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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第9話(後編2)――「皇帝の女となる」

 (1113年8月5日夜から8月6日朝、北宋・開封府(カイフォンフ)・皇宮)


 1112年4月15日に15歳で北宋へ来た崔麗華(ツイ・リーファ)は、現在16歳である。


 1113年8月5日の夜、麗華は皇帝趙佶(ジャオ・ジー)から寝所へ召された。


 香を届ける女でも、絵の感想を求められる女でもない。


 皇帝が自ら選んだ一人の女として、麗華は初めて夜の御前へ進む。

 1113年8月5日の夜、崔麗華(ツイ・リーファ)は女官の後ろを歩いていた。


 昼間にも通った皇宮である。


 しかし、夜になると同じ廊下でも別の場所に見えた。


 庭は暗く、池の水面には灯明の光が細く揺れている。廊下の柱には一定の間隔で灯りが置かれ、宦官と女官たちは声を抑えて動いていた。


 麗華がこれまで着ていた尚服局の薄青色の衣は脱いでいる。


 新しく用意された衣は、白に近い淡い色であった。派手な刺繍はなく、髪飾りも少ない。


 皇帝の寝所へ向かう女として整えられたのである。


 麗華は前を歩く女官へ尋ねた。


「私は、どこまで参るのでございますか」


「陛下がお待ちのお部屋まででございます」


「そのあとは?」


「陛下のお命じに従ってください」


「分かりました」


 女官は少し驚いたように振り返った。


「緊張なさっていないのですか」


「しております」


「そうは見えません」


「緊張しても、歩く道は変わりませんので」


 女官は小さく笑った。


「陛下が何度もお呼びになる理由が分かる気がいたします」


「私には、まだ分かりません」


「今夜には分かるのではありませんか」


 麗華は答えなかった。


 寝所の前へ着いた。


 年長の宦官が待っている。


「崔麗華、参りました」


 女官が告げた。


 宦官が中へ声をかける。


「陛下。崔麗華をお連れいたしました」


「入れ」


 麗華は一礼した。


 戸が開いた。


 中には趙佶がいた。


 昼間のような正式な御座ではなく、夜を過ごすための部屋である。


 麗華は数歩進み、膝をついた。


「崔麗華、参りました」


「顔を上げよ」


 麗華は顔を上げた。


 趙佶はしばらく麗華を見た。


「ずいぶん雰囲気が変わったな」


「衣を替えていただきました」


「似合っておる」


「ありがとうございます」


「まだ怖いか」


「はい」


「帰りたいか」


「いいえ」


「昼から変わらぬな」


「はい」


 趙佶は麗華へ近くへ来るよう命じた。


 麗華は従った。


「そなたは、余に選ばれたあと、必要とされなくなるのが怖いと申したな」


「はい」


「今夜を過ごせば、明日から何も変わらぬと思っておるか」


「いいえ」


「何が変わる」


「私はもう、ただの尚服局の見習いとしては見られなくなると思います」


「嫌か」


「それを望んでおりました」


「後宮の女たちも、そなたを見るようになるぞ」


「すでに見られております」


「張婕妤か」


「はい」


 趙佶は笑った。


「怖い女であろう」


「私には、まだ分かりません」


「そなたは誰のことも簡単には決めぬな」


「まだ一度しかお会いしておりませんので」


「余のことは、もう分かったか」


 麗華は皇帝を見た。


「少しずつ分かってまいりました」


「何が分かった」


「新しい物がお好きなこと。絵をお描きになる時は、周りの声が聞こえないほど集中なさること。褒められるより、本当に見たことを言う方が面白いと思われること」


「それだけか」


「私を何度もお呼びになったこと」


「それで何が分かる」


「私に興味をお持ちいただいていることです」


 趙佶はうなずいた。


「その通りだ」


 麗華は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「それだけか」


「うれしゅうございます」


「昼と同じだな」


「同じことでございますので」


 趙佶は笑った。


 その夜、麗華は皇帝の寝所へ残った。


 女官や宦官は必要な支度を済ませると、静かに下がった。


 麗華が皇帝の女となったことは、その時点で宮中の正式な事実となった。


 ◇ ◇ ◇


 翌8月6日の朝、麗華が目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗かった。


 夜明け前である。


 宮中の遠くから、朝の準備を始める音が聞こえていた。


 麗華はすぐには起き上がらなかった。


 前日までなら、この時刻には尚服局の6人部屋で目を覚まし、布倉へ向かう準備をしていた。


 今日は違う。


 昨夜、皇帝の寝所で夜を過ごした。


 16歳の麗華は、皇帝の女となったのである。


 趙佶も目を覚ました。


「早いな」


「いつも、この時刻に起きております」


「尚服局へ行くためか」


「はい」


「今日は行かぬ」


 麗華は顔を上げた。


「香の記録がございます」


「玉英や彩雲がおるであろう」


「おります」


「ならば任せよ」


 麗華は少し考えた。


「今後も、香の記録は続けてよろしいのでございましょうか」


 趙佶は麗華を見た。


「余の女になった途端、仕事を捨てたいのか」


「いいえ」


「ならば続けよ」


「ありがとうございます」


「ただし、毎日布倉へ座っておる必要はない」


「では、どこで仕事をすればよろしいのでございますか」


「それも決めねばならぬな」


 趙佶は宦官を呼んだ。


 年長の宦官が入ってくる。


「お呼びでございますか」


「麗華を、これまで通り尚服局の見習いとして扱うわけにはいかぬ」


「はい」


「まず御侍として扱え。住まいも女官の6人部屋から移せ」


「承知いたしました」


 麗華は趙佶を見た。


「御侍、でございますか」


「不満か」


「いいえ」


「もっと高い位を望むかと思っていたが、御侍でよいのか」


 麗華は少し笑った。


「今は、それで十分でございます」


「皇后まで否定せぬ女であろう」


 麗華は答えに迷った。


 趙佶は笑っていた。


「今は御侍でよいか」


「はい」


「なぜ」


「昨日まで見習いでございました。今日からいきなり高い位をいただけば、私自身が何をすればよいのか分かりません」


「また一日ずつか」


「はい」


「そなたらしいな」


 趙佶は宦官へ続けた。


「尚服局で任せていた香の記録は続けさせよ。必要な時には香倉へも行かせる。ただし、余が呼んだ時は、こちらを優先させる」


「承知いたしました」


「衣と部屋も用意せよ」


「はい」


 宦官は一礼して下がった。


 麗華は趙佶へ尋ねた。


「私は、今日から6人部屋へ戻らないのでございますか」


「戻りたいのか」


「荷物がございます」


 趙佶は声を上げて笑った。


「そなたは本当に、そのようなことばかり気にするな」


「必要な物がございますので」


「人をやって運ばせよ」


「自分で整理したい物もございます」


「では昼に行け」


「ありがとうございます」


「ただし、今までのように好きに動くな。そなたを見る者は増える」


「承知しております」


「本当に分かっておるのか」


「昨日まで尚服局の見習いだった女が、一夜で陛下の御侍となれば、皆様がお気づきになると思います」


「張婕妤もな」


「はい」


「怖くないか」


 麗華は少し考えた。


「怖くないと申し上げれば、嘘になります」


「それでも進むか」


「はい」


「なぜ」


「ここまで来るために宮中へ入りました」


 趙佶は麗華を見た。


「では、次は何を望む」


 麗華はすぐには答えなかった。


 皇帝の女となった。


 それは大きな一歩である。


 しかし、目的そのものではない。


 麗華が目指す場所は、まだ遠い。


「今日も、陛下からお呼びいただければ十分でございます」


「また今日か」


「はい」


「余が呼ばなければ?」


「香の仕事をいたします」


「余より香か」


「お呼びいただけなければ、待っているだけでは仕事になりません」


 趙佶は笑った。


「分かった。今日は呼ぶ」


「ありがとうございます」


「明日は分からぬぞ」


「では、明日呼んでいただけるようにいたします」


「何をする」


「今日、陛下に嫌われないようにいたします」


 趙佶は声を上げて笑った。


 麗華も笑った。


 ◇ ◇ ◇


 朝が明けるころ、宮中にはすでに話が広がっていた。


 尚服局の見習いであった崔麗華が、昨夜、皇帝の寝所へ召された。


 そして朝になっても、元の女官部屋へは戻されなかった。


 尚服局では、彩雲が麗華の卓を見ていた。


 そこには前日の竹札が残っている。


 玉英が尋ねた。


「麗華は戻ってこないのでしょうか」


「今までと同じ形では戻らないでしょう」


「香の記録はどうするのでございますか」


「陛下から命令が来るまで、私たちで続けます」


 そこへ宦官が書付を持ってきた。


「崔麗華は今後、御侍として扱われる」


 倉の中が静かになった。


「尚服局の香の記録については、引き続き崔麗華にも関わらせる。ただし、陛下から召しがある時は御前を優先する」


 彩雲は書付を受け取った。


「承知いたしました」


 玉英は麗華の卓を見た。


 昨日まで、そこには16歳の見習い女官が座っていた。


 その女は、もう同じ立場ではない。


 ◇ ◇ ◇


 昼前、麗華は新しい衣を着て尚服局へ戻った。


 豪華な衣ではない。


 しかし、昨日までの見習い女官の衣とは違う。


 布倉にいた女たちが、一斉に麗華を見た。


 香児が声を出しかけたが、玉英が目で止めた。


 麗華は彩雲の前へ進み、頭を下げた。


「昨日は、途中で失礼いたしました」


 彩雲は麗華を見た。


「陛下から書付をいただきました」


「はい」


「今日から御侍として扱われるそうですね」


「はい」


「それでも香の記録は続けると」


「陛下から、お許しをいただきました」


 彩雲は少し笑った。


「では、今日の竹札を見ますか」


「はい」


 麗華はいつもの卓へ向かった。


 そこには玉英が今朝記した竹札が置かれている。


「陛下は今朝、何をお選びになりましたか」


「龍脳です」


「暑くなりそうでございますからね」


「まだ記録を続けるのですか」


 玉英が尋ねた。


「はい」


「もう御侍なのに?」


「御侍になれば、昨日まで覚えたことを捨てなければならないのでございますか」


「いいえ」


「では続けます」


 麗華は竹札を手に取った。


 1113年8月6日。


 龍脳。


 白絹の袋1つ。


 皇帝が朝に選んだ香。


 麗華は筆を持った。


 昨日と同じ仕事である。


 だが、昨日と同じ女ではない。


 16歳の崔麗華は、尚服局の見習いから皇帝の御侍となった。


 皇帝の女になるという最初の目標は、果たした。


 しかし、麗華にとっては始まりにすぎない。


 皇帝に一夜選ばれるだけなら、後宮にはほかにも女がいる。


 必要なのは、明日も、その次の日も、皇帝に自分を必要とさせることである。


 そして、その先へ進む。


 麗華は竹札へ日付を書いた。


 目指している場所について、今は誰にも話すつもりはない。


 皇后への道は、ようやく最初の門を越えたばかりであった。

 1113年8月5日の夜、16歳の崔麗華(ツイ・リーファ)は、皇帝趙佶(ジャオ・ジー)の寝所へ召され、その夜を皇帝のそばで過ごした。


 翌8月6日の朝、麗華は正式に皇帝の女として扱われ、尚服局の見習いから御侍へ進んだ。


 ただし、麗華は香の記録を捨てなかった。


 皇帝も、これまで通り香の仕事へ関わることを認めた。


 前日まで6人部屋で暮らしていた16歳の見習い女官は、皇帝のそばへ進む最初の大きな目標を果たした。


 だが、麗華が目指しているのは一夜の寵愛ではない。


 皇帝に選ばれ続け、後宮の中でさらに上へ進むことである。


 皇后への道は、1113年8月6日、ようやく最初の門を越えたのである。

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