に見えて身体が変わった。
肩と背へ厚みが増した。
脚はさらに強くなった。
長く走った後でも、息が整うまでの時間が短くなった。
兵との組み打ちでも、以前より疲れなくなった。
達也が望んでいた成果である。
しかし、望んでいなかったところにも成果が出た。
◇ ◇ ◇
10月下旬のある夜、月娘は寝台の端へ座り、達也を見ていた。
「知府様」
「はい」
「鍛錬の成果は十分に出たのではございませんか」
「まだです」
「もう十分でございます」
「なぜですか」
月娘は答えなかった。
前夜は瓶児の部屋へ行った。
その前は旧西門邸で側女たちと過ごしている。
それでも達也は、今夜になれば何事もなかったように月娘の部屋へ来た。
「月娘様」
「何でございますか」
「今日は嫌ですか」
「嫌とは申しておりません」
「では」
「知府様には、休むということを覚えていただきたいのでございます」
「毎日寝ています」
「そういう意味ではございません」
月娘は掛布を引き寄せた。
「以前からお元気ではございましたが、最近はさらにひどくなりました」
「ひどいとは何ですか」
「日によっては、10人近い女のところを回っても、翌朝になると普通に走っておられるではございませんか」
「毎日10人ではありません」
「そこを否定なさるのでございますね」
達也は笑った。
「月娘様も嬉しいでしょう」
「嬉しい悲鳴という言葉はございます」
「では」
「本当に悲鳴を上げるほどでは困るのでございます」
達也は声を上げて笑った。
その頃には瓶児も同じことを言っていた。
「知府様。今夜は旧西門邸へお行きください」
「昨日行きました」
「では、月娘様へ」
「月娘様から瓶児様へ行けと言われました」
「私どもで知府様を押しつけ合っているようではございませんか」
「僕は荷物ですか」
「荷物の方が静かでございます」
妊娠した静蘭だけは、達也に追い回されることがなくなった。
達也は静蘭の部屋へ行っても、隣で話をし、眠るだけの日が多い。
そのため月娘や瓶児が静蘭の部屋へ逃げ込むことまであった。
「なぜ2人とも、ここにいるのですか」
達也が尋ねると、静蘭が笑った。
「知府様から避難しておられるのでございます」
「僕は災害ではありません」
「月娘様と瓶児様のお顔を見る限り、似たようなものでございます」
静蘭は腹へ手を添えた。
まだ大きな変化はない。
達也はその手へ自分の手を重ねた。
「この子が生まれるまでには、もっと強くなります」
「何のためでございますか」
「守るためです」
「私と、この子を」
「皆をです」
達也は答えた。
「この家も、開封も守ります」
「そのために、戦場へ出られるのでございますね」
「はい」
静蘭は少し黙った。
「では、1つだけお願いがございます」
「何ですか」
「生きて帰ってきてください」
「帰ります」
「簡単におっしゃいますね」
「簡単ではありません」
達也は静蘭の手を握った。
「だから今から準備します」
達也は21歳である。
金国と遼の争いは、これから大きく動く。
北宋が滅びる年まで、達也が知る歴史では残り9年を切っている。
その歴史が、そのまま訪れるとは限らない。
達也自身がすでに、この時代へ存在しているからである。
しかし、何も準備せずに歴史が変わることはない。
兵を育てる。
金を集める。
武器を整える。
そして、自分自身を鍛える。
戦になった時、兵だけを前へ送り、自分が後ろに隠れるつもりはなかった。
達也の戦支度は、静蘭の腹に新しい命が宿った1118年10月、本格的に始まった。
第10話前編2では、旧西門邸から戻った達也が、第1側室の曹静蘭が身ごもったことを初めて知らされた。
それまで妊娠を知らなかった達也は静蘭を特別扱いしていなかったが、妊娠が分かったその日から、静蘭には無理をさせないよう気遣うようになった。
一方、達也は北宋の将来を考え、金国や遼との戦いに備える決意を固めた。
兵だけを危険な場所へ送り、自分が安全な場所へ残るつもりはない。
そこで走り込み、筋力鍛錬、兵との訓練を日課とし、肉、魚、卵、豆、青菜、胡麻、木の実などを十分に取る食生活へ改めた。さらに洞窟から鉄分や亜鉛などを含む栄養補助食品を持ち出し、決められた量を毎日飲むようになった。
西門慶の死を知る達也は、精力薬で身体を無理に動かす道を選ばない。食事、鍛錬、休養によって身体そのものを強くする方針である。
その成果は戦う身体だけでなく夜の生活にも現れ、日によっては10人近い妻妾や側女のもとを回っても、翌朝には普段通り走れるほどになった。
月娘と瓶児は嬉しい悲鳴を上げることになったが、妊娠初期の静蘭だけは達也に追い回されずに済んでいる。
守る家族が増えたことをきっかけに、達也は北宋の将来へ本格的に備え始めた。




