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北宋の悪女、1986年の男  作者: ひまえび
第一章――「清河県の美しい毒、追う男たち」

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第8話(後編1)――「最後の一錠」

 1118年夏、西門慶(シーメン・チン)は、開封の王六児(ワン・リウアル)の別宅で倒れた。


 酒を飲み、胸の異常を感じながらも精力薬を使い、若い倉達也(ツァン・ダーイエ)に張り合おうとしたためである。


 達也の手当てによって一命は取り留めた。精力薬の現物は曹静蘭(ツァオ・ジンラン)が回収し、以後、西門慶には触れさせないことになった。


 しかし、西門慶は寝台の下へ隠していた最後の1錠を、誰にも渡さなかった。

 (1118年夏、北宋・開封府(カイフォンフ)・西門家)


 王六児の別宅で倒れてから5日目、西門慶は屋敷を出た。


 医者からは半月ほど静養するように言われていた。孟玉楼(モン・ユーロウ)も朝から止めたが、西門慶は聞かなかった。


「寝台に転がっておれば、開封中の賭場が俺は死んだと思う。病人のふりをしておる方が、よほど身体に悪い」


 玉楼は玄関まで追った。


「では、せめて酒はお控えください」


「月娘の次は、お前が俺の母親になるのか」


「旦那様が子どものようなことをなさらなければ、誰もそのような口は利きません」


 西門慶は足を止め、玉楼を振り返った。


 以前なら、妻妾の誰かがそのような物言いをすれば、声を荒らげたかもしれない。だが、今は怒るより先に、玉楼の後ろにある母屋へ目が向いた。


 李瓶児(リー・ピンアル)は部屋から出てこない。潘金蓮(パン・ジンリエン)も、王六児の家で倒れた夜から、西門慶の前へ姿を見せなくなった。李嬌児(リー・ジャオアル)は自分の衣や装身具を数え、孫雪娥(スン・シュエオー)は厨房にこもっている。


 屋敷には女がいる。それでも、西門慶の杯を取り上げ、薬を飲んだ日を帳面へ書き、行き先まで問いただす女はいなかった。


「夕刻には戻る」


 西門慶はそれだけを言い、馬車へ乗った。


 ◇ ◇ ◇


 南東の坊にある賭場では、4人の主人が待っていた。


 捕吏へ銀を渡していた3人と、盗品を預かって銭を貸していた1人である。


 西門慶は上座へ座った。胸の奥には、まだ時折、細い針で刺されるような痛みがあった。だが、顔には出さなかった。


「盗品を扱った店は、今日限りで閉めよ」と西門慶。


 主人の1人が床へ額を付けた。


「西門様。店を閉じれば、家の者が食べられません」


「盗まれた家の者は、お前のために食えなくなった。まず、預かっておる品を全て出せ。持ち主が分かる物は返し、分からぬ物は売って被害を受けた者へ分ける」


「それでは、私の元手が――」


「元手ではない。盗人へ渡した銭だ」


 西門慶は帳面を卓へ置いた。


「店は閉める。ただし、お前の下にいる者まで追い出しはせぬ。荷車を3台出せ。今後は、府衙が認めた荷だけを運べ。働いた分から、被害を受けた者へ返す。3年、逃げずに続ければ、倉を1棟任せる」


 男は顔を上げた。


「私を、お残しになるのでございますか」


「使える悪党まで捨てれば、町には使えぬ悪党だけが残る」


 残る3人へは、捕吏へ渡した銀と同額を、今後半年にわたって夜回りの費用へ出させた。賭場そのものは潰さない。その代わり、刃物を持つ客、女や子どもを賭ける客、盗品を持ち込む者は、すぐ西門慶へ知らせることにした。


 恐れさせるだけでは、裏の者は動かない。利益を残し、逃げ道を一つだけ塞ぐ。


 その加減を、西門慶は知っていた。


 話が終わると、4人は深く頭を下げた。


「西門様がお倒れになったと聞き、我らも案じておりました」


「誰から聞いた」


「王六児様のお宅から、夜中に医者が入ったと……」


 男の声が小さくなった。


「開封では、壁にも耳があると知っておろう」


「申し訳ございません」


「俺が死んだと思い、今のうちに盗品を隠した者がおれば、名を持ってこい。隠した品の半分は、見つけた者へ与える」


 4人の目つきが変わった。


 西門慶は立ち上がった。


「俺は、まだ死なぬ」


 その言葉は4人へ向けたものであった。同時に、自分へ言い聞かせた言葉でもあった。


 ◇ ◇ ◇


 西門慶は、その足で開封府の府衙へ向かった。


 倉達也(ツァン・ダーイエ)は執務室で報告を受けた。西門慶が賭場の主人たちへ命じた内容を最後まで聞くと、帳面を閉じた。


「処置に異存はありません。盗品を扱った男を、荷の運送に使うという案もよいと思います」


「倉侯に褒められるために来たのではない」


「では、何のためですか」


「俺が倒れたからといって、仕事まで静蘭殿へ渡すなと申しに来た」


「薬の保管を移しただけです。治安の仕事も、客との商談も、旦那様に続けていただきます」


「俺が死ねば困るのであろう」


「困ります」


 達也は迷わず答えた。


 西門慶は、少し意外そうな顔をした。


「旦那様が集めた裏の情報と人のつながりは、銀で買えるものではありません。僕が開封へ来てから作った仕組みの半分は、旦那様が支えています」


「半分だけか」


「そこを争うのであれば、4割に減らします」


 西門慶は鼻で笑った。


「お前は、俺がいなくても平気な顔をしておる」


「平気ではありません。だから、薬を取り上げました」


「俺を必要とするなら、俺の好きにさせよ」


「必要な人だから、死ぬような好き勝手をさせないのです」


 達也は西門慶の顔を見た。


「今日は、胸が痛みませんか」


「痛まぬ」


「脈を診せてください」


「断る」


「では、医者へ行ってください」


「俺は仕事の報告に来た。病人として来たのではない」


 西門慶は席を立った。


「旦那様」


「何だ」


「もう一度だけ申します。最後の1錠をお持ちなら、僕へ返してください」


 西門慶の目が細くなった。


「何の話だ」


「残っていた4錠を回収しました。帳面から消えた6錠のうち、旦那様が何錠使ったかは分かりません。それでも、玉楼様の顔を見れば、何かを隠していることくらい分かります」


「女の顔だけで、人を盗人扱いするのか」


「売り物を帳面に付けず持ち出せば、誰がしても同じです」


「持っておらぬ」


「それなら結構です」


 達也は立ち上がり、西門慶へ一礼した。


「次は、僕が駆けつけても助けられないかもしれません」


「同じことを何度も申すな」


「同じことを繰り返す人には、何度でも申します」


 西門慶は返事をせず、執務室を出た。


 衣の内側には、最後の1錠が入っていた。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻、西門家では瓶児が上座に座っていた。


 月娘が去ったあと、正室となった女である。だが、卓の前には帳面も鍵もない。屋敷の倉の鍵は玉楼が預かり、店の帳面は番頭たちが持ってくるようになっていた。


 瓶児は流産してから痩せた。衣の上からでも肩の細さが分かる。


「旦那様。お帰りなさいませ」


「皆はどうした」


「呼べば参ります」


「正室なら、食事くらいそろえておけ」


「お待ちするよう申しましたが、旦那様がいつお戻りになるか分かりませんでした」


「月娘なら、俺が戻らなくても膳を用意しておった」


 瓶児は目を伏せた。


「では、月娘様をお戻しください」


「あの女は、倉殿の妻だ」


「旦那様がお渡しになりました」


 西門慶は杯を取ったが、酒は入っていなかった。


「酒はどうした」


「お医者様から止められております」


「この家の主人は医者か」


「いいえ。旦那様でございます」


「ならば、持ってこい」


 瓶児は動かなかった。


「聞こえぬのか」


「聞こえております」


「正室の務めを果たせぬなら、なぜその席へ座っておる」


 瓶児の顔から血の気が引いた。


 西門慶は、言ったあとで自分の言葉の重さに気づいた。しかし、取り消さなかった。


 瓶児は静かに立った。


「旦那様が、私をこの席へお座らせになりました」


「恩を着せるつもりはない」


「私も、望んで座ったのではございません」


 瓶児は一礼し、部屋を出た。


 廊下の先で、玉楼が待っていた。2人は何も言わず、並んで奥へ消えた。


 広い食堂に、西門慶だけが残った。


 やがて女中の如意(ルーイー)が、湯と粥を運んできた。


「酒を持ってこい」


「玉楼様から、お出ししてはならないと申し付けられております」


「誰から給金を受けておる」


「旦那様からでございます」


「ならば、俺の命に従え」


 如意はためらったが、最後には酒を1壺だけ運んだ。


 西門慶は封を切り、杯へ注いだ。


 最初の1杯は、味がしなかった。


 2杯目を飲むと、昼間に賭場の主人たちが頭を下げた姿を思い出した。


 3杯目では、府衙の執務室で達也が言った言葉がよみがえった。


 必要な人だから、死ぬような好き勝手をさせないのです。


 西門慶は衣の内側から紙包みを出した。


「旦那様」と如意。


「下がれ」


「そのお薬は、倉侯へお返しになったのではございませんか」


「女中まで、俺を見張るのか」


「玉楼様をお呼びいたします」


 如意が戸口へ向かうと、西門慶は声を荒らげた。


「戻れ」


 如意は足を止めた。


「誰にも言うな」


「ですが――」


「これは俺の薬だ。俺の家で、俺が何を飲もうと、誰にも指図はさせぬ」


 西門慶は紙包みを開いた。


 白い錠剤が、掌の上へ転がった。


 1錠を飲めば女を抱けるから、手放せなかったのではない。


 飲まなくても、自分にはまだ選べる。そう信じるために持っていた。


 しかし、達也に見抜かれ、瓶児には背を向けられ、玉楼には酒を隠された。今、最後の1錠まで返せば、自分の身体も家も、全て他人に支配されたことになる。


 西門慶は錠剤を口へ入れ、酒で流し込んだ。


 如意が息をのんだ。


「玉楼様を――」


「呼ぶな」


「旦那様」


「今夜は、お前がここにおれ」


 如意は戸口から動かなかった。


「おそばで、酒を止めるだけでよろしければ」


 西門慶は笑った。


「誰もが月娘のような口を利く」


「月娘様は、旦那様に生きていただきたかったのでございましょう」


「今ごろ気づいても、遅い」


 西門慶は杯を置いた。


 胸の奥で、一度、大きく何かが跳ねた。


 続いて、鼓動が不規則に速くなった。


「旦那様」


「騒ぐな」


 西門慶は立とうとした。


 足に力が入らず、卓へ手をついた。杯が倒れ、酒が床へ流れた。


 如意が廊下へ駆け出した。


「玉楼様。お医者様を。旦那様がお薬を――」


 西門慶は呼び止めようとしたが、声が出なかった。


 胸の中央を、太い杭で押し潰されたような痛みが走った。息を吸っても、空気が入らない。左腕から指先までが急に冷たくなった。


 西門慶は床へ膝をついた。


 昼間、賭場で俺はまだ死なぬと言った。その日の夜に助けを求めれば、裏の者たちに笑われる。達也にも、自分が間違っていたと認めることになる。


 その意地が、最初の一声を遅らせた。


 玉楼と瓶児が駆け込んだ時、西門慶は卓の脇へ倒れていた。


「旦那様」


 玉楼が身体を起こそうとした。


「動かしてはなりません」と瓶児。


 瓶児は如意へ、府衙と医者の両方へ使いを出すよう命じた。


 金蓮、雪娥、嬌児も部屋へ集まった。


「また薬を飲んだのでございますか」と金蓮。


 西門慶は答えられなかった。


 唇だけが動いた。


 玉楼が耳を近づけた。


「何とおっしゃいましたか」


「帳面……」


「帳面は、ここにございます」


「倉殿に……」


 瓶児が、西門慶の右手を取った。


「達也様をお呼びしております」


 西門慶は目を開けた。


 部屋にいる女たちを、順に見た。


 瓶児の手を握ろうとしたが、指はほとんど動かなかった。


「家を……」


「はい」


「食わせろ……」


 誰に命じたのかは分からなかった。


 瓶児はうなずいた。


「皆を飢えさせません」


 西門慶は、もう一度、何かを言おうとした。


「月……」


 そこから先は、声にならなかった。


 月娘だったのか、夜空の月だったのか、誰にも分からない。


 西門慶の目が閉じた。


 息が途切れ、再び浅く戻った。だが、その間隔は少しずつ長くなった。


 達也が屋敷へ着いた時、西門慶には、まだかすかな脈があった。


「旦那様。僕です。聞こえますか」


 返事はない。


 達也は胸元を緩め、呼吸を確かめた。医者にも診せたが、王六児の別宅で倒れた時より顔色は悪く、手足は冷えていた。


 胸の動きが止まった。


 達也は助けようとした。


 何度呼んでも、脈は戻らなかった。


「達也様」と瓶児。


 達也は西門慶の手首を握ったまま、長く動かなかった。


 自分を北宋の人間として受け入れ、偽りの身元を整え、師を雇い、科挙へ送り出した男である。


 色と金に執着し、人の妻にも手を出し、薬を商いに変え、開封の裏社会を束ねた。


 善人ではなかった。


 それでも、達也にとって恩人であった。


「旦那様は、亡くなられました」


 瓶児は西門慶の手へ額を付けた。


 玉楼は声を出さずに泣いた。雪娥は壁へ手をつき、嬌児は自分の胸元を押さえた。金蓮は立ったまま動かず、如意は床へこぼれた酒を見つめていた。


 屋敷の外で、夜回りの拍子木が鳴った。


 西門慶が整えた夜回りである。


 その音は、主人が死んだことを知らず、いつもと同じ間隔で開封の夜を巡っていった。

 第8話後編1では、西門慶(シーメン・チン)が、王六児の別宅で倒れてから5日後、開封の治安業務へ復帰した。


 賭場と捕吏の癒着を処理し、盗品を扱った男にも償いながら働く道を残すなど、西門慶は最後まで裏社会を動かす手腕を示した。


 その一方で、自分の身体を他人に支配されたくないという意地から、寝台の下へ隠していた最後の精力薬を返さなかった。


 屋敷へ戻った西門慶は、正室にした瓶児へ月娘と同じ働きを求め、瓶児を傷つけた。玉楼が酒を止め、如意が薬を飲ませまいとしても聞かず、酒とともに最後の1錠を服用した。


 西門慶は再び胸の激痛と呼吸困難に襲われた。達也が駆けつけた時には手当ての及ばない状態であり、妻妾と達也に見守られて息を引き取った。


 最期に口にした「月」が月娘の名であったかは、誰にも分からない。


 開封の夜には、西門慶が組織した夜回りの拍子木が、主人の死後も鳴り続けた。

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