第8話(中編2)――「止める女のいない夜」
西門慶は、若い倉達也への対抗心から、酒とともに精力薬を飲み、王六児の別宅へ向かった。
一方、達也は呉月娘、曹静蘭と夜を過ごしていた。2人の妻が満足を通り越して降参したあとも、21歳の達也には赤子を抱く余力が残っていた。
そこへ、西門慶が倒れたという知らせが届いた。
(1118年夏、北宋・開封府・王六児の別宅)
倉達也が馬から降りると、門前には見張りに出した男が待っていた。
「西門様は、どこですか」
「奥の寝室でございます。突然、胸を押さえて倒れました」
「意識は」
「ございます。しかし、息が苦しいと申しております」
達也は医者とともに屋敷へ入った。
寝室では、西門慶が寝台へ横たわっていた。上半身は裸で、額と胸に汗が浮かんでいる。唇は白く、右手で胸の中央を押さえていた。
王六児は薄い衣を羽織っただけの姿で、寝台の脇に立っている。
「倉侯。旦那様は、急に私の上で動かなくなりました。胸が痛いとおっしゃって……」
「窓を開けてください。人を下がらせ、湯だけ用意してください」
達也は西門慶の手首を取った。
脈は速く、乱れている。呼吸も浅かった。
「旦那様。僕の声が聞こえますか」
「大声を出すな。聞こえておる」
「薬を何錠飲みました」
「飲んでおらぬ」
「今は嘘をつく時ではありません」
「あれは、お前が売れと言って渡した薬だ。俺が1錠使って、何が悪い」
「今夜、1錠だけですか」
西門慶は答えなかった。
王六児が戸棚から小さな包みを持ってきた。
「旦那様は、こちらへ来られてすぐ、これを飲まれました」
紙包みには、白い錠剤の粉が付いていた。
「その前にも飲んだのですか」
「私は存じません」
「酒は」
「馬車の中でも飲み、こちらでも1壺空けました」
達也は西門慶の瞼を開き、顔色を確かめた。
「行為は、どのくらい続きました」
王六児が答えに詰まった。
「命に関わります。恥ずかしがる時ではありません」
「一度終えたあと、すぐもう一度始められました。2度目の途中でございます」
「旦那様。胸の痛みは、いつからですか」
「少し前からだ」
「少しとは」
「最初に始めた頃から、重い感じはしておった」
「なぜ止めなかったのですか」
「お前にできて、俺にできぬはずがない」
西門慶は苦しい息の間から言った。
達也は怒りを抑え、医者へ西門慶の胸と呼吸を診させた。未来の精力薬を飲んだ後の異常である。北宋の薬を安易に重ねれば、何が起きるか分からない。
「身体を起こさず、安静にさせます。酒も薬も与えないでください。胸の痛みが強くなるか、意識が薄れたら、すぐ知らせてください」
「ここで休めば治るのか」と西門慶。
「分かりません。今夜を越えられるかも、僕には断言できません」
西門慶の目が動いた。
「脅しておるのか」
「旦那様は、胸が痛むのに女を抱き続けました。酒を飲み、服用時刻を隠し、同じ薬を重ねた疑いもあります。死ぬ条件を自分で重ねたのです」
「俺は死なぬ」
「そう願っています」
達也は王六児へ、今夜は西門慶のそばを離れず、眠っているように見えても呼吸を確かめるよう命じた。
「私だけでございますか」
「府衙から男を2人残します。医者も隣室に置きます」
「旦那様の屋敷へ、お知らせしなくてよろしいのでございますか」
「知らせます」
「瓶児には言うな」と西門慶。
「正室へ知らせないわけにはいきません」
「あれは、まだ流した子のことしか考えておらぬ。俺が倒れても、泣きもせぬ」
「それでも知らせます」
西門慶は目を閉じた。
「月娘には言うな」
達也は返事をしなかった。
「あの女が来れば、俺が負けたように見える」
「月娘様は来ません」
西門慶が目を開けた。
「僕が来ました。月娘様は僕たちの子と、倉家にいます」
「俺の子だ」
「今は、その話をする時ではありません」
達也は立ち上がった。
「夜明けまで、僕も隣室にいます」
「帰れ。2人の女が待っておるのであろう」
「2人とも、もう休んでいます」
「4度も抱いたあとで、また抱いたのか」
西門慶は胸を押さえながら、なお尋ねた。
「旦那様。あなたは、その考えで死にかけたのです」
「答えろ」
「答えません」
達也が隣室へ移ると、西門慶は寝台の上で歯を食いしばった。
胸の痛みより、達也が答えなかったことの方が気になった。
◇ ◇ ◇
知らせを受けた李瓶児が王六児の別宅へ来たのは、夜半を過ぎてからであった。
正室の衣を着ていたが、髪は急いでまとめられ、顔に化粧はない。後ろには孟玉楼が付き添っている。
「旦那様は」と瓶児。
「意識はあります。胸の痛みも、先ほどより弱くなりました」
「お会いできますか」
「静かに話すだけなら」
瓶児は寝室へ入り、西門慶の顔を見た。
「旦那様」
「大げさな顔をするな。少し胸が痛んだだけだ」
「王六児様のお宅で、女を抱いている最中に倒れたと聞きました」
「誰が、そのような言い方をした」
「違うのでございますか」
西門慶は答えなかった。
瓶児は寝台の脇へ座ったが、西門慶の手を取らなかった。
「達也様から、薬は1錠だけ、続けて使ってはならないと伺っておりました」
「お前まで俺を責めるのか」
「責めておりません。なぜ、そこまで女を抱かなければならないのかと尋ねております」
「俺の勝手だ」
「では、お身体を壊すのも勝手なのでございましょう」
瓶児の声には怒りより疲れがあった。
「私は、旦那様のお子を失いました。今も夜になると、あの時のことを思い出します。それでも旦那様は、私が相手をしないから王六児様や林夫人様のところへ行くとお考えなのでしょう」
「その話はしておらぬ」
「月娘様がいらした頃は、旦那様がどこで何をなさっても、朝になれば薬と酒の帳面を確かめてくださいました。私は、月娘様の代わりにはなれません」
西門慶は瓶児を見た。
「正室になりたいと申したのは、お前だ」
「はい。ですが、月娘様を追い出してまでなりたいとは申しませんでした」
「俺が離縁したのは、あの女が倉殿の子を腹に入れていたからだ」
「旦那様は、ご自分の子だと信じておられるのでしょう」
「俺の子だ」
「では、なぜ離縁なさったのでございますか」
西門慶は答えられなかった。
瓶児は立ち上がった。
「今夜は王六児様に看ていただいてください。私は屋敷へ戻ります」
「正室が夫を置いて帰るのか」
「旦那様ご自身が選んだ場所でございます」
瓶児は一礼し、部屋を出た。
廊下で待っていた玉楼が、その肩を抱いた。
達也は2人を門まで送った。
「瓶児様。旦那様を責めないでください」
「責めてはおりません。もう、責める力もございません」
「今夜は命を落とさずに済むと思います」
「今夜は、でございますか」
「同じことを繰り返せば、次は分かりません」
瓶児は暗い屋敷の奥を振り返った。
「月娘様なら、旦那様を止められたのでしょうね」
「止めたと思います」
「旦那様は、ご自分で止める女を追い出したのでございます」
瓶児は馬車へ乗った。
その言葉は、西門慶のいる寝室までは届かなかった。
◇ ◇ ◇
夜明け前、西門慶の脈は次第に落ち着いた。
胸の痛みも消え、起き上がろうとしたが、達也が止めた。
「昼までは横になってください」
「屋敷へ帰る」
「担架で運ばれたいのですか」
「歩ける」
「歩いて倒れれば、王六児様の家から半裸で運び出されたことが、開封中へ広まります」
西門慶は動きを止めた。
「馬車を裏門へ回します。衣を整えてから、医者と一緒に帰ってください」
「お前は、俺を子どものように扱うのだな」
「子どもなら、薬箱へ鍵を掛ければ済みます」
「薬は俺が売っておる」
「今日から、静蘭様が保管します。旦那様は客を集め、商談だけしてください。薬に触れることは認めません」
「俺の商いだ」
「この薬は売り物として旦那様に預けた品です。御自分で勝手に飲み、命を縮めるのなら、今後は静蘭に管理させます」
西門慶は寝台の上で達也をにらんだ。
「俺を外せば、誰が高官と富商へ売る」
「旦那様を外すとは言っていません。薬を手に持たせないと言っています」
「月娘と同じことをするつもりか」
「月娘様の方が、もっと厳しかったでしょう」
西門慶は返事をしなかった。
達也は木箱から帳面を出した。
「消えた6錠のうち、何錠を使いましたか」
「高官へ渡した」
「名前を記してください」
「言えぬ相手もおる」
「では、6錠分の代金を旦那様個人の取り分から差し引きます」
「倉殿」
「公の商いと私用を混ぜないでください」
月娘が倉家の白米4人分を府衙の食費へ分けたのと同じである。誰が使ったかを曖昧にすれば、帳面は崩れる。
「今夜使った1錠は、旦那様の私用です。残る5錠も相手の名を明かさないなら、旦那様が使ったものとして扱います」
「勝手にしろ」
「そうします」
達也は帳面へ記した。
西門慶は顔を背けた。
「旦那様。僕は、女を抱くことを止めているのではありません。死ぬような抱き方を止めています」
「21歳のお前には、分からぬ」
「何がですか」
「自分が、もう若い男と同じではないと知る気持ちだ」
西門慶が、初めて本音を口にした。
「女を抱けば、皆が俺を求める。銀を見せれば、商人も役人も頭を下げる。俺がまだ何でもできる男だと分かる。だが、お前は薬も飲まず、俺が抱けぬほど女を抱き、皇帝から侯爵にまで封じられた」
「僕と同じである必要はありません」
「勝った男に言われても、慰めにもならぬ」
「僕は旦那様に勝ったと思っていません」
「月娘を奪った」
「旦那様が離縁しました」
「あの女は、俺の屋敷にいた時より幸せそうであった」
達也は否定しなかった。
「それが、一番腹立たしい」
「月娘様を不幸にしたいのですか」
「違う」
「ならば、幸せでよいでしょう」
「お前の隣でなければな」
達也は帳面を閉じた。
「旦那様。月娘様は、もう僕の妻です。誰にも返しません。子も倉家で育てます」
「乳離れまでの約束だ」
「その話は、旦那様の身体が戻ってから改めてします」
「俺は、今でも話せる」
「今は病人です」
「誰のせいだと思っておる」
「旦那様ご自身です」
達也は一礼し、寝室を出た。
◇ ◇ ◇
倉家へ戻った時、朝の鐘が鳴っていた。
達也が月娘の部屋へ入ると、静蘭はまだ寝台で眠っていた。月娘は赤子へ乳を飲ませている。
「西門様は」と月娘。
「今夜は助かりました」
月娘が息を吐いた。
「何錠、お使いになったのでございますか」
「今夜は1錠だと言っています。ただし、その前の服用時刻を隠しています。酒を飲み、胸が痛み始めても王六児を抱き続けました」
「昔から、そのようなお方でございました」
「月娘様は、何度も止めたのですか」
「はい。酒を取り上げ、薬箱を隠し、女のところへ行く馬車を出させなかったこともございます」
「それでも、旦那様は月娘様を疎ましく思ったのでしょうね」
「止められている間は、誰でも煩わしく思うものでございます。倒れた時だけ、そばにいてほしいと願います」
月娘は赤子の口元を布で拭いた。
「西門様は、私を呼びましたか」
「呼ぶなと言いました」
「そうでございましょう」
月娘の顔に、寂しさはなかった。
「行きたいですか」
「いいえ。私は倉家の女でございます」
達也は月娘の隣へ座った。
「昨夜は、すみませんでした」
「何のことでございますか」
「2人とも、動けなくなるまで抱きました」
月娘は達也を見た。
「あの後、西門様のもとへ走り、夜通し看て、もう戻られたのでございますね」
「はい」
「少しはお疲れになりましたか」
「眠いです」
「それだけでございますか」
「お腹も空きました」
月娘は呆れた顔をした。
寝台の上で静蘭が目を開けた。
「月娘様。知府様を今夜から別室へ移してください」
「聞こえていたのですか」
「お腹が空いたというところからでございます」
「静蘭様は、身体は大丈夫ですか」
「大丈夫に見えますか」
静蘭は起きようとしたが、腰を押さえて掛布へ戻った。
「今日は商いを休んでください」
「誰のせいでございますか」
「僕です」
「よくお分かりでございます」
月娘も立ち上がろうとし、達也の肩へ手を置いた。
「月娘様も休んでください。赤子は僕が抱きます」
「知府様は府衙へ行かれるのでしょう」
「朝餉を食べたら行きます」
「一睡もなさっておりません」
「昼に半刻休みます」
達也は赤子を受け取った。
赤子は父親の腕の中で、すぐに目を閉じた。
「今夜は、こちらへ来てはなりません」と月娘。
「分かりました」
「明日もでございます」と静蘭。
「2日もですか」
「3日にいたしますよ」と月娘。
「分かりました。2日にします」
「知府様が決めることではございません」
静蘭と月娘は顔を見合わせた。
「3日でございます」
「はい」
達也は不満そうに答えた。
しかし、赤子を抱いて部屋を出る足取りには、昨夜から一睡もしていない男の疲れが見えなかった。
月娘はその背を見送り、静蘭へ言った。
「西門様が張り合えるお相手ではございません」
「私たち2人でも、勝てませんでした」
「次は、知府様を別々の部屋へ呼びましょう」
「昨夜、3人で休もうとおっしゃったのは月娘様でございます」
「後悔していると申したでしょう」
2人は笑ったが、同時に腰へ手を当てた。
満足は、とっくに通り越していた。
◇ ◇ ◇
その日の昼、西門慶は自邸へ戻った。
精力薬の箱は、すでに空になっている。瓶児は自室へ戻り、金蓮は顔を見せず、玉楼だけが湯と粥を用意した。
「旦那様。今日はお休みください」
「皆が、俺を病人扱いする」
「昨夜、倒れられたのでございましょう」
「少し胸が痛んだだけだ」
「では、なぜ医者と倉侯が夜通し付いておられたのでございますか」
西門慶は粥へ手を付けなかった。
「薬は、どこへやった」
「静蘭様の番頭が、昨夜すべて持ち帰りました」
「4錠あったはずだ」
「はい」
「勝手なことをしおって」
西門慶は寝台の下へ手を入れた。
奥から、小さな紙包みが出てきた。
玉楼の顔色が変わった。
「旦那様。それは」
「静蘭殿の番頭も、ここまでは探さなかったようだな」
「倉侯へお返しください」
「俺のものだ」
「昨夜、死にかけたばかりでございます」
「今すぐ飲むとは言っておらぬ」
西門慶は紙包みを衣の内側へ入れた。
「旦那様」
「月娘のような口を利くな」
玉楼は、それ以上言えなかった。
西門慶は横になり、目を閉じた。
達也の言葉が耳に残っている。
月娘はもう僕の妻です。子も倉家で育てます。
胸の痛みは消えていた。
しかし、衣の内側に隠した1錠の重みは、消えなかった。
第8話中編2では、王六児の別宅で倒れた西門慶のもとへ、倉達也が駆けつけた。
西門慶は酒を飲み、胸の異常を感じながらも王六児を抱き続けた。若い達也への対抗心から行為を止めず、2度目の途中で胸痛と呼吸苦を起こしたのである。
達也は西門慶を安静にさせ、医者を残した。正室となった李瓶児も別宅を訪れたが、自分が月娘の代わりにはなれないと告げ、自邸へ戻った。
西門慶は一命を取り留めたものの、消えた6錠の用途を明かさなかった。達也は精力薬の管理を西門慶から取り上げ、今後は曹静蘭が保管すると決めた。
倉家へ帰った達也は、一睡もしないまま赤子を抱き、朝餉の後は府衙へ出ると告げた。前夜に達也へ降参した月娘と静蘭は、3日間寝室へ入れないことを決めた。
一方、西門家へ帰った西門慶は、番頭にも見つからなかった精力薬1錠を寝台の下から取り出した。
止める女のいない西門家で、西門慶はなお薬を手放さなかった。




