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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第10話(中編1)――「西夏軍、国境を越える」

 1118年10月、第1側室の曹静蘭(ツァオ・ジンラン)の妊娠が分かり、倉達也(ツァン・ダーイエ)は守る家族が増えたことを実感した。


 同じ頃、北方では金が遼を圧迫し、西北では西夏軍が北宋との国境で動きを活発にしていた。


 達也は将来の戦に備え、自ら身体を鍛え始める。


 しかし、戦乱は達也が考えていたより早くやって来た。


 西夏軍が国境を越え、北宋領へ侵入したのである。

 (1118年10月下旬、北宋・開封府(カイフォンフ)・開封府衙)


 朝の鍛錬を終えた倉達也(ツァン・ダーイエ)が府衙へ入った時、役人たちの様子が普段と違っていた。


 正面の広間には数人の役人が集まり、書状を囲んでいる。


 達也が入ると、一斉に立ち上がった。


「何があったのですか」


「西北から急報でございます」


 役人が封を切った書状を差し出した。


 達也は席へ着く前に読み始めた。


 西夏軍が国境を越え、北宋領内へ侵入したという。


 騎兵を中心とする軍勢は国境付近の村を襲い、食糧と家畜を奪った。その後、宋軍が守る寨へ攻撃を加えた。


 守備隊は防戦しているが、西夏軍は退く様子を見せていない。


「人数は分かりますか」


「正確には分かりません。最初の報告では数千、その後の報告では1万に近いとも書かれております」


「ずいぶん違いますね」


「西夏軍は騎兵が多く、動きが速いため、各地から届く報告が一致しておりません」


 達也は地図を広げさせた。


 開封から西へ目を移す。


 西夏との国境は遠い。


 しかし、遠いから開封に関係がないわけではない。


 西夏軍が国境地帯を荒らせば、朝廷は兵と銭と食糧を西へ送らなければならない。


 その隙に別の敵が動けば、さらに苦しくなる。


「北からの報告はありませんか」


「ございます」


 別の役人が書状を差し出した。


「遼軍が金軍に敗れたとの知らせが続いております。遼の支配地では逃げ出す民も増え、宋との境へ近づく者もいるようです」


 達也は黙って地図を見た。


 西には西夏。


 北には遼。


 そのさらに北東から金が勢力を広げている。


 今の北宋にとって、西夏の攻撃は目の前の危機である。


 しかし、達也が恐れているのは、その先であった。


 遼が弱れば、北宋の敵が減る。


 朝廷の多くはそう考えるかもしれない。


 だが遼が消えれば、金と北宋の間にあった大国がなくなる。


 金軍が、そのまま南へ出てくる。


 達也は1127年を知っている。


 開封が落ち、北宋が滅びる年である。


 しかし、戦が1127年になって突然始まるわけではない。


 その前から、一つずつ条件がそろっていく。


「始まったのかもしれない」


 達也が小さく言った。


「何がでございますか」


「いいえ。こちらの話です」


 達也は書状を閉じた。


 その日の昼、宮中から使者が来た。


 皇帝からの召しである。


 ◇ ◇ ◇


 宮中では、西夏軍への対応を巡る話し合いが続いていた。


 西北の守備軍だけで押し返せるという意見もあれば、早いうちに援軍を送るべきだという意見もあった。


 達也は武官ではない。


 開封知府である。


 しかし、御前試合で全国から集められた猛者を次々と倒し、皇帝の目の前でその力を示している。


 さらに、自ら100人の兵を抱え、日常的に訓練を行っていることも皇帝は知っていた。


「倉達也」


「はい」


 達也は皇帝の前で頭を下げた。


「西夏が国境を越えたことは聞いておるな」


「はい」


「西北軍へ援兵を出す」


「承知しております」


「お前も行け」


 達也は顔を上げた。


「僕もですか」


「嫌か」


「いいえ」


 答えは早かった。


「行かせてください」


「開封知府が戦場へ出る必要はないと申す者もおった」


「では、なぜ僕をお呼びになったのでしょうか」


 皇帝は笑った。


「お前なら行きたがると思ったからだ」


 達也は返事に困った。


「自分の兵を連れていってよい。100人であったな」


「はい」


「西北へ向かう援軍に加われ。ただし、お前1人の戦ではない。現地の指揮官へ従え」


「承知しました」


「熊を殺し、御前で男を5人倒した力が、本当の戦でどこまで通じるか見せてみよ」


「努めます」


「死ぬなよ」


 皇帝が最後に言った。


 達也は深く頭を下げた。


「必ず帰ってまいります」


 ◇ ◇ ◇


 倉家へ戻った達也は、家族を広間へ集めた。


 呉月娘(ウー・ユエニャン)李瓶児(リー・ピンアル)曹静蘭(ツァオ・ジンラン)が並んだ。


 静蘭は妊娠初期である。


 まだ腹の膨らみはない。


「皇帝陛下から出陣を命じられました」


 月娘が達也を見た。


「どちらへでございますか」


「西です。西夏軍が国境を越えました」


「いつお発ちになります」


「3日後です」


 瓶児が息を飲んだ。


「100人の兵も連れていかれるのでございますか」


「はい」


「知府様も戦われるのでございますね」


「戦場まで行って何もしないわけにはいきません」


「前へ出過ぎないと約束してください」と月娘。


 達也は答えなかった。


「知府様」


「約束できません」


 月娘の眉が寄った。


「では、死なないと約束してください」


「それは約束します」


「先ほどと同じではございませんか」


「前へ出ても死ななければよいのです」


「簡単におっしゃらないでください」


 静蘭は2人のやり取りを黙って聞いていた。


 やがて立ち上がり、達也の前まで来た。


「あなた様が以前おっしゃった通りになりましたね」


「何がですか」


「兵を危険なところへ送り、ご自分だけ安全な場所に残ることはしないと」


「はい」


「では、止めません」


 月娘と瓶児が静蘭を見た。


「静蘭様」と月娘。


「止めても、この方は行かれます。それなら、帰る場所を守る方がよろしいでしょう」


 静蘭は達也の手を取り、自分の腹へ置いた。


「この子が生まれる前に、父親を失うことだけは許しません」


「帰ります」


「勝つことより、生きて帰ることを先に考えてください」


 達也はうなずいた。


「分かりました」


 月娘が口を開いた。


「知府様のお留守は、私が家を預かります」


「お願いします」


「商いと外との付き合いは私がいたします」と静蘭。


「無理はしないでください」


「分かっております」


「瓶児様」


「はい」


「月娘様と静蘭様を助けてください」


「もちろんでございます」


 瓶児は答えたあと、少し笑った。


「その代わり、お戻りになったら、しばらく私の部屋へいらしてください」


「それは喜んで」


「知府様」


 月娘が低い声で呼んだ。


「今からその話をなさらないでください」


 家族の間にわずかな笑いが戻った。


 ◇ ◇ ◇


 出陣までの3日間、達也はほとんど休まなかった。


 100人の兵を集め、装備を点検した。


 槍、刀、弓、矢。


 防具。


 馬。


 食糧。


 負傷者を運ぶための布と担架。


 達也は自分の荷も兵と同じ程度に抑えた。


「知府様の荷はこちらで運びます」


 部下に言われても断った。


「戦場で僕だけ軽い荷を持っていたら、皆が納得しないでしょう」


「知府様は指揮をなさる方です」


「だからこそです」


 達也の100人は、これまで開封周辺で鍛えてきた者たちである。


 実戦経験のある者も少数はいたが、多くにとって本格的な戦は初めてだった。


 達也自身も同じである。


 御前試合で人を投げるのと、敵軍と殺し合うのは違う。


「怖い人はいますか」


 出発前日、達也は100人へ尋ねた。


 誰も手を上げなかった。


「嘘をつかなくてよいです。僕も怖いですよ」


 兵たちが顔を見合わせた。


「知府様でもでございますか」


「当たり前です。相手は僕を殺そうとしてきます。怖くない方がおかしいでしょう」


 達也は兵を見回した。


「でも、怖いから逃げるのと、怖いことを分かったうえで前へ出るのは違います。僕は皆さんへ前へ行けと言う時、自分も行きます」


 兵たちの表情が変わった。


「ただし、勝手に死なないでください。敵を1人倒すために自分が死んだら、残った家族が困ります。命令を守り、仲間から離れず、危なくなったら助けを求めてください」


「はい!」


 100人の声が重なった。


 ◇ ◇ ◇


 出陣の日、倉家の門前には家族が並んだ。


 静蘭は門の内側で見送った。


 月娘は赤子を抱いている。


 瓶児も並んだ。


 旧西門邸からは金蓮、玉楼、雪娥、嬌児、王六児、如意、恵蓮、一丈青も来ていた。


「知府様」


 金蓮が声をかけた。


「何ですか」


「女相手なら何人でも平気なお方でも、刀で斬られれば怪我をいたしますよ」


「分かっています」


「本当に分かっておられますか」


「金蓮様まで月娘様のようなことを言うようになりましたね」


「知府様のお相手をしていれば、誰でもそうなります」


 達也は笑った。


「帰ってきます」


「約束でございますよ」


「はい」


 達也は馬へ乗った。


 100人の兵が続く。


 援軍本隊との合流地点へ向かい、隊列は開封の大路を西へ進んだ。


 月娘の腕の中で赤子が声を上げた。


 達也は馬上から振り返り、手を上げた。


 その後ろで、倉家の門が少しずつ遠ざかっていった。


 ◇ ◇ ◇


 西へ進むほど、戦の気配は濃くなった。


 東へ逃げる農民とすれ違う。


 荷車には布団、鍋、穀物袋が積まれ、その上に老人や子供が乗っていた。


 焼かれた村もあった。


 畑には馬の蹄の跡が残り、倉の戸が壊されている。


 達也は馬を止め、焼けた家を見た。


 御前試合では観客が拍手した。


 戦には拍手する者はいない。


 負ければ家が焼かれる。


 食糧を奪われる。


 家族を失う。


「知府様」


 部下が声をかけた。


「行きましょう」


 達也は前を向いた。


 ◇ ◇ ◇


 西北軍の陣へ着いた時には、11月も半ばになっていた。


 国境付近では数度の戦闘が行われていた。


 宋軍は寨を守っているものの、西夏軍の騎兵に振り回されていた。


 西夏軍は正面から城壁へ突っ込むだけではない。


 小部隊で村や補給路を襲い、宋軍が追えば引き、疲れたところで別の騎兵が攻める。


 達也は現地の指揮官から説明を聞いた。


「西夏軍の総大将は、かなり戦慣れしている」


「本隊はどこですか」


「西方の丘陵地帯に陣を置いている。こちらから攻めれば、騎兵で包囲するつもりだろう」


「こちらの騎兵は」


「数で負ける」


「歩兵は」


「こちらが多い。しかし追いつけぬ」


 達也は地図を見た。


「敵は食糧をどこから運んでいるのですか」


「国境の向こうからだ」


「補給路を切れませんか」


「簡単に申すな。敵の騎兵が守っている」


「では、僕の100人を使わせてください」


 指揮官は達也を見た。


「100人で何をする」


「敵を倒しに行くのではありません。敵がこちらへ追ってくるようにします」


「囮になるつもりか」


「はい」


「侯爵がする仕事ではない」


「開封では、知府が兵と一緒に走るのもおかしいと言われました」


「ここは開封ではない」


「だからやります」


 指揮官はしばらく達也を見た。


「御前試合で5人を倒したという話は聞いている」


「戦は初めてです」


「正直だな」


「初めてだから、分からないことは教えてください」


 達也は頭を下げた。


 その態度を見て、指揮官はようやく笑った。


「よかろう。勝手に突っ込むな。お前の100人を使って敵の動きを見る」


「ありがとうございます」


 こうして達也の初陣が始まった。


 ◇ ◇ ◇


 最初の戦闘で、達也は敵を追わなかった。


 西夏騎兵が近づき、矢を射て逃げる。


 宋兵が追おうとすると、達也は止めた。


「追わないでください!」


 数十騎が再び近づく。


 矢が飛んだ。


 盾で受ける。


 達也の兵にも負傷者が出た。


「知府様、追いましょう!」


「駄目です!」


「逃げます!」


「逃げさせてください」


 西夏騎兵は宋軍が追ってこないことを不審に思ったのか、何度も近づいた。


 達也はその動きを見た。


 騎兵が引く方向。


 次に現れる方向。


 丘の陰。


 谷。


 敵は同じ道を使っている。


「なるほど」


 達也は地図へ印を付けた。


 翌日、宋軍は谷の出口へ弓兵を隠した。


 達也の100人が前へ出た。


 西夏騎兵が現れる。


 達也たちは少し戦ってから退いた。


 西夏軍が追ってくる。


「まだです」


 達也は走った。


 馬ではなく、歩兵として兵とともに走った。


 追ってくる蹄の音が近づく。


「今です!」


 谷の左右から宋軍の矢が降った。


 西夏騎兵が混乱した。


 そこへ別の宋軍部隊が出口を塞いだ。


 達也は振り返った。


「行きます!」


 今度はこちらが追う番であった。


 達也は先頭へ出た。


 槍をかわし、敵兵を馬から引きずり下ろした。


 別の騎兵が刀を振り下ろす。


 達也は身体を横へずらし、腕をつかんだ。


 馬上の男を引き落とす。


 地面へ落ちた男の武器を蹴り離した。


「降参してください!」


 言葉が通じたかは分からない。


 男は短刀へ手を伸ばした。


 達也はその腕を押さえた。


 周囲では本物の殺し合いが続いている。


 倒れた者の叫び声が聞こえる。


 血の臭いがした。


 達也の身体が一瞬固くなった。


 そこへ別の敵兵が迫った。


「知府様!」


 味方の声で我に返った。


 達也は敵の槍をかわし、懐へ入った。


 肩をつかみ、そのまま投げる。


 敵兵が地面へ転がった。


 達也は息を吐いた。


 御前試合とは違う。


 本当に違う。


 負ければ死ぬ。


 それでも身体は動いた。


 鍛えてきた意味はあった。


 その日の戦闘で宋軍は西夏騎兵を押し返した。


 大勝ではない。


 西夏の本隊は健在である。


 しかし、宋軍の陣では達也の名が広まり始めた。


 侯爵が後ろから命令したのではない。


 100人とともに走り、敵の騎兵を誘い込み、自分も先頭で戦ったからである。


 夜、現地の指揮官が達也を呼んだ。


「倉侯」


「はい」


「本当に先頭へ出るとは思わなかった」


「出ると言いました」


「普通は言うだけなのだ」


「僕は死にたくありません。でも、兵だけに死ねとも言いたくありません」


 指揮官は酒を1杯だけ差し出した。


「飲め」


「鍛錬中なので」


「今夜くらいよかろう」


 達也は受け取った。


「ありがとうございます」


「西夏の総大将は、お前のことを知ったらしい」


「僕をですか」


「開封から若い侯爵が来て、兵と一緒に戦っているとな」


「それが何か」


「向こうは面白くないだろう」


 指揮官は地図を指した。


「敵本隊が動いた」


 達也の表情が変わった。


「こちらへ来ますか」


「おそらくな」


 いよいよ総力戦になる。


 達也は地図へ目を落とした。


 西夏軍総大将との戦いが、近づいていた。

 第10話中編1では、1118年10月末、西夏軍が北宋との国境を越え、村や寨を攻撃した。


 同じ頃、北方では金軍に敗れる遼の情勢も悪化していた。未来を知る達也は、西夏との国境紛争だけでなく、遼の弱体化によって金が北宋へ直接迫る将来を警戒する。


 皇帝は西北軍へ援軍を送り、達也にも100人の兵を率いて出陣するよう命じた。


 倉家では、月娘、瓶児、妊娠初期の静蘭が達也を見送った。達也は生きて帰ることを約束し、100人とともに開封を出発した。


 西北の戦場では、西夏騎兵が素早い攻撃と退却を繰り返し、宋軍を苦しめていた。


 達也は敵の動きを観察し、自らの100人を囮として騎兵を谷へ誘い込み、待ち伏せした宋軍とともに撃退した。


 御前試合とは違い、本物の戦場では負傷者が倒れ、血が流れる。それでも達也は兵の後ろへ隠れず、自ら先頭で戦った。


 その働きは西夏軍にも伝わり、西夏の総大将は若い宋の侯爵を意識し始める。


 やがて西夏本隊が動いた。


 達也の初陣は、最大の戦いを迎えようとしていた。

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