第10話(前編1)――「湯殿に来た二人」
1118年10月、21歳の倉達也は、開封知府と侯爵を兼ね、100人の兵を抱える身となっていた。
西門慶の死後、李瓶児は達也の第3側室となり、李嬌児、孟玉楼、孫雪娥、潘金蓮、王六児、如意の6人は、達也に求められた夜には寝所へ侍ることを承知して側女となった。
若く精力の強い達也は、倉家へ帰れば月娘や静蘭、瓶児を求め、旧西門邸へ来れば側女たちの部屋へ通った。
とうとう月娘と瓶児から少し休ませてほしいと言われ、達也は旧西門邸で夜を過ごすことになる。
そこで、思いもよらない2人の女が湯殿へ現れた。
(1118年10月初旬、北宋・開封府・旧西門邸)
夕餉を終えた倉達也は、旧西門邸の広間で茶を飲んでいた。
西門慶が生きていた頃の騒がしさはない。
それでも屋敷が寂れたわけではなかった。
表には店と倉を管理する帳場が置かれ、夜になれば夜回りと火消しの者が出入りする。護衛も常駐し、開封の裏側から集まる情報は、この屋敷を通じて倉家へ送られていた。
母屋には、達也の側女となった6人が暮らしている。
専用の離れが倉家に完成するまで、以前の部屋を使うことになっていた。
「知府様、お茶が冷めますよ」
孟玉楼に言われ、達也は茶碗を口へ運んだ。
「静かですね」
「西門様がおられた頃とは違います」
「僕が来ると、皆さん迷惑ではありませんか」
「今さら何をおっしゃるのでございますか」
玉楼は帳面を閉じた。
「側女となる時に、知府様がお越しになった夜には寝所へ侍ることもあると、皆承知しております」
「でも、毎回来なくてもよいでしょう」
「では、今夜はどなたもお呼びにならず、お一人でお休みになりますか」
「そのつもりです」
玉楼は達也の顔を見た。
「本当でございますか」
「なぜ疑うのです」
「倉家からこちらへ来られた理由を存じているからでございます」
達也は茶碗を置いた。
「追い出されたわけではありません」
「月娘様から何とおっしゃられたのでございますか」
「今夜は旧西門邸へ行ってください、と」
「瓶児様は」
「私も同じ考えです、と」
「それを追い出されたと申すのではございませんか」
「違います」
「では、何でございますか」
達也は少し考えた。
「泊まる場所を変えるよう勧められたのです」
玉楼は笑い出した。
「知府様は、役所の訴状ならもっと厳しく言葉をお選びになるでしょう」
「自分のことは別です」
「月娘様も瓶児様も、嫌がっておられるわけではございませんよ」
「分かっています」
「ただ、知府様は毎晩元気過ぎるのでございます」
「21歳ですから」
「そのお言葉を月娘様の前でおっしゃいましたか」
「言いました」
「それで、こちらへ送られたのでございましょう」
達也は返事をしなかった。
玉楼は帳面を抱えて立ち上がった。
「今夜くらい、ゆっくりお休みください」
「そうします」
「その前に湯をお使いください。用意させております」
「ありがとうございます」
達也は本当に、その夜は静かに眠るつもりであった。
◇ ◇ ◇
旧西門邸の湯殿は広かった。
西門慶が客や女と湯を楽しむために造らせたもので、大きな木の浴槽には大人が何人も入れる。
達也は身体を洗い、肩まで湯へ沈めた。
熱い湯が首から背へ流れる。
昼には府衙で訴状を読み、午後には100人の兵の訓練を見ている。夕刻には夜回りの報告まで受けた。
「これは気持ちがよい」
達也は浴槽の縁へ頭を預けた。
今夜は誰の部屋へも行かない。
湯から上がったら寝る。
そう決めて目を閉じたところで、戸が開いた。
「失礼いたします」
女の声である。
達也が振り向いた。
2人の女が立っていた。
どちらも20代と思われる。
1人は丸みのある顔に愛嬌があり、もう1人は背が高く、目元のはっきりした女であった。
2人とも布と桶を持っている。
「どなたですか」
丸顔の女が頭を下げた。
「宋恵蓮と申します」
背の高い女も続いた。
「一丈青と申します」
「僕の背中を流しに来たのですか」
「はい」
「自分で洗いましたよ」
恵蓮が笑った。
「それでは、私どもの仕事がございません」
「もう洗ってしまいました」
「もう一度洗えばよろしゅうございます」
達也は笑った。
「では、お願いします」
湯船から出ると、恵蓮が達也の背を洗い、一丈青が桶で湯を流した。
2人とも妙に楽しそうであった。
「何かおかしいですか」
「いいえ」と恵蓮。
「笑っています」
「知府様は、本当にお若いのでございますね」
「21歳です」
一丈青が達也の肩を見た。
「御前試合で5人を倒されたと聞きました」
「倒したというより、投げたのです」
「同じことでございましょう」
「違います」
「熊も殺されたのでしょう」
「それは昔です」
「ほんの2年前ではございませんか」
「よく知っていますね」
「この屋敷で知らない者はおりません」
身体を洗い終えると、達也は再び浴槽へ入った。
「ありがとうございました」
「まだ終わっておりません」
「何がですか」
恵蓮が自分の帯へ手を掛けた。
一丈青も衣を脱ぎ始めた。
達也は目を見開いた。
「何をしているのです」
「私どもも湯をいただきます」
「僕が入っていますよ」
「存じております」
2人は平然としていた。
やがて恵蓮が湯へ入り、一丈青も続いた。
広い浴槽なのに、なぜか2人とも達也の近くへ寄ってくる。
「もう少し向こうが空いていますよ」
「こちらの方が温かいのでございます」と恵蓮。
「同じ湯でしょう」
一丈青が笑った。
「知府様は、女のお気持ちが分からないのでございますか」
「分からないから聞いています」
恵蓮が達也の腕へ身体を寄せた。
これでは、いくら鈍くても分かる。
「最初から、そのつもりで来たのですか」
2人は顔を見合わせた。
「何のことでございましょう」
「玉楼様まで、その言い方をします」
「では、知府様がお嫌なら出ます」と一丈青。
立ち上がろうとした。
達也はその腕を取った。
「嫌だとは言っていません」
恵蓮が声を上げて笑った。
「それなら、最初からそうおっしゃればよろしいのでございます」
21歳の達也に、それ以上の理屈は必要なかった。
湯殿へ入った時には静かに眠るつもりであったことなど、しばらくすると頭から消えていた。
◇ ◇ ◇
湯から上がった達也を待っていたのは、潘金蓮であった。
寝間着を持ち、廊下の柱へ寄りかかっている。
「長いお湯でございましたね」
「金蓮様」
「はい」
「あの2人を寄こしたのは金蓮様ですか」
「背中を流す者が必要だと思いまして」
「湯船へ入るようにも言いましたか」
「それは本人たちがお決めになったことでございます」
「最初から分かっていたでしょう」
金蓮は答えず、達也へ寝間着を渡した。
「お気に召しましたか」
「その聞き方はずるいです」
「では、お気に召したのでございますね」
達也は寝間着を着ながら尋ねた。
「あの2人は、ここで何をしているのですか」
「以前から西門家におります」
「女中ですか」
「下男の妻でございます」
達也の手が止まった。
「何ですって」
「宋恵蓮は来旺の妻。一丈青は来昭の妻でございます」
「亭主がいるのですか」
「おります」
「先に言ってください!」
廊下へ達也の声が響いた。
金蓮は平然としている。
「知府様がお尋ねになりませんでしたので」
「普通は言うでしょう」
「お2人とも、ご自分から湯船へ入ったのでございましょう」
「それと亭主がいることは別です」
「では、どうなさいますか」
達也は頭を抱えた。
すでに済んでしまったことは戻せない。
「2人を呼んでください」
恵蓮と一丈青は髪を乾かし、衣を着替えて現れた。
「2人とも、亭主がいるそうですね」
「はい」と恵蓮。
「なぜ言わなかったのです」
「聞かれませんでしたので」
「金蓮様と同じことを言わないでください」
一丈青が達也を見た。
「知府様は、私どもが人妻だと知っておられたら、何もなさらなかったのでございますか」
「少なくとも、先に亭主と話します」
「では、今からお話しください」
達也は一丈青の顔を見た。
「離縁するつもりなのですか」
「知府様が側女になれとおっしゃるなら」
「僕が決めることではありません。来昭と別れたいのですか」
「はい」
恵蓮も答えた。
「私も、知府様の側女になれるのでしたら、来旺とは別れます」
「僕の側女になることと、亭主と別れることは分けて考えてください」
「考えたうえで申し上げております」
達也はしばらく2人を見た。
「分かりました。明日、来旺と来昭を呼びます」
「今夜はどういたしますか」と恵蓮。
「どうもしません」
「先ほどは、あれほど――」
「その話は終わりです」
達也は慌てて遮った。
「正式に話がつくまでは、もう駄目です」
一丈青が笑った。
「妙なところで真面目なお方でございますね」
「妙ではありません」
◇ ◇ ◇
ところが、その夜が静かに終わることはなかった。
寝所へ入ると、金蓮だけでなく、玉楼、雪娥、嬌児、王六児、如意まで集まっていた。
「なぜ全員いるのですか」
達也は戸口で立ち止まった。
「月娘様と瓶児様に休みを差し上げるのでございましょう」と金蓮。
「そうです」
「ならば、今夜はこちらの番でございます」
「全員の番とは言っていません」
王六児が笑った。
「知府様は、私どもを側女になさったのでございましょう」
「そうですが」
「お召しになれば寝所へ侍ることを承知しております」
「今日は誰も呼んでいません」
「では、私どもから参りました」
達也は玉楼を見た。
「玉楼様までですか」
「私は止めました」
「本当ですか」
「少しだけでございますが」
「それは止めたとは言いません」
金蓮が達也の袖を引いた。
「知府様。月娘様と瓶児様に追い出されたからといって、私どもまで遠慮する必要はございません」
「追い出されていません」
「まだおっしゃるのでございますか」
「宿替えです」
「では今夜は、この宿でお楽しみください」
達也は笑った。
「皆さん、明日の朝に後悔しても知りませんよ」
金蓮が笑い返した。
「そのお言葉、覚えておきます」
その後のことは、達也にも順番までは覚えていなかった。
金蓮が最初だったことは覚えている。
玉楼が途中で「もう知りません」と言いながら結局残り、雪娥は何度も水と食べ物を運ばせた。
嬌児は途中で先に休むと言いながら、しばらくすると戻ってきた。
王六児は最後まで面白がり、如意も最初の遠慮を途中から忘れた。
誰かが笑えば別の女が怒り、誰かが横になれば別の女が達也を呼ぶ。
寝所に収まらなくなり、隣室まで使った。
夜半を過ぎても灯は消えなかった。
達也は一晩中、6人の側女たちとほたえ回った。
夜が明ける頃には、誰がどの寝具で眠っているのかさえ分からなくなっていた。
◇ ◇ ◇
朝、達也は目を覚ました。
右に金蓮、左に玉楼が眠っている。
少し離れた場所では王六児が掛布へくるまり、雪娥と嬌児も起きる気配がない。如意は衝立の近くで眠っていた。
達也は静かに身体を起こした。
金蓮が薄く目を開けた。
「もうお起きになるのでございますか」
「府衙へ行かなければなりません」
「昨夜のあとで、普通にお仕事へ行かれるのでございますか」
「仕事ですから」
「月娘様と瓶児様のお気持ちが、少し分かりました」
「何ですか、それは」
「今夜は倉家へお帰りください」
「月娘様に、こちらへ行けと言われたのですよ」
「では府衙へお泊まりください」
「ひどいですね」
金蓮はもう一度目を閉じた。
「私どもにも休みが必要でございます」
◇ ◇ ◇
達也は府衙へ行く前に、来旺と来昭を旧西門邸へ呼ばせた。
玉楼にも立ち会ってもらった。
恵蓮と一丈青も部屋へ入った。
来旺と来昭は、なぜ自分たちが侯爵から呼び出されたのか分からず、硬い表情で座っている。
達也は遠回しには言わなかった。
「昨夜、僕は恵蓮さんと一丈青さんに手を出しました」
2人の男の顔色が変わった。
「知府様……」
来旺が声を絞り出した。
「言い訳はしません。2人に亭主がいることを知らなかったとはいえ、僕がしたことです」
来昭が一丈青を見た。
「お前、自分から行ったのか」
「はい」
「なぜだ」
「知府様の側女になりたいからです」
恵蓮も来旺へ向き直った。
「私も同じです」
来旺は唇を噛んだ。
達也が口を開いた。
「僕は2人を無理に取り上げるつもりはありません。来旺さんと来昭さんが離縁を望まないなら、これ以上2人へ手は出しません」
「ですが、もう昨夜……」
「だからこそ話しています」
達也は卓へ銀の入った包みを2つ置いた。
「2人が離縁に応じるなら、それぞれに十分な銀を渡します。新しく家を構えるなり、商いを始めるなり、好きに使ってください」
来旺は包みを見た。
「私どもを追い出されるのでございますか」
「いいえ。仕事を続けたいなら、これまでどおり働いてください。離縁したから職まで失わせるつもりはありません」
「知府様は、女房を金で買われるのでございますか」
「違います」
達也ははっきり答えた。
「2人の女は物ではありません。僕が銀を払えば勝手に連れていけるとは思っていません」
達也は恵蓮と一丈青を見た。
「もう一度聞きます。亭主と別れ、僕の側女になるのですか」
「はい」と恵蓮。
「私もでございます」と一丈青。
「後で後悔しても、亭主のせいにはできませんよ」
「承知しております」
達也は今度は2人の男を見た。
「来旺さん、来昭さん。どうしますか」
長い沈黙があった。
先に口を開いたのは来昭だった。
「妻本人が私と別れたいと申しているのであれば、無理に縛っても仕方ございません」
来旺も恵蓮を見た。
「お前は、本当に戻る気はないのだな」
「ありません」
「分かった」
来旺は息を吐いた。
「知府様。銀を頂けるのであれば、私も新しい暮らしを始めます」
「仕事はどうしますか」
「残していただけるのであれば、働きます」
「分かりました」
その日のうちに、双方が納得したことを記した離縁の証文を作った。
銀も渡した。
達也は玉楼に命じ、後から一方だけが話を変えないよう、本人たちの意思と銀の受け渡しを帳面へ残させた。
こうして宋恵蓮と一丈青は、それぞれ来旺、来昭との夫婦関係を終えた。
達也は改めて2人へ尋ねた。
「これで自由になりました。まだ気持ちは変わりませんか」
恵蓮が笑った。
「昨夜から変わっておりません」
一丈青も頭を下げた。
「知府様の側女にしてください」
「分かりました」
達也は2人を新たな側女として迎えた。
これで達也の側女は8人となった。
「知府様」
玉楼が帳面を閉じた。
「何ですか」
「月娘様には、どのようにお話しになるのでございますか」
達也は黙った。
昨夜、旧西門邸へ泊まりに来た時には、側女を2人増やすつもりなど全くなかった。
「正直に話します」
「お怒りになるでしょうね」
「やはり、そう思いますか」
「私なら怒ります」
「玉楼様も僕の側女でしょう」
「それとこれは別でございます」
達也は頭を抱えた。
旧西門邸で静かに一晩休むという目的は、どこを探しても残っていなかった。
第10話前編1では、1118年10月、月娘と瓶児から休ませてほしいと言われた達也が、旧西門邸で夜を過ごした。
湯殿には宋恵蓮と一丈青が現れた。2人は達也に好意を持ち、自ら湯船へ入ってきたため、達也も若さに任せて受け入れた。
しかし、湯から上がったあと、恵蓮が来旺、一丈青が来昭という、西門慶に仕えていた下男の妻であることを初めて知った。
達也はこのまま関係を続けることを拒み、翌朝、来旺と来昭を呼んだ。2人の女自身にも改めて意思を確認したうえで、夫たちへ十分な銀を渡し、仕事も失わせない条件で双方合意の離縁を成立させた。
恵蓮と一丈青は、それでも達也のもとへ来ることを望み、新たな側女となった。
一方、その夜の達也は金蓮を筆頭とする6人の側女たちと一晩中騒ぎ、翌朝には金蓮からも倉家へ帰るよう言われるほどであった。
達也は、旧西門邸へ一晩泊まりに来ただけのはずが、側女を2人増やして倉家へ戻ることになった。




