第8話(前編2)――「失った女の屋敷」
開封へ移った西門慶は、捕吏、賭場、妓楼、盗品売買を裏側から束ね、開封府の治安を立て直す仕事を担っている。
倉達也が侯爵に封じられて間もない頃、西門慶は治安業務の報告と祝いを兼ね、開封市内の倉家を訪れる。
倉家では、呉月娘が達也との間に生まれた赤子を育てながら家中を預かり、曹静蘭が商いと対外折衝を担っていた。
月娘のいない西門家では、精力薬の服用記録が途絶えている。
(1118年夏、北宋・開封府・倉家)
西門慶の馬車が倉家の門前へ着いたのは、午の刻を過ぎた頃であった。
西門慶は開封市内の自邸から来た。荷車には侯爵就任を祝う酒、絹、銀器が積まれ、もう1台の小さな荷車には、盗人から取り上げた品と治安業務の帳面が載せられている。
門番から知らせを受けた静蘭は、使用人へ客間を整えさせた。
「西門様がお越しでございます」と女中。
「祝いの品は倉へ運ばず、すべて中庭で目録を取りなさい。治安の帳面と押収品は、客間の隣へ分けます」と静蘭。
「はい」
月娘は奥の部屋で赤子へ乳を飲ませていた。
「私が門まで参ります。月娘様は、飲ませ終えてから客間へお越しください」と静蘭。
「西門様を待たせることになります」
「赤子は、客人を待てません」
「では、お願いいたします」
静蘭が門へ向かったあと、月娘は腕の中の赤子を見た。
「あなたを自分の子と思っている方が、お見えになりましたよ」
赤子は乳を吸いながら目を閉じている。
「本当のお父様は、まだ府衙でお仕事をなさっております」
乳を飲み終えると、月娘は赤子を肩へ抱き、背を軽くたたいた。女中へ預けようとしたが、考え直した。
「この子も客間へ連れてまいります」
「よろしいのでございますか」
「隠す子ではございません」
◇ ◇ ◇
西門慶は、静蘭に案内されて客間へ入った。
「倉侯は、まだ府衙か」
「間もなくお戻りになります。先にお茶を召し上がってください」
「侯爵になっても、人を待たせるところは変わらぬな」
「ご自分のお祝いより、訴えに来た民を先にしておられます」
「それでは、いつまでたっても仕事が終わらぬ」
「月娘様も、同じことを申しております」
その時、月娘が赤子を抱いて客間へ入った。
西門慶は、月娘より先に赤子を見た。
「大きくなったな」
「毎日、よく乳を飲んでおります」
「俺に抱かせよ」
月娘は一瞬、動きを止めた。
「首を支えてください。急に立ち上がってはなりません」
「子の抱き方くらい分かる」
「西門家では、女中へ任せておられたでしょう」
「月娘。俺を何もできぬ男のように申すな」
「落とされては困るので、申し上げております」
月娘は赤子を渡した。
西門慶は両腕へ抱き、顔をのぞき込んだ。
赤子は泣かなかった。しかし、見慣れない顔を確かめるように目を動かし、やがて月娘の方へ顔を向けた。
「俺の顔を覚えておらぬのか」
「お会いになるのは、久しぶりでございます」
「俺の子だぞ」
月娘は答えなかった。
西門慶は、自分の子を達也へ渡したと思っている。
達也、月娘、静蘭だけが、赤子の本当の父親を知っていた。静蘭は月娘から明かされたあとも、外では一度も口にしていない。
西門慶は赤子の顔をのぞき込み、眉を寄せた。
「俺よりも、倉侯に懐いておるのではないか」
「生まれてから、知府様が毎日抱いておられます」
「俺の子を、倉侯が父親のように育てておるのか」
「離縁の時、この子を私へ渡すと認められました。知府様は、ご自分の子として育てると申しております」
「分かっておる」
西門慶は赤子を見た。
本当は、分かっていなかった。
離縁を告げた時、月娘はいずれ乳離れした子を西門家へ返すと思っていた。達也が月娘だけでなく、子まで自分の家へ置き、父親として育てるとは真剣に考えていなかった。
赤子が顔をしかめ、泣き始めた。
「何だ。俺が怖いのか」
「お腹が空いたのでございましょう」
「先ほど飲ませたのではないのか」
「赤子は、時刻通りには動きません」
月娘は赤子を受け取り、客間を出ようとした。
「ここで飲ませればよい」と西門慶。
「西門様の前でございます」
「以前は夫婦であった」
「今は違います」
月娘は奥へ下がった。
西門慶は、その背を目で追った。
「倉家へ移ってから、言うことが強くなったな」
「西門家でも、お強かったのではございませんか」と静蘭。
「あれは、俺の前では一歩引いた」
「今は、知府様の妻でございます」
「分かっておる」
西門慶は再び同じ言葉を口にした。
◇ ◇ ◇
達也は府衙から戻ると、官服のまま客間へ入った。
「旦那様。お待たせいたしました」
「倉侯。今では、俺を旦那様と呼ぶ方がおかしいのではないか」
「僕が北宋へ来た時、家へ置き、科挙を受けられるようにしてくださったことは変わりません」
「侯爵からそう呼ばれれば、俺まで偉くなったように聞こえるな」
西門慶は声を上げて笑った。
笑いは短く、すぐに息を継いだ。
達也は西門慶の顔を見た。
目の下に疲れがあり、頬は赤い。額には汗が浮かんでいる。開封市内を馬車で移動しただけの者の顔色ではなかった。
「旦那様。昨夜、酒を飲まれましたか」
「侯爵の祝いを持ってきた男へ、最初に尋ねることがそれか」
「顔色がよくありません」
「朝から捕吏を2人叱りつけた。役人を動かすのは、商人を動かすより骨が折れる」
「脈を診せてください」
「俺は病人ではない」
「病人になってからでは遅いことがあります」
達也が手を差し出すと、西門慶は渋々、手首を預けた。
脈は速い。規則正しく打っているが、客間で座っていた者の速さではない。
「昨夜、薬を飲まれましたか」
「1錠だけだ」
「何時頃ですか」
「覚えておらぬ」
「その前に飲んだのは、いつですか」
「3日ほど前だ」
嘘であった。
西門慶は前夜、王六児の別宅へ行く前に1錠を飲んだ。その前の夜にも、林夫人と会うために1錠を飲んでいる。
「頭痛はありませんでしたか。目の前がかすむ、胸が苦しい、立つと暗くなることは」
「少し頭が重かっただけだ。朝には治った」
「今も汗をかいています」
「外が暑いからだ」
「薬の帳面で、在庫が6錠合いません」
西門慶の目が静蘭へ向いた。
「帳面を数えるのは、静蘭殿の仕事であろう。俺を盗人のように申すな」
「高官2人へ、3錠ずつ渡したと伺いました」と静蘭。
「その通りだ」
「どなたへ渡したのですか」と達也。
「名は申せぬ。高官にも体面がある」
「では、本人の身体を確かめず、3錠ずつ渡したのですか」
「使い方は説明した」
「旦那様ご自身が使ったのではありませんか」
「違う」
西門慶は達也の目を見ず、茶碗へ手を伸ばした。
達也は月娘へ顔を向けた。
「以前の帳面を見せてください」
月娘は私室から、西門慶の服薬日を記していた帳面を持ってこさせた。
最後の記載は、月娘が西門家を離れる3日前で止まっている。
「月娘様が去られたあと、何回飲まれましたか」
「5、6回だ」
「何日で、ですか」
「細かいことは覚えておらぬ」
「同じ日に2錠飲んだことは」
「ない」
「前日に飲んだことを忘れ、翌日に飲んだことは」
「俺は、そこまで耄碌しておらぬ」
「時刻を覚えていないと、今おっしゃいました」
西門慶は黙った。
達也は帳面を卓へ置いた。
「旦那様。今後、薬を使う時は、必ず誰かに記録させてください。瓶児様が難しければ、玉楼様でも構いません。自分で箱から出して飲んではいけません」
「女に許しを求めなければ、薬も飲めぬのか」
「許しではなく、記録です。酒を多く飲んだ夜は使わない。前に飲んだ時刻が分からない時も使わない。胸の痛み、息苦しさ、冷たい汗、強い動悸、目の前が暗くなる症状が出たら、女との行為をやめ、すぐ人を呼んでください」
「あの薬で死ぬのか」
「決められた使い方を守れば、危険は小さくできます。しかし、酒を飲み、休まず女のもとを回り、短い間に重ねて使えば、血圧が急に下がることがあります。胸の病や脈の乱れが隠れていれば、命に関わります」
「俺はまだ若い」
「若くても死ぬ時は死にます」
達也は強い口調で言った。
西門慶は顔をしかめた。
「侯爵になって、急に説教が増えたな」
「旦那様に生きていてほしいからです」
西門慶は達也の顔を見た。
恩を忘れたから追及しているのではない。薬を抜いたことを罪にし、治安業務から外すつもりでもない。
達也が本気で自分の命を案じていることは分かった。
「分かった。今後は帳面へ付ける」
「薬箱も、瓶児様か玉楼様へ預けてください」
「そこまで必要か」
「必要です」
「細かい男だ」
「月娘様は、もっと細かく管理されていたはずです」
西門慶は月娘を見た。
月娘の腕には、眠った赤子がいる。
「以前の話でございます」と月娘。
その言葉は、薬の管理だけでなく、西門慶との夫婦関係も過去になったことを告げていた。
◇ ◇ ◇
治安業務の報告は、祝いの宴の前に行われた。
西門慶は、南東の2坊にある賭場4軒のうち、3軒が捕吏へ毎月銀を渡していたと説明した。残る1軒は盗人へ場所を貸し、盗品を担保に銭を貸している。
「賭場をすべて閉めますか」と達也。
「閉めれば、別の家で賭けるだけだ。3軒は残し、盗人を入れた時に知らせるよう命じた。4軒目は主人を替える」
「今の主人はどうします」
「殺しはせぬ。盗品を買った証拠を出し、開封から追い出す。店と賭場の権利は、被害を受けた商人への弁償に充てる」
「捕吏は」
「銀を受け取った6人のうち、2人は賭場へ情報を流していた。そいつらは外す。残る4人は、受け取った銀の倍を1年かけて返させたうえで使う」
「返す相手は府衙ではありません。被害を届けても取り合われなかった者です」
「分かっておる。米屋と古着屋は、もう名を調べさせた」
達也は報告の書付へ自分で付記した。
「盗人3人は、誰かを傷つけていますか」
「1人が夜道で老人を殴った。残る2人は、空き家と店へ入っただけだ」
「老人を殴った者は府衙で裁きます。2人は盗品の行き先を全て話せば、労役と弁償で済ませます」
「倉侯は、悪党へ甘いな」
「人を殺していない者まで殺す必要はありません。働かせ、盗んだ分を返させます」
「逃げたらどうする」
「旦那様が見つけてくださるのでしょう」
西門慶は笑った。
「それなら、逃げぬ方がましだと教えておく」
達也は治安の仕事について、西門慶を信用していた。
町の悪党を知り、銀の流れを読み、役人にも商人にも恐れられる。しかも、無用な殺人は損だと考える。
開封府の役人だけでは、同じ働きはできない。
「旦那様。薬のことは別として、治安の仕事は助かっています」
「薬の話を蒸し返すな」
「蒸し返されるのが嫌なら、約束を守ってください」
「分かったと申したであろう」
西門慶は不機嫌な顔をしたが、報告書を取り返そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
祝いの宴は、静蘭が取り仕切った。
西門慶が持参した酒は、その場ですべて開けず、2壺だけを卓へ出した。銀器と絹は静蘭が目録を作り、達也から西門家へ返す品を決める。
月娘は赤子を近くの籠へ寝かせ、女中から報告を受けながら客間と台所へ指示を出した。食事が遅れている席、酒が減り過ぎている卓、湯の足りない場所を、歩き回らずに判断していく。
「静蘭様、西門様がお持ちくださった絹には、何をお返ししますか」
「倉家の茶と、南方から入った香木を添えます。銀器へのお返しは、知府様のお名前で書画を1幅お届けします」
「では、荷車を空で帰さないよう、今夜のうちに積ませます」
「お願いいたします」
2人は達也へ確かめることなく、話を進めた。
達也は、西門慶の向かいで料理を食べている。
「倉侯。お前は、家では何も決めさせてもらえぬのか」
「政務と軍のことは僕が決めます。家の中は月娘様、商いと外との付き合いは静蘭様に任せています」
「女2人に、屋敷を乗っ取られたのではないか」
「僕1人で決めるより、よく回っています」
「夜も2人に取り仕切られておるのか」
「旦那様。酒は1杯までです」
「話をそらしたな」
「そらしていません。薬を飲んだ翌日ですから、酒を控えてください」
西門慶は杯を置いた。
「月娘。倉侯は、毎日このように細かいのか」
「私が細かく申し上げなければ、食事を抜き、夜中まで書付を読んでおります」
「子が夜泣きすれば、倉侯も起きるのか」
「私より先に起きることもございます」
「乳も出ぬ男が、起きて何をする」
「子を抱き、私のところへ連れてまいります。飲み終えれば、背をたたき、寝台へ戻します」
西門慶は籠の中の赤子を見た。
西門家にいた頃、赤子の世話は女中と乳母がするものだと考えていた。夜中に妻が起きても、自分まで目を覚ますことはなかった。
「倉侯は、俺の子へずいぶん熱心だな」
「僕の子として育てています」
達也は迷わず答えた。
「血がつながっておらぬのに、そこまでできるのか」
「血がつながっていなくても、月娘様の子です。僕が父になります」
月娘だけが、達也の言葉に別の意味を聞いていた。
赤子は達也と血がつながっている。それでも達也は、自分の名誉のために真実を明かそうとはせず、世間から他人の子を引き取った男と思われることを受け入れていた。
「お前は、俺より父親らしい顔をするのだな」と西門慶。
「旦那様が、この子を月娘様へ渡したからです」
達也の答えに、西門慶は杯へ手を伸ばした。しかし達也が酒壺を遠ざけたため、空の杯を置いた。
その時、赤子が目を覚まし、泣き始めた。
月娘が抱き上げ、あやしたが、泣きやまない。
「乳でございましょう」と静蘭。
月娘は赤子を抱いて立ち上がろうとした。
「こちらで差し上げてください」と達也。
「西門様がおられます」
「衝立を置かせます」
女中が客間の隅へ衝立を運んだ。
月娘がその向こうで胸を開き、赤子へ乳を含ませると、泣き声が止まった。
西門慶には、月娘の姿は見えない。しかし、乳を吸う小さな音は聞こえた。
達也は自然に衝立の近くへ座り、必要な布と湯を女中へ命じた。静蘭も宴の指示を続けながら、赤子の着替えを用意させた。
月娘と子は、倉家の暮らしの中心にいた。
西門家を追われ、他家へ身を寄せた女ではない。達也に愛され、静蘭に敬われ、屋敷を預かり、自分の子を実の父親のそばで育てている。
西門慶は、その事実を知らないまま、胸の奥に不快な熱を覚えた。
授乳を終えた月娘が衝立から出ると、達也が赤子を受け取った。
「僕が背をたたきます」
「官服が汚れますよ」
「洗えば済みます」
赤子は達也の肩へ頬を付けた。
しばらくして小さく空気を吐き、そのまま眠った。
「よく慣れておるな」と西門慶。
「毎日しておりますから」
「夜も子の世話をし、そのうえ2人の女の部屋へ通うのか」
「旦那様。それは僕たち夫婦のことです」
「昨夜は、どちらの部屋へ行った」
達也は赤子を籠へ戻し、席へ戻った。
「両方です」
月娘が軽く咳払いをし、静蘭は茶碗へ口を付けた。
「身重でもない月娘なら、もう遠慮する必要もあるまい」と西門慶。
「ございません」と月娘。
西門慶は、月娘が答えるとは思っていなかった。
「倉侯は、どの程度遠慮しなかったのだ」
「西門様がお聞きになることではございません」
「先ほどは、遠慮がないと答えたではないか」
「知府様が私を女として扱ってくださっていることだけ、お分かりになれば十分でございます」
月娘は顔を赤らめながらも、目をそらさなかった。
「静蘭殿。そのあと倉侯は、お前の部屋へ来たのか」
「参りました」
「役に立ったのか」
「西門様」
静蘭の声が冷えた。
「知府様を侮ることは、私と月娘様を侮ることにもなります」
「冗談だ」
「お答えするなら、知府様は私たち2人を満足させ、今朝は誰より早く起きて府衙へ向かわれました」
達也が静蘭を見た。
「そこまで言わなくてよいです」
「知府様のお力を疑われましたので」
「何度だ」と西門慶。
「旦那様」
達也が止めたが、西門慶は聞かなかった。
「月娘と静蘭殿を、それぞれ何度抱いた」
「回数を競うものではありません」
「申せぬのか」
「昨夜は、2度ずつです」と月娘。
客間が静まった。
「月娘様」と達也。
「隠せば、西門様はお若いあなた様を役立たずと思われます」
「思っておらぬ」
西門慶は答えたが、声に力がなかった。
達也は前夜、月娘を2度抱き、その後に静蘭も2度抱いた。薬は飲んでいない。酒も飲まず、少し眠っただけで夜明け前に赤子の泣き声で起き、朝から府衙へ出ている。
御前試合で5人を倒した21歳の身体である。
西門慶が薬の力を借りても、同じことができるとは思えなかった。
「若い男は得だな」
「僕は、旦那様と競っていません」
「俺も競っておらぬ」
「では、薬を飲んで無理をしないでください」
達也は穏やかに言った。
その言葉が、西門慶には勝者の余裕に聞こえた。
「俺は帰る」
西門慶は立ち上がった。
「まだ日暮れ前でございます。急がなくても、西門家までは遠くございません」と月娘。
「お前に決められることではない」
「決めてはおりません。開封市内でございますから、暗くなる前に帰れると申し上げただけです」
西門慶は自分が言い過ぎたことに気づいたが、謝らなかった。
「旦那様。今夜は薬を使わないでください」と達也。
「分かっておる」
「酒も、これ以上飲まないでください」
「1杯しか飲んでおらぬ」
「その1杯で終わりです」
西門慶は返事をせず、倉家を出た。
◇ ◇ ◇
馬車が開封の大通りへ出ると、西門慶は座席へ深く腰を下ろした。
目を閉じても、倉家の客間が浮かんだ。
月娘が赤子へ乳を与え、達也が慣れた手つきで抱く。静蘭と月娘は役目を分け、若い達也を支えている。
夜になれば、月娘も静蘭も、あの若い男に抱かれる。
西門家にいた頃の月娘は、西門慶がどの女のもとへ行っても、母屋へ残った。帰宅すれば酒の量を問い、薬を飲む日を確かめ、使った銀を帳面へ書かせた。
その月娘が今は、達也のために家を整え、乳を飲ませたばかりの身体を達也へ開いている。
自分が月娘を捨てたことは分かっている。
それでも、長く正室を務めた女が、別の男の家で以前より幸せに暮らしている姿を見ると、胸の奥が熱くなった。
しかも、その男は21歳である。
2人の女を一晩に2度ずつ抱き、赤子が泣けば起き、朝から政務をこなし、御前試合では5人に勝った。
「薬などなくても、俺にもできる」
西門慶は誰に言うともなく、つぶやいた。
馬車は開封市内の西門家へ戻った。
◇ ◇ ◇
西門慶は自分の部屋へ入ると、下男へ酒を持ってくるよう命じた。
「倉侯から、今夜は酒を控えるよう言われたのではございませんか」と孟玉楼。
「なぜ、お前が知っておる」
「お供の者が、奥へ伝えております」
「倉侯は、俺の家へまで命令を届けたのか」
「旦那様のお身体を案じておられるのでしょう」
「酒を1壺持ってこい」
玉楼は動かなかった。
「瓶児は、どこにおる」
「お部屋で休んでおられます」
「金蓮は」
「夕餉の席へ出ております」
「王六児へ使いを出せ。今夜行くと伝えよ」
「旦那様」
「今度は、お前が月娘の代わりになるつもりか」
玉楼は口を閉じた。
西門慶は月娘が使っていた部屋へ入り、棚の奥から木箱を出した。
達也から警告されたばかりである。
今夜は使うな。酒を飲むな。薬箱を妻へ預けろ。
西門慶は1錠を指でつまんだ。
昨夜も飲んでいる。頭痛も動悸もあった。
それでも、達也が2人の女を2度ずつ抱いたと聞いたあとでは、何もしないまま眠ることができなかった。
「俺はまだ若い」
酒で薬を流し込み、木箱を棚へ戻した。
王六児の別宅へ行き、そのあと自宅へ戻って金蓮の部屋へ入る。翌日は林夫人から使いが来ることになっている。
3人を相手にすれば、達也へ劣らないことを自分に示せると思った。
西門慶が部屋を出ると、廊下には玉楼が立っていた。
「今、何を飲まれたのでございますか」
「何も飲んでおらぬ」
「お酒の匂いがいたします」
「祝いの席で飲んだだけだ」
「王六児のところへは、明日になさってください」
「使いは出したのか」
「まだでございます」
「ならば、俺が自分で行く」
西門慶は玉楼を押しのけ、屋敷の門へ向かった。
月娘がいれば、薬箱を隠し、酒を取り上げ、前夜の服用時刻を問い詰めたはずである。
しかし、止める月娘は、もういなかった。
開封府の悪党と捕吏を束ねる男を、自分自身の虚栄から守る者もいなかった。
第8話前編2では、西門慶が、開封府の治安業務の報告と侯爵就任の祝いを兼ね、開封市内の倉家を訪れた。
西門慶は、賭場と捕吏の癒着を調べ、使える者には被害者への弁償を命じたうえで残し、盗品売買を続ける賭場の主人を開封から追放する案を示した。
倉達也は、西門慶の治安業務を評価する一方、赤い顔、速い脈、発汗に気づき、精力薬の服用状況を追及した。
西門慶は、在庫から消えた6錠を高官へ渡したと嘘をつき、自分で使ったことを認めなかった。
達也は、薬箱を李瓶児か孟玉楼へ預け、服用日を必ず記録すること、酒を飲んだ夜や前の服用時刻が分からない時は使わないことを命じた。
宴席で西門慶は、月娘が赤子を育てながら倉家の内側を預かり、静蘭が商いと対外折衝を担っている姿を見た。
さらに、21歳の達也が前夜に月娘と静蘭を2度ずつ抱き、赤子の夜泣きで起きたあとも、朝から府衙で働いていたことを知る。
自分が捨てた月娘が、母としても妻としても以前より満たされている姿を目にしたことで、西門慶の嫉妬と虚栄心は刺激された。
西門家へ戻った西門慶は、達也の警告を無視し、精力薬を酒で飲んだ。開封市内にある王六児の別宅へ行き、そのあと潘金蓮の部屋へ入ろうとする。
西門慶は、若い達也へ負けまいとして、自ら死へ近づき始めた。




