第8話(前編1)――「二つの帳面」
倉達也は、御前試合で5人の猛者を退け、皇帝から侯爵に封じられた。
開封知府として政務を担う一方、屋敷では第1側室の曹静蘭が商いと対外折衝を、第2側室の呉月娘が家中の内務を受け持っている。
月娘はすでに達也の子を産み、乳児を育てていた。世間では西門慶の子を達也が引き取ったことになっているが、本当の父親は達也である。
一方、西門慶は家族全員を開封へ移し、達也の要請を受けて、捕吏、賭場、妓楼、盗品売買を裏側から束ねていた。
治安の帳面は整い始めていた。しかし、月娘が西門家を去ったことで、西門慶の私生活から、もう一つの帳面が失われていた。
(1118年夏、北宋・開封府・倉家)
赤子の泣き声が上がったのは、夜明けの鐘が鳴る少し前であった。
呉月娘は隣で眠る倉達也の腕を外し、寝台から起きた。
達也はすぐに目を開けた。
「僕が抱きます」
「知府様は、あと半刻お休みください」
「泣いています」
「乳を差し上げるのは、あなた様にはできません」
月娘が笑うと、達也は掛布を押しのけて起き上がった。
「連れてくることはできます」
衝立の向こうには、小さな寝台が置かれていた。達也は生後半年ほどになった赤子を両腕で抱き上げた。御前試合で大男を投げた腕が、わが子を扱う時だけは、壊れ物へ触れるように慎重になる。
「お腹が空いたのですか」
問いかけても、赤子は顔を赤くして泣き続けた。
「知府様。そのようにお尋ねになっても、答えられません」
「泣き方で分かるようになると聞きました」
「では、何を求めている泣き方でございますか」
「乳です」
「私が申したあとでございます」
月娘は寝台へ腰を下ろし、寝間着の胸を開いた。達也から赤子を受け取ると、片腕で頭を支え、乳首を含ませた。
泣き声が止まり、乳を吸う小さな音が聞こえ始めた。
出産からは、かなり日が過ぎている。月娘の身体は産褥を終え、日常の仕事へ戻っていた。腹は平らになりきってはいないが、産後すぐの張りや痛みはない。乳房は以前より豊かになり、授乳の時刻が近づけば乳がにじむこともあった。
達也は月娘の隣へ座り、赤子の頬を指先でなでた。
「よく飲みますね」
「父親に似たのでございましょう」
「僕は乳を飲みません」
月娘は達也を見た。
「昨夜、何をなさったか、もうお忘れでございますか」
達也は口を閉じた。
月娘の左の乳房には赤子が吸いつき、右の乳首には、昨夜達也が強く吸った跡がわずかに残っている。
「赤くなっていますか」
「ご自分で確かめられたのでしょう」
「暗かったので、よく見えませんでした」
「では、今夜は灯を消さないことにいたします」
月娘が平然と答えると、達也の顔に笑みが浮かんだ。
「今夜も、こちらへ来てよいのですか」
「昼の政務を終え、夕餉を召し上がり、静蘭様のお望みも聞いたうえであれば」
「月娘様は、僕の夜まで取り仕切るのですね」
「家の中は、私が預かることになっております」
赤子は乳首を離し、小さく息を吐いた。月娘が肩へ抱き上げ、背を軽くたたくと、口から空気が出た。
「僕にもさせてください」
達也が赤子を受け取り、月娘に教えられた通り、肩へ布を置いてから抱いた。
しかし、赤子は達也の肩で目を閉じたまま、もう一度乳を探すように口を動かした。
「僕にはありません」
「昨夜の勢いで吸われても困ります」
「月娘様。朝からその話を続けるのですか」
「始めたのは、知府様でございます」
戸の外から、女中が起床の時刻を知らせた。
達也は赤子を小さな寝台へ戻し、月娘が衣を整える間に自分も着替えた。
侯爵となっても、開封知府の朝は変わらない。府衙では訴状、倉、運河、物価、治安の報告が待っている。さらに100人の隊の訓練も見なければならない。
「今夜は早く帰ります」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「今日は、本当に帰ります」
「そのお言葉も、昨日と同じでございます」
月娘は達也の帯を結び直した。
「昼餉を抜かないでください。夕刻まで戻れない時は、府衙で何か召し上がるよう、従者へ命じております」
「僕の従者まで月娘様の配下なのですか」
「知府様に食事をさせるためなら、誰にでも頼みます」
達也は月娘の額へ口づけ、次いで小さな寝台をのぞいた。
「行ってきます」
赤子は眠ったままであった。
「お戻りになる頃には、また泣いております」と月娘。
「月娘様は」
「泣かずに待っております」
達也はもう一度月娘へ口づけてから、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
朝餉のあと、月娘は母屋の広間へ帳面を集めさせた。
米、麦、薪、油、炭、衣、薬、使用人の給金を記した帳面が卓へ並ぶ。赤子は広間の隅に置いた籠の中で眠っていた。乳母も雇っているが、月娘は自分の乳が出る間は、できる限り自分で飲ませると決めている。
「昨日、白米が2升多く出ております」
「府衙の護衛4人へ夕餉を出しました」と台所を預かる女中。
「その4人分は、府衙へ請求する食費でございます。倉家の客人へ出した分と分けなさい」
「知府様のお供でしたので、屋敷の分へ入れました」
「知府様は公務で護衛を連れておられます。公と私を混ぜれば、役所の銭で自分の家を養っていると疑われます」
「承知いたしました」
月娘は女中を責めず、帳面の余白へ4人分を書き直させた。
「薪は、あと何日分ございますか」
「今の使い方で11日分です」
「10日を切る前に買います。先月の商人と、もう1軒から値を取りなさい」
「はい」
「赤子の布は」
「洗い替えを含めて、十分にございます」
「暑い日が続きます。汗をかいたまま寝かせないよう、昼にも着替えさせてください」
そこへ曹静蘭が入ってきた。淡い灰青色の夏衣を着て、書付を収めた箱を抱えている。
「月娘様。西門家から、昨日の売上と治安の帳面が届きました」
「朝のお食事は、お済みでございますか」
「先に帳面をお見せしようと思いまして」
「食事を抜いて帳面を読んでも、数字は増えません」
「減りもしないでしょう」
「静蘭様のお身体は減ります」
月娘が女中へ命じると、粥と湯が運ばれた。
「家の中は月娘様へお任せしたはずですが、私の朝餉まで含まれるのでございますか」
「倉家で暮らす方は、知府様も静蘭様も、あの子も、私が預かります」
「では、逆らえませんね」
静蘭は匙を取り、粥を食べながら箱を開いた。
中には3冊の帳面があった。1冊は避妊具と精力薬の売上、1冊は店、倉、土地への出資、残る1冊は開封の賭場、妓楼、捕吏から集めた情報である。
西門慶は正式な官人ではない。表向きは、開封府の治安を立て直す知府の協力者である。
実際には、どの捕吏が賭場から銀を受け取り、どの妓楼が盗人をかくまい、どの古物商が盗品を扱うかを調べていた。従わない捕吏には証拠を突きつけ、従う者には取り分を残したうえで、達也へ情報を上げさせる。
善人にはできない仕事であった。
西門慶は、その仕事を楽しんでいる。
「南東の2坊で、夜盗が3人捕らえられました」と静蘭。
「同じ一味でございますか」
「2人は同じです。残る1人は、盗品を古物商へ持ち込んだところを押さえられました」
「捕吏が自分から動いたのでございますか」
「西門様が古物商へ先に話を通しました。今後、盗品を持ち込んだ者を知らせるなら、過去の軽い取引は調べないと約束したようです」
「人を傷つけた盗人や、強盗から品を買った者は別でございましょうね」
「知府様も、その条件で認めておられます」
月娘は治安の帳面を閉じた。
「西門様らしいやり方でございます」
すべての悪党を捕らえれば、残った者は地下へ潜る。西門慶は捕らえる者と使う者を分け、使える悪党へ別の悪党を見張らせていた。
籠の中で赤子が身じろぎし、小さな声を上げた。
月娘は帳面から手を離し、抱き上げた。
「お腹が空いたのでございますか」
「先ほど、お飲みになったのでは」と静蘭。
「この子は、父親に似て、欲しいものを我慢いたしません」
「知府様も、夜中にお腹が空いたとおっしゃるのですか」
「食べ物とは限りません」
静蘭は月娘の顔を見て、意味を悟った。
「昨夜はこちらでお休みだったのでございますね」
「はい」
「お身体は、もうよろしいのでございますか」
「出産したのは昨日ではございません。医者からも、とうに差し支えないと言われております」
「知府様は遠慮なさらなかったのでしょうか」
「初めは遠慮なさいました。途中から、お忘れになったようでございます」
月娘は赤子をあやしながら、何事でもないように答えた。
「静蘭様は、今夜お覚悟なさった方がよろしいでしょう」
「月娘様がお疲れにさせたのでございましょう」
「あの方は、少し眠れば戻ります」
「御前試合で5人に勝った方でございますものね」
「私1人で勝てる相手ではございません」
2人は顔を見合わせて笑った。
赤子が泣き始めたため、月娘は広間の奥に置いた衝立へ回り、胸を開いて乳を含ませた。
静蘭は売上帳をめくり、やがて手を止めた。
「月娘様。精力薬の在庫が合いません」
「何錠でございますか」
「記録より6錠少なくなっております」
「売った相手を書き忘れたのでしょうか」
「西門様は、高官2人へ試供品として3錠ずつ渡したと説明しております」
「相手の名は」
「ございません。高官の体面に関わるため、記せないと申しております」
月娘は授乳を続けながら、帳面へ目を落とした。
精力薬は達也が未来から持ち込んだ品である。高官や富商とのつながりを作るため、西門慶の店で扱わせている。しかし、心臓の病や酒量を確かめ、1度に渡す数も制限していた。
「そのような相手へ、3錠も渡すはずがございません」
「私も同じことを申し上げました」
「西門様は、何と」
「自分で使ったのではないと笑っておられました」
月娘は返事をしなかった。
西門家にいた頃、西門慶が自分で飲む薬は、売り物とは別の木箱へ入れていた。月娘は飲んだ日と時刻、酒量、身体の変化まで私用の帳面へ残した。
西門慶は細かすぎると文句を言ったが、翌日また飲もうとするたび、月娘が帳面を見せて止めた。
その帳面は、月娘の持ち物とともに倉家へ来ている。薬箱は西門家へ残した。
「今は、どなたが薬箱を預かっておられるのでございますか」と静蘭。
「瓶児でしょう。ただし、流産後の身体も心も、まだ十分には戻っておりません。屋敷と店の帳面も、玉楼が手伝っているはずです」
「西門様ご自身が持っておられるかもしれません」
「知府様へ知らせます」
「月娘様から、お尋ねにはならないのでございますか」
「私は離縁の時、西門家の家内や妻妾の争いには戻らないと申しました。私が薬の飲み方を尋ねれば、未練があるように受け取られます」
「命に関わることでも、でございますか」
「ですから、知府様から強く言っていただきます」
月娘は乳を飲み終えた赤子を抱き直した。
「この子から父親を奪った男ではございますが、死ねばよいとは思いません。それに、西門様が倒れれば、知府様の治安の仕事も止まります」
静蘭はうなずき、薬の帳面へ紙を挟んだ。
◇ ◇ ◇
達也が府衙から戻ったのは、日が暮れてからであった。
官服の袖には墨が付き、腰には100人の隊の稽古場から持ち帰った木札を下げている。侯爵に封じられても、帰宅の時刻は早くならなかった。
「お帰りなさいませ」
静蘭と月娘が広間で迎えた。月娘の腕には赤子がいる。
「まだ起きていたのですか」
「お待ちしておりました」と静蘭。
「夕餉も取らずにお待ちするほど、従順ではございません」と月娘。
卓には、達也のために温め直した鶏の汁物、麦飯、青菜が並べられている。
達也は手を洗い、赤子を受け取ってから席へ着いた。
「今日は泣きませんね」
「父親の顔を覚えたのでございましょう」
「僕が本当の父だと、この子に話しましたか」
「毎日話しております」
外では、西門慶の子を達也が引き取ったことになっている。しかし、この屋敷の寝室では、隠す必要がない。
達也は赤子の額へ頬を寄せた。
「今日は町を歩かれたのでございますか」と月娘。
「南門近くの火除け地を見てきました。小屋が増え、道幅が狭くなっています」
「それで、昼餉を抜いたのでございましょう」
「餅を2つ食べました」
「昨日より1つ増えただけでございます」
「進歩しています」
「汁物をすべて召し上がるまで、帳面はお見せいたしません」
達也が静蘭を見ると、静蘭は微笑んだ。
「家の中では、月娘様に従うことになっております」
達也は赤子を月娘へ返し、2人に見張られながら食事を終えた。
薬の帳面を読むと、表情が変わった。
「6錠ですか」
「はい」と静蘭。
「高官2人へ3錠ずつ渡したという話は、確かめましたか」
「名は明かせないとの一点張りでございます」
「自分で使ったのではないと、先に申したのですね」
「はい」
「使った者が、疑われる前にそう申すことがあります」
達也は帳面を閉じた。
「明日、旦那様から治安業務の報告を受けます。その場で確かめます」
「強くおっしゃってください」と月娘。
「心配なのですか」
「長く夫婦であった者へ、死んでもよいとは思いません。瓶児たちも困ります。それに、あなた様の仕事も止まります」
「分かっています。僕にとっても恩人です。死なせるつもりはありません」
達也は月娘の腕の中で眠る赤子を見た。
「明日は、旦那様もここへ来るのですか」
「治安の報告と、侯爵のお祝いを兼ねて来られます」と静蘭。
「では、あの子を会わせますか」と月娘。
達也は少し考えた。
「隠す必要はありません。旦那様は自分の子だと思っています」
「抱かせてもよろしいのでございますか」
「月娘様がよいなら」
「あの方は、乳離れするまで連れていてよいと申しました。今ごろになって父親の顔をなさるなら、何をおっしゃるか聞いてみます」
月娘の声には、消えきらない怒りがあった。
◇ ◇ ◇
赤子が眠ったあと、達也は月娘の部屋へ入った。
月娘は湯浴みを終え、薄い寝間着をまとっていた。髪はほどかれ、背へ落ちている。
「今夜は静蘭様のお部屋へ行かれるのではございませんか」
「月娘様の顔も見たいと思いました」
「顔だけでお帰りになりますか」
達也は戸を閉め、月娘へ近づいた。
「帰ってほしいのですか」
「いいえ」
月娘はためらわず、達也の帯を解いた。
達也は月娘の腰を抱き寄せ、唇を重ねた。朝の軽い口づけとは違った。舌を絡め、息を奪うほど長く口づける。月娘も首へ腕を回し、達也の背へ爪を立てた。
寝間着の合わせが開き、乳房が露わになった。
達也は左の乳首へ口を付けた。吸うと、わずかに乳がにじんだ。
「朝より、強うございます」
「痛いですか」
「その程度でやめないでください」
月娘は達也の頭を胸へ押しつけた。
達也は片方の乳房を口で愛しながら、もう一方を手のひらで揉んだ。赤子へ乳を与える身体と、男に抱かれる女の身体は、月娘の中で分かれてはいない。乳を含ませる時は母であり、達也に乳首を吸われ、脚の間を濡らしている今は妻である。
達也の手が腹を下り、月娘の太腿の間へ入った。
「もう、このように」
「昨夜、途中で寝かせてくださらなかったのは、どなたでございますか」
「月娘様が、まだ離れるなと」
「今夜も申し上げます」
月娘は達也の下衣へ手を入れ、硬くなったものを握った。
「お若いというのは、恐ろしいことでございますね。昨夜あれほどなさったのに、もうこのようになっておられます」
「月娘様が触るからです」
「触らなくても、私の部屋へ来た時から分かっておりました」
2人は寝台へ倒れ込んだ。
妊娠中のように腹をかばう必要はない。産後の傷も癒えている。達也は月娘の脚を大きく開き、自分の腰へ回させた。
「遠慮なさらないでください」
「本当に、よいのですか」
「またお尋ねになるのでございますか」
月娘は達也のものを自分の入口へ導いた。
「私は、あなた様の子を産みました。身体もとうに戻っております。今夜は、身重の女を扱うようになさらないでください」
達也は一息に深く入った。
月娘の喉から声が漏れた。達也は腰を引き、再び奥まで突いた。昨夜より速く、強い。寝台が小さくきしみ、月娘の乳房が揺れた。
「この方が、よろしいのでございます」
月娘は達也の背を抱き、腰を受け止めた。
「もっと、深くなさってください」
達也は求められた通り、遠慮を捨てた。若い身体の力を抑えず、何度も月娘の奥へ突き入れた。月娘も脚を高く絡め、達也が引くたびに自分から腰を上げた。
声を抑えようと口を閉じても、突かれるたびに息が漏れる。達也が乳首を指でつまむと、月娘の身体が強く震えた。
「知府様、そこを……そのまま……」
達也は動きを緩めなかった。
月娘の指が達也の肩へ食い込み、身体が弓なりになった。達也も最後に深く腰を押しつけ、月娘の中へ放った。
2人の荒い息が重なった。
それでも、達也はすぐには離れなかった。
「終わりでございますか」
月娘が耳元で尋ねた。
「まだ求めるのですか」
「お嫌でございますか」
達也は答える代わりに、月娘の腰を抱いて身体を起こした。
今度は月娘を上へ乗せた。月娘は達也の胸へ手を置き、自分で腰を上下させる。達也は揺れる乳房を両手で包み、乳首を指で転がした。
「静蘭様のお部屋へ行けなくなっても、私は存じませんよ」
「行きます」
「まだ、そのお元気が残っておられるのでございますか」
「静蘭様を抱く分は、別です」
「そのようなことを、私の中へ入れたままおっしゃるのでございますね」
月娘は笑いながら腰を速めた。
2度目に達也を受け入れ終えた時、月娘はその胸へ崩れ落ちた。
しばらくして、衝立の向こうから赤子の声がした。
2人は同時に動きを止めた。
「起こしてしまいました」
「僕が抱きます」
「その前に、身体を拭いてください」
達也は苦笑し、湯で手と身体を清めた。月娘も下着を替え、胸元を整えてから赤子を抱き上げた。
赤子は乳を求めた。
「先ほどまで父親が吸っていた乳を、今度は子が飲むのでございますね」と月娘。
「月娘様。赤子へ説明しなくてよいです」
「何も分かっておりません」
達也は授乳する母子を見守った。
やがて月娘が言った。
「今夜は、静蘭様のお部屋へもお行きください」
「ですが、もう遅いです」
「遅くしたのは、知府様でございます」
「月娘様も、終わりかと尋ねたではありませんか」
「女の言葉を全て真に受けるものではございません」
「あの時に止めれば、怒ったでしょう」
「もちろんでございます」
月娘は授乳しながら笑った。
「静蘭様を、商いをする者としてだけ扱ってはなりません。私と同じ、あなた様の妻でございます」
「分かっています」
「では、抱いて差し上げてください。明朝起きられないという言い訳は認めません」
◇ ◇ ◇
静蘭の部屋には、まだ灯がともっていた。
達也が入ると、静蘭は卓上の書付を片づけた。
「月娘様は、お休みになられましたか」
「赤子へ乳を飲ませています」
「ずいぶん長く、月娘様のお部屋におられましたね」
「待っていたのですか」
「帳面を読んでいただけでございます」
「では、僕は戻ります」
達也が戸へ手をかけると、静蘭が袖をつかんだ。
「知府様は、時々意地が悪うございます」
達也は振り返り、静蘭を抱き寄せた。
「月娘様の匂いがいたします」
「湯で清めました」
「身体ではなく、お顔でございます」
「顔に匂いが付くのですか」
「満足なさった男の顔をしておられます」
「静蘭様にも、同じ顔にしていただきます」
達也は静蘭の唇を塞いだ。
静蘭の帯を解き、衣を肩から落とす。達也が胸を愛撫すると、静蘭は息を吐き、寝台へ手をついた。
「月娘様を2度も抱かれたのでしょう」
「なぜ、2度だと分かるのですか」
「1度で、あれほど遅くはなりません」
「静蘭様は、回数まで数えるのですか」
「家の外の帳面は、私が預かっております」
「これは、帳面へ書かなくてよいです」
静蘭が笑う間に、達也は背後から抱いた。
月娘の部屋で2度果てたあとである。それでも、達也のものは静蘭の尻へ触れる頃には、再び硬くなっていた。
「本当に、お若いのでございますね」
「まだ21歳です」
「私を置いて眠られたら、月娘様へ申し上げるつもりでした」
「眠りません」
達也は静蘭を寝台へ伏せさせ、脚の間へ入った。
静蘭は月娘のように言葉で強く求めることは少ない。しかし、達也が入口へ触れると、自分から腰を寄せた。
「ゆっくりにしますか」
「月娘様には、遠慮なさらなかったのでしょう」
「はい」
「では、私にも遠慮なさらないでください」
達也は背後から深く入った。
静蘭が寝具を握った。達也は細い腰を両手でつかみ、強く引き寄せながら突いた。月娘を抱いた疲れを感じさせない。むしろ、待たせた時間を埋めるように動きは激しくなった。
静蘭は声を抑えていたが、達也が角度を変えて奥へ届くたび、短い声を漏らした。
「知府様……明朝、起きられなくなります」
「起きます」
「私ではなく、あなた様がです」
「静蘭様も起こします」
「そのお元気があるなら、もっと……」
達也は望まれた通り、腰を速めた。
静蘭の身体が震え、達也の名を呼んだ。達也も静蘭を深く抱え込み、中へ放った。
夜が更けても、達也はすぐには眠らなかった。
静蘭を仰向けにし、今度は正面から抱いた。口づけながら脚を開かせ、静蘭の反応を見て速さを変える。静蘭は途中から明朝の心配を口にしなくなり、達也の首へ腕を回した。
その夜4度目を終えた達也は、ようやく静蘭の隣へ横になった。
「本当に、月娘様を2度抱いたあとでございますか」
「はい」
「薬は、お飲みになっておりませんね」
「飲んでいません」
「西門様が張り合いたくなるのも、少し分かる気がいたします」
「張り合うことではありません」
「知府様には、そうでしょうね」
静蘭は達也の胸へ頬を置いた。
「明朝、月娘様が起こしに来られます」
「起きます」
「そのお言葉は、聞かなかったことにいたします」
灯が消えた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、開封市内の西門家では、西門慶が月娘の部屋だった場所へ入っていた。
月娘が持ち込んだ櫃、鏡台、衣桁は倉家へ運ばれ、壁際には空いた場所が残っている。
西門慶は棚の奥から小さな木箱を出した。
中には精力薬が入っていた。
売り物の在庫から抜いた6錠のうち、2錠はすでに使っている。残る4錠が紙に包まれていた。
高官へ試供品として渡したという話は嘘である。
瓶児を正室へ上げたものの、瓶児は流産後の悲しみから抜けきれず、西門慶の夜の相手をすることは少ない。孟玉楼は店と家の帳面を手伝い、孫雪娥は台所へ下がり、潘金蓮は鞭で打たれた恨みを隠していない。
家族全員を開封へ移しても、西門慶の暮らしが静かになることはなかった。
林夫人の屋敷、王六児へ与えた別宅、妓楼の女たちがある。
月娘がいた頃は、薬を飲もうとすれば、前に飲んだ日を尋ねられた。酒の匂いが強ければ、薬箱を渡さなかった。
今は、止める者はいない。
西門慶は1錠を取り出した。
前夜にも飲んでいる。
間を空けるよう達也から言われたことは覚えていた。しかし、前夜の何時に飲んだかまでは思い出せなかった。
「1錠くらいで、死ぬものか」
西門慶は薬を酒で流し込んだ。
その夜、王六児の別宅から戻ると、頭の奥に鈍い痛みが残った。寝台へ横になっても、胸の鼓動が速い。
それでも、人は呼ばなかった。
月娘がいれば脈を数え、飲んだ時刻を帳面へ書いたはずである。
西門慶は目を閉じた。
2人の女を同じ屋敷へ迎えた若い達也が、今夜どちらの部屋で過ごしているのかを考えた。
胸の鼓動は、なかなか遅くならなかった。
第8話前編1では、呉月娘が、赤子を育てながら倉家の内務を預かり、曹静蘭が商いと対外折衝を担う体制が描かれた。
月娘はすでに出産を終え、産後の身体も回復している。世間では西門慶の子を達也が引き取ったことになっているが、実際には倉達也の実子である。
静蘭は、西門家の精力薬が帳面より6錠少ないことに気づいた。西門慶は高官2人へ試供品として渡したと説明したが、相手の名は記されていなかった。
月娘が西門家にいた頃は、西門慶が薬を飲んだ日、酒量、身体の変化まで私用の帳面へ記していた。しかし、月娘が離縁したあと、その管理は途絶えている。
その夜、達也は月娘を2度抱き、その後は静蘭の部屋でも2度身体を重ねた。21歳の達也は、薬に頼らず2人の妻を満たし、翌朝も府衙へ出るつもりでいる。
一方、西門慶は、売り物から抜いた薬を自分で使っていた。前夜にも服用していたが、再び1錠を酒で飲み、頭痛と強い動悸が現れても人を呼ばなかった。
月娘が記していた私用の帳面は、もう西門家にはなかった。




