第9話(中編1)――「後宮からの注文」
皇帝趙佶は、香を届ける必要もないのに、崔麗華へ翌日も書画の殿へ来るよう命じた。
尚服局の見習いにすぎない麗華が、皇帝本人から続けて呼ばれている。
その事実は、宦官や女官を通じて宮中へ少しずつ広がっていく。
麗華の名に最初に強い関心を示したのは、皇帝の寵愛を受ける後宮の女性であった。
翌日の午後、崔麗華は前日と同じ時刻に書画の殿へ向かった。
香を持ってくる必要はないと命じられていたため、手には何も持っていない。
それでも、尚服局を出る前には劉彩雲から何度も念を押された。
「陛下から直接お呼びがあったからといって、お前の位が上がったわけではありません」
「承知しております」
「御前で何を話したかを、ほかの女官へ自慢してもなりません」
「いたしません」
「陛下から何かを尋ねられた時も、知らないことを知っているように答えてはなりません」
「はい」
彩雲はそこで麗華の顔を見た。
「昨日と同じことばかり申していますね」
「同じことを守ればよろしいのでございますね」
「その通りです」
麗華は頭を下げ、迎えに来た宦官の後ろへ従った。
書画の殿へ入ると、前日に描かれていた小鳥の絵が卓上へ置かれていた。
鳥の姿はほぼ完成している。枝の先に葉が加えられ、鳥が向いている先には余白が残されていた。
皇帝趙佶は麗華を見ると、すぐに近くへ来るよう命じた。
「昨日の続きを見よ」
麗華は絵の前へ進んだ。
「失礼いたします」
「昨日と変わったところが分かるか」
麗華は絵を見た。
「枝に葉が増えております」
「それだけか」
「鳥の前に何も描かれておりません」
「昨日も何もなかったぞ」
「はい。ただ、葉が増えたため、何もない所が前より広く見えます」
趙佶は麗華を見た。
「余白を見るのか」
「そこへ鳥が飛んでいくように見えました」
「まだ飛ぶと言うのだな」
「昨日から、そのように見えております」
趙佶は笑った。
「そなたに見せると、余まで鳥が飛びそうに見えてくる」
「私が間違っているかもしれません」
「絵に正しい見方が一つだけあると思うか」
「分かりません」
「また分からぬか」
「はい」
「それでよい」
趙佶は筆を取り、鳥の向いている先へ小さな花を描き始めた。
麗華は少し離れた場所に座った。
その日、皇帝から香のことを尋ねられることはほとんどなかった。
絵を描き終えると、趙佶は麗華へ華宝舗のことを尋ねた。
「店では、どのような女が香を買う」
「若い方だけではございません。年配の方もお買いになります」
「何のためだ」
「衣へ香りを移す方もいらっしゃいますし、部屋で使う方もいらっしゃいます。贈り物にされる方もおります」
「男も買うのか」
「はい」
「女へ贈るためか」
「それもございます。ご自分で使う方もいらっしゃいます」
「余と同じだな」
「陛下ほど多くの種類をお使いになる方は、店にはいらっしゃいませんでした」
趙佶は満足そうに笑った。
話はしばらく続いた。
やがて麗華は退出を命じられ、尚服局へ戻った。
前日と同じように皇帝と話した。
それだけである。
しかし、宮中では「それだけ」で済まなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、麗華が香袋の竹札を整理していると、布倉へ見慣れない女官が入ってきた。
衣の布も、髪に付けた飾りも、尚服局で働く女たちより上等である。
女官は彩雲へ書付を渡した。
「張婕妤様からのお召しでございます」
彩雲は書付を読んだ。
「どなたをお連れすればよろしいのでございますか」
「崔麗華という女官を」
倉の中にいた女たちの視線が麗華へ集まった。
麗華は立ち上がった。
「私でございます」
使いの女官は麗華の顔を確かめた。
「この方ですか」
「はい」と彩雲。
「婕妤様が、今からお会いになるとのことです」
彩雲は尋ねた。
「どのようなご用件でございましょうか」
「香についてお尋ねになりたいそうです」
麗華は彩雲を見た。
皇帝が麗華を呼んだことは、すでに後宮へ伝わっているらしい。
彩雲も同じことを考えたようであった。
「麗華、参りなさい。ただし、勝手に香を作る約束をしてはなりません」
「承知いたしました」
麗華は使いの女官へ従った。
皇帝のいる殿へ向かう道とは違う。
渡り廊下を曲がり、小さな庭を抜け、後宮の女性たちが住む建物の並ぶ一角へ入った。
張婕妤の住まいは、尚服局の女官部屋とは比べものにならないほど広かった。
入口には女官が2人控え、室内には香炉が置かれている。壁には花鳥の絵が掛けられ、卓上には果物と菓子が並んでいた。
麗華は部屋の中央へ進み、膝をついた。
「尚服局の崔麗華にございます」
「顔を上げなさい」
麗華は顔を上げた。
張婕妤は20代半ばほどに見えた。
派手な顔立ちではないが、肌は白く、髪には金の簪を挿している。衣は淡い桃色で、袖口には細かな刺繍が入っていた。
張婕妤は麗華の顔を長く見た。
「なるほど」
最初の言葉は、それだけであった。
麗華は何も尋ねなかった。
「陛下が何度もお呼びになると聞きました」
「はい」
「何をしているのです」
「最初は香についてお尋ねを受けました。昨日と本日は、陛下がお描きになる絵を拝見いたしました」
「絵を?」
「はい」
「そなたは絵が分かるのですか」
「いいえ」
張婕妤の眉がわずかに動いた。
「分からないのに、陛下の絵を見るのですか」
「陛下から、どのように見えるかを尋ねられましたので、私に見えたことを申し上げました」
「褒めたのでしょう」
「良し悪しは分からないと申し上げました」
張婕妤のそばにいた女官が、わずかに麗華へ顔を向けた。
「そのようなことを、陛下へ申し上げたのですか」
「はい」
「お怒りにならなかったのですか」
「さらに、何が見えるかとお尋ねになりました」
張婕妤はしばらく麗華を見た。
「そなたは変わった娘ですね」
「よく分かりません」
「それも陛下へ申すのですか」
「分からないことについては、申し上げます」
張婕妤は小さく笑った。
「今日は絵の話をするために呼んだのではありません」
「はい」
「陛下が最近お使いになっている香を、私にも用意しなさい」
麗華はすぐには答えなかった。
「陛下がお使いになっている香とは、どの香でございましょうか」
「そなたが毎日記録しているのでしょう」
「龍脳、白檀、丁子などをお使いになっております」
「陛下が最もお気に召している物を作りなさい」
「同じ物を、でございますか」
「そうです」
張婕妤は麗華の表情を見ていた。
「できないのですか」
「香を作ること自体はできると思います。ただ、陛下がお使いになるために用意した物を、私の判断でほかの方へお渡しすることはできません」
室内の空気が変わった。
張婕妤の側にいた年長の女官が口を開いた。
「婕妤様のご命令ですよ」
「承知しております」
「では用意しなさい」
麗華は張婕妤へ頭を下げた。
「尚服局へお命じいただければ、正式にお作りできると思います」
「私が、わざわざ尚服局へ頼まなければならないのですか」
「陛下のために用意した香と同じ物を勝手にお作りすれば、陛下の御品を私が流用したと思われる恐れがございます」
「私は陛下の女です」
「はい」
「陛下と同じ香を使って、何が悪いのです」
「悪いとは申し上げておりません」
「では何が問題なのですか」
「私が勝手に決めることが問題でございます」
張婕妤は黙った。
麗華はさらに続けた。
「婕妤様のお召し物と、お使いになる場所を拝見して、合う香を選ばせていただくことはできます」
「陛下と違う香を使えというのですか」
「同じ物がお似合いになるのであれば、同じ香をお勧めいたします」
「似合わなければ?」
「別の物をご用意いたします」
張婕妤の顔に不満が浮かんだ。
「陛下には選ばせて、私にはそなたが選ぶのですか」
「婕妤様にもお選びいただきます。私は候補をお持ちいたします」
「何種類?」
「3種類ほどがよいと思います」
「陛下にも3種類を?」
「はい」
「私を陛下と同じように扱うつもりですか」
麗華は首を横へ振った。
「同じようにはできません」
「なぜ」
「陛下と婕妤様では、お召しになる衣も、お過ごしになる場所も違います」
張婕妤は、自分の桃色の衣へ目を落とした。
「この衣では、何がよいと思う」
麗華は初めて、婕妤の衣を近くから見た。
柔らかな桃色で、袖口には白い花が刺繍されている。部屋にはすでに甘い香が焚かれていた。
「今お使いの香は、何でございましょうか」
側の女官が答えた。
「乳香と沈香を合わせております」
麗華は部屋の空気を確かめた。
「少し重いように思います」
年長の女官が顔をしかめた。
「婕妤様がお選びになった香ですよ」
「悪い香とは申し上げておりません。ただ、本日は暑うございます。このお召し物には、もう少し軽い香でもよいと思います」
張婕妤は興味を持ったようであった。
「陛下へ用意している龍脳はどうです」
「龍脳だけですと、婕妤様のお召し物には少し冷たく感じると思います」
「では何を合わせる」
「白檀を少し加えてはいかがでしょうか」
「陛下も白檀を使うのでしょう」
「はい」
「ならば陛下と同じではありませんか」
「使う香材は同じでも、量を変えます」
張婕妤は麗華を見た。
「明日、持ってきなさい」
「正式に尚服局へご注文いただけますでしょうか」
「まだ申すのですか」
「私が勝手に持ち出したことになれば、婕妤様にもご迷惑をおかけいたします」
張婕妤は少し考えたあと、側の女官へ命じた。
「尚服局へ書付を出しなさい。明日の午後までに3種類を用意させます」
「承知いたしました」
張婕妤は麗華へ顔を向けた。
「そなたも来なさい」
「はい」
「陛下へ持っていく物より悪い物を持ってきたら、許しませんよ」
「同じように確かめてお持ちいたします」
「同じ物を、とは言っていません」
「承知しております」
張婕妤はそこで初めて、はっきり笑った。
「本当に口の減らない娘ですね」
「申し訳ございません」
「謝りながら、直す気はないのでしょう」
麗華は答えなかった。
「もうよい。下がりなさい」
「失礼いたします」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、尚服局から3種類の香が張婕妤のもとへ届けられた。
1つ目は龍脳と白檀を合わせたもの。
2つ目は梅花香を薄くしたもの。
3つ目は丁子にわずかな白檀を加えたもの。
どれも皇帝へ届けている物をそのまま流用したのではない。
張婕妤は3つを順に確かめた。
「そなたならどれを選ぶ」
「本日のお衣には、こちらがよいと思います」
麗華は龍脳と白檀を合わせた物を示した。
「陛下がよく使うからではないでしょうね」
「いいえ。婕妤様のお衣が淡い色で、今日は暑いためでございます」
「ならば、これにします」
張婕妤は選んだ香を焚かせた。
部屋へ龍脳の涼しい香りが広がり、その後ろに白檀の甘さが残った。
以前の乳香と沈香より軽い。
張婕妤は衣の袖を動かした。
「悪くありませんね」
「ありがとうございます」
「明日からもこれを使いましょうか」
「毎日同じ物でなくてもよろしいと思います」
「なぜ」
「気温やお召し物が変わります」
「陛下にも同じことを言うのですか」
「はい」
「陛下は、そなたの言うことを聞くのですか」
「候補をお持ちし、お選びになるのは陛下でございます」
「私も同じということですね」
「はい」
張婕妤は少し笑った。
「そなたが陛下に気に入られた理由が、少し分かりました」
麗華は頭を下げた。
「私はまだ、陛下からお役目をいただいているだけでございます」
「それだけだと思っていますか」
麗華は答えなかった。
「陛下は、気に入らない女を2日続けて書画の殿へ呼んだりしません」
「私には分かりません」
「分からないと言えば済むと思っているのですか」
「まだ何も決まっておりませんので」
張婕妤は麗華の顔を見た。
「決まった時には、分かるでしょう」
「はい」
「その時、今日のことを忘れないことです」
言葉の意味は一つではなかった。
自分が香を選んでやったことを忘れるな、という意味にも聞こえる。
皇帝の女となったからといって、自分より上になったと思うな、という警告にも聞こえる。
麗華は余計な解釈をしなかった。
「本日お選びになった香は、竹札へ残しておきます」
「私の香まで記録するのですか」
「尚服局からお出しした品でございますので、使った香と量は残します」
「陛下の記録とは別に?」
「はい」
張婕妤は満足したようにうなずいた。
「それでよい。私の物と陛下の物を混ぜてはなりません」
「承知いたしました」
麗華は部屋を出た。
皇帝と同じ香を使いたいと言っていた女性が、最後には自分の記録を皇帝とは分けるよう求めた。
麗華には、その方が自然に思えた。
皇帝に愛されたいからといって、皇帝と同じ物になりたいわけではない。
後宮に住む女たちは、それぞれ自分が皇帝に選ばれる理由を持ちたいのである。
麗華は尚服局へ戻り、張婕妤のために作った香の竹札を別にまとめた。
皇帝へ届ける香の記録とは混ぜなかった。
皇帝から呼ばれるようになったことで、麗華の仕事は皇帝だけに近づいたのではない。
後宮にいる女たちの目も、麗華へ向き始めたのである。
皇帝趙佶から続けて呼ばれたことで、崔麗華の名は後宮にも知られ始めた。
張婕妤は麗華を呼び、皇帝が好んで使う香と同じ物を自分にも用意するよう命じた。
麗華は命令を拒むのではなく、皇帝のために用意した物を勝手に流用することはできないと説明し、正式に尚服局へ注文してもらった。
そのうえで張婕妤の衣、季節、部屋の香りに合わせて3種類を用意し、龍脳と白檀を合わせた香が選ばれた。
麗華は皇帝へ近づく一方で、後宮の女性とも正面から向き合う立場になり始めた。




