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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第9話(中編2)――「麗華を試す皇帝」

 張婕妤(ジャン・ジエユー)は、皇帝趙佶(ジャオ・ジー)と同じ香を求めて崔麗華(ツイ・リーファ)を呼び出した。


 麗華は皇帝の香をそのまま流用せず、張婕妤の衣と季節に合う香を別に選んだ。


 その話は、やがて趙佶の耳にも入る。


 皇帝は麗華を御前へ呼び、自分と張婕妤のどちらへ良い香を選んだのかと尋ねる。


 麗華が皇帝の関心を求めていることを、趙佶自身が確かめ始める。

 張婕妤へ香を届けた翌日、崔麗華(ツイ・リーファ)は朝から尚服局で竹札を整理していた。


 皇帝用と張婕妤用を、別々に紐でまとめている。


 皇帝用には、龍脳、白檀、丁子と、その日に選ばれた物が記されている。


 張婕妤用には、龍脳と白檀を合わせた量、梅花香、丁子と白檀の組み合わせが記されていた。


 孫玉英(スン・ユーイン)が竹札を見た。


「本当に別々にするのですね」


「同じ香材を使っていても、量が違います」


「陛下と婕妤様の記録を一緒にしたら、あとで分からなくなるということですか」


「はい。それに、誰のために作った物か分からなくなれば、間違えてお届けする恐れもございます」


「それは大変ですね」


 玉英は笑った。


「陛下へ婕妤様の香をお届けしたら、どうなるのでしょう」


「笑って済ませていただければよいのですが」


「済まないでしょうね」


 2人が話していると、受け渡し所から宦官が来た。


「崔麗華」


「はい」


「陛下がお呼びである」


 麗華は立ち上がった。


「今からでございますか」


「そうだ」


「香をお持ちいたしますか」


「不要だ」


 前回と同じである。


 皇帝は香ではなく、麗華本人を呼んでいる。


 麗華は彩雲へ顔を向けた。


「行ってまいります」


「はい。仕事の途中ですから、戻ったら続きをなさい」


「承知いたしました」


 彩雲は、皇帝から呼ばれることを特別扱いしなかった。


 麗華も、その方がよかった。


 尚服局を出れば皇帝が待っている。


 戻れば竹札と香袋が待っている。


 今は、その両方が麗華の仕事であった。


 ◇ ◇ ◇


 その日、趙佶は書画の殿ではなく、庭に面した小さな部屋にいた。


 戸は開け放され、池から風が入っている。


 卓上には茶と果物が置かれ、絵を描く道具はなかった。


 麗華は入口で膝をついた。


「崔麗華、参りました」


「入れ」


「失礼いたします」


 麗華が御前へ進むと、趙佶はすぐに尋ねた。


「昨日、張婕妤のところへ行ったそうだな」


「はい」


「余と同じ香を欲しいと申したそうではないか」


「はい」


「何を渡した」


「龍脳と白檀を合わせた物、梅花香を薄くした物、丁子へ白檀を少し加えた物をお持ちいたしました」


「余に使う物とは違うな」


「はい」


「なぜ同じ物を渡さなかった」


「婕妤様のお召し物と、お部屋の香りに合わないと思いました」


「張婕妤は、余と同じ物を欲しがったのであろう」


「最初は、そのようにおっしゃいました」


「それなのに、そなたは違う物を出した」


「3種類をお持ちし、婕妤様にお選びいただきました」


 趙佶は茶碗を手に取った。


「何を選んだ」


「龍脳と白檀を合わせた香でございます」


「余には龍脳だけを使わせることが多いな」


「暑い朝には、龍脳だけをお選びになることが多うございます」


「では張婕妤の方が、手の込んだ香ではないか」


 麗華は皇帝の顔を見た。


「手が込んでいるかどうかと、良いかどうかは別だと思います」


「余へは簡単な物で十分だと申すのか」


「陛下がお気に召しておられるのであれば、香材を増やす必要はないと思います」


「張婕妤には増やした」


「婕妤様には、龍脳だけでは少し冷たく感じると思いました」


「余には冷たくてもよいのか」


 麗華は、趙佶が本気で香について怒っているわけではないと気付いた。


 これは質問である。


 答えを試されている。


「陛下は、暑い日に龍脳をお選びになります」


「余が選んだから、よいと」


「はい」


「では尋ねる」


 趙佶は茶碗を卓へ戻した。


「余と張婕妤では、どちらへ良い香を選んだ」


 麗華は少し考えた。


「どちらにも、その時に合うと思った物をお持ちいたしました」


「逃げたな」


「逃げておりません」


「どちらが上かと聞いておる」


「比べられません」


「なぜ」


「陛下と婕妤様では、同じ日に同じ衣を着て、同じ部屋で同じことをなさるわけではございません」


「余の方を良いと言えば済むではないか」


「陛下へ、そのように申し上げればお喜びになりますか」


 趙佶は一瞬黙ったあと、笑った。


「そなたは余へ問い返すのか」


「申し訳ございません」


「いや。答えよ。余が喜ばぬと思うのか」


「本当でないことを申し上げれば、お気づきになると思います」


「余をそれほど賢いと思っておるのか」


「陛下の前には、多くの方がいらっしゃいます。褒める言葉も、たくさんお聞きになっていると思います」


「確かにな」


 趙佶は麗華を見た。


「張婕妤は、そなたを嫌っていたか」


「分かりません」


「またそれか」


「最初は、あまりお喜びではなかったと思います」


「なぜ」


「陛下と同じ香を、そのままお渡ししなかったためでございます」


「そなたが余に呼ばれていることも気にしていたであろう」


 麗華は答えを選んだ。


「そのことについて、お尋ねは受けました」


「何と聞かれた」


「陛下から何度も呼ばれて、何をしているのかと」


「何と答えた」


「香についてお話しし、絵を拝見したと申し上げました」


「それだけか」


「はい」


「余がそなたを気に入っておるとは申さなかったのか」


「私には、そこまで申し上げることはできません」


「なぜ」


「陛下から、そのようなお言葉をいただいておりません」


 趙佶は麗華から目を離さなかった。


「では今、余がそなたを気に入っていると申したら、どうする」


 麗華は黙った。


 前回とは違う。


 皇帝から気に入られたいとは、すでに自分から認めている。


 ここで驚いたふりをする必要はない。


「ありがたく存じます」


「それだけか」


「うれしゅうございます」


「ようやく女らしいことを申したな」


 麗華は少し笑った。


「私は女でございます」


「尚服局では、香と竹札のことしか考えていないように見えるぞ」


「仕事中でございますので」


「余の前では仕事ではないのか」


 麗華は一瞬考えた。


「最初は仕事で参りました」


「今は?」


「今は、陛下がお呼びになったため参りました」


「だから、それが仕事かと聞いておる」


「私には分かりません」


「また分からぬか」


「尚服局の仕事として呼ばれたのでなければ、別の理由でございます」


「その理由を考えぬのか」


「考えております」


「何だ」


 麗華は趙佶を見た。


「陛下が、私とお話しになりたいのではないかと思っております」


「ようやく分かったか」


「間違っておりますか」


「間違ってはおらぬ」


 趙佶は椅子の背へ体を預けた。


「そなたは余に気に入られたいと申したな」


「はい」


「なぜだ」


 麗華は以前より長く黙った。


 皇帝へ近づくため。


 いずれ側室となり、さらに上へ進むため。


 それが本当の目的である。


 しかし、目的をそのまま言えばよいわけではない。


 かといって、ここまで来て「陛下にお仕えするため」とだけ答えれば、以前と同じである。


「陛下のおそばへ近づきたいからでございます」


 趙佶の表情が変わった。


「それはどういう意味だ」


「今のように、お話をしていただける場所へ来たいという意味でございます」


「それだけか」


「今は、それ以上のことを私から申し上げるべきではないと思います」


「なぜ」


「陛下がお決めになることだからでございます」


 趙佶はしばらく麗華を見ていた。


「余が何を決める」


 麗華は視線を下げた。


「私を、どこまでおそばへ置かれるかでございます」


 部屋が静かになった。


 庭から鳥の声が聞こえた。


 趙佶は笑わなかった。


「そなたは、思っていたより欲深いな」


「以前から、欲はあると申し上げております」


「皇后になりたいとでも申すのか」


 麗華の心が一瞬だけ強く動いた。


 それこそが本当の目的である。


 しかし、表情には出さなかった。


「今の私が申し上げても、笑われるだけでございます」


「否定せぬのか」


「今は尚服局の見習いでございます」


「答えになっておらぬ」


「今の立場で、遠い先のことを口にするつもりはございません」


 趙佶は麗華から目を離さなかった。


「ならば、今の望みを申せ」


 麗華は少し考えた。


「明日も、お呼びいただきたいと思っております」


「また明日か」


「はい」


「そなたは、いつも一日ずつだな」


「明日呼んでいただけなければ、その先もございません」


「商人の考え方か」


「そうかもしれません」


「一度来た客を、また来させる」


「はい」


「余も客か」


 麗華は思わず笑いそうになった。


「陛下を客とは申し上げられません」


「華宝舗へ来れば客であろう」


「その時は、一番大切なお客様にございます」


「一番高い品を売るのか」


「陛下が必要とされる物をお勧めします」


「高い物ではなく?」


「必要でなければ、お勧めいたしません」


 趙佶は声を上げて笑った。


「やはり商人だな」


「店を営んでおりましたので」


「余へ売りたい物はないのか」


 麗華は答えに迷った。


「今のところ、ございません」


「自分自身はどうだ」


 麗華は顔を上げた。


 趙佶は笑っていなかった。


「華宝舗では、自分は売らぬと申したそうだな」


「はい」


「余にも売らぬのか」


 麗華は質問の意味を理解した。


「陛下は、お買いになる必要がございません」


「なぜ」


「私はすでに、陛下のお治めになる宮中におります」


「それだけか」


「陛下がお望みになれば、私には断る理由がございません」


 趙佶は麗華を見た。


「怖くないのか」


「怖うございます」


「何が怖い」


「陛下に近づけば、今までと同じ暮らしには戻れないと思います」


「戻りたいのか」


「いいえ」


 麗華は今度は即答した。


 趙佶の目が細くなった。


「では、何を怖がる」


「陛下に選んでいただいても、そのあと必要とされなくなることがございます」


「それが怖いか」


「はい」


「ならば、選ばれぬ方がよいではないか」


「それでは宮中へ来た意味がございません」


 趙佶はしばらく黙っていた。


 麗華も言葉を足さなかった。


 ここまで答えれば十分である。


 皇帝から気に入られたい。


 皇帝のそばへ近づきたい。


 選ばれたい。


 そこまでは認めた。


 しかし、自分から寝所へ入れてほしいとは言わない。


 皇帝に決めさせる。


 趙佶は茶を一口飲んだ。


「張婕妤は、そなたが余に近づくことを喜ばぬかもしれぬぞ」


「そうだと思います」


「怖くないのか」


「後宮にいらっしゃる方々が、皆様お喜びになるとは思っておりません」


「それでも余のそばへ来たいのか」


「はい」


「なぜ」


 麗華は皇帝の目を見た。


「陛下のおそばへ来るために、宮中へ入ったからでございます」


 趙佶は初めて、はっきりと笑った。


「ようやく申したな」


「以前よりは、陛下にお話ししてもよいことが増えました」


「余を信用したのか」


「少しだけでございます」


「少しか」


「まだ、陛下が私をどこまでおそばへ置かれるか分かりません」


「それを知りたいのだな」


「はい」


 趙佶は庭へ目を向けた。


 池の水面へ日が差し、風が入るたびに蓮の葉が揺れている。


「今日の夕刻、また来い」


 麗華は顔を上げた。


「本日、もう一度でございますか」


「嫌か」


「いいえ」


「では来い」


「何をお持ちすればよろしいでしょうか」


「何も持たなくてよい」


「承知いたしました」


「尚服局の仕事が終わってから来ればよい」


「はい」


「遅れるな」


「承知いたしました」


 趙佶はそれ以上説明しなかった。


 麗華も尋ねなかった。


 夕刻に何のために呼ばれるのか。


 今までより遅い時刻であることだけは分かる。


 麗華は礼をし、部屋を出た。


 廊下へ出ると、夏の日はまだ高かった。


 尚服局へ戻れば、午後の仕事が待っている。


 皇帝用の香袋を確かめ、張婕妤用の記録をまとめ、翌日の準備もしなければならない。


 麗華は歩みを速めた。


 夕刻に皇帝から呼ばれているからといって、昼の仕事を怠れば意味がない。


 皇帝が麗華を気に入った理由の一つは、任せた仕事を間違えないことであった。


 皇帝のそばへ近づくほど、その部分を失ってはならない。


 麗華は尚服局の門をくぐった。


 卓の上には、朝のまま竹札が残っている。


 玉英が顔を上げた。


「陛下のお話は終わりましたか」


「はい」


「今日は長かったですね」


「少しお話をいたしました」


「何のお話ですか」


 麗華は竹札を手に取った。


「香のことと、張婕妤様のことでございます」


「それだけですか」


 麗華は一瞬考えた。


「夕刻に、もう一度来るよう命じられました」


 玉英の手が止まった。


 彩雲も振り返った。


「夕刻に?」


「はい。仕事を終えてから来るようにとのことでございます」


 布倉が静かになった。


 彩雲は麗華を見た。


「何を持っていくよう命じられましたか」


「何も持たなくてよいと仰せでした」


 彩雲はしばらく黙った。


「分かりました」


「はい」


「では、仕事を終わらせなさい」


「承知いたしました」


 それ以上、彩雲は何も言わなかった。


 麗華も尋ねなかった。


 夕刻の呼び出しが何を意味するのかは、まだ決まっていない。


 ただ一つ分かるのは、皇帝が麗華と会うために、もう香も絵も必要としなくなったということである。

 張婕妤へ香を選んだことを知った皇帝趙佶(ジャオ・ジー)は、崔麗華(ツイ・リーファ)を呼び、自分と張婕妤のどちらへ良い香を選んだのかと尋ねた。


 麗華は皇帝へ迎合せず、それぞれの衣、場所、季節に合う香を選んだと答えた。


 趙佶はさらに、麗華が自分に気に入られたい理由を尋ねた。


 麗華は、皇帝のそばへ近づきたいこと、選ばれたあとに不要とされることは怖いが、それでも皇帝に選ばれるために宮中へ入ったことを初めて認めた。


 趙佶はその日の夕刻、麗華へもう一度来るよう命じた。


 香も、書付も、絵の感想も必要ない。


 皇帝は、麗華本人と会うために呼び始めたのである。

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