第7話(後編2)――「陛下が選ぶ香」
皇帝趙佶は、崔麗華に翌日も香袋を確かめさせるよう命じた。
それから麗華は、皇帝の夏衣に添える3つの香袋を毎朝用意し、7日ごとに1種類を替える仕事へ加わる。
だが、皇帝が新しい香を選ぶようになると、その香りを利用して皇帝へ近づこうとする者も現れる。
翌朝、崔麗華が布倉へ入ると、劉彩雲と孫玉英が低い卓の前で待っていた。
卓上には、黒、黄、紅の紐を付けた香袋が並んでいる。
「昨日、陛下の御前へ上がったそうですね」
彩雲が尋ねた。
「はい」
「何を申し上げましたか」
麗華は、香袋が絵巻の内側から見つかった経緯、袋を調べてから再使用するよう申し上げたこと、皇帝が7日ごとに香を1種類替えるよう命じたことを順に説明した。
皇帝から美しいと言われたことは隠さなかった。
「陛下は私の顔についてもお尋ねになりました」
「何と答えましたか」
「お褒めいただいたため、お礼を申し上げました」
「それだけですか」
「はい。そのあと、華宝舗の商いと、宮中へ入った理由を尋ねられました」
彩雲は麗華の顔を見た。
「陛下へ気に入られようとして、尚服局の仕事を軽く扱う者もおります」
「私は仕事を続けたいと申し上げました」
「だから、この命令が来たのでしょう」
彩雲は卓上の書付を麗華へ見せた。
皇帝の夏衣に添える香袋を、毎朝3つ用意する。香は7日ごとに1種類を替え、香りが衣やほかの袋へ移らないようにする。使った布、香の量、紐の色、作った者、受け渡した者を記録する。
書付の最後には、崔麗華にも確かめさせること、と記されていた。
「陛下が、見習いの名を挙げてお命じになりました」と彩雲。
「はい」
「喜んでいるようには見えませんね」
「喜んでおります。ただ、間違えれば、私の名も一緒に残ります」
「分かっているならよろしい」
彩雲は3つの香袋を指した。
「今朝の品を確かめなさい」
麗華は手を洗い、清潔な布で水気を拭いた。
黒い紐の沈香、黄色い紐の白檀、紅い紐の丁子を離して置き、1つずつ手に取る。
袋の大きさは同じで、表面に汚れはない。紐の色にも間違いはなかった。袋へ顔を近づけると、沈香と白檀には、それぞれの香りだけがある。
丁子の袋には、わずかに沈香の匂いが混じっていた。
「紅い紐の袋を、どこに置いておりましたか」
玉英が答えた。
「香を詰めたあと、3袋を同じ箱へ入れました」
「袋の間に仕切りはございましたか」
「ございません」
「丁子へ沈香の匂いが移っております」
彩雲も紅い紐の袋を確かめた。
「わずかですね」
「陛下がお気づきになるかどうかは分かりません。ただ、3種類からお選びになるのであれば、香りが混じっている品をお届けすることはできません」
「昨日までは、浅い箱へ3つを並べていました」
「昨日は、作ってすぐにお届けしました。今朝の袋は、夜の間、同じ箱へ入っていたため、香りが移ったのだと思います」
彩雲は、香袋を運ぶ箱を持ってこさせた。
長方形の浅い木箱で、内側には白い布が張られている。3袋を置く余裕はあるが、運ぶ際に袋が動けば、互いに触れる。
「仕切りを入れます」と彩雲。
玉英は厚手の紙を折り、箱の内側を3つに分けた。
しかし、麗華は箱へ顔を近づけた。
「この布にも、昨日の丁子の香りが残っております」
内張りへ香が移れば、新しい袋にも匂いが付く。
「箱を毎日替えるのでございますか」と玉英。
「木箱を毎日3つ用意することはできません」と彩雲。
麗華は倉の棚を見た。
「香袋を、さらに薄い紙で包んではいかがでしょうか。香りが外へ出なくなるほど厚くせず、袋同士が直接触れないようにいたします。包み紙にも紐と同じ色の印を付ければ、開く前に見分けられます」
「紙の匂いはどうしますか」
「香倉にある紙を確かめます。油や黴の匂いがない物を選びます」
彩雲はうなずいた。
「今朝の丁子は作り直します。3袋すべてを紙で包み、仕切りを入れた箱へ収めなさい」
「承知いたしました」
新しく作られた丁子の袋には、沈香の匂いがなかった。
麗華は3つの袋を別々の紙で包み、黒、黄、紅の小さな印を付けた。竹札には、前夜から同じ箱へ入れたため香りが移ったこと、今朝から個別に包むよう改めたことを記した。
受け渡し所へ箱を届けると、前日に麗華を皇帝のもとへ案内した宦官が待っていた。
「昨日の箱と違うな」
「香りが混じらないよう、仕切りと包み紙を加えました」
「陛下は、袋を見てお選びになる。包んでいては見えぬではないか」
「包み紙の印で種類を分けております。陛下がお選びになったあと、紙を外していただけます」
「香りを確かめてから選ばれることもある」
「その際は、1つずつ開き、ほかの袋から離してお確かめください。開いたまま同じ箱へ戻すと、再び香りが移ります」
宦官は面倒そうな顔をしたが、竹札に記された理由を読むと、箱を受け取った。
「陛下へ申し上げておく」
「お願いいたします」
その朝、趙佶は黄色い印の包みを開かせ、白檀を選んだ。
翌日は沈香、その次の日は再び丁子を選んだ。
どの香を選んだかは、空になった区画と、戻された袋によって分かる。麗華は、日付、衣の色、天候、選ばれた香を竹札へ記していった。
暑さの強い日は、重い沈香が残された。雨の朝には、白檀を選ぶことが多かった。書画を見るため庭へ出る日は、丁子が選ばれた。
7日目、最初の香を替える日が来た。
彩雲は香倉を預かる女官と相談し、麝香、龍脳、乳香、甘松を候補に挙げた。
麗華は4種類を少量ずつ別の器へ置き、夏衣に使う白絹の端布と並べた。
麝香は少量でも強く、ほかの香りを覆った。龍脳は涼しさを感じさせるが、近くで嗅ぐと刺激がある。乳香は甘みが残り、甘松は土に近い匂いがした。
「どれがよいと思いますか」と彩雲。
「陛下は暑い日に沈香をお選びになっておりません。麝香や乳香も、夏衣には重いと思います」
「では、龍脳ですか」
「少量であれば、暑い日にはよいと思います。ただし、丁子と一緒に箱へ入れれば、刺激のある香りが重なります」
「丁子を龍脳へ替えますか」
「陛下は庭へ出られる日に丁子を選ばれております。何を替えるかは、私には決められません」
彩雲は7日分の竹札を調べた。
「沈香が選ばれたのは1度だけです。沈香を龍脳へ替えましょう」
黒い紐の袋へ龍脳を入れることになった。
麗華は、これまで沈香を示していた黒い紐を、そのまま龍脳へ使うことに反対した。
「昨日まで黒は沈香でございました。今日から同じ黒を龍脳にすれば、受け渡す者が間違える恐れがございます」
「紐の色は3色しか決められておりません」と香倉の女官。
「新しい色を加えられないのであれば、黒い紐へ白い糸を1本結びます。竹札にも、黒と白は龍脳と記します」
彩雲が認めたため、龍脳の香袋には黒い紐と白い糸が付けられた。
その日の夕刻、受け渡し所から返された箱では、黒と白の印を付けた包みがなくなっていた。
皇帝は、新しく加えた龍脳を選んだのである。
翌朝も龍脳が選ばれた。
3日目には、受け渡し所の宦官から書付が届いた。
龍脳は暑い日に涼しく感じられるため、夏衣には常に用意すること。丁子と白檀も残すこと。沈香は涼しくなってから戻すこと。
彩雲は書付を読み、麗華へ渡した。
「陛下のお気に召したようです」
「はい」
「この記録は、これからも続けます。香袋を用意するたびに、前日までの竹札を確かめなさい」
「承知いたしました」
麗華は竹札をまとめるため、日付ごとに紐を通した。
その日の午後、香倉から年若い女官が布倉へ来た。
名を周春梅といい、龍脳を袋へ詰めた者であった。
「麗華殿に、お尋ねしたいことがございます」
「私は見習いでございます。殿と呼ぶ必要はありません」
「では、麗華さん。明日の龍脳へ、これを少し混ぜていただけませんか」
春梅は袖から小さな紙包みを出した。
麗華は受け取らなかった。
「何でございますか」
「姉が作った練香でございます。龍脳へ少し混ぜると、香りが長く残ります」
「尚服局へ納められた品でございますか」
「いいえ。ですが、害のある物は入っておりません。私も使っております」
「なぜ、陛下の香袋へ入れるのでございますか」
春梅は周囲を見た。
布倉には玉英と月娥たちがいた。誰にも聞かれずに話せる場所ではない。
「姉は宮中の外で香を売っております。陛下がお気に召せば、尚服局へ納められるかもしれません」
「そのために、書付へ載っていない香を混ぜるのでございますか」
「ほんの少しです。龍脳だけでは、すぐに香りが消えます」
麗華は春梅の顔を見た。
「私が受け取れば、明日の香袋に入れたと疑われます。お持ち帰りください」
「誰にも分かりません」
「分からないのであれば、陛下が何を使われたかも分からなくなります」
「陛下のお体に悪い品ではございません」
「中身を調べておりません。悪くないとは申し上げられません」
春梅は紙包みを握ったまま動かなかった。
「麗華さんも、外に店をお持ちだと聞きました。華宝舗の香を陛下へ使っていただくつもりではないのですか」
「華宝舗の品を、宮中の命令にないまま入れることはございません」
「自分の店だけが選ばれるまで待つのでございますか」
「私の店の品であっても、同じ手続きを通します」
春梅の顔に不満が表れた。
「昨日まで見習いだった方が、陛下へ呼ばれた途端、偉そうにおっしゃるのですね」
「私が決めたことではございません。陛下へ届ける品は、竹札に記した物だけを使います」
春梅は紙包みを袖へ戻した。
「もう結構でございます」
背を向け、布倉から出ようとする。
麗華は呼び止めなかった。
しかし、玉英が戸口へ立った。
「お待ちなさい」
「何でございますか」
「今の紙包みを見せなさい」
「麗華さんへ見せただけです。何もしておりません」
「陛下へ届ける香へ、書付にない物を混ぜるよう求めました。見なかったことにはできません」
春梅の顔から血の気が引いた。
「姉の店を助けたかっただけでございます」
「包みを卓へ置きなさい」と玉英。
「捕らえるのでございますか」
「私には決められません。彩雲様と香倉を預かる方へ報告します」
春梅は紙包みを卓へ置いた。
包みを開かず、別の紙で覆い、持ってきた者の名と時刻を竹札へ記す。
彩雲が戻ると、麗華と玉英から事情を聞いた。春梅も呼ばれ、同じ説明を繰り返した。
「なぜ、正式に香倉へ持ち込まなかったのですか」と彩雲。
「外の店の品は、なかなか調べていただけません」
「だから陛下の香袋へ、黙って入れようとしたのですか」
「少しだけでございます」
「量の問題ではありません」
彩雲は香倉の責任者へ紙包みを渡した。
「中身を調べます。春梅は、調べが終わるまで香へ触れてはなりません」
春梅は泣きながら連れていかれた。
月娥が麗華へ尋ねた。
「春梅は罰せられるのでしょうか」
「私には分かりません」
「姉の店を助けたかっただけではありませんか」
「そうだと思います」
「それでも、許されないのでございますか」
麗華は卓上に並ぶ竹札を見た。
「何も起きなければ、姉の店が得をします。陛下が体調を崩されれば、香を詰めた者だけでなく、私たちも調べられます。誰が得をし、誰が責任を負うのかが違いすぎます」
玉英がうなずいた。
「陛下へ届ける物に、知らない品を入れてはなりません。麗華が受け取らなかったため、今回は香袋へ入りませんでした」
翌日の香袋は、書付に記された龍脳、白檀、丁子だけで作られた。
麗華は、香を詰める前に器と匙を調べ、使った香を1種類ずつ竹札へ記した。袋を個別に包み、仕切りのある箱へ収める。
受け渡し所では、年長の宦官が待っていた。
「昨日、書付にない香を入れようとした者がいたそうだな」
「はい。香袋へ入れる前に見つかりました」
「そなたへ渡そうとしたのか」
「渡されそうになりましたが、受け取りませんでした」
「外に店を持つ者同士、協力しようとは思わなかったのか」
「私の店の品も、命令がなければ入れません」
「陛下は、そなたが自分の店の香を使わせるため、この役目を望んだのではないかとお尋ねになった」
麗華は箱から手を離し、頭を下げた。
「華宝舗の品をお調べいただけるのであれば、正式にお持ちいたします。ただし、私が宮中にいる間は、華宝舗だけを選ばないでいただきたく存じます」
「自分の店を選ぶなと申すのか」
「私が関わっているため、ほかの店と同じ品であっても、私の店を選んだと思われます。華宝舗の品が明らかに優れている時だけ、お使いいただければ十分でございます」
宦官は麗華の答えを聞き、箱を受け取った。
「陛下へ、そのように申し上げる」
「お願いいたします」
夕刻、箱とともに書付が戻された。
龍脳の香袋だけが使われ、白檀と丁子は箱に残っている。
書付には、皇帝の命令が記されていた。
今後、夏衣に添える香袋は、使った布、香、量、紐、作った者を毎日記すこと。書付にない品は使わないこと。新しい香を試す場合は、先に香倉と尚服局で調べること。
その記録をまとめる役目を、崔麗華へ命じる。
麗華は書付を最後まで読んだ。
「私が、すべての記録をまとめるのでございますか」
彩雲が答えた。
「はい。ただし、勝手に香を決めることはできません。私と玉英が確かめ、受け渡し所へ届けます」
「承知いたしました」
「今日から、お前は香袋を運ぶだけの見習いではありません。陛下がお使いになる香について、誰が、何を、どれほど用いたかを残す者です」
彩雲は布倉の奥に、新しい卓を1つ置かせた。
低い卓であったが、麗華がこれまで使っていた物とは違い、香袋の竹札だけを置くことになった。ほかの布や糸の記録と混ぜることは許されない。
麗華は最初の竹札を卓上へ置いた。
龍脳、白檀、丁子。
白絹の袋、3つ。
紐と印の色。
香を詰めた者。
箱へ収めた者。
受け渡した者。
皇帝が選んだ香。
1日の仕事が終わるたびに、竹札が1枚ずつ増えていく。
皇帝の前へ出る機会は、その後の数日間にはなかった。
それでも、趙佶が龍脳を選べば、空になった区画が戻ってくる。雨の日に白檀を選べば、黄色い印の包みがなくなっている。
麗華は皇帝の顔を見なくても、その日の選択を知ることができた。
趙佶も、香を選ぶたびに、その品を確かめ、記録している女の名を目にする。
美しい顔を1度見せただけでは、後宮にいる多くの女へ紛れてしまう。
だが、皇帝が毎朝手に取る香袋と、その安全を守る記録は、毎日残る。
麗華は尚服局の見習いから、皇帝が使う香を記録する女となった。
地位は、まだ低い。
皇帝の寝所へ入ることも、食事の席へ呼ばれることもない。
それでも、皇帝の身の回りで新しい香が使われる時には、崔麗華の確認を通さなければならなくなった。
麗華は、その小さな役目を軽く見なかった。
宮中では、急いで近づく者ほど、急いで排除される。
毎朝必要とされる役目を失わず、次の命令を待つ。
皇帝へ近づくための道は、顔を上げた日に完成したのではない。
麗華は今、ようやくその道を毎日歩けるようになったのである。
崔麗華は、皇帝趙佶の夏衣に添える香袋を、毎朝確かめる役目へ加わった。
香りが混じることを防ぐため、麗華は香袋を個別に紙で包み、仕切りのある箱へ収める方法を提案した。
さらに7日分の記録から、暑い日に選ばれなかった沈香を龍脳へ替えたところ、趙佶は新しい香を気に入った。
一方、香倉の女官周春梅は、姉の店で作った練香を、命令にないまま龍脳へ混ぜるよう麗華へ頼んだ。
麗華はこれを拒み、華宝舗の品についても正式な手続きを通さなければ使わないと答えた。
趙佶は、香袋に用いた布、香、量、紐、作った者を毎日記録し、その記録を麗華にまとめさせるよう命じた。
麗華は皇帝の寵愛を急いで求めず、皇帝が毎朝使う品を安全に届ける役目を手に入れた。




