第9話(前編1)――「香帳から御前へ」
(1113年8月1日、北宋・開封府・皇宮)
皇帝趙佶の夏衣に添える香を記録するようになってから、崔麗華の仕事は大きく変わった。
16歳の麗華は、まだ尚服局の見習いである。しかし、皇帝が毎朝どの香を選んだかを記録し、新しい香を用意する時には意見を求められるようになっていた。
8月に入ったその日、皇帝から新しい命令が届く。
今度は香袋だけではない。
香を選んだ麗華本人を、御前へ連れてくるよう命じられたのである。
1113年8月1日の朝、皇宮の屋根には強い夏の日が照りつけていた。
夜明け前には多少の涼しさが残っていたが、日が昇るにつれて石敷きから熱が返り始めた。尚服局の布倉でも、開け放した戸から入る風は生温かく、棚に積まれた布の間には湿気が残っている。
崔麗華は、布倉の奥に置かれた自分の卓へ座っていた。
尚服局へ入った頃には、ほかの見習いと同じ仕事をしていた。布を運び、床を掃き、命じられた品を数えるだけであった。
今も16歳の見習いであることに変わりはない。
それでも、麗華の卓には、皇帝趙佶が使う香について記した竹札だけが置かれていた。
麗華は前日の札を読み直した。
龍脳、白檀、丁子。
白絹の袋3つ。
龍脳は黒い紐に白い糸、白檀は黄色い紐、丁子は紅い紐。
昨日、皇帝が選んだのは龍脳であった。
7月の初めから記録を続けた結果、皇帝の好みも少しずつ分かってきた。
気温が高い日は龍脳を選ぶことが多い。雨が降る朝には白檀が選ばれやすい。庭へ出て書画を見る日は、丁子を身につけることがあった。
ただし、麗華はそれを決まりとは考えていなかった。
皇帝が昨日まで龍脳を選んだからといって、今日も選ぶとは限らない。好みは変わる。天候だけでなく、その日の衣や過ごす場所によっても変わる。
麗華が残しているのは、皇帝が何を選んだかという事実である。
その事実を重ねて、次に用意する品を考える。
自分が想像した皇帝像に、現実の皇帝を合わせるつもりはなかった。
「麗華」
孫玉英の声がした。
麗華は筆を置き、立ち上がった。
「はい」
「今朝の香袋を確かめます」
「承知いたしました」
卓の向こうには、すでに3つの小さな箱が置かれていた。
以前は1つの箱へ3種類を入れていたが、香りが互いに移ることが分かってから、薄い紙で包み、さらに仕切りを設けるようになっている。
麗華は手を洗い、清潔な布で水気を拭いた。
最初に龍脳を確かめる。
包み紙を開くと、夏の朝に合う鋭い香りが立った。
「龍脳に別の香りはございません」
次に白檀を開く。
「白檀も問題ございません」
最後に丁子を確かめた。
こちらにも異常はなかった。
麗華は竹札へ、3袋を確認した時刻を記した。
玉英が尋ねた。
「今日は、どれをお選びになると思いますか」
「分かりません」
「この暑さなら、龍脳ではありませんか」
「昨日も龍脳でございました。ですが、陛下が昨日と同じ物をお選びになるとは限りません」
「何日記録しても、そこは変わりませんね」
「陛下がお選びになる前に決めてしまえば、記録ではなくなります」
玉英は笑った。
「では、今日も結果を待ちましょう」
そこへ劉彩雲が入ってきた。
普段なら帳場から書付を持ってくるが、その日は後ろに年長の宦官がいた。
麗華はその顔を知っている。
香袋を受け渡し所で何度も受け取った男であり、以前、麗華を皇帝の御前へ案内した者でもある。
布倉にいた女官たちが一斉に頭を下げた。
彩雲が尋ねた。
「何かございましたか」
「陛下からの命である」
宦官は書付を差し出した。
「本日、書画の殿で絵をお描きになる。その際に使う香を、尚服局で3種類選ぶよう仰せになった」
彩雲は書付へ目を通した。
「いつもの香袋とは別に、でございますか」
「そうだ。衣へ入れる物ではない。殿内へ置き、絵を描かれる間に使う」
「香炉を用いるのでございますか」
「その予定である。ただし、強すぎる香は好まぬと仰せだ」
彩雲は玉英を見た。
「香倉へ行きましょう」
宦官が続けた。
「もう一つある」
彩雲が顔を上げた。
「何でございましょうか」
「香を選ぶ時、崔麗華にも確かめさせよとの仰せだ」
倉の中にいた者たちが麗華へ目を向けた。
麗華は一歩前へ出た。
「承知いたしました」
宦官は麗華を見た。
「まだある」
「はい」
「香を選んだあと、そなたも書画の殿へ参れ」
麗華はすぐには意味を理解できなかった。
「香袋を私がお届けするのでございますか」
「香袋ではない」
「では、香炉に使う香を運ぶのでございますか」
「それも運ぶ。だが、陛下は、香を選んだ者から直接説明を聞きたいと仰せになった」
彩雲が確認した。
「麗華本人を御前へ連れてくるように、ということでございますか」
「その通りだ」
麗華は頭を下げた。
「承知いたしました」
声は変わらなかった。
しかし、これまでとは明らかに違っている。
以前、皇帝の前へ呼ばれたのは、なくなった香袋が見つかった経緯を説明するためであった。
今回は事故も紛失も起きていない。
皇帝が麗華本人から話を聞くために、呼んだのである。
彩雲は宦官へ尋ねた。
「どのような絵をお描きになるのでございましょうか」
「鳥を描くと聞いている。庭で見つけた小鳥を、近くに置いて写すらしい」
「香の種類について、何かご指定はございますか」
「ない。3種類を用意し、その中から陛下がお選びになる」
彩雲は麗華へ命じた。
「香倉へ行きます」
「はい」
「これまでの竹札も持ちなさい」
「これまでの記録を、でございますか」
「陛下が何をお選びになったか分かれば、同じ香ばかりを出すことは避けられます」
「承知いたしました」
麗華は7月からまとめていた竹札を紐で束ねた。
玉英、彩雲とともに香倉へ向かう。
朝から日差しが強く、廊下を歩くだけで額へ汗が浮かんだ。
香倉へ入ると、外の暑さとは違う乾いた匂いが鼻へ届いた。
棚には沈香、白檀、丁子、龍脳、乳香、甘松などが分けて保管されている。
彩雲は竹札を広げた。
「龍脳は毎朝お使いになっています。今日まで同じ物を出す必要はないでしょう」
「はい」と麗華。
「白檀はどうですか」
「衣へ添える香としては何度もお選びになっております」
「丁子も同じですね」
玉英が尋ねた。
「では、普段とは違う物を3つ選びますか」
麗華は答えた。
「3つとも知らない香にすると、お選びになりにくいと思います。1つは、陛下がすでにお使いになった物を残した方がよいのではないでしょうか」
彩雲がうなずいた。
「それでは白檀を残しましょう」
白檀は香りが穏やかで、絵を描く間にも邪魔になりにくい。
残る2つについて、香倉の女官がいくつかの候補を出した。
麗華は、まず乳香を確かめた。
甘さがあり、香りも長く残る。しかし、閉めた殿内で長時間使えば、重く感じる恐れがある。
次に甘松を嗅いだ。
土や乾いた草に近い匂いがある。落ち着いた香ではあるが、鳥や花を描く場には少し重い。
最後に、少量の梅花香を確かめた。
複数の香材を合わせた練香であり、強く焚かなければ柔らかな甘みが残る。
「こちらはどうでしょう」と玉英。
麗華はすぐには答えなかった。
白い紙を1枚出し、少し離した場所へ置く。それから香を弱く焚き、しばらく待った。
「強く焚かなければ、よいと思います」
「なぜ紙を置いたのですか」
「絵を描かれるのであれば、紙の近くでどの程度匂うか確かめたかったのでございます」
「香りが紙へ移るのですか」
「長く置けば移るかもしれません。ただ、今日は絵を描かれる間に使うだけです。香炉を少し離せば問題はないと思います」
彩雲は3種類目を尋ねた。
麗華は龍脳を少量だけ使う案を出した。
「毎朝お使いになっている香ですが、衣へ入れる量より少なくし、香炉で使えば印象が変わると思います」
「龍脳、白檀、梅花香ですか」
「はい。ただし、どれを選ぶかは陛下でございます」
彩雲が決めた。
「その3つにしましょう」
香倉の女官は、それぞれを小さな器へ分けた。
麗華は量と香の名を竹札へ記した。
昼前、3つの香は蓋付きの器へ入れられ、浅い箱へ並べられた。
箱を持つのは宦官であり、麗華には持たせなかった。
「参れ」
麗華は彩雲を見た。
「私1人でございますか」
「陛下は、香を選んだ者を連れてくるよう命じられました」
宦官が答えた。
彩雲は麗華へ告げた。
「尋ねられたことに答えなさい。分からないことは、分からないと申し上げればよろしい」
「承知いたしました」
麗華は宦官の後ろへ従った。
尚服局を出て、受け渡し所を通る。
以前なら、麗華が進めるのはそこまでであった。
今は止められない。
受け渡し所を越え、さらに奥の門へ入った。
庭には夏草が伸び、池には蓮が咲いている。木陰には細い竹籠が置かれ、中から小鳥の声が聞こえた。
書画の殿へ近づくと、戸が大きく開けられていた。
中では数人の宦官が紙を広げ、硯へ墨を用意している。
正面には皇帝趙佶が座っていた。
麗華は入口で膝をついた。
「尚服局の崔麗華、参りました」
趙佶が顔を上げた。
「来たか」
麗華は額を下げた。
「はい」
「顔を上げよ」
麗華は命じられた通り顔を上げた。
趙佶は前に会った時より軽い衣を着ていた。卓上には筆が数本置かれ、その横にはまだ何も描かれていない白い紙が広げられている。
「今日は香袋を届けに来たのではないな」
「はい。陛下がお絵をお描きになる間にお使いになる香を、3種類お持ちいたしました」
「何を持ってきた」
「龍脳、白檀、梅花香でございます」
「龍脳は毎朝使っておる」
「存じております」
「それでも持ってきたのか」
「はい」
「なぜだ」
「衣へ入れる時とは量も使い方も違います。香炉で少量を使えば、同じ龍脳でも感じ方が変わると思いました」
「白檀は」
「陛下が雨の日などに何度もお選びになっております。3種類すべてを新しい物にせず、すでにお好みと分かっている香を1つ残しました」
「梅花香は、なぜ選んだ」
「本日は鳥をお描きになると伺いました。重い香より、柔らかな香の方がお邪魔にならないと思いました」
趙佶は横にいる宦官へ顔を向けた。
「鳥を描くことまで教えたのか」
「香を選ぶために必要かと存じまして、お伝えいたしました」
「なるほど」
趙佶は3つの器を開かせた。
最初に龍脳を確かめ、次に白檀へ顔を近づける。
最後に梅花香を嗅いだ。
「そなたなら、どれを使う」
麗華は少し考えた。
「私がこの部屋で過ごすのであれば、龍脳を選びます」
「余には違う物を勧めるのか」
「陛下はこれから長く紙へ向かわれます。龍脳は初めは心地よくても、近くで長く使えば刺激が強いと思います」
「では白檀か」
「陛下が落ち着いてお描きになりたいのであれば、白檀がよいと思います」
「梅花香を持ってきながら、それを勧めぬのか」
「梅花香は、鳥と花を一緒に描かれるのであれば、よいと思いました」
趙佶は目を細めた。
「まだ何を描くか、そなたには分からぬはずだ」
「はい。ですから3種類お持ちしました」
「余が何を描くか分からぬのに、香を決めようとはしなかったのだな」
「陛下がお選びになるために、候補をお持ちするのが私の仕事でございます」
趙佶は小さく笑った。
「では今日は白檀にする」
「承知いたしました」
宦官が白檀を香炉へ移した。
炭の上へ少量を置くと、細い煙が上がった。
甘さのある静かな香りが殿内へ広がる。
麗華は頭を下げた。
「それでは、私は尚服局へ戻ります」
「誰が戻ってよいと申した」
麗華は顔を上げた。
趙佶はすでに筆を手にしている。
「香を選んだ者が、どれほどの強さで焚けばよいかも見ておれ」
「私が、こちらに残ってよろしいのでございますか」
「余がよいと申しておる」
「承知いたしました」
麗華は宦官に示された壁際へ移った。
尚服局へ入ってから2か月。
初めて皇帝の御前へ呼ばれた時、麗華は質問へ答えれば、それで下がることができた。
今日は違う。
皇帝が絵を描く間、その部屋に残るよう命じられたのである。
趙佶は竹籠を開かせた。
中から小さな鳥が止まり木へ移された。
皇帝はしばらく鳥を眺め、白い紙へ最初の線を引いた。
麗華は壁際へ座り、香炉の煙を見た。
白檀の香りは強すぎない。
まだ、香を足す必要はなかった。
皇帝が麗華へ声をかけることもない。
それでも麗華は急がなかった。
今日、自分は皇帝へ会う理由を作ったのではない。
皇帝の方から、自分をここへ呼んだのである。
1113年8月1日、16歳の崔麗華は、皇帝が毎朝使う香の記録を続けていた。
その日、皇帝趙佶は書画の殿で絵を描くため、尚服局へ3種類の香を用意するよう命じた。
さらに、香を選んだ麗華本人を御前へ連れてくるよう命じた。
麗華は龍脳、白檀、梅花香を候補として持参し、それぞれを選んだ理由を皇帝へ説明した。
趙佶は白檀を選び、麗華が退出しようとすると、そのまま殿内へ残るよう命じた。
麗華は初めて、問題を説明するためではなく、皇帝から必要とされて御前へ呼ばれたのである。




