第9話(前編2)――「絵を見る女」
皇帝趙佶は、書画の殿で使う香を選ばせるため、崔麗華本人を御前へ呼んだ。
麗華が用意した龍脳、白檀、梅花香の中から、趙佶は白檀を選ぶ。
香を届ければ仕事は終わるはずであった。
しかし趙佶は麗華を帰さず、絵を描く間も殿内へ残るよう命じる。
皇帝趙佶は、白い紙へ細い線を重ねていた。
卓の少し先には止まり木が置かれ、小さな鳥が落ち着かない様子で首を動かしている。
鳥が右を向けば趙佶も目を動かし、羽を震わせれば筆を止める。
殿内では、誰も余計な声を出さなかった。
崔麗華は壁際に座り、香炉を見ていた。
白檀を入れてから時間がたち、最初に立っていた煙はほとんど消えている。香りも薄くなった。
麗華は勝手に香を足さなかった。
皇帝は絵を描いている。
香を強くすることが、本当に必要なのか分からない。
しばらくして趙佶が筆を置いた。
「香が弱くなったな」
麗華は頭を下げた。
「はい」
「なぜ足さぬ」
「陛下が弱いとお感じになっているか分からなかったためでございます」
「そなたは弱いと思っていたのだろう」
「香りは弱くなっております」
「ならば足せばよいではないか」
「強くしてよいかどうかは、別のことでございます」
趙佶は麗華を見た。
「香を任せたのに、いちいち余へ尋ねるつもりか」
「最初はお尋ねいたします。陛下がお好みになる強さが分かれば、次から同じ程度にいたします」
「では、今は少し足せ」
「承知いたしました」
麗華は香炉のそばへ進んだ。
香を扱う宦官が小さな匙を差し出した。麗華は最初に入れた量より少なく白檀を取り、炭の上へ置いた。
すぐに煙が上がった。
麗華は数歩下がって匂いを確かめた。
「この程度でいかがでしょうか」
趙佶は紙から顔を上げず、しばらく待った。
「よい」
「承知いたしました」
麗華は元の場所へ戻った。
趙佶は再び絵へ向かった。
鳥の頭、くちばし、背の線が少しずつ紙の上へ現れる。
麗華は絵の技法を知らなかった。
北宋へ来る前にも絵を見ることはあったが、筆の運びや墨の濃淡について学んだことはない。
それでも、何もない紙から鳥の姿が現れていく様子は分かる。
趙佶は羽を1本ずつ描いているわけではない。細い線を重ね、濃淡を変えることで羽毛の柔らかさを表していた。
しばらくすると、止まり木の鳥が突然羽ばたいた。
細い紐が脚に付いているため飛び去ることはできなかったが、籠の上へ移り、そこで羽を整え始めた。
趙佶は筆を止めた。
「動いたな」
宦官が鳥を元へ戻そうと近づいた。
「そのままでよい」
趙佶が止めた。
皇帝は籠の上へ移った鳥を眺めた。
麗華も同じ方向を見た。
鳥はしばらく羽を整えたあと、首を曲げて背中へくちばしを入れた。
「そなたには、どう見える」
突然、趙佶が尋ねた。
麗華は自分へ尋ねられたのか確かめるため、顔を上げた。
「私に、でございますか」
「ほかに誰へ尋ねる」
麗華は鳥と絵を見比べた。
「絵のことでございましょうか」
「そうだ」
麗華は困った。
「申し訳ございません。私には絵の良し悪しは分かりません」
殿内にいた若い宦官が、わずかに顔を上げた。
皇帝が自ら描いている絵について尋ねたのである。普通なら、見事であると答えれば済む。
趙佶は怒らなかった。
「良し悪しを尋ねておるのではない。何が見えると申しておる」
麗華はもう一度、絵を見た。
紙の上では鳥が枝に止まり、頭を少し上げている。
実物の鳥は籠の上で背中の羽を整えている。
「絵の鳥は、何かを見つけたように見えます」
「何を見つけた」
「そこまでは分かりません。ただ、次に飛ぶ場所を見ているように思います」
趙佶は自分の絵へ目を戻した。
「飛ぶように見えるか」
「今にも飛ぶというより、飛ぶ場所を決めているように見えます」
「羽は閉じているぞ」
「はい。それでも、休んでいるようには見えません」
趙佶は黙った。
麗華は言いすぎたかと思ったが、言葉を取り消さなかった。
分からないと言いながら、皇帝がさらに尋ねたため、自分に見えるものを答えただけである。
趙佶は筆を取り、鳥の目の周囲へ細い線を加えた。
「これではどうだ」
麗華は先ほどと比べた。
「先ほどより、遠くを見ているように見えます」
「わずかに線を加えただけだ」
「私には、その線の意味は分かりません。ただ、見た感じが変わりました」
趙佶の口元に笑みが浮かんだ。
「絵を知らぬ者も、役に立つな」
「知らないため、見えたことしか申し上げられません」
「尚服局でも同じか」
「はい」
「香を選ぶ時もか」
「はい。香の名を知っていても、陛下がお好きかどうかは、お選びになるまで分かりません」
「余の好みを記録しているのであろう」
「記録しております」
「では分かるではないか」
「以前に何をお選びになったかは分かります。明日、何をお選びになるかは分かりません」
趙佶は笑った。
「そなたは、何でも分からぬと言うな」
「分かることまで分からないとは申しません」
「何が分かる」
「暑い日に龍脳をお選びになることが多いこと。雨の日には白檀をお選びになることが多いこと。庭へ出られる時には丁子をお使いになった日があることは分かります」
「それだけか」
「陛下は同じ香を続けてお使いになることもありますが、新しい香を加えると、一度はお試しになることが多いと思います」
「それは余が飽きやすいということか」
麗華は一瞬黙った。
「新しい物に興味をお持ちなのだと思います」
「言い方を変えたな」
「意味も少し違います」
「どう違う」
「飽きやすい方は、古い物を捨てます。陛下は龍脳をお気に召してからも、白檀や丁子をお使いになります」
「なるほど」
趙佶は筆を置いた。
「近う寄れ」
麗華は立ち上がり、御座の前へ進んだ。
一定の距離を残して膝をつく。
「もっと近くで見よ」
「絵を、でございますか」
「そうだ」
麗華は許された場所まで進んだ。
皇帝の卓をこれほど近くから見るのは初めてである。
紙には枝に止まった小鳥が描かれていた。
完成しているようにも見えたが、枝の先にはまだ墨が入っていない場所がある。
「どうだ」
「近くで見ると、先ほどより線が少なく見えます」
「少ない?」
「遠くからは羽がたくさん描かれているように見えました。近くで見ると、全部の羽を描いているわけではございません」
趙佶は少し驚いたように麗華を見た。
「そこを見るか」
「おかしなことを申し上げましたか」
「いや。絵を知らぬと言った割には、よく見ておる」
「良い絵なのかどうかは、今も分かりません」
「まだ申すか」
趙佶は声を上げて笑った。
麗華もわずかに口元を緩めたが、一緒になって大声で笑うことはしなかった。
「そなたは華宝舗で、客にもそのように話していたのか」
「品によります」
「高い品を売る時は褒めたのであろう」
「良いところは申し上げました」
「悪いところは隠したか」
「尋ねられれば申し上げました」
「それでは売れぬこともあったであろう」
「ございました」
「商人として失格ではないか」
「一度は売れても、あとで騙されたと思われれば、その方は二度と店へ来ません」
「また同じことを申すのだな」
麗華は以前、皇帝の前で同じような話をしたことを思い出した。
「店を続けるには、一度だけ売るより、もう一度来ていただく方が大切でございました」
「華宝舗へ戻りたくはならぬか」
麗華は少し考えた。
「気にはなります」
「店を任せた者が信用できぬのか」
「信用しております。それでも、自分で始めた店でございます」
「宮中へ入ったことを後悔しておるのか」
「しておりません」
「即答するのだな」
「戻りたいのであれば、女官になる必要はございませんでした」
「宮中へ入れば、余に会えると思っていたか」
麗華は趙佶の顔を見た。
以前にも似た質問を受けている。
だが、今は状況が違う。
初めて御前へ出た時には、皇帝の関心がどこまで続くのか分からなかった。
今は皇帝自身が麗華を呼び、絵を描く部屋へ残している。
「お会いできればよいと思っておりました」
「なぜだ」
「皇宮へ入った以上、陛下にお仕えする者だからでございます」
「尚服局で布を数えるだけでも、余に仕えていることになる」
「はい」
「それで満足だったのか」
麗華は答えなかった。
趙佶が待っている。
「満足ではございませんでした」
「ようやく欲が出たな」
「以前にも、欲はあると申し上げました」
「覚えておる」
趙佶は麗華の顔を見た。
「何が欲しいと申した」
「翌日も、陛下がお使いになる品を任せていただきたいと申し上げました」
「今も同じか」
麗華はすぐには答えなかった。
香の記録を任されるようになった。
皇帝の使う品を確かめる仕事も続いている。
それだけを望むと答えれば、今ここまで進んできた意味がない。
「今は、もう少し欲がございます」
「申してみよ」
「陛下に、私の名を忘れないでいただきたく存じます」
殿内が静かになった。
趙佶は麗華を見たまま尋ねた。
「仕事ではなく、そなた自身をか」
「はい」
「美しい顔を覚えよということか」
「顔だけでございましたら、私より美しい方は宮中に何人もいらっしゃると思います」
「では何を覚えればよい」
「私が何をする女なのかを、覚えていただければ十分でございます」
「そなたは何をする女だ」
「頼まれたことを確かめ、分からないことを勝手に決めず、必要なら次の方法を考えます」
「ずいぶん面白味のない女だな」
「香を間違えない女でございます」
趙佶は再び笑った。
麗華も今度は少し笑った。
皇帝が笑わせようとしていることが分かったからである。
「では、余がそなたを呼ばなければ、どうする」
「尚服局で仕事をいたします」
「自分から来ぬのか」
「お呼びでなければ、来てはならない場所でございます」
「会いたくてもか」
麗華は一瞬、答えに迷った。
趙佶はそれを見逃さなかった。
「迷ったな」
「はい」
「なぜだ」
「会いたいと申し上げれば、陛下に取り入ろうとしていると思われるかもしれません」
「取り入りたくないのか」
麗華は皇帝の目を見た。
「気に入っていただきたいとは思っております」
今度は迷わなかった。
趙佶の笑みが止まった。
「初めて素直に申したな」
「嘘を申し上げる必要がないと思いました」
「以前は必要があったのか」
「以前は、陛下が私をどのようにご覧になるか分かりませんでした」
「今は分かるのか」
「少なくとも、香について話すためにはお呼びいただけると分かりました」
「香がなければ呼ばれぬと思っておるのか」
麗華は答えなかった。
その問いは、自分から返事をするものではない。
趙佶は再び筆を取り上げた。
「今日は下がれ」
麗華は床へ両手をついた。
「失礼いたします」
「待て」
麗華は顔を上げた。
「明日も、この時刻に来い」
「香をお持ちすればよろしいのでございますか」
「香は尚服局に任せる」
「では、私は何を」
趙佶は麗華の問いを途中で止めた。
「余が呼んでおる。それでは不足か」
麗華は頭を下げた。
「いいえ。ありがたきお言葉にございます」
「明日は絵の続きを見る。そなたにも見せよう」
「承知いたしました」
麗華は立ち上がり、数歩後ろへ下がってから向きを変えた。
殿を出ると、外には午後の日差しが残っていた。
尚服局へ戻れば、香袋の確認と竹札の整理が待っている。
仕事は何も減っていない。
地位も上がっていない。
麗華は今も尚服局の見習いである。
しかし、明日また皇帝へ会う。
香袋の事故を説明するためでも、香を届けるためでもない。
皇帝自身が、麗華に来るよう命じたのである。
麗華は歩きながら表情を変えなかった。
皇帝から気に入られたいと、自分の口で初めて認めた。
それでも、寝所へ入りたいとも、側室になりたいとも口にしていない。
それを決めるのは麗華ではない。
皇帝に自分から選ばせなければならない。
尚服局へ戻る門が見えてきた。
麗華は歩調を変えず、その門をくぐった。
明日も仕事がある。
そして明日は、仕事とは別に、皇帝が麗華を待っている。
皇帝趙佶は絵を描く間、崔麗華を御前へ残した。
趙佶は自分が描いた鳥の絵について麗華へ感想を求めた。麗華は絵の知識がないことを認めたうえで、鳥が次に飛ぶ場所を見ているように感じると答えた。
趙佶は麗華が知ったかぶりをせず、自分に見えたことだけを話すことに興味を持った。
話は香から華宝舗、宮中へ入った理由へ移った。
麗華は、皇帝に気に入られたいと思っていることを初めて認めた。しかし、自分から側室にしてほしいとは求めなかった。
麗華が退出しようとすると、趙佶は翌日も同じ時刻に来るよう命じた。
今度は香を届ける必要さえない。
皇帝は、麗華本人にもう一度会うことを望んだのである。




