第8話(前編2)――「失った女の屋敷」
(1118年夏、北宋・開封府・倉家)
西門慶の馬車が倉家の門前に着いたのは、午の刻を過ぎた頃だった。開封市内の自邸から伴ってきた荷車には、侯爵就任を祝う酒や絹、銀器が積まれていた。もう1台の小さな荷車には、盗人から取り上げた品と治安業務の帳面が載っている。
門番から知らせを受けた曹静蘭は、使用人に客間を整えさせ、荷物の扱いを指示した。
「祝いの品は、倉へ運ぶ前に中庭ですべて目録を取りなさい。治安の帳面と押収品は、それとは分けて客間の隣へ運んでください」
使用人が動き始めると、静蘭は奥の部屋へ向かった。呉月娘は、赤子に乳を飲ませているところだった。
「私が門まで参ります。月娘様は、飲ませ終えてから客間へお越しください」
「西門様をお待たせすることになりますね」
「お待ちいただきましょう。赤子に授乳を待たせるわけにはまいりません」
月娘は静蘭に出迎えを頼み、腕の中を見下ろした。赤子は乳を吸いながら目を閉じている。
「あなたを自分の子だと思っている方が、お見えになりましたよ。本当のお父様は、まだ府衙でお仕事をなさっております」
飲み終えると、月娘は赤子を肩に抱き、背を軽くたたいた。いったん女中へ預けようとしたが、考え直して抱き直した。
「この子も客間へ連れてまいります。隠しておく子ではございませんから」
◇ ◇ ◇
西門慶は静蘭に案内されて客間へ入り、用意された席に着いた。
「倉侯は、まだ府衙におるのか」
「間もなくお戻りになります。先にお茶を召し上がってください」
「侯爵になっても、仕事が終わらぬと見える」
「ご自分のお祝いより、訴えに来た民を先にしておられます。月娘様も、それではいつまでも帰れないと申しております」
そこへ、月娘が赤子を抱いて入ってきた。西門慶は月娘より先に赤子へ目を向けた。
「大きくなったな。俺にも抱かせよ」
月娘は一瞬ためらったが、西門慶のそばへ進んだ。
「毎日よく乳を飲んでおります。首を支えて、急に立ち上がらないでくださいませ」
「子の抱き方くらい分かる。俺を何もできぬ男のように申すな」
「西門家では女中に任せておられましたから、念のために申し上げております。落とされては困ります」
月娘から赤子を受け取ると、西門慶は両腕で抱いて顔をのぞいた。赤子は泣かなかったが、見慣れない顔を確かめるように目を動かし、やがて月娘の方を向いた。
「俺の顔を覚えておらぬのか。自分の子だというのに」
「お会いになるのは、久しぶりでございますから」
西門慶は、この子を達也に渡したと思っている。本当の父親を知っているのは、達也と月娘、そして月娘から打ち明けられた静蘭だけだった。静蘭は、そのことを外で一度も口にしていない。
「俺より倉侯に懐いておるのではないか」
「生まれてから毎日、知府様が抱いておられます。ご自分の子として育てるとおっしゃっておりますので」
「俺の子の父親になったつもりか」
「離縁の時、この子を私に渡すと認めてくださったはずでございます」
「分かっておる」
そう言いながら、西門慶は赤子から目を離せなかった。離縁を告げた時には、乳離れすれば月娘が子を西門家へ返すと思っていた。達也が母子を家に置き、自ら父親として育てるとは、真剣に考えていなかった。
赤子が顔をしかめて泣き始めると、西門慶は抱き方を変えようとした。月娘が手を差し出し、その腕から受け取った。
「何だ、俺が怖いのか」
「乳を欲しがっているのでございましょう」
「先ほど飲ませたばかりではないのか」
「赤子は時刻通りには動きませんので」
月娘が奥へ下がろうとすると、西門慶が呼び止めた。
「ここで飲ませればよい。以前は夫婦だったのだから、隠すこともあるまい」
「今は違います。失礼いたします」
月娘は振り返らずに客間を出た。西門慶はその背を見送り、静蘭へ顔を向けた。
「倉家へ移ってから、ずいぶん強く言うようになったな。以前は、俺の前では一歩引いたものだ」
「今は知府様の妻でございます。西門家にいた頃と同じようにはまいりません」
「分かっておる」
西門慶は同じ言葉を繰り返し、茶碗を手に取った。
◇ ◇ ◇
倉達也は府衙から戻ると、官服のまま客間へ入った。
「旦那様、お待たせいたしました」
「倉侯となった今も、俺を旦那様と呼ぶのか」
「家へ置いてくださり、科挙を受けられるようにしてくださったご恩は変わりません」
「侯爵からそう呼ばれれば、俺まで偉くなったように聞こえるな」
西門慶は声を上げて笑ったが、すぐに息を継いだ。達也はその顔を見た。目の下に疲れがあり、頬が赤く、額には汗が浮かんでいる。市内を馬車で移動し、客間で休んでいたにしては、息も落ち着いていなかった。
「旦那様、顔色がよくありません。昨夜は酒を飲まれましたか」
「侯爵の祝いを持ってきた男へ、最初に尋ねることがそれか。朝から捕吏を2人叱りつけて疲れただけだ。役人を動かすのは商人より骨が折れる」
「脈を診せてください。具合が悪くなってからでは遅いこともあります」
西門慶は病人扱いを嫌がったが、達也が手を差し出したまま待っていると、渋々手首を預けた。脈は規則正しいものの、座って休んでいた者にしては速かった。
「昨夜、薬を飲まれたのであれば、時刻を教えてください。その前に使った日も確かめておきたいのです」
「昨夜は1錠だけだ。時刻までは覚えておらぬ。その前は、3日ほど前だった」
西門慶は嘘をついた。昨夜は王六児の別宅へ行く前に飲み、その前の夜にも林夫人と会うために1錠飲んでいた。
「頭痛や目のかすみ、胸の苦しさはありませんでしたか。立ち上がった時に、目の前が暗くなるようなことも」
「少し頭が重かったが、朝には治った。汗をかいているのは、外が暑かったからだ」
達也は手首を離し、卓上の帳面を開いた。
「薬の在庫が6錠合いません。高官2人へ3錠ずつ渡したと伺いましたが、どなたに渡したのでしょうか」
西門慶は静蘭へ目を向けた。
「帳面を数えるのは静蘭殿の仕事だろうが、俺を盗人のように扱うな。相手の名は申せぬ。高官にも体面がある」
「お名前が分からなければ、お身体を確かめることもできません。その方々へ、3錠ずつ渡したのですね」
「使い方は説明した」
「旦那様ご自身が使ったのではありませんか」
「違う」
西門慶は達也の目を見ず、茶碗へ手を伸ばした。
授乳を終えて戻っていた月娘に、達也は以前の帳面を見せてほしいと頼んだ。月娘が女中に持ってこさせた帳面には、西門慶の服薬日や時刻が記されていた。最後の記載は、月娘が西門家を離れる3日前で止まっている。
「このあとは、何回使われましたか」
「5、6回だ。何日に飲んだかまでは覚えておらぬ」
「同じ日に2錠飲んだり、前日に使ったことを忘れて翌日に飲んだりしていませんか」
「俺は、そこまで耄碌しておらぬ」
「飲んだ時刻を覚えていないと、今おっしゃいました。記録がなければ、どのくらい間を空けたか確かめられません」
西門慶が黙ると、達也は帳面を卓へ置いた。
「今後は必ず誰かに記録させてください。瓶児様が難しければ、玉楼様でも構いません。薬箱も預け、ご自分で出して飲むのはやめてください」
「女に許しを求めなければ、薬も飲めぬのか」
「許しを求めるのではなく、飲んだ時刻を確かめるためです。酒を多く飲んだ夜や、前の服用時刻が分からない時は使わないでください」
達也は西門慶の顔を見て、念を押した。
「胸の痛みや息苦しさ、冷たい汗、強い動悸が出たり、目の前が暗くなったりした時は、女との行為をやめて、すぐに人を呼んでください」
「あの薬で死ぬことがあるのか」
「決められた使い方を守れば、危険は小さくできます。しかし、酒を飲み、休まず女のもとを回り、間を空けずに重ねて使えば、血圧が急に下がることがあります。胸の病や脈の乱れが隠れていれば、命に関わります」
「俺はまだ若い」
「若くても、死ぬ時は死にます」
達也が語気を強めると、西門慶は顔をしかめた。
「侯爵になって、急に説教が増えたな」
「旦那様に生きていてほしいからです」
西門慶は達也の顔を見た。薬を抜いた罪を問い、治安の仕事から外そうとしている様子はない。本気で命を案じていることは分かった。
「分かった。今後は帳面に付け、薬箱も預ける。お前も細かい男だな」
「月娘様は、もっと細かく管理されていたはずです」
西門慶が目を向けると、月娘は眠った赤子を抱いていた。
「以前の話でございます」
その言葉には、薬の管理だけでなく、夫婦としての暮らしも終わったという意思が表れていた。
◇ ◇ ◇
治安業務の報告は、祝いの宴を始める前に済ませることになった。西門慶は帳面を広げ、南東の2坊にある賭場4軒について説明した。
3軒は捕吏へ毎月銀を渡し、残る1軒は盗人に場所を貸したうえ、盗品を担保に銭を貸していた。
「すべて閉めても、別の家で賭けるだけだ。3軒は残し、盗人が来た時には知らせるよう命じた。4軒目は主人を替える」
「今の主人と、銀を受け取った捕吏をどう扱うか、聞かせてください」
「主人は盗品を買った証拠を出して開封から追い出す。殺しはせぬ。店と賭場の権利は、被害を受けた商人への弁償に充てる」
西門慶は帳面の別の箇所を指した。
「捕吏は6人のうち、賭場へ情報を流した2人を外す。残る4人は、受け取った銀の倍を1年かけて返させ、そのうえで使う」
「返す相手は府衙ではなく、被害を届けても取り合われなかった者たちです」
「分かっておる。米屋と古着屋は、もう名を調べさせた」
達也は書付に付記し、捕らえた盗人3人についても、人を傷つけていないか確かめた。西門慶によれば、1人は夜道で老人を殴り、残る2人は空き家や店に忍び込んでいた。
「老人を殴った者は、府衙で裁きます。残る2人は盗品の行き先をすべて話せば、労役と弁償で済ませましょう」
「倉侯は悪党に甘いな」
「人を殺していない者まで殺す必要はありません。働かせて、盗んだ分を返させます。逃げた時は、旦那様が見つけてくださるのでしょう」
西門慶は笑った。
「それなら、逃げぬ方がましだと教えておく」
達也は、治安の仕事では西門慶を信用していた。町の悪党を知り、銀の流れを読み、役人にも商人にも恐れられている。それでいて、無用な殺人は損だと考えていた。開封府の役人だけでは、同じ働きはできなかった。
「旦那様のおかげで、治安の仕事は助かっています。だからこそ、お身体を大切にしていただきたいのです」
「また薬の話へ戻すのか。約束は守ると申したであろう」
西門慶は不機嫌そうに答えたが、報告書を取り返そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
祝いの宴は静蘭が取り仕切った。西門慶が持参した酒のうち2壺だけを卓に出し、銀器と絹は目録を作ったうえで、返礼の品を決めていった。
月娘は赤子を近くの籠に寝かせ、女中の報告を聞きながら客間と台所へ指示を出していた。料理が遅れている席や酒の減りが早い卓、湯の足りない場所を確かめ、使用人を向かわせる。
「静蘭様、お持ちくださった絹には何をお返ししますか」
「倉家の茶に、南方から入った香木を添えます。銀器には、知府様のお名前で書画を1幅お届けしましょう」
「では、荷車を空で帰さないよう、今夜のうちに積ませます」
2人が達也にいちいち尋ねずに話を進める様子を、西門慶は向かいの席から見ていた。
「倉侯、お前は家では何も決めさせてもらえぬのか。女2人に屋敷を乗っ取られたように見えるぞ」
「政務と軍のことは僕が決めます。家の中は月娘様、商いと外との付き合いは静蘭様に任せた方が、僕1人で決めるよりよく回ります」
「夜も2人に取り仕切られておるのか」
「旦那様、酒は1杯までです。昨夜は薬を飲まれていますから、控えてください」
「都合が悪くなると、酒の話へそらすのだな」
西門慶は杯を置き、月娘を呼んだ。
「倉侯は、毎日このように細かいのか」
「知府様も、私が申し上げなければ食事を抜き、夜中まで書付を読んでおります。ご自分のことには、あまり気を配られません」
「子が夜泣きすれば、倉侯まで起きるそうだな。乳も出ぬ男が何をする」
「私より先に起きて、子を連れてきてくださることもございます。飲み終えれば背をたたき、寝台へ戻してくださいます」
西門慶は籠の中を見た。赤子の世話は女中と乳母がするものだと考えていた。夜中に妻が起きても、自分まで目を覚まして世話をしたことはなかった。
「俺の子に、ずいぶん熱心なのだな」
「僕の子として育てています」
達也が迷わず答えると、西門慶はその顔を見た。
「血がつながっておらぬのに、そこまでできるのか」
「血がつながっていなくても、月娘様の子です。僕が父になります」
月娘は、その言葉を聞きながら赤子へ目を向けた。本当は達也と血のつながった子だった。それでも達也は、自分の名誉のために秘密を明かそうとはせず、他人の子を引き取った男と思われることを受け入れていた。
「お前は俺より父親らしい顔をするのだな」
「旦那様が、この子を月娘様へ渡してくださったからです」
西門慶は杯へ手を伸ばしたが、達也が酒壺を遠ざけたため、空のまま卓へ戻した。
その時、赤子が目を覚まして泣き始めた。月娘が抱き上げてあやしても泣きやまず、静蘭が乳を欲しがっているのだろうと声をかけた。
月娘が奥へ下がろうとすると、達也が引き止めた。
「こちらで差し上げてください。衝立を置かせますから」
女中が客間の隅に衝立を運んだ。月娘がその向こうで乳を含ませると、泣き声が止まり、乳を吸う音が聞こえた。
達也は衝立の近くへ座り、女中に布と湯を頼んだ。静蘭も宴の指示を続けながら、赤子の着替えを用意させていた。
月娘と子は、この家で気兼ねをしながら暮らしているのではなかった。月娘は屋敷を任され、静蘭と相談しながら使用人を動かし、達也も進んで子の世話をしている。
西門慶は赤子の本当の父親を知らない。それでも、母子が倉家で大切にされていることは、目の前の光景から分かった。自分が去ったあとも、この暮らしが続くと思うと、胸の奥に不快な熱を覚えた。
授乳を終えた月娘が衝立から出ると、達也は赤子を受け取った。
「僕が背をたたきます」
「官服が汚れますよ」
「洗えば済みます」
赤子は達也の肩に頬を付け、しばらくするとげっぷをして、そのまま眠った。
「よく慣れておるな」
「毎日しておりますから」
「夜も子の世話をして、そのうえ2人の女の部屋へ通うのか。昨夜は、どちらへ行った」
「旦那様、それは僕たち夫婦のことです」
達也は赤子を籠へ戻してから席に着いた。西門慶が返答を待っているため、両方だと答えた。
月娘が咳払いをし、静蘭は茶碗へ口を付けた。
「もう身重ではない月娘なら、遠慮する必要もあるまい」
「ございません」
月娘が答えたため、西門慶はそちらを向いた。
「では、倉侯はどの程度、遠慮しなかったのだ」
「それは西門様がお聞きになることではございません。知府様が私を女として扱ってくださっていると、お分かりになれば十分でございます」
月娘は顔を赤らめていたが、目をそらさなかった。西門慶は静蘭へ話を向けた。
「そのあと、お前の部屋へ来たのか。役に立ったのだろうな」
「西門様」
静蘭は茶碗を置いた。
「知府様を侮ることは、私と月娘様を侮ることにもなります」
「冗談だ」
「お答えするなら、知府様は私たち2人を満足させ、今朝は誰より早く起きて府衙へ向かわれました」
達也は静蘭を見た。
「そこまで言わなくてよいです」
「知府様のお力を疑われましたので」
「それぞれ何度抱いたのだ」
西門慶が重ねて尋ねると、達也は顔を戻した。
「回数を競うものではありません」
「申せぬのか」
「昨夜は、2度ずつでございます」
月娘の返答に、客間が静まった。達也が困った顔を向けると、月娘は言い添えた。
「隠していては、西門様がお若いあなた様を役立たずと思われます」
「そのようには思っておらぬ」
西門慶の声には力がなかった。達也は薬も酒も飲まず、月娘と静蘭を2度ずつ抱いたという。それから少し眠り、夜明け前には赤子の泣き声で起き、朝から府衙で働いていた。
御前試合で5人を倒した21歳の身体だった。西門慶には、薬の力を借りても同じことができるとは思えなかった。
「若い男は得だな」
「僕は旦那様と競っていません。どうか、薬を飲んで無理をなさらないでください」
「俺も競っておらぬ」
西門慶には、達也の気遣いが勝者の余裕に聞こえた。席を立ち、帰ると告げると、月娘も立ち上がった。
「まだ日暮れ前でございます。西門家までは遠くありませんから、急いでお帰りにならなくても」
「お前に決められることではない」
「お引き止めしただけでございます。市内ですから、暗くなる前にお帰りになれると思いまして」
西門慶は言い過ぎたと気付いたが、謝らなかった。達也は門へ向かう西門慶に念を押した。
「旦那様、今夜は薬を使わず、酒もこれ以上飲まないでください」
「分かっておる。ここでも1杯しか飲んでおらぬだろう」
「その1杯で終わりにしてください」
西門慶は返事をせず、倉家を出た。
◇ ◇ ◇
馬車が開封の大通りに出ると、西門慶は座席に深く腰を下ろした。目を閉じても、月娘が赤子に乳を与え、達也が慣れた手つきで抱く姿が浮かんだ。
月娘と静蘭は役目を分け、若い達也を支えていた。夜になれば、2人ともあの男に抱かれる。
西門家にいた頃、月娘は西門慶がどの女のもとへ出かけても母屋に残っていた。帰宅すれば酒の量を問い、薬を飲む日を確かめ、使った銀を帳面に書かせた。
その月娘が今は、達也のために家を整え、乳を飲ませたばかりの身体を達也へ開いている。自分が捨てた女だとは分かっていた。それでも、長く正室を務めた女が、別の男の家で以前より幸せそうに暮らしている姿には耐え難かった。
相手は21歳で、政務も武芸もこなし、夜には2人の妻を満足させている。西門慶は膝の上で手を握った。
「薬などなくても、俺にもできる」
誰に聞かせるでもなくつぶやいたが、馬車が西門家に着くまで、その考えは頭を離れなかった。
◇ ◇ ◇
自分の部屋へ入るなり、西門慶は下男に酒を持ってくるよう命じた。そこへ孟玉楼が来た。
「倉侯から、今夜はお酒を控えるよう言われたと伺いました」
「なぜ、お前が知っておる。俺の家へまで命令を届けたのか」
「お供の者が奥へ伝えたのでございます。倉侯も旦那様のお身体を案じておられるのでしょう」
「酒を1壺持ってこい」
玉楼は動かなかった。西門慶は苛立ちを隠さず、ほかの妻たちの居場所を尋ねた。
「瓶児はどうしておる。金蓮も部屋にいるのか」
「瓶児様はお休みになっております。金蓮様は夕餉の席へ出ておられます」
「では、王六児へ使いを出せ。今夜行くと伝えるのだ」
「旦那様、今夜は――」
「今度は、お前が月娘の代わりになるつもりか」
玉楼が口を閉じると、西門慶は月娘の使っていた部屋へ向かった。棚の奥から木箱を取り出し、薬を1錠つまんだ。
今夜は使わず、酒も飲まず、薬箱を妻へ預けるよう、達也から警告されたばかりだった。昨夜も服用し、頭痛と動悸があったことは自分でも覚えている。
それでも、達也が2人の女を2度ずつ抱いたと聞いたあとでは、何もしないまま眠る気になれなかった。
「俺はまだ若い」
西門慶は薬を酒で流し込み、木箱を棚へ戻した。今夜は王六児の別宅へ行き、帰宅してから金蓮の部屋へ入るつもりだった。翌日は林夫人から使いが来ることになっている。3人を相手にすれば、自分も達也に劣らないと確かめられる気がした。
部屋を出ると、廊下に玉楼が立っていた。
「今、何を飲まれたのでございますか。お酒の匂いがいたします」
「祝いの席で飲んだだけだ。ここでは何も飲んでおらぬ」
「王六児のところへは、明日になさってください。使いも、まだ出しておりません」
「ならば、俺が自分で行く」
西門慶は玉楼を押しのけ、門へ向かった。
月娘なら薬箱を隠し、酒を取り上げ、前夜の服用時刻を問い詰めたはずだった。今は玉楼が止めようとしても、その言葉を聞く気になれなかった。
町の悪党や捕吏を従わせる西門慶は、若い達也に負けたくないという思いに駆られ、屋敷を出ていった。




