第9話(中編2)――「麗華を試す皇帝」
張婕妤は、皇帝趙佶と同じ香を求めて崔麗華を呼び出した。
麗華は皇帝の香をそのまま流用せず、張婕妤の衣と季節に合う香を別に選んだ。
その話は、やがて趙佶の耳にも入る。
皇帝は麗華を御前へ呼び、自分と張婕妤のどちらへ良い香を選んだのかと尋ねる。
麗華が皇帝の関心を求めていることを、趙佶自身が確かめ始める。
張婕妤へ香を届けた翌日、崔麗華は朝から尚服局で竹札を整理していた。
皇帝用と張婕妤用を、別々に紐でまとめている。
皇帝用には、龍脳、白檀、丁子と、その日に選ばれた物が記されている。
張婕妤用には、龍脳と白檀を合わせた量、梅花香、丁子と白檀の組み合わせが記されていた。
孫玉英が竹札を見た。
「本当に別々にするのですね」
「同じ香材を使っていても、量が違います」
「陛下と婕妤様の記録を一緒にしたら、あとで分からなくなるということですか」
「はい。それに、誰のために作った物か分からなくなれば、間違えてお届けする恐れもございます」
「それは大変ですね」
玉英は笑った。
「陛下へ婕妤様の香をお届けしたら、どうなるのでしょう」
「笑って済ませていただければよいのですが」
「済まないでしょうね」
2人が話していると、受け渡し所から宦官が来た。
「崔麗華」
「はい」
「陛下がお呼びである」
麗華は立ち上がった。
「今からでございますか」
「そうだ」
「香をお持ちいたしますか」
「不要だ」
前回と同じである。
皇帝は香ではなく、麗華本人を呼んでいる。
麗華は彩雲へ顔を向けた。
「行ってまいります」
「はい。仕事の途中ですから、戻ったら続きをなさい」
「承知いたしました」
彩雲は、皇帝から呼ばれることを特別扱いしなかった。
麗華も、その方がよかった。
尚服局を出れば皇帝が待っている。
戻れば竹札と香袋が待っている。
今は、その両方が麗華の仕事であった。
◇ ◇ ◇
その日、趙佶は書画の殿ではなく、庭に面した小さな部屋にいた。
戸は開け放され、池から風が入っている。
卓上には茶と果物が置かれ、絵を描く道具はなかった。
麗華は入口で膝をついた。
「崔麗華、参りました」
「入れ」
「失礼いたします」
麗華が御前へ進むと、趙佶はすぐに尋ねた。
「昨日、張婕妤のところへ行ったそうだな」
「はい」
「余と同じ香を欲しいと申したそうではないか」
「はい」
「何を渡した」
「龍脳と白檀を合わせた物、梅花香を薄くした物、丁子へ白檀を少し加えた物をお持ちいたしました」
「余に使う物とは違うな」
「はい」
「なぜ同じ物を渡さなかった」
「婕妤様のお召し物と、お部屋の香りに合わないと思いました」
「張婕妤は、余と同じ物を欲しがったのであろう」
「最初は、そのようにおっしゃいました」
「それなのに、そなたは違う物を出した」
「3種類をお持ちし、婕妤様にお選びいただきました」
趙佶は茶碗を手に取った。
「何を選んだ」
「龍脳と白檀を合わせた香でございます」
「余には龍脳だけを使わせることが多いな」
「暑い朝には、龍脳だけをお選びになることが多うございます」
「では張婕妤の方が、手の込んだ香ではないか」
麗華は皇帝の顔を見た。
「手が込んでいるかどうかと、良いかどうかは別だと思います」
「余へは簡単な物で十分だと申すのか」
「陛下がお気に召しておられるのであれば、香材を増やす必要はないと思います」
「張婕妤には増やした」
「婕妤様には、龍脳だけでは少し冷たく感じると思いました」
「余には冷たくてもよいのか」
麗華は、趙佶が本気で香について怒っているわけではないと気付いた。
これは質問である。
答えを試されている。
「陛下は、暑い日に龍脳をお選びになります」
「余が選んだから、よいと」
「はい」
「では尋ねる」
趙佶は茶碗を卓へ戻した。
「余と張婕妤では、どちらへ良い香を選んだ」
麗華は少し考えた。
「どちらにも、その時に合うと思った物をお持ちいたしました」
「逃げたな」
「逃げておりません」
「どちらが上かと聞いておる」
「比べられません」
「なぜ」
「陛下と婕妤様では、同じ日に同じ衣を着て、同じ部屋で同じことをなさるわけではございません」
「余の方を良いと言えば済むではないか」
「陛下へ、そのように申し上げればお喜びになりますか」
趙佶は一瞬黙ったあと、笑った。
「そなたは余へ問い返すのか」
「申し訳ございません」
「いや。答えよ。余が喜ばぬと思うのか」
「本当でないことを申し上げれば、お気づきになると思います」
「余をそれほど賢いと思っておるのか」
「陛下の前には、多くの方がいらっしゃいます。褒める言葉も、たくさんお聞きになっていると思います」
「確かにな」
趙佶は麗華を見た。
「張婕妤は、そなたを嫌っていたか」
「分かりません」
「またそれか」
「最初は、あまりお喜びではなかったと思います」
「なぜ」
「陛下と同じ香を、そのままお渡ししなかったためでございます」
「そなたが余に呼ばれていることも気にしていたであろう」
麗華は答えを選んだ。
「そのことについて、お尋ねは受けました」
「何と聞かれた」
「陛下から何度も呼ばれて、何をしているのかと」
「何と答えた」
「香についてお話しし、絵を拝見したと申し上げました」
「それだけか」
「はい」
「余がそなたを気に入っておるとは申さなかったのか」
「私には、そこまで申し上げることはできません」
「なぜ」
「陛下から、そのようなお言葉をいただいておりません」
趙佶は麗華から目を離さなかった。
「では今、余がそなたを気に入っていると申したら、どうする」
麗華は黙った。
前回とは違う。
皇帝から気に入られたいとは、すでに自分から認めている。
ここで驚いたふりをする必要はない。
「ありがたく存じます」
「それだけか」
「うれしゅうございます」
「ようやく女らしいことを申したな」
麗華は少し笑った。
「私は女でございます」
「尚服局では、香と竹札のことしか考えていないように見えるぞ」
「仕事中でございますので」
「余の前では仕事ではないのか」
麗華は一瞬考えた。
「最初は仕事で参りました」
「今は?」
「今は、陛下がお呼びになったため参りました」
「だから、それが仕事かと聞いておる」
「私には分かりません」
「また分からぬか」
「尚服局の仕事として呼ばれたのでなければ、別の理由でございます」
「その理由を考えぬのか」
「考えております」
「何だ」
麗華は趙佶を見た。
「陛下が、私とお話しになりたいのではないかと思っております」
「ようやく分かったか」
「間違っておりますか」
「間違ってはおらぬ」
趙佶は椅子の背へ体を預けた。
「そなたは余に気に入られたいと申したな」
「はい」
「なぜだ」
麗華は以前より長く黙った。
皇帝へ近づくため。
いずれ側室となり、さらに上へ進むため。
それが本当の目的である。
しかし、目的をそのまま言えばよいわけではない。
かといって、ここまで来て「陛下にお仕えするため」とだけ答えれば、以前と同じである。
「陛下のおそばへ近づきたいからでございます」
趙佶の表情が変わった。
「それはどういう意味だ」
「今のように、お話をしていただける場所へ来たいという意味でございます」
「それだけか」
「今は、それ以上のことを私から申し上げるべきではないと思います」
「なぜ」
「陛下がお決めになることだからでございます」
趙佶はしばらく麗華を見ていた。
「余が何を決める」
麗華は視線を下げた。
「私を、どこまでおそばへ置かれるかでございます」
部屋が静かになった。
庭から鳥の声が聞こえた。
趙佶は笑わなかった。
「そなたは、思っていたより欲深いな」
「以前から、欲はあると申し上げております」
「皇后になりたいとでも申すのか」
麗華の心が一瞬だけ強く動いた。
それこそが本当の目的である。
しかし、表情には出さなかった。
「今の私が申し上げても、笑われるだけでございます」
「否定せぬのか」
「今は尚服局の見習いでございます」
「答えになっておらぬ」
「今の立場で、遠い先のことを口にするつもりはございません」
趙佶は麗華から目を離さなかった。
「ならば、今の望みを申せ」
麗華は少し考えた。
「明日も、お呼びいただきたいと思っております」
「また明日か」
「はい」
「そなたは、いつも一日ずつだな」
「明日呼んでいただけなければ、その先もございません」
「商人の考え方か」
「そうかもしれません」
「一度来た客を、また来させる」
「はい」
「余も客か」
麗華は思わず笑いそうになった。
「陛下を客とは申し上げられません」
「華宝舗へ来れば客であろう」
「その時は、一番大切なお客様にございます」
「一番高い品を売るのか」
「陛下が必要とされる物をお勧めします」
「高い物ではなく?」
「必要でなければ、お勧めいたしません」
趙佶は声を上げて笑った。
「やはり商人だな」
「店を営んでおりましたので」
「余へ売りたい物はないのか」
麗華は答えに迷った。
「今のところ、ございません」
「自分自身はどうだ」
麗華は顔を上げた。
趙佶は笑っていなかった。
「華宝舗では、自分は売らぬと申したそうだな」
「はい」
「余にも売らぬのか」
麗華は質問の意味を理解した。
「陛下は、お買いになる必要がございません」
「なぜ」
「私はすでに、陛下のお治めになる宮中におります」
「それだけか」
「陛下がお望みになれば、私には断る理由がございません」
趙佶は麗華を見た。
「怖くないのか」
「怖うございます」
「何が怖い」
「陛下に近づけば、今までと同じ暮らしには戻れないと思います」
「戻りたいのか」
「いいえ」
麗華は今度は即答した。
趙佶の目が細くなった。
「では、何を怖がる」
「陛下に選んでいただいても、そのあと必要とされなくなることがございます」
「それが怖いか」
「はい」
「ならば、選ばれぬ方がよいではないか」
「それでは宮中へ来た意味がございません」
趙佶はしばらく黙っていた。
麗華も言葉を足さなかった。
ここまで答えれば十分である。
皇帝から気に入られたい。
皇帝のそばへ近づきたい。
選ばれたい。
そこまでは認めた。
しかし、自分から寝所へ入れてほしいとは言わない。
皇帝に決めさせる。
趙佶は茶を一口飲んだ。
「張婕妤は、そなたが余に近づくことを喜ばぬかもしれぬぞ」
「そうだと思います」
「怖くないのか」
「後宮にいらっしゃる方々が、皆様お喜びになるとは思っておりません」
「それでも余のそばへ来たいのか」
「はい」
「なぜ」
麗華は皇帝の目を見た。
「陛下のおそばへ来るために、宮中へ入ったからでございます」
趙佶は初めて、はっきりと笑った。
「ようやく申したな」
「以前よりは、陛下にお話ししてもよいことが増えました」
「余を信用したのか」
「少しだけでございます」
「少しか」
「まだ、陛下が私をどこまでおそばへ置かれるか分かりません」
「それを知りたいのだな」
「はい」
趙佶は庭へ目を向けた。
池の水面へ日が差し、風が入るたびに蓮の葉が揺れている。
「今日の夕刻、また来い」
麗華は顔を上げた。
「本日、もう一度でございますか」
「嫌か」
「いいえ」
「では来い」
「何をお持ちすればよろしいでしょうか」
「何も持たなくてよい」
「承知いたしました」
「尚服局の仕事が終わってから来ればよい」
「はい」
「遅れるな」
「承知いたしました」
趙佶はそれ以上説明しなかった。
麗華も尋ねなかった。
夕刻に何のために呼ばれるのか。
今までより遅い時刻であることだけは分かる。
麗華は礼をし、部屋を出た。
廊下へ出ると、夏の日はまだ高かった。
尚服局へ戻れば、午後の仕事が待っている。
皇帝用の香袋を確かめ、張婕妤用の記録をまとめ、翌日の準備もしなければならない。
麗華は歩みを速めた。
夕刻に皇帝から呼ばれているからといって、昼の仕事を怠れば意味がない。
皇帝が麗華を気に入った理由の一つは、任せた仕事を間違えないことであった。
皇帝のそばへ近づくほど、その部分を失ってはならない。
麗華は尚服局の門をくぐった。
卓の上には、朝のまま竹札が残っている。
玉英が顔を上げた。
「陛下のお話は終わりましたか」
「はい」
「今日は長かったですね」
「少しお話をいたしました」
「何のお話ですか」
麗華は竹札を手に取った。
「香のことと、張婕妤様のことでございます」
「それだけですか」
麗華は一瞬考えた。
「夕刻に、もう一度来るよう命じられました」
玉英の手が止まった。
彩雲も振り返った。
「夕刻に?」
「はい。仕事を終えてから来るようにとのことでございます」
布倉が静かになった。
彩雲は麗華を見た。
「何を持っていくよう命じられましたか」
「何も持たなくてよいと仰せでした」
彩雲はしばらく黙った。
「分かりました」
「はい」
「では、仕事を終わらせなさい」
「承知いたしました」
それ以上、彩雲は何も言わなかった。
麗華も尋ねなかった。
夕刻の呼び出しが何を意味するのかは、まだ決まっていない。
ただ一つ分かるのは、皇帝が麗華と会うために、もう香も絵も必要としなくなったということである。
張婕妤へ香を選んだことを知った皇帝趙佶は、崔麗華を呼び、自分と張婕妤のどちらへ良い香を選んだのかと尋ねた。
麗華は皇帝へ迎合せず、それぞれの衣、場所、季節に合う香を選んだと答えた。
趙佶はさらに、麗華が自分に気に入られたい理由を尋ねた。
麗華は、皇帝のそばへ近づきたいこと、選ばれたあとに不要とされることは怖いが、それでも皇帝に選ばれるために宮中へ入ったことを初めて認めた。
趙佶はその日の夕刻、麗華へもう一度来るよう命じた。
香も、書付も、絵の感想も必要ない。
皇帝は、麗華本人と会うために呼び始めたのである。




