第9話(後編1)――「夜まで残された女」
(1113年8月5日、北宋・開封府・皇宮)
崔麗華は、皇帝趙佶から、その日の夕刻にもう一度来るよう命じられた。
香も書付も持ってくる必要はない。
尚服局の仕事を終えてから、麗華本人だけが来ればよいという命令であった。
16歳の麗華は、その意味を尋ねないまま、いつも通り午後の仕事を終える。
日が傾くころ、皇帝のもとから迎えの宦官が現れる。
8月5日の夕刻、尚服局の布倉には、昼間の熱がまだ残っていた。
崔麗華は最後の竹札を確かめ、紐を通して卓の端へ置いた。
皇帝用の香袋は翌朝の分まで準備が済んでいる。
龍脳、白檀、丁子。
使う布、香の量、紐の色、作った者の名も記した。
張婕妤へ届ける香も、皇帝用とは別の竹札へまとめてある。
麗華は筆を洗い、墨を拭き取った。
孫玉英が棚を閉めながら尋ねた。
「仕事は終わりましたか」
「はい」
「陛下のところへ行くのでしょう」
「そのように命じられております」
「何のお話でしょうね」
「分かりません」
玉英は少し笑った。
「本当に、分からないのですか」
麗華は卓の上を整えた。
「何のために呼ばれるのかは、まだ聞いておりません」
「聞かなくても、少しは考えるでしょう」
「考えております」
「では?」
麗華は玉英を見た。
「陛下が私とお話しになりたいのだと思います」
「それだけでしょうか」
麗華は答えなかった。
昼に皇帝から呼ばれた際、自分はすでにかなりのところまで本心を話している。
皇帝に気に入られたい。
皇帝のそばへ近づきたい。
皇帝に選ばれるために宮中へ入った。
そこまで話したあと、皇帝は夕刻にもう一度来いと命じた。
意味が分からないわけではない。
しかし、皇帝が口にしていないことを、先に決めるつもりもなかった。
そこへ劉彩雲が入ってきた。
「麗華」
「はい」
「迎えが来ました」
麗華は立ち上がった。
布倉の外には、これまで何度も麗華を皇帝のもとへ案内した年長の宦官が立っていた。
「参れ」
「はい」
麗華は彩雲へ頭を下げた。
「行ってまいります」
「麗華」
「はい」
彩雲は一瞬言葉を止めた。
「陛下のお命じになることを、よく聞きなさい」
「承知いたしました」
「尚服局のことは、こちらでいたします」
「はい」
それだけであった。
麗華は宦官の後ろへ従った。
夕暮れの皇宮は、昼とは違っていた。
屋根の端には赤い日が残り、長い廊下へ柱の影が伸びている。庭の池には夕日が映り、昼間にはうるさかった鳥の声も少なくなっていた。
麗華がこれまで皇帝に呼ばれた時は、書画の殿や庭に面した部屋へ向かっていた。
しかし、その日は道が違った。
「こちらでございますか」
麗華が尋ねた。
「そうだ」
宦官は歩き続けた。
さらに奥へ入り、建物の並ぶ一角を抜ける。
麗華は初めて通る場所であった。
やがて、広い庭に面した殿へ着いた。
入口には複数の宦官と女官が控えている。
年長の宦官が中へ入った。
「崔麗華をお連れいたしました」
すぐに皇帝趙佶の声が聞こえた。
「入れ」
麗華は敷居の前で膝をついた。
「崔麗華、参りました」
「入れ」
「失礼いたします」
中へ入ると、昼間とは違い、趙佶は軽い衣へ着替えていた。
卓の上に絵や筆はない。
茶器と果物、小さな酒器が置かれているだけである。
麗華は御前へ進み、膝をついた。
「顔を上げよ」
麗華は顔を上げた。
「仕事は終わったか」
「はい」
「香の記録もか」
「明朝お使いになる分まで確かめてまいりました」
「余に呼ばれているのに、ずいぶん落ち着いておるな」
「仕事を残して参れば、気になります」
「余より仕事が気になるか」
「陛下の御用に関わる仕事でございます」
趙佶は笑った。
「そう答えると思った」
麗華は黙っていた。
「そこへ座れ」
趙佶が卓の向かい側を示した。
麗華は少し驚いた。
「こちらへ、でございますか」
「余が命じておる」
「失礼いたします」
麗華は示された場所へ座った。
これまで御前では、膝をつき、許されれば絵の近くへ進む程度であった。
皇帝と同じ卓を挟んで座るのは初めてである。
女官が茶を入れた。
麗華の前にも茶碗が置かれる。
「飲め」
「ありがとうございます」
麗華は両手で茶碗を持った。
趙佶は果物を一つ取りながら尋ねた。
「そなたは何歳であった」
「16歳でございます」
「若いな」
「はい」
「店を持っていたというから、もっと年上かと思っておった」
「商いを始めたのが早かったのでございます」
「家の者は何も申さなかったのか」
麗華は少し考えた。
「店を始めた頃には、私が働かなければならない事情がございました」
「父母は」
「今は、宮中の外で暮らしております」
「会いたいか」
「はい」
「ならば、なぜ宮中へ入った」
以前にも似た問いを受けた。
だが、今夜の趙佶は、仕事の理由を確かめているのではないように見えた。
「宮中へ入りたいと思ったからでございます」
「家族よりもか」
「家族と離れたくないことと、宮中へ入りたいことは、別でございます」
「そなたは何でも分けるな」
「同じではございませんので」
「では、男はどうだ」
麗華は顔を上げた。
「男、でございますか」
「店を持っていたなら、縁談もあったであろう」
「ございました」
「断ったのか」
「はい」
「なぜ」
「嫁ぎたいと思う方ではございませんでした」
「何人断った」
「数えておりません」
趙佶は笑った。
「そなたほどの顔なら、かなりいたであろう」
「店へ来られる方の中には、商いではなく私に用がある方もいらっしゃいました」
「気に入った男はいなかったのか」
「おりませんでした」
「一人もか」
「はい」
「ならば、どのような男ならよい」
麗華は質問の意味を考えた。
皇帝に対して理想の男を語るのは、軽い話ではない。
「私が、その方のおそばにいたいと思える方でございます」
「金持ちでなくてもよいのか」
「お金は、自分でも稼げます」
「身分は」
「身分だけでは決めません」
「顔は」
「嫌いな顔よりは、好きな顔の方がよいと思います」
趙佶は声を出して笑った。
「ようやく普通の娘らしいことを申した」
「普通の娘でございます」
「商人の顔をして、香の記録ばかりしているから忘れておった」
「仕事をしている時は、その方がよろしいと思います」
「では今は仕事中ではないな」
麗華の手が止まった。
「陛下からお呼びを受けております」
「尚服局の用ではない」
「はい」
「香の用でもない」
「はい」
「絵もない」
「はい」
「では、そなたは何のためにここへいる」
麗華は茶碗を置いた。
「陛下が、私をお呼びになったからでございます」
「それだけか」
麗華は趙佶を見た。
「陛下が、私とお過ごしになりたいからではないかと思っております」
趙佶は満足そうにうなずいた。
「昼より分かるようになったな」
「昼に教えていただきました」
「何を」
「陛下が、私と話したいと仰せになりました」
「余は、そのようには申しておらぬ」
「間違ってはいないと仰せになりました」
「よく覚えておる」
「陛下のお言葉でございますので」
趙佶は麗華を見た。
「麗華」
「はい」
初めて皇帝が、姓を付けずに名だけを呼んだ。
「そなたは、余のそばへ来たいと申したな」
「はい」
「今も同じか」
「はい」
「昼には、余がどこまでそなたをそばへ置くか知りたいとも申した」
「はい」
「知りたいか」
麗華は一度息を吸った。
「知りとうございます」
趙佶は少し黙ったあと、側に控えていた宦官たちへ命じた。
「下がれ」
数人の宦官と女官が一礼し、部屋を出た。
全員ではない。
入口近くには必要な者だけが残った。
それでも、昼間より人が少なくなった。
麗華は状況が変わったことを理解した。
「怖いか」
趙佶が尋ねた。
「少し怖うございます」
「昼も同じことを申したな」
「はい」
「今度は何が怖い」
「陛下が私をどうなさるのか、まだすべては分かりません」
「逃げたいか」
「いいえ」
麗華は即答した。
「なぜ」
「逃げるのであれば、最初から宮中へ入りません」
「余の女になることも考えていたのか」
麗華は視線を落とした。
「考えておりました」
「最初からか」
「はい」
今度は隠さなかった。
「やはり欲深いな」
「そのことは、もうお認めいただいたと思っております」
趙佶は笑った。
「そうであった」
しばらく二人で話が続いた。
華宝舗のこと。
尚服局へ入ったばかりの頃のこと。
布倉で油の匂いに気づいた日のこと。
失われた香袋を絵巻から見つけた日のこと。
皇帝は以前より細かく尋ねた。
麗華も、聞かれたことには答えた。
夕日は完全に沈んだ。
庭の色が暗くなり、女官が灯明をつけた。
麗華は窓の外へ目を向けた。
「もう夜になりました」
「そうだな」
「尚服局へ戻らなくてよろしいのでございましょうか」
「戻りたいか」
「明朝の仕事がございます」
「そなたがいなくても、尚服局は動くであろう」
「はい」
「今夜は戻らぬ」
麗華は趙佶を見た。
皇帝は冗談を言っている顔ではなかった。
「承知いたしました」
「意味は分かっておるか」
「はい」
「申してみよ」
麗華は一瞬迷った。
「今夜は、陛下のおそばに残るようにとのお命じでございます」
「それだけか」
麗華は静かに答えた。
「陛下が、私を女としてお召しになるのだと思っております」
趙佶はうなずいた。
「嫌なら、今申せ」
「嫌ではございません」
「怖くてもか」
「はい」
「なぜ」
麗華は皇帝を見た。
「陛下のおそばへ来ることを望んで、ここまで参りました」
趙佶は年長の宦官を呼んだ。
「支度をさせよ」
「承知いたしました」
麗華は立ち上がった。
宦官とともに女官が入ってくる。
「麗華様、こちらへ」
麗華はその呼び方に足を止めた。
今まで尚服局では、呼び捨てか、麗華さんと呼ばれていた。
まだ何の位も与えられていない。
それでも、皇帝の寝所へ侍る女として扱われ始めたのである。
麗華は趙佶へ頭を下げた。
「失礼いたします」
別の部屋へ案内された。
湯が用意されていた。
女官たちは麗華の髪を整え、衣を替える準備を始めた。
麗華は鏡に映る自分の顔を見た。
16歳。
1112年4月に北宋へ来た時には15歳であった。
あれから1年余りが過ぎている。
清河県で商いを始め、華宝舗を育て、女官となり、尚服局の倉へ入った。
そして今夜、皇帝の寝所へ呼ばれている。
麗華は鏡の前で目を閉じなかった。
これが目的の終わりではない。
最初に越えなければならない門である。
支度を終えた女官が麗華へ告げた。
「崔麗華様」
「はい」
「陛下がお召しでございます」
麗華は立ち上がった。
1113年8月5日の夕刻、16歳の崔麗華は、尚服局の仕事を終えて皇帝趙佶のもとへ向かった。
皇帝は香や絵の話だけでなく、麗華の家族、縁談、宮中へ入った理由を尋ねた。
麗華は、最初から皇帝の女となることを考えて宮中へ入ったと初めて明言した。
夜になると、趙佶は麗華へ尚服局へ戻らないよう命じた。
麗華も、その意味を理解して受け入れた。
湯浴みと着替えを済ませた麗華へ、女官が告げる。
「陛下がお召しでございます」
麗華が目指していた最初の大きな門が、ついに開いた。




